けろか
2024-09-25 19:33:46
4775文字
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ヒート恐怖症の兵助の話③

竹くくオメガバース現パロです。
婿入りしたαな八左ヱ門×跡取り息子なΩ兵助。
主治医の伊作先生と兵助のターンです。次に投稿する④で一旦完結予定。


 病院の中はいつもと変わらない。漂う消毒液の匂いと、白く清潔な壁が規則正しく並ぶ。静寂に包まれた空間には、わずかに緊張感が漂っているようで、やけに無機質に感じられる。
「十番の方、どうぞ」
 無機質な中に際立つ優しい声に呼びかけられる。苗字が珍しいので、こうして番号で呼ばれるのはありがたい。席を立ち、診察室へ向かう。
 椅子に腰掛けると、すぐに善法寺医師──伊作先生が振り向いた。榛色の髪がふわりと揺れるたび、柔らかい印象を一層強くする彼の姿に、いつもの安心感を覚える。

「はい、久々知兵助さん、こんにちは。あ!とうとう結婚したんだねえ!おめでとうございます」

 兵助の薬指に目を向けながら、優しい笑みで祝福の言葉を贈る。その言葉に少しだけ肩が緩むのを感じた。伊作先生の視線はカルテに戻るが、その手元にも光るものがあった。彼の薬指にもまた、静かに指輪が輝いていた。

「ありがとうございます。籍はまだなんですけど」
「え、そうなんだ?先にお引越しだけ?」
「そうなんです、彼が日付とか、ちょっとこだわるタイプで」
「あるよねぇ、そういうの!僕んとこもそうだよ、僕はこだわりないんだけどあっちがすっごいこだわるの。喧嘩とかになるでしょ」
……正直、なります。洗濯機でだいぶ喧嘩しました」
 伊作先生は、にこにこと優しい笑みを浮かべながら頷いていた。その笑顔に、普段ならあまり話すことのないプライベートの話を続けてしまう。配偶者のことを話すのって、気恥ずかしいものなんだな……。無意識に顔から手元の薬指に視線が落ちた。指輪がきらりと蛍光灯の光を反射する。人の薬指を見るたびに、羨ましかったあの輝きが、今こうして手に入れてみると、どうしようもなく怖い。
「はは、まあ喧嘩はね。しないとダメな時もあるよね。えーと、今日は……抑制剤をやめたいと。妊娠の希望ね。あと、番うのもうまくいかなかったと。」
「そうなんです、今時していない夫婦もあるって聞くけど、やっぱり、自分としても彼としても番になりたいと思っていて。その、抑制剤の影響なんでしょうか」
 八左ヱ門のことをどう呼べばいいのか、迷った。彼と言うべきか、旦那と言うべきか、それとも主人なのか。そんな取るに足らないことに考えを巡らせて、必死に感情を押し込めようとする。違うところに意識を向けなければ、なぜか今にも涙が溢れてしまいそうだった。
「んー、そうだね。ホルモンのバランスで成り立つものだからね、抑制剤やめたら上手くいったよーって話は、あるよ。まあ、番いのことはおいといて。……そもそもの話ね、夫婦生活は、うまく持てているかい?」
 伊作先生は、うまくという言葉に、最大限の配慮と意味を込めて問いかけてくる。喉の奥がぎゅっと締まった。
……まあ、なんとか」
「なんとかかあ。そこが心配なんだけど……でも、最近安定剤は……出してないよね。安定剤なしで行為できるようになった?」
……はい」
 嘘をついた。新居で初めて彼と関係を持とうとしたその夜、久しぶりに安定剤を飲んでいた。けれど、それでどうにかなると思ったのに……結果はあのザマだ。

 この夢を終わらせないために。健全な恋人関係として、身体の関係を避けるわけにはいかなかった。醜態を晒して、もしそれが原因であいつに見限られるなんて、絶対にあってはならないことだ。
 主治医に泣きつき、初めての行為には薬を使って臨んだ。結果、大丈夫だった。そう、あの忌まわしい発情期さえ来なければ、なんの問題もなかった。内診とほとんど変わらない感覚だった。異物感こそあったが、痛みはなく、最も恐れていた性的な興奮は影も形もなかった。この医師に言われた「腰を引かないで、逃げると痛くなるからね」「息を吐いて、目はつぶらないで天井を見て」「大丈夫、ほらこの棒を見て!全然細いから」の言葉が脳裏に浮かべて、それを頼りにどうにか初夜を乗り切った。もしこれを八左ヱ門に打ち明けたら、きっと彼は泣くに違いない。(名誉のために言っておくが、八左ヱ門のそれはその棒ほどは細くはなかったのだが。)
 頻度だって、自分から誘うことだって本当は避けたいのだが、八左ヱ門からばかりと言うわけにはいかず、それ専用のスケジュール張で管理して凌いできた。初めてカラダを重ねてからしばらくは、あまりにも高頻度で求められたため、計算された頻度で誘い返すと毎日セックスという結果になった時は頭を抱えた。他にもいろいろ、小手先で誤魔化し続けてきたけれど……それでも、ダメなのだ。たとえ毎回こうして凌げたとしても、肝心のヒートが起きなければ、子供を授かる道は閉ざされたままだし、番いになることさえも叶わない。
「うん。じゃあ、タイミングを見て抑制剤をやめてみようか。発情期が来たら、それに合わせて……
「いや、先生。人工授精をお願いしたいんです。それから、番いも……注射を、頸に打つ方法で……できませんか?」
 息が詰まるほどの緊張感を抱え、思い切って顔を上げた。今日、どうしても伝えたかった言葉をやっと紡ぎ出すと、栗色の瞳がふとこちらを捉える。優しさの奥に険しい色が浮かんでいて、心の内を見透かされているようだ。静かな圧迫感に胸がぎゅっと締まる。
「兵助。わかってるとは思うけど、まずは発情期にしっかり性交渉を持つこと。2クールくらい試して、それで結果が出なかったら、次のステップに進むんだよ」
「っ、でも……あの……
……まあ、どちらかにに問題があるなら話は別だけど。たとえば、体内射精障害とか、精液に問題があるとか。さっきの話を聞く限り、性交渉自体はできているみたいだけど?」
 先生は、表情こそ変えずに優しさを保ったまま、淡々と告げた。その落ち着いた声に、一層追い詰められるようだった。焦る気持ちが先走る。
……精液、薄い、っていう可能性もあるかもしれないですし……
 どうにかして話をつなげようと無理やり口にした。
「うーん、まあ、精液検査はしてもいいと思うけど……あれ、旦那さんって“竹谷八左ヱ門”さんだよね?もう検査して、結果も出ているみたいだよ」
「は、結果って……え?」
 頭の中が真っ白になった。精液検査を、八左ヱ門が自分に何も言わずに、すでに受けていた?聞かされていなかった事実に、心臓がバクバクと早鐘を打つのがわかった。なぜ、どうして、いつの間に――。次々に疑問が浮かぶが、口からは声にならない。
……え、あれ、聞いてなかったのか……君と結婚を許してもらえる人だよ?ちゃんと調べてるみたいだ。君に結果を知らせていいって、委任状も出てる。結果、聞いていく?」
 マウスのクリック音が耳に刺さる。無意識に拳を握り締めていた。どういうことだ、まさか両親が動いていたのか?八左ヱ門はどうして黙っていたのか、だって、そんなの、きっと──俺のために決まってる。
 頭の中で次々と疑問が浮かんでは消え、決まった答えの重さが心の奥に沈殿していく。
……その反応、旦那さんと何一つ話せてないね」
 ふうっと息を吐く音に、鼻の奥がツンとした。喉の奥がぎゅっと詰まって、じわりと視界が滲む。だめだ、ここは病院だ。涙を流す場所じゃない。必死に目を伏せてこらえたけれど、こらえたところで、涙がこぼれ落ちそうな感覚は消えない。伊作先生は、気づいてか、それともあえて見ないふりをしてくれたのか、さらに静かに声を続けた。
「人工授精にしても、番の注射にしても、一人で決めることじゃないんだ。君一人の意思ではなく、二人の意思で決めるものなんだよ。授かる子供は君一人のものじゃなくて、二人の子供なんだから。番いだって、どちらか片方が変わるものではなくて、二人が共に変わっていくものなんだ。だから、治療を進めるにしても、必ず二人の合意が必要なんだよ。理解しているよね?」
……はい」
 理解はしている。そんな当たり前のことも、伊作先生の気遣いも。そして──そんな検査を受けさせられて、自分に言わないでいた八左ヱ門の優しさも。頭ではちゃんとわかっている。でも、心が追いつかない。胸の奥底がざわついて、どうしようもなく鈍い痛みを残す。
「旦那さんとよく話し合ってから、また来てね。……兵助、何度も言うけどそこまで発情期に抵抗感があるなら、本当にカウンセリングも」
「そういうんじゃないんで、ほんと、大丈夫です」
 優しくて、正しい言葉を遮った。続きを聞きたくなかった。カウンセリングなんて、そんな本気で向き合う話になったら、ますます自分がダメなやつみたいだ。オメガでありながら発情期が怖いなんて、あまつさえ生涯の相手にそれを見せずに終わりたいと思っているなんて、それって、そんなのは――出来損ないじゃないか。

……今日は抑制剤、一ヶ月分の処方を出しておこうと思うけど、どうかな。また一ヶ月後、二人で受診してほしいんだけど、予約は……
「いいえ、予定を見なきゃなのでまた電話します。ありがとうございました」
「分かりました。必ず来てね……お大事に」
 伊作先生の、こちらを気遣うような視線を避けるようにして、静かに診察室を出た。

 検査、してたんだ。知らなかった。やらされてた、ってことなんだろうけど。それなのに、何も言わなかったんだ。
 ――いや、わかってる。自分のためだったんだろう。あいつ、そういうところがある。気遣って、余計な心配をかけないようにって、黙ってたんだ。
 そうだ、そうなんだよ。だからこそ、あいつが好きなんだ。それなのに――
 好きな気持ちが溢れてくるのに、それと一緒に湧き上がる罪悪感が混じって、胸の奥が、ぐちゃぐちゃになっていく。あいつの優しさがわかるからこそ、余計に苦しい。
 思考があっちへ行ったりこっちへ行ったりして、まとまらないまま浮かんでは消える。その中で、子供のことを考えている自分に気づく。子供……二人の子供。子供を二人のものだって、そんなの当然だ。わかってる。だけど、それだけじゃなくて、最悪なことにそれを楔にしたいんだ。完全に繋がりたくて、子供がいれば、本当の番になれる、そんな気がして。だけど――その過程で、どうしようもないことがある。こんな思考にも体にもきっと幻滅するに決まってる。絶対に。……嗚咽が胸の奥から込み上げてきて、唇を噛んでどうにか堪える。なんてことないと言い聞かせて飲み込む。表情を作る。何事もなかったかのように歩みを進め、また彼との日常をなんとか繋ぐ。どれだけ重たく感じても、それが自分に与えられた夢なのだから。
 外に出た途端、鈍い灰色の空が広がっているのが目に入った。重たい雲が垂れ込めていて、今にも雨が降り出しそうな気配はあるのに、一滴も落ちてこないのが妙に不気味だった。いつ降り出すかわからないその雨を避けるように、無意識に足を速めて帰路を急いだ。
 八左ヱ門の「おかえりー!」といういつもの明るい声が耳に届いた。胸の奥で緊張がひとつ、ふっと溶ける。すぐに彼は続けて、「ねー、下のスーパー、すっごい高いんだけど!」と、何でもない話題を振ってきた。ほっとした。心配されるのが嫌だったから、病院でのことを聞かれることもなくて、助かった。「そりゃ高いに決まってるだろ」と、顔を見ずに靴を脱ぎながら返す。……ちゃんといつも通りの声を出せたつもりだ。八左ヱ門が軽い調子で話を続けたことに安堵する。いつも通りの日常が、こうしてまた続いていく。それだけで、ひどく肩の力が抜けた気がして、どこかで胸が少しだけ静かに痛んだ。
 抑制剤をもらい忘れたことに気づいたのは、それから五日後、処方箋の有効期限が切れた後のことだった。