千代里
2024-09-25 08:14:47
11096文字
Public リーブラ13話
 

リーブラの針は問う・13話・その49


 竜の放つ雷撃を盾で受け止め、返す刃でその肉体を切り付ける。此度の相手は、異端者だ。だが、元は人であるとはいえ、その体を覆う鱗は頑丈である。ノエの剣がかすった程度では、引っ掻き傷を作るだけになってしまう。
 だが、わずかな傷でも、積み重ねれば相手を消耗させられる。そう信じて、冒険者たちは攻撃を続ける。
 ノエを踏み潰そうと、大きく足を振りかぶる竜。させじとノエは素早く身を引き、代わりに下段から大きく竜の脇腹を切り上げる。薙ぎ払いから続けて、逆手に持ち直した剣を大きく振り上げ、勢いを乗せた攻撃を繰り出す。
 一度、二度、続けて三度。流れるような剣の動きは、その分だけ鱗に傷を残していく。
「ノエ、代わって」
「サルヒさん、お願いします!」
 サルヒの呼び声に応じ、ノエはすぐさま自分の場所を彼女に譲る。今度は、サルヒの斧が竜が振るった鉤爪を受け止め、鈍い衝突音を響かせた。
 サルヒの腕力は、ノエのそれより上だ。故に、竜の攻撃を受け止めても彼女の姿勢は崩れない。
 すぐさま追撃に切り替えるサルヒ。己の内に眠る獣を目覚めさせ、ぐるりと身を翻して加速を乗せ、振り下ろされた攻撃は、並の魔物なら一刀両断していたことだろう。
 しかし、竜は並の敵ではない。振り下ろされた斧は、竜の脇腹に確かに傷を残したものの、竜は依然として立ち続けている。
 広げられた竜の翼が、お返しとばかりにサルヒを打ち据えんとする。点ではなく、面の攻撃を受け止めるには斧では到底足らない。
「サルヒさん!」
「二人とも、そこを動くな!!」
 オランローの頼もしい言葉と共に、翠の風が爆ぜる。
 近東で伝えられる舞術により高められた魔力は、オランローの意思に従い、刃持つ風となって竜の翼とサルヒの間に立ちはだかった。即席の壁ではあったが、少しでも竜をたじろがせたならば上出来だ。
「ノエ!」
「分かってます! サルヒさん、後退を!」
 ノエの指示に従い、小柄なサルヒは暴れ狂う竜の腹の下を潜り抜けて、ノエたちのいる場所の反対側に向かう。そうすれば、ちょうど、竜を中心にノエとサルヒで囲む形になった。
(これなら、竜が暴れてもサルヒさんが押し留めてくれる)
 呼吸を整え、ノエはこの一分にも満たない攻防の間に練り上げた魔力を放つ。
 もはやお馴染みとなった、魔力で作られた黄金の剣。地上から突き出たそれは、残念ながら狙いを定める時間が十分に取れなかったがために、竜の腹を掠めるにとどまった。
 だが、
 ――オオォオオ!!
 派手に飛び散る血飛沫と絶叫は、少なからずノエの魔法が効いていることの証だ。
 地団駄を踏む子供のように、竜は身を捩らせる。右へ左へと振られた頭から紫電が飛び散るが、それらをサルヒは一つ一つ叩き落としていく。
「こいつを倒すとなると、魔法が必要だな。あるいは純粋に破壊力の高い一撃か」
「ああ。僕が前に倒したときも、魔法を使った。弱点は、鱗があまり生えていない喉のあたりだろう――
 そこまで言って、ノエは顔を歪める。
 自分は今、脅威を前にして戦わねばならない身だ。だが、目の前の竜は間違いなく異端者であり、かつては人であったはずの存在だ。
 なのに、自分は淡々と相手を倒す方法を――人を殺す方法を模索している。
 命を賭けた場でそんなことを言っている場合ではないと分かっていても、我に返った瞬間に訪れる苦味を完全に消せはしない。
「後悔するのは後にしろ。それとも、あんたはあの竜が街をめちゃくちゃにしてもいいのか」
……ごめん。自分の答えは、ちゃんと後に見つけるよ」
 たとえ、それが長らく問答を続けた末に未だ見えぬ答えであったとしても。
 ノエは剣を握りしめ、オランローは円月輪を構える。魔法の痛撃から立ち直った竜は、何度目になるかわからない殺意の視線を、自分が獲物と定めている司祭へと向けている。
 しかし、その視線を割るように、ノエが立ちはだかった。
「お前に、これ以上人を殺させはしない!!」
 目の前の竜を野放しにしてはならない。それだけは、何があっても譲れない大事なことだと、ノエは改めて己の矜持を思い出す。
 守るべき一線を守り抜くため、ノエは竜が振り下ろした翼の一撃を受け止めた。数歩後ろに下がるのは余儀なくされたが、姿勢を完全に崩されたわけではない。
「させるか!!」
 己を鼓舞するように、剣が通る翼の薄膜部分に切り付ける。細い血が、霧吹きのように周囲を赤く染め、竜が痛みから絶叫をあげる。
 だが、それすらも戦いに慣れた冒険者にとっては、ようやく見つけた隙となる。
 暴れ回る竜が振り回す尻尾に叩きつけられぬよう、素早く横に回り込んだサルヒが、ぐるりとその場で一回転。加速をつけた斧の一撃が竜の脇腹を抉る。
 ノエの一撃以上に激しい血飛沫が、薄雪で白くなった地面を鮮烈な赤に染め上げた。
 続けて、オランローが放った鳥の形をした魔力が、飛翔する槍の如く、竜の目玉に突き刺さる。
(この調子なら、押し切れる……!)
 オランローのいう通りだ。かつて人であった者を仕留めることに、抵抗はある。けれども、今は街の人を――より多くの人を守ることを、優先すべきだ。
 その先に続く懊悩を予測しながらも、サルヒとオランローの連携でふらつく竜へとノエは手を向ける。
 練り上げたのは、己の中に廻る魔力。あの頑丈さでは随一だった竜――ランドンすらも穿った魔法を発動させようと、己の中の引き金に指をかけた。
 ――その時だった。
「待って! 待ってよ、ノエ兄ちゃん!!」
 本来、そこにいるべきではない少年の声が響く。
 ありえない人物の声に、ノエの集中が乱れる。思わず声の方へと視線を向け、ノエは二重に驚かされることになる。
「コーディさん!? それに、オデットまで、どうしてここに……!?」
 その声の主――コーディの後ろを、薄紅の髪の少女が走っている。
 だが、ノエの驚嘆はそれだけでは終わらなかった。走りながら少年は叫ぶ。
「ノエ兄ちゃん! そいつを殺さないで!!」
 何を言っているのかという疑問は、すぐに解決した。
「そいつは、グレンなんだ――!!」
 
 ***
 
 ノエが乱入者の声を聞く、少し前。ルーシャンは前線から一歩引いたところで、戦闘の趨勢を見守っていた。
 ノエとオランローと、サルヒ。その攻防は、決してどちらかが一方的というわけではなかった。竜が圧倒しているわけではなく、かといってノエたちが圧勝しているわけでもない。それが、現在の状況だ。
「何を手こずっているのだ! さっさと殺してしまえ!!」
 応援にしては随分と粗暴な言葉を吐く司祭は、言葉とは裏腹に、雪の中に埋もれたまま動けなくなっていた。情けないことに彼は腰を抜かし、立ち上がることもできなくなってしまったのだ。
 最初、ルーシャンはこの男を広場の外へ逃そうかと考えた。だが、竜が司祭を未だに睨んでいることに気がついて、ルーシャンは竜の視界の外に司祭を逃がすのは避けるべきだと判断した。
(こいつを逃せば、竜は追いかけてくる。街中に逃げようものなら、竜がこいつを探そうとして、余計に被害が大きくなっちまう)
 それに、ルーシャンもノエの前では平静を装っていたが、決して万全とは言えない。
 雷の魔法の直撃を回避できなかった右足は、いまだに痺れから解放されておらず、全身に残る麻痺は一朝一夕で解けるものではなさそうだった。サルヒたちの方が、よほど上手く相手の攻撃を受け流したのか。それともなまじっかエーテル伝導率の高い服を身につけていることが仇になったか。
 ルーシャンの治癒魔法は、傷を塞ぐ効能こそ抜群ではあるが、体内のエーテルを乱すような特殊な攻撃には対応できない。どうやら、あの竜の雷はその特例だったようだ。
 それでも、この状態でもできることはある。
「なあ、おっさん。あんた、異端者が竜になる前の姿を見てたんだろ。そいつは、どんなやつだったんだ。どうして、いきなり竜に変化してあんたに襲いかかったのか、心当たりはあるのか」
「い、いきなり何を聞き出すんだ。異端者が突如竜の血をあおって、私の同胞を食い殺したのだ! それ以上、何を言えというんだ!!」
 司祭の返答に、ルーシャンは片眉を顰めた。
 単に動揺しているだけとは思えないほどに、司祭の目がはっきりと泳いだ。つまり、彼は異端者に襲われた理由に心当たりがあるのだ。故に、殊更隠そうとしている。
 そんな推測を億尾にも出さず、ルーシャンはわざと人を安心させるような笑顔を浮かべて見せる。
「なぁに、この街の異端者は少し前の襲撃で全員排除されたと思ったものでな。あの襲撃に混ざってなかった異端者ってなると、一体どういう理由で潜んでいたのか調べなきゃ、おちおち夜も眠っていられないんだよ」
「私は本当に何も知らないんだ! あのような平民のガキに、この街に来たばかりの私たちが恨まれる理由などない!!」
「へえ。平民のガキ……ねえ。あんたの前で竜に変化したのは、子供だったのか」
「そうだ! いきなり教会に踏み入ってきたと思いきや、竜に変化したのだ! それ以外、何も知らぬ!!」
 司祭はきっぱりとそう言い切ったものの、ルーシャンはいまだ眼光の鋭さを緩めていなかった。
 ――まだ、何かある。
 そこまでは分かっていても、これ以上は聞き出すことは難しそうだと判断する。
 ルーシャンにとって、異端者が誰であろうとそこまで大した問題ではない。問題は、この異端者の後ろに糸を引く黒幕がいるのかどうか。そして、司祭はどうして黒幕や眼前の異端者の逆鱗に触れたのか。それがもし自分たちに関わることであるのならば、状況ははっきりさせておかねばならない。
 思索の糸を動かそうとした刹那、彼の耳は、ざくりと地面を踏む足音を拾い上げた。
……お嬢ちゃん。お前、何してるんだ。ヤルマルと一緒に、孤児院の連中の避難を手伝ってるんじゃないのか?」
 振り返ったルーシャンが声をかけた先。広場の柵を乗り越えてやってきたのは、外套に身を包んだオデットだった。走ってきたのか、その頬はいつも以上に赤い。
「あの、ルーシャンさんっ。こっちに、グレンさんは来てませんか!?」
「グレン? グレンって……ああ、あの喋れない坊やか」
 ノエがたびたび世話をしていた、口のきけない少年のことはルーシャンも覚えていた。
「そうですっ。孤児院の皆さんに、竜がそばに姿を見せたから避難するように促したんです。それで、孤児院中の子供たちを起こして……でも、グレンさんがベッドにいなかったんです!」
 思いがけない凶報に、ルーシャンは眉を持ち上げる。昨夜にサルヒがノエへと渡した伝言によると、グレンはまだ体調が回復しておらず、寝込んでいたはずだ。なのに、なぜ。
「それで、プリシラさんたちも探してるんですけれど、見つからなくて……グレンさんは声が出せないから、怪我をしても助けも求められずにいるんじゃないかって……!」
「だが、俺たちは見てないぞ。どこか別のところに――
「何だ、あのガキ、口がきけなかったのか。どうりで魔法を浴びせても、悲鳴の一つもあげたなかったわけだ」
 思わず、といった様子で漏れた司祭の呟き。
 それは、幸運なことに、オデットの耳には届かなかった。
 しかし、耳ざとい魔道士の男にはしっかりと届いていた。
 勢いよく司祭へと振り返ったときのルーシャンの顔は、彼を怯ませるには十分すぎるほどの怒気を孕んでいた。
……おい、くそじじい。てめえ、それはどういうことだ」
「い、いや、何でもない! 私は、何もしていない! 彼奴に魔法を放ったのは、私じゃない!!」
 司祭の言い訳を聞いても、ルーシャンの眦が下がることはなかった。それどころか、より一層釣り上がったそれは、今にも視線で司祭を殺さんばかりに冷えた炎を抱いている。
 だが、ここで司祭を追い詰めたところで、明確な答えがわかるわけではない。その代わりに、ルーシャンは今もサルヒたちを相手どって暴れ狂う竜を見やった。
 異端者の子供。司祭に追い詰められ、竜に変化した子供。かの少年は、母親が異端者として処刑されている。ノエは、グレンの境遇をそのように語っていた。
 ならば、もし、竜の血を母親が渡していたら。
 もし、幼い時分にそうと知らずに、竜の血を飲んだ経験があるとしたら。
 あるいは、ノエの語った過去のように、驚異的な不運で竜の血と強く適合してしまったら。
 いまだ竜の体から人へと戻る様子のない姿を見て、最悪の予想がルーシャンの中で組み上がっていく。
 その中で、唯一明確だった真実が、彼の口から言葉となって飛び出た。
「つまり、あいつがグレンの坊やってことなのかよ……
「えっ……! ですが、そんな……!!」
 すぐに状況を飲み込めず、驚くオデット。彼女の驚愕に見開かれた紫紺の瞳が、竜の全身を行き交う。
 そして、驚いたのはオデットだけではなかった。
「ねえ、それ……どういうことだよ」
 続く第三者の登場に、オデットとルーシャンは自分の背後から響く小さな足音の主を見る。
「コーディ……!?」
「どういうことだよ! あいつが、グレンって……どういうことなんだよ!! ねえ!!」
 疑問を繰り返し、そこにいるはずのない少年が叫ぶ。褐色の肌に波打つ銀髪の癖毛――コーディが、動揺と困惑の視線でルーシャンたちを見つめていた。
 宿泊していたはずの門の詰め所から、着の身着のまま走ってきたのか、彼は外套を一枚引っ掛けただけだった。雪を蹴るブーツすら、紐が完全に結ばれておらず、だらりと垂れ下がっている。
「コーディさん、どうしてここにいるんですか!?」
「グレンに、呼ばれた気がしたんだ。だから、ここまで来て……でも、あの竜がグレンって、そんなわけ――
 ノエの放った一撃が、竜を撹乱している。大きく振られた竜の頭――その先端の突起に引っかかっていた布が、場違いに振られた旗の如く揺れる。
 刹那、コーディは気がつく。竜の頭にボロ切れのように引っかかっている布――否、それが帽子であることに。
……あれ、グレンの帽子だ」
 思わず、といった様子でコーディが呟く。
 誰かが説明せずとも、それだけで少年は理解した。
 目の前でノエたちに傷つけられ、暴れ狂っている嵐の化身のような存在。変わり果てた姿であれど、あの竜こそが自分の友人であった少年だということに。
 ノエの振るった剣が、竜の翼を傷つける。見るも鮮やかな赤が、夜闇に沈んだ世界を彩る。
……だめ、だ」
 ノエたちなら、竜を殺すことができる。コーディも、これまでの旅路で彼らの強さは知っている。
 だからこそ、これ以上は――だめだ。
「待って! 待ってよ、ノエ兄ちゃん!!」
 気がつけば少年は走り出していた。そのさきで竜が暴れていようと、お構いなしだった。だって、そこにいるのは自分の友達(グレン)なんだから。
「ノエ兄ちゃん! そいつを殺さないで!!」
 口がきけなくて、無愛想で、だから誤解されやすくて。いつも一人でいたから、何だか放って置けなくて、声をかけた。
 グレンは喋れないから、コーディのように声をあげて笑うことはなかったけれど、コーディを遠ざけようとはしなかった。コーディのおしゃべりを、ただ静かに聞いていた。
 そして、たまにほんの少しだけ口角を緩めて。それだけで、コーディはグレンの気持ちがわかった。
 だから、コーディは叫ぶ。
「そいつは、グレンなんだ――!!」
 声が届く。決死の悲鳴を聞いて、振り返ったノエの体がこわばった。
 斧を振り抜こうとしていたサルヒの体が、ぐらりと傾ぐ。円月輪を構えていたオランローのステップが乱れる。
 ――刹那、竜の尻尾の一振りが、無防備なノエたちを弾き飛ばした。
 
 ***
 
 その竜は、グレンだ。
 コーディが告げた情報が頭に染み込んだ瞬間、ノエの体は停止した。彼の脳裏によぎったのは、疑問と混乱――そして、自分が何度も面倒を見てきた少年の横顔だった。
 朝焼けの一瞬を思わせる、澄んだ薄紫の瞳。コーディを助けてくれと、決死の願いを口にしたときの掠れた声。アランに顔向けできないと俯いていた、小さな体。
 それらの全てがまぶたの裏側を横切っていった。
 コンマ数秒の硬直。だが、竜にとっては十分すぎる隙だった。
 ノエが気がついた時には、彼の眼前には丸太よりも太い竜の尾が迫っていた。
――!!」
 しまった、と思う余裕すらない。盾を翳す時間も、当然ながらない。構える時間も、受け身をとる時間すら。
 体を濁流に放り込んだかのような衝撃が、ノエの全身に叩き込まれる。
 悲鳴をあげるより先に、肺から息が全て吐き出された。体が何度も地面を打ち、しかし勢いは消えず、地面を数度跳ねてから、その先でノエは停止した。
「う……――……
 まともに攻撃が入った。まず、そう思う。
 ここまで無防備な状態で一撃をもらったのは、いったいいつぶりか。受け身もできず、衝撃を逃すこともできずに、巨大な棍棒で殴られたようなものだ。
 きっと、サルヒとオランローも同様の状態だっただろう。それだけ、コーディがもたらした衝撃は冒険者たちにとっては大きかった。
「お、き……ない、と」
 思い出したように苦鳴を漏らしたのは、自分がまだ生きていると確かめるためでもあった。
 頭を何度も打ったせいで、言葉とは裏腹に、すぐに起き上がることも叶わない。出血があるのか、視界の半分は赤く染まっている。不自然に顔面に熱を感じるのは、叩きつけられた衝撃で顔面を強打したせいだ。
 だが、それ以上に激しすぎる痛みのせいで、体のあちこちがまともに動かない。手足の骨と筋肉が、内臓の全てが、全てぐちゃぐちゃにかき混ぜられたかのようだ。今のままでは、剣も盾もまともに握れない。
(竜は、どこに……
 ぼろぼろの体を、気力だけで少しずつ起き上がらせる。激痛に絶叫を上げなかったのは、叫べば痛んだ肺腑が悲鳴をあげるからだ。
 霞んでいた視界が、ようやく定まる。その刹那、ノエが見たものは。
――――!!」
 竜が、突進していく。ノエたちの牽制を跳ね除けた嵐の塊のような、それが。
 向かう先にいるのは、グレン、と呼びかける少年。そして、彼を庇うように天球儀を構える少女だ。
(ふたりを、まも、らないと……
 ルーシャンが、少年少女を守ろうと駆け出そうとしている。だが、あの司祭が彼のローブの裾を掴み、自分を守れと引き留めている。
 オランローやサルヒの姿は見えない。彼女たちも予想外の一撃を喰らって動けずにいるのだろう。
 ならば、自分が動くしかない。決意して、ノエは標的を見定める。
 魔法発動のために循環させていた魔力は、霧散していない。今度こそと、竜目掛けて発動の引き金を引こうとした。
 ――けれども。
(あの竜は、グレンさん……なのか)
 魔法を放つため、必要なのはほんの僅かの決意。
 それを分かっていて――それでも、動けない。
……できない)
 暴風のような竜の突進を、オデットが放った障壁が、突進を受け止める。けれども、竜の暴走は即席の障壁如きでは、長くは受け止められない。
(他に、道はないのか)
 コーディが前に駆け出して、障壁の内側から、竜に――グレンに話しかけようとしている。けれども、竜は鬱陶しそうに首を横に振るだけだった。
(だって、竜の血を飲んだ人間は、戻るかもしれないんだ)
 もし、もう少し時間があれば。彼は人の姿に戻ってくれるのではないか。
 あるかもしれない僅かな期待に縋ろうとする。けれども、時間は待ってくれない。
(何か、道は)
 逡巡している間に、ガラスが割れるように、オデットが築き上げた魔法障壁が崩れる。
(他に、方法はないのか)
 竜の首が持ち上がり、その口に紫電が走る。狙う先にいるのは、呆然と竜を見つめる少年たち。
……だめだ)
 他に方ほうはないのか。サルヒは、オランローは、ヤルマルは、ルーシャンは。
 誰か、彼らを助けてくれないのか。グレンも助けて、コーディもオデットも助けてくれる救世主はいないのか。
 しかし、英雄の来訪はない。
 そして、ノエにも分かっていた。
 グレンがどれだけ、コーディを愛しんでいたかということを。
 その彼が、友人を傷つけようとしている。取り返しのつかない、最悪の結末に向かおうとしている。
(それだけは……させちゃ――いけない)
 竜の紫電が二人に向かって放たれる、その瞬間。
 
 ――ノエは、魔法を解き放つ引き金を引いた。
 
 ***
 
「止まってくれよ、グレン!! グレンってば!!」
 アランを刺したこと。自分を飛竜へと突き出したこと。
 どうして、そんなことをしたのか。ちゃんと話をしようとコーディは思っていた。
 それなのに、なぜ、自分の友人は竜になっているのか。
「お前、どうしちゃったんだよ! どうして、何も言ってくれないんだよ!!」
 オデットが作ってくれた半透明の障壁が、ばらばらと崩れていく。けれども、薄紙のような魔法の壁は、竜の攻撃を何度も受け止められるほど頑丈ではなかった。
「コーディさん、危険です!! 下がってください!!」
 オデットの声に、コーディは自分が無防備な姿で竜の前に立っていることを、ようやく自覚した。同時に、下がってと言われても、もはや手遅れであるということも。
「グレン、なあ。グレン!!」
 眼前の竜の口に走る、無数の紫電。
 それらが自分たちに向けて吐き出されれば、防具を身につけていないコーディはあっという間に消し炭になる。
「グレン、どうしてだよ!!」
 だから、少年にできるのは、
 
――俺たち、友達だろう!!」
 
 万感の思いを込めて、叫ぶことだけ。
 せめて、竜へと化した友の心の端にでも、自分の気持ちが届いてくれないか。
 そう信じて叫び――しかし、竜の口から紫電は消えなかった。
「コーディさん!!」
 オデットの体が、コーディの細い体躯を覆う。少しでも少年が助かる確率を上げようと身を挺するオデットの姿に、付き合わせてしまったことを申し訳なく思う。
 だが、もう遅い。
 せめて、最後は友の顔を焼き付けておきたい。
 そう思い、オデットの肩越しにグレンを見つめる。
……ごめん。もっと、俺、ちゃんとお前と話しておけばよかった)
 今生の別れを、心の中でつぶやいた。
 その時。
 
 ――竜の体に、剣が突き立つ。
 
 竜と同じほどの大きさの、光で作られた剣。魔力が編み上げた巨大な剣(つるぎ)が、虚空より竜の胴体を貫く。
 それは、一撃だけでは終わらなかった。念押しのように、さらに宙に生み出された四本の剣が竜の四方からその体を穿つ。
 絶叫が轟き、鼓膜が割れんばかりの大音声の竜の悲嘆が二人の体を包んだ。
 突如現れた魔法の剣は、今度こそ確かに竜の進撃を食い止めていた。
 いや、それどころか。
「グレ、ン……?」
 コーディは見ていた。
 魔力で編み上げられた剣が消える。同時に、どう、と音を立てて竜の巨躯が横倒しになる。その体からは夥しい血が流れ、薄雪で染まった地面を赤黒く染め上げていく。
 助かった。
 だが、どうして。
 安堵より先に、コーディの中で疑問が走る。
 その答えは、すぐに分かった。
……にい、さん?」
 コーディを庇うようにしていたオデットが、ゆっくりと首を向けた、その先。
 そこにいたのは、剣にもたれかかるようにして辛うじて立っていた青年だった。
 竜へと手を向けていた彼が、魔法を放ったのは間違いあるまい。しかし、竜の強打を受けてボロボロになっているのは間違いない。
 彼は、糸が切れた操り人形のように姿勢を崩し、その場に頽れる。支えとしていた剣は、魔法の負荷に耐えかねたのか、半ばで折れ、持ち主と運命を共にするように崩れていく。
「兄さん!!」
 オデットが走り出した瞬間、ようやくコーディの中で止まっていた時が動き出した。
 ゆっくりと白み始めた空の下、吹き飛ばされて教会の石壁にぶつかり、気絶していたサルヒが身じろぎする。司祭を振り解き、ルーシャンが麻痺が残る体で、彼女のそばに倒れていたオランローを助け起こす。
 ――しかし、コーディは。
 その場から動くことなく、自分の前に倒れている竜――その顔を、見つめていた。
「グレ、ン」
 血が流れていく。信じられないほどの、たくさんの血が。
 いくら竜であっても、これほどの傷を負えば生きていられない。幼いコーディにも、その程度のことはわかる。
 竜の頭が、僅かに身じろぐ。しかし、恐怖はなかった。この竜がグレンと知った時から、コーディの中の恐怖は消えていた。
「グレン、なのか……?」
 あったのは、疑問だけだった。
 どうして竜になっているのか。どうして、暴れているのか。
 ただ、それだけだった。
『コー、ディ』
 答えてほしくないと思っていた。何かの間違いであってほしいと思った。
 それでも、直感が訴えていた。この呼びかけは、間違いなく自分の友達のものだ、と。
「グレン……?」
 それは、コーディが初めて聞いた友達の声だった。
『コーディ。にげ、て』
「逃げてって……何から逃げるんだよ。グレン、知らなかったのか。俺のこと、領主様は異端者扱いしないって言っているんだぞ」
『新しい、教会、の人……。帰ってきた、人を、異端者に……したいって、言ってた』
「え……?」
 言葉の真意はコーディにはわからない。けれども、グレンが最後の気力を振り絞って、大事なことを伝えようとしてくれている。そのメッセージがいい加減な話なわけがない。
……ありがとう。俺を、悪い大人から、守ろうとしてくれたんだな」
 だから、コーディは深々と頷いた。
 ちゃんと、分かっているよ、と。覚えておくよ、と示すために。
「なあ、グレン。俺、お前の友達になれて……すごく、楽しかった」
 そして、自分も送る。今しかない自分にできる、最大限の贈り物を。
「振り回してばっかりだったかもしれないけれど。グレンにとっちゃ、うるさいやつだったかもしれないけれど。でも……俺、楽しかったんだ、よ」
 声が震える。目の奥が急に熱くなって、ちゃんと話をしたいのに、まともに目を開けていられない。
 グレンは、その大きな頭を一度だけ小さく縦に振った。
……ねえ、コーディ。ひとつ、だけ。お願い、したい』
「うん」
 友人の最期の願い。竜と化した口から漏れ出た言葉が、小さな手に託される。
 コーディよりずっと小さかったはずのグレンの手は、今ではずっと大きくなっていて。けれども、少年の託した願いは、やはり彼らしいものだった。
……分かった。ちゃんと、伝える」
――……うん。ありがとう』
 そして、細い吐息と共に、竜になった少年はつぶやく。
『君と、友達でよかった』
 ぱたぱたと鱗を打つ、友人の涙を受け止めて、彼は確かに笑っていた。
 
……ありがとう、コーディ』