ゆい
2024-09-23 22:19:10
5135文字
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【宗みか】よろこびとくらせば

デザイナーしゅうくんと🐈‍⬛しょたみかちゃんのお話


「いい加減出ておいで。そのままでは風邪を引くよ」

 少し疲れの滲んだ声が白けた部屋に虚しく響く。応える者の居ない呼び掛けがこれ程までに寒々しく沈むことを、この歳になって初めて知った。一人で生きていくには充分な広さの筈だった室内に、今は草臥れたぬいぐるみや皺だらけの毛布が我が物顔で散乱している。明日提出予定のデザイン達も机から溢れ、丸まったり破れたりの無惨な姿を晒していた。なかなか値の張った気もするアンティークの椅子は思い切り床に倒れているが、顔色を変えて直す程の怒りはもう無い。数カ月前の僕であれば恐らく見かけた途端に卒倒していた室内に今も溜め息は漏れるけれど、これくらいならまだマシかとどこか安堵する自分もいる。壊されたくない物であれば予め隠しておけば済む話で、愛でたいのであれば背が高く鍵の掛かる寝室の棚にでも飾れば良い。それに、最近は趣味にのめり込む時間もめっきり減ったから、これ以上叱りつける理由が増えることも無いし。
 逃げ隠れた道順通りに汚れた床を眺めつつ、己の美意識に出来た新たな余白についてぼんやりと思う。変化とも退化とも取れるこの心の動きにさっさと名前を付けて然るべき対応を施せば、置き場無く膨らむエラーめいた戸惑いも消えることだろう。だけど、何時だって思考は温もりの前で毛糸のように絡まって、以前の冴えある無慈悲な振る舞い方がどうしても思い出せない。現に今だって軽い怒声の一つや二つ上げれば済む話なのに、どうも喉の奥に気後れが詰まって子守唄のように囁くのが精一杯だ。うっかりひとりで閉じ込めてしまわぬようにあらゆる扉は常に少し開けているから、しっかり衣類を身に着けている僕ですら肌寒い。いくら暖房をつけてもいまいち暖まらない部屋で、先程より少しだけ声を張ってもう一度所在を請う。返事はまだ無い。きっとどこかの裏に隠れて、初めて会った時のように息を殺しているのだろう。立ち尽くす足裏はスリッパ越しでも何となく冷たくて、生まれたままの毛並みで潜み続ける彼が震えていないか心配だった。幼い命には軽い風邪すら大きな負担になると、最初に仕方なく読み込んだ飼育本に書いてあった。押し付けられて押し切られて始まった同居生活ではあるが、一度は覚悟を決めて預かった命だ。手元に置いて日々を共にすると決めた以上、手探りだって見届け歩み寄る義務がある。

「影片。降参するから顔を見せて」

 なるべく冷たく響かないように気をつけて、すっかり呼び慣れてしまった名前を口にする。本当は名字なのだけど、下の二文字で呼ぶと変に構える表情が嫌で、いつの間にかこの呼び方に収まってしまった。薄ら寒い沈黙は尚も数秒続き、まだ駄目かと密かに溜め息を飲み込む間際、視界の隅で小さな黒が揺れる。咄嗟に口元を結び直して、どうにか微笑みに見える筈の形を作り姿を待つ。やがて、噛み跡の残るソファーの陰から不安に押し潰されかけた顔がおずおずとこちらを覗く。明らかに僕の一挙手一投足へ全神経を張り詰めている雰囲気に、思わず軋む程強く奥歯を噛んでしまった。やけに浮かべ慣れた怯えの色やせっかくの美しさを掻き乱して泳ぐ瞳を、いつか僕も見慣れて軽くあしらうようになるのだろうか。ちらり脳裏を過ぎったもしもの話に吐き気を覚えて、すぐに考えること自体を止めた。絶対に嫌だと即座に憤る今の自分を、どうか何時までも忘れずにいたい。誓いと呼ぶにはあまりにささやかな気付きも丸ごと抱えて、僕はこのコと向き合うと決めたのだから。

「君は本当にかくれんぼが上手だね」
「‥おへや、よごしてごめんなさい」
「僕の方こそ無理強いをしてしまったから、君だけが悪い訳では無いよ」

 今回は痛み分けだね。多分伝わらない言葉で自分だけ笑えば、大袈裟に揺れていた大きな瞳が思った通りに丸くなる。やっぱり少しくらい呆けて抜けている方が、このコには似合っている。抱えたままだったバスタオルを握り直し、なるべく足音静かに彼の元へ近付く。丁寧を心掛けて膝を折っても、薄く骨張った肩は病的に跳ねる。だけど、数ヶ月かけてやっと逃げ出さなくなった幼児らしく膨らんだ腹部とアンバランスにか細い手足を専用の洗剤で洗ったバスタオルで丸ごと包み、温もりを移すように柔く擦る。買った時よりも明らかに傷や染みの増えたカバーからは目を逸らしつつ、中途半端に濡れた頭の上の耳や綿ごみが絡まっている湿った黒い尾を確かめた。
 獣人と過ごすのは影片が初めてだが、やはりただの人と比較しても見目は整い過ぎていた。艶やかな質感の髪や毛並みは光の加減で夜にも濡羽にも印象を変えた。色違いの瞳が瞬く度に長い睫毛が端正な影を白く透き通った頬に落とした。花すら恥じらうそのかんばせに彼等を生ける造花と喩える者もあるが、過言でも妄言でも無く永劫の鑑賞に耐え得る命であることは僕も認めている。そのように美しく、無垢で、尊いいきものが、その在り方のまま人の世で生きていくことはとても難しい。騙され穢され壊され好き勝手に尊厳を奪われていく同胞を見聞きして明日は我が身と悲鳴を飲み込むような日々は、まだ幼い彼の心をどれだけ蝕んだことだろう。影片が水を過剰な程に怖がり、毎回濡れ鼠になりながら部屋中逃げ回る理由も、僕の知らない過去から滲み出したいつかの膿なのだろう。段々と色を取り戻す頬と裏腹にまだ所在無く揺れる瞳を見返しながら、心臓の辺りがぎゅっと苦しくなる。他者の昔を乱暴に推し測り、想像であれこれ心を痛めることだって、見方を変えれ暴力なのかもしれない。正しさを求めれば言葉は何時も鳴りを潜め、相槌や軽口達は先回りして過度に控えた。せっかく出てきてくれたのに沈黙は申し訳無い。そう自分本位に落ち込みかければ、雪よりも少し温かいくらいの紅葉の手がぱっと僕の両頬を包む。

「お師さんどこいたいん?すっごいいたい?ちはでとる?」
「‥言葉の綾だよ」
「あや?あやとりしたいの?」
「冗談ってこと。どこも痛くないし怪我もしていないから安心しなさい」 

 噛んで含めるように無傷を告げれば、ずっと緊張しっぱなしだった頬や口元がやっと緩んだ。よかったぁ、なんて無邪気な声に合わせて頭上の猫の耳がぱたぱたと動く。本には獣人の証たる耳や尾が自在に動くことは無いと書いてあったが、影片のそれは確実に喜怒哀楽を反映していた。言葉や心より先に動いてしまう身体は、これまで何度も影片を守ったり傷付けたりしたことだろう。既に手酷い瘡蓋となってしまった過去はもう癒せないけれど、これからの日々にガーゼや消毒液は必要無い。揺れる耳や流れる尾より、僕は何拍遅れでも確かに溢れる君の言葉を信じたい。
 僕の熱を吸って幾分温まった掌に気紛れで頬を寄せてみれば、僕が倒れるとでも思ったのか慌てたように五本の指が重みの増した右側を支え直す。不可抗力で肌に食い込んだ指先は昨日ヤスリで整えた爪先が白くなる程に必死で、目に見えて困りふためく様が少し可笑しい。両手で支えようか音を上げようか迷う口元を観察しつつ、がら空きの両脇に腕を差し込みバスタオルごと持ち上げる。急に足が床を離れた驚きが抱き寄せた耳元でささやかに上がり、縋りつく腕の儚さにこっそり息を詰めた。落ち着かせるように左手で背中を叩きながら右腕に腰掛けさせてみても、首に取り付く両手はまだ離れない。突然高くなった視点に狼狽える喃語を頬に擽ったく聞きつつ名前を呼べば、甘い鳴き声はぴたりと止んだ。

「君が入浴を苦手としていることは理解しているが、昨日も一昨日もシャワーだけだったじゃないか。流石に今日は湯船に浸かって欲しいよ」
「‥かおにおみずかかるの、こわいんやもん」
「顔は拭くだけで構わないよ。入浴の第一の目的は身体を温めて血行を促進させ、蓄積した疲労を取り除くことだからね」

 妥協を挙げても利を説いてもしがみつく顔は上がらない。話を聞いている証拠に頭の上でぺたりと伏せられた耳が微かに震えていた。また手探りを誤った自らに舌打ちが出そうで、下唇を噛み甘んじて未熟さを受け止める。怖がらせるつもりも悩ませるつもりも毛頭無い。ただ、君に合わせた語彙の取捨選択がまだまだ苦手なだけで。
 ちょっとしつこい指先を一本一本剥ぎ取るようにして身を離せば、目と鼻の距離で困ったような拗ねたような表情と出会う。僕達以外誰も居ない室内を、それでも左右上下と見渡してしまうのは、舌先を転がる予定の言葉にまだ腹を括れていないからで。僕のシャツを緩く握り締めて見つめ返してくる瞳の中には、少し眉間に皺を寄せてむっすりと黙り込む往生際の悪いおとながひとり。

「‥お風呂でじゃぶじゃぶしたら、全身ぽかぽかになるよ」
「‥ぽかぽか、」
「いま入るなら、あわあわのボールも特別に出してあげよう」
「あわあわ!?はいる!!おれおふろはいる!!」

 バスボールの気配をちらつかせた途端、色違いの星が輝き出す。咄嗟に暴れ出した身体を落とさないように抱き直して、年相応に崩れる目元や頬を邪魔しないように口を噤んだ。渉に貰って試しに使った時にとても気に入っていたから、こっそり集めておいて本当に良かった。種類も多くて買い占めやすいと鬼龍に勧められた百円均一にも、おっかなびっくり入った甲斐があったというものだ。脱衣所に隠した紙袋を思って安堵の息が漏れたが、はしゃぐことに夢中な影片は上手く見落としてくれたようだ。子供騙しの色と泡でお湯と湯船を汚されて安心する日が僕に訪れるなんて。人生とは本当に不自由と不完全の連続で、影片と出会うまでの瑕疵一つ無い孤独を思う度に随分歪になった今の自分に驚いてしまう。喉から手が出る程に欲した永遠をうっかり手放した先の、中途半端に美しくて生々しいこの日々の果てに、僕は一体何に成るのだろう。芸術は日常を裏返してごみ箱に押し込んでから始まるものだと譲らなかった頃が懐かしくて信じられない。勿論、今だって敬虔なる芸術の信徒であることに変わりはない。突如訪れた人生の贅肉のような温もりを枷と思ったり糧と傾いたり目まぐるしい日々においても、創作の火は決して絶やさないと決めている。だけど、新しい理想がそう易々と降って湧く筈が無いことも知っている。この先、どの結果に向けて転がり落ちるとしても、せめてあらゆる理由に君を挙げない僕でありたい。教え授ける者と呼ぶには程遠い僕を、恩も得も無いのに師と懐く奇特で無知な君に返せるものと言えば、多分それくらいだ。
 テンションが上がりすぎたのか少し息切れを起こしたらしい影片が、喜びの勢いのまま僕の首元へ帰ってくる。遠慮をようやく忘れた手は襟元を無造作に引っ張り、形崩れも気にせず力を増す。ぺたりと肌に触れた頬や額はもう汗を帯び始め、代謝と機嫌の移り気に素直に感心した。噛み殺しても漏れるらしい歓声をすぐ近くで聞きながら、支えるまでもない身体を乗せて浴室へ歩き出す。今度は勿論抵抗など無く、反対に待ち切れず揺れる尾が一歩ごとに腕を擦れて擽ったいくらいだ。入浴前後で毛並みも整えてやらないと、そこまで考えていると首筋を食むように小さな唇が震えて僕の名前が何度も響く。

「はいはい、あわあわは君の好きな色を選びなさい」
「きょうはおれがお師さんのせなかあらうで!」
「‥僕も一緒に入るの?」
「いっしょやないとお師さんもさみしいやろ!」

 酷く自信に満ち溢れた声が鞠のように弾み抜けて、流星も形無しの光が二つ揃って僕を覗く。文字通り目も眩みつつ、水遊びさせている内に済ませておこうと考えていた雑事が瞬間脳裏を過ぎって表情が止まった。躱すことも断ることもきっと子猫の手を捻るより容易い。だけど、拒絶される数秒後なんて多分欠片も想像していないまんまるな瞳と綺麗な三日月の唇に、本音なんて絶対に言えなかった。

「‥言っておくけれど、僕の背中は広いよ」
「おれできるもん!おてなみはいけん、やで!」

 勿論僕の受け売りを音だけなぞるように唱えて、影片は髪も耳も足先も尾も等しく踊らせながら僕の為に笑う。この笑顔を浴びてしまえば、掃除も仕事も問答無用で後回しにしてしまう自分が、今はあまり嫌いじゃない。たかが命一つ抱えただけで歪んでしまうような僕に愛されたところで、君の行く末に大した影響は無いかもしれないけれど。確かに愛された記憶がいつかの君をお気に入りの毛布のように温めるなら、それに勝る幸せは無いと思ってしまうよ。口に出すには烏滸がましい願いをそっと頑是ない旋毛に託しながら、包むように守るように両腕へ力を込めた。