vineh118
2024-08-15 12:50:21
25894文字
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Maybe it's you, Baby

現パロにほへし/高校の同級生だったふたりが卒業して最初の夏休みに再会する話。

 〈Maybe it's you, Baby〉



 今からどっか行かないか。そう言われて、どこへ、と返すのが精一杯だった。戸惑いと疑問と緊張と。そんなものが一緒くたになって口のなかに湧きだして、ごくりと飲みこむ音が今にも聞こえてしまいそうで、長谷部は慌てて耳もとからスマホを離した。
「あー……聞こえてる?」
 電話越しのためらいが遠慮がちにぶつかり合う。そんな沈黙の後、ノイズ混じりの低い声が聞こえて我に返った。
「ああ、もちろん」
 ふたたびスマホを握りしめ、耳もとに近づける。手のひらがじわりと汗ばんできた。高校入学以来、機種変もせずに使い続けて四年目のそれはすぐに熱を持つ。
「じゃ、車で迎えにいくわ。家どこだっけ」
 請われるままに住所を送り、通話を切った後も頭の中の疑問符は消えないままだった。
 いったい、なにが起こったんだ?
 あいつが、あの日ノ本が、俺に電話をかけてくるなんて。
 今度飯でもいこうぜと言われて、そうだなと返した。昨日のことだ。
 けれどもそれは、よくある社交辞令というか、挨拶代わりの定型文みたいなものだと、少なくとも長谷部はそのつもりで適当に流していたし、本気にしてもいなかった。
 バイト先のコンビニに突然ふらりと現れたのも偶然だった。どうせ気づきやしないだろうと素知らぬふりをしていたら、長谷部のいるレジにまっすぐ向かってやってきて、おう久しぶり、とごくふつうに笑いかけてきた。まるで卒業してから一週間かそこらしか経っていないかのような口ぶりだった。
 長谷部はといえば、カウンターに置かれたペットボトルのバーコードを読み取りながら、内心舌打ちをしたい気分だった。相手はたいして親しくもなかった元クラスメイト。卒業して数か月も経ってからばったり出くわすなんて、気まずいだけだ。それも客と店員として。
 隣にはセルフレジだってあるというのに、わざわざ声をかけてくる気が知れない。そもそも、なんだってこんなところにいるんだ? たしかどこか有名な、遠くの大学へ行ったはず。こんな田舎で進学したって就職先もろくにないと、卒業と同時に都会へ出ていく他のやつらと同じように。
 それらを全部飲み込んで、差し出されたスマホをスキャンする。電子音とともに決済完了の画面に切り替わると、そこに視線を落としながら日ノ本はふたたび口を開いた。
「先週帰ってきたんだよ、夏休みで」
「そうか」
「そう、だからさ、今度」
 飯でも行こうぜ、と。そういう流れで、たしかにそう言われたけれど。
 だからといって本当に連絡が来るとは夢にも思っていなかった。
 車に乗り込んでから正直にそう言うと、日ノ本はなんだそれ、と笑った。
「お前だって、そうだなって言ったじゃねえか」
「それは、そうだが」
 とはいえ高校最後の一年間、同じ教室にいたというだけで近くの席になったこともなければ会話らしい会話をした覚えもない。当然、連絡先だって交換してもいないのに、どうして知っていたのだろう。
「ああ、グループライン残ってたし」
「クラス全員のやつか」
「そう。あ、あとで俺のちゃんと登録しといてくれよな。……でさ、なんか新しいラーメン屋できてたろ。お前のバイト先の近く」
「あそこか。先月オープンしたんだ」
「昨日見かけて気になってたんだ。お前が嫌じゃなければ、そこ、食いにいってみたいんだけど」
「あ……うん。俺も行ってみたいと思ってた」
 決まりだな、と日ノ本がアクセルを踏み込む。ごつい車体の中は見てくれ通りにゆったりしていて、分厚いシートの下からエンジン音が静かに鳴り響く。
 見慣れているはずの街並みが、いつもと違う速度で夕闇の中を流れていく。長谷部はどうにか落ち着き払った素振りを見せようとしていたものの、こうして助手席に座っていること自体、なんとも奇妙な心地がした。
 だってそうだろう。あの日ノ本号だぞ。
 とにかく目立つ風貌で学校内でも有名だった。代々政治家の家系で祖父が県知事をしていたとかで、先祖をたどればやんごとない血筋にあたるとか、他校にアイドルばりに可愛い彼女がいるだとか、噂はいくらでもあった。
 いつも派手な面子に囲まれて、本人は決して騒ぎ立てるタイプではないが、どこにいても頭ひとつ抜き出た姿や堂々とした振る舞いがその人となりを主張していた。
 つまり誰もが一目置くような、そういう存在だったのだ。
 けれども当時の長谷部にとってはそれも視界の端にとらえていただけの、たとえていえば勝手に垂れ流される動画をただ延々と眺めているような、そんな印象でしかなかった。
 それが今、すぐ隣でハンドルを握っている。前を向いたまま、流れている音楽に合わせて鼻歌でも歌い出しそうな様子で、ふと思い出したように日ノ本が言った。
「実は一昨日、免許取れてさ」
「一昨日?」
 思わず聞き返すと、おう、と日ノ本は心なしか得意げに口端を上げた。
「卒業前に取らなかったのか」
「俺、早生まれだから。仮免のまま、受験やら引越しやらでタイミング逃しちまって、だから休みに入って即、帰ってきたってわけ」
 初心者も初心者だが、運転は手慣れた様子でとてもそんな風には見えなかった。運転席を我が物顔で陣取っている体格の良さか、あるいはあきらかに新車ではないが、よく手入れされているとわかる車体のせいなのか。
「ああ、これは親父が乗ってたやつ。免許取れたらもらう約束してたんだ」
 さらりとそう言って、日ノ本は横目で長谷部を見ながらおどけるように笑った。
「ま、誰か乗せるのはこれがはじめてなんだけどな」
 長谷部はまじまじと日ノ本を見つめた。
「いいのか、それで」
「なにがだ? 心配すんなよ、ちゃんと安全運転すっからさ」
「そうじゃなくて、」
「そういやお前免許は?」
「取ってない」
 素っ気なく返した一言に、日ノ本はそうか、とつぶやくに留まった。
 大抵は高校卒業前から教習所に通いはじめて免許を取得する。地元に残るなら尚更だ。
 長谷部は敢えてそれをしなかった。だから、よくわからないけれど。
 免許を取ってはじめて誰かを隣に乗せて運転する。人生においてそれなりに大きなイベントのひとつといってもいいのではないだろうか。少なくとも長谷部だったら、最初に乗せるのは誰がいいかと考えるだろう。その辺でばったり会った元クラスメイトなんかより、もっとふさわしい誰かを。
 友達だって他にいくらでもいるはずなのに、どうして俺が。それともそう考えるのは自分だけで、こいつにとっては別に取り立てるほどでもない、どうでもいいことなのかもしれない。
 ろくに話したこともなかった理由がわかった気がした。性格も考え方も違いすぎるのだ。適当に食ったらさっさと帰ろう、などと考えているうちに目的地に着いた。数台分しかない狭い駐車場にも日ノ本は難なく停めた。


「あーうまかったな」
「ああ、うまかった」
 新しいラーメン屋はたしかに期待を上回る味で、長谷部も素直に同意した。店を出ると日ノ本は満足気に夜空に向かって伸びをした。
「俺、ここしばらく通いそう。やっぱこっちで食う飯はうまいな」
「向こうじゃ一人暮らしなんだろう? どうしてるんだ」
「まあ適当にやってるけどな。自炊もするし」
「すごいな。俺は料理は全然だ」
「作るのも意外と楽しいぜ」
 そう言いながら日ノ本は車に乗り込んだ。エンジンをかけると同時にエアコンの温度を一気に下げる。熱いスープと宵口の湿気に汗ばんだ身体が急速に冷えていった。
「まだ時間大丈夫だろ? 山の上まで行ってみねえか」
 山の上というのは通称で、市街地から少し外れた山の斜面一帯に公園やら神社やらハイキングコースなどを構える地元のスポットだ。見晴らしが良く街を一望できる。
「いいけど、大丈夫なのか?」
 もちろん車でも通れるように舗装されているが山道なので当然カーブが多い。さらには上に登るにしたがって道幅が狭くなっていったと記憶している。二日前に免許を取ったばかりの初心者には難易度が高いのではないだろうか。
 眉根を寄せる長谷部の横で、日ノ本はいかにも気楽そうに言った。
「そこは練習がてらってことで。大丈夫だろ、市バスだって通ってるんだぜ」
 それもそうか、と長谷部は一抹の不安を抱きながらも納得し、シートベルトをしっかり締めた。
 車はやがて大通りを抜けて山沿いの住宅地から坂道へと入る。はじめはゆるいカーブから、鬱蒼とした山の景色に変わるにつれて傾斜も急になった。日ノ本は余裕の顔をしてアクセルを踏み込む。
「懐かしいよなぁ、中高はチャリだったもんなこの道。漕ぐのキッつくてよ」
「そういえば校外学習でも来たな」
「あーそうそう、あん時さぁ」
「おい前を見ろ、こっち向かなくていいから」
「おっと」
 反射鏡を光らせて白く浮かび上がるガードレールの直前でハンドルが切られる。道は記憶よりもずっと細く曲がりくねっていた。外灯も少なく、斜面から垂れ下がる枝葉の影がさらに暗闇を濃く広げていく。
 幸い対向車にも会わずに中腹の駐車場までたどり着くと、ふたり同時に大きく息を吐いた。思わず目を合わせて笑う。
「静かだな。誰もいねえのかな」
 公園の入り口で日ノ本は辺りを見渡した。平日の夜だからか、たしかに人のいる気配はない。日ノ本によれば休日や週末などは家族連れやカップルの姿もあるらしいが、今はただしんとして、草むらから虫や蛙の声がかすかな振動のように聞こえるばかりだった。
 芝生に囲まれた遊具のエリアを通り過ぎてまもなく、日ノ本が自販機の前で足を止めた。
「なんか飲むか、なにがいい?」
「そうだな、あー……コーラ。あ、」
「いいって」
 背後から手を出す間もなく日ノ本が自販機にスマホをかざした。
「俺はこれだな、クリームソーダ」
 自販機よりでかい図体でそれを選ぶのか、と思ったが黙っていた。ごとん、とボトルの落ちる音がやけに大きく響く。手渡されたそれは瞬く間に結露をまとって濡れていた。
「ありがとう」
「ラーメン食った後ってなんでか甘いもんほしくなるよな」
「わかる」
 そのまま遊歩道を進むと展望エリアに出た。見下ろせば、ささやかな街の夜景が広がっている。ベンチに並んで腰を下ろした。
……長谷部ってさ、」
 隣から日ノ本の声がした。視線は足下の街に向けられているようだったが、外灯から離れているせいでその表情まではよく見えない。
「なんであそこでバイトしてるんだ?」
「家から近いから」
「ふーん」
 質問の意図はおそらく違うとわかっていたが、あえてそう答えた。
 日ノ本は黙ったままだ。しかたなく続けた。
……浪人生の身だからな。来年までの食い扶持くらいは稼がないと」
「なんで浪人? 成績だって悪くなかったよな?」
「試験当日インフルで終了」
「あー、うん」
 まるで事情を知っているような口ぶりだった。特に誰かに言った覚えはないが、噂くらいはどこかで聞いていたのかもしれない。
「他のとこじゃ駄目だったのか」
「国立一本に絞ってたから。他はここから出ないといけなくなるだろ」
 浪人といっても模試ではいつも上位だったし、学力は足りている。来年また試験を受ければいいだけの話だ。けれど、それが正解なのかという迷いも今はある。そもそもどうしても進学しなければならないというわけではないのだ。
 長谷部はペットボトルを口に運んだ。炭酸の泡が喉の奥で跳ねながら、形になりかけた言葉を溶かしていく。
 今日はじめて一緒に飯を食った程度の、それほど親しくもないやつに話すようなことではない。聞かされるほうだって困るだろう。
 大学生活はどうなんだ、と長谷部からも訊ねるべきなのかもしれないが、なんとなくそれもしたくなかった。
 それからしばらくは互いに無言で夜景を眺めた。高層ビルもないところだからその光源は人家や商店街の灯りがせいぜいだ。
 薄曇りの星屑みたいにぼんやりと光るそれらと、梅雨が明けたばかりの灰色にくすんだ夜空が入り混じる。お世辞にも絶景とはいえない眺めだが、これもそれなりに悪くはないと思う。
「そろそろ行くか」
 その声にうなずいて立ち上がる。ペットボトルもあらかた空になっていた。
 ふたたび車に乗って家に送ってもらうまでの時間は、あっという間に感じた。暗がりでの運転に慣れたのか、日ノ本も坂を下りるほうが楽そうだったし、実際に道も空いていた。
「あのさ」
 家の前で車から降り、ドアを閉めようとした長谷部に向かって日ノ本が声をかけた。
「また誘っていいか? お前のバイトが入ってない時でいいから」
「え? あ、ああ……うん」
 咄嗟にうなずくと、日ノ本は笑ってまた連絡すると言った。ガラス越しに片手を挙げて、それから前を向いてエンジンをふかす。
 長谷部はその場に佇んだまま、初心者マークをつけた黒い車体が夜の田舎道に溶けていくのをぼんやりと見送った。


「そうは言ったが昨日の今日か」
「いいじゃねえか、バイト終わるまで待ってたんだし」
「まあ腹減ってたし、別にいいけど」
「そりゃよかった」
 おつかれさん、と日ノ本が水の入ったプラスチックのグラスを近づけてきて乾杯した。昨日と同じラーメン屋で、昔からの連れみたいに向かい合って座っているが、まだこれで二回目だ。
「バイトって毎日この時間なのか?」
「いや、まちまちだな。シフトの穴を埋めたりすることも多いから」
 むしろそのために雇われているともいえた。他のバイトが突然欠勤して、今から来れるかと言われれば自転車で五分もあれば店に着く。オーナーはどちらかといえば口うるさく、顔を合わせても特に愛想を向けられることはないが、少なくとも信用はされているようだった。
 へえ、と日ノ本は適当な相槌を返しながらメニューを眺めていた。長谷部の頭の中をまた疑問が過ぎる。
 共通の友達も話題もないのはわかりきっている。ひとりで飯を食えないタイプでもないだろうに、どうしてまた誘ってきたのだろう。
 店員のかけ声や食器のぶつかる音でざわめく中、一杯目はほぼ同時に平らげた。日ノ本の視線がキッチンのほうへとさまよう。
「替え玉いくか?」
「俺は半チャーハンにする。あと餃子追加で」
「あ、俺も餃子。てか昨日も思ったけど、お前結構がっつりいくよな」
「そうか? ふつうだろう」
 そう言いながら長谷部は手を挙げて店員を呼んだ。追加の注文を済ませると、日ノ本はさらりと続けた。
「それに、食い方もきれいでいいな」
……そんなことはじめて言われた」
 どう反応していいのかわからないまま、日ノ本の丼に替え玉が入れられるところを目で追った。お前こそ、と言いかけて、箸を動かす手を止める。
 ひと口は豪快だが実にうまそうに麺を啜る。いつもは好きに跳ねているほつれた前髪が汗のにじんだ額に貼りついていて、思わず手を伸ばして拭ってやりたくなった。
「ん?」
 不意に日ノ本が目線を上げた。顔は丼に向けたまま、上目遣いのそれに虚をつかれ、長谷部は慌てて首を横に振った。
「ええと、やっぱり豚骨が一番だな」
 取ってつけたような長谷部の言葉に、それな、と言ってスープを飲み干した日ノ本は、昨日よりもさらに満足気な顔をした。
「他になんか好きなもんあるか?」
「まだ食うのか」
「今じゃねえよ。普段なに食ってんだって話」
 車に向かいながら、長谷部はひとしきり考えた。満腹の状態だとこれといって浮かばない。
……うどんかな」
「麺しばりか」
「そういうわけじゃなく、どちらかといえば、程度だが」
 うどん、うどんか。日ノ本はぶつぶつと唸りながら空を仰ぐ。
「あ、隣町の、知ってるか?」
「チェーン店の?」
「いや、なんかばあさんがやってるとこ」
「知らないな」
 よし、と日ノ本が笑ってうなずいた。
「じゃ、次はそこ行こうぜ。まぁ俺は毎日ここでもいいんだけど、お前だって好きなもん食いたいだろ?」
「それは全然、俺はなんでも構わないし……けど、」
「けど?」
 隣で首を傾げた日ノ本を、ちらりと見上げて言いよどむ。この勢いでは一日おきにラーメンとうどんを食べ続けることになりかねない。それが嫌だというわけじゃない。けれど。
「その、他にもいるだろう? いつもつるんでたやつらとか」
「あー、杵とか蜻蛉とか? あいつらまだこっちに帰ってきてないし。ま、向こうでもちょいちょい顔あわせてるしな」
 あっさりとそう言いながら日ノ本は車のドアを開ける。
 ああ、そうか。誰もが夏休みに入った途端に帰省するわけではない。手持ち無沙汰なところにたまたま長谷部と会った。そんなところだろう。つまり代打みたいなものだ。
 謎が解けたような気がした。それと同時に気持ちも軽くなって、長谷部は助手席に滑り込んだ。
 走りだした車の中では最近のヒットソングが小さな音で流れていた。昨日は気にも留めていなかったが、同じプレイリストだったように思う。
 それがふと切り替わった。がらりと変わった雰囲気に、何の気なしに耳を凝らせばよく知っている曲だった。
「この曲、好きなんだ」
「え、マジで?」
 ぼそりと放った一言に、日ノ本がすかさず反応した。
「俺も好き。知ってるやつなんて周りにいないと思ってたぜ」
 意外だった。長谷部は驚きを隠せず隣で運転している横顔を見つめた。同じように考えていたやつがいたなんて。
「まぁ、古い曲だからな」
「そりゃそうだ。俺ら生まれてもないもんな」
「ああ。俺はこの年代が好きでよく聴いてるけど……もう少しボリューム上げていいか」
 長谷部はフロントのオーディオパネルに手を伸ばした。どこだ、と見慣れない記号を人差し指で追う。
「ここだよ」
 日ノ本の手が伸びてきて、長谷部のさまよう手を掴み、ボリュームボタンに触れさせた。
「く、口で言えばわかるだろう」
「言うより手っ取り早えじゃねえか。あっここのギター、いいよな。最高」
 スピーカーの音量が一気に上がる。手と手が触れたことによる一瞬の当惑は、あっという間にかき消された。
 どこか懐かしいメロディに、シンプルながら鮮やかなギターリフ。無意識のうちに爪先でリズムを刻む。
 隣では日ノ本が軽く頭を揺らしながら英詞を口ずさんでいる。曲が終わるまでそんな調子だった。
「なぁ、他には?」
「ほか?」
「どんなのが好きとかよく聴くやつだとか。お前、自分のことあんま話さねえんだもん」
 他といっても。長谷部はためらいながらもスマホのプレイリストを開いた。誰かに勧めたこともなければそういうつもりもなかった、自分ひとりのためのもの。
 迷いつつ、手もとの画面に視線を落とす。すると日ノ本が前を向いたまま、それシェアしてくれよ、と屈託のない調子で言った。


 慣れとは不思議なものだ。どんなに非日常的な出来事も、度重なれば当たり前のものとして受け入れてしまう。ふと顔を上げたら季節が変わり空の青さが濃くなっていたように、いつからそうと認識していたのかも気づかないまま。
 メッセージも着信も、連日ともなればさすがに戸惑うこともなくなった。スマホは相変わらずすぐに熱くなり、電池の消耗は早いけれど、それも大したことではないと思うようになっている。
 あれから日ノ本からもプレイリストが送られてきた。長谷部のプレイリストに入れていた曲もいくつかあったが、曲順が変わると印象も違ってそれもまた新鮮だった。バイトの行き帰りに聴いていると伝えると、日ノ本は嬉しそうな顔をした。
 今日も約束の時間通りに迎えにきた車に乗り込むと、流れていたのは聴きなれた曲。長谷部のプレイリストだ。あの日以来ずっとリピートされている。
「そういえばさ」
 走りだしてしばらくすると、日ノ本が思い出したように言った。
「杵と蜻蛉がこっち帰ってきたから、さっそくあのラーメン屋連れてったんだけど。やっぱすげえうまいって言っててさ」
「そうか」
 そうか、帰ってきたのか。
 だとすればこれでお役御免となるのだろう。こいつにしたって、どこに行くにも親しいやつらのほうがいいだろうし。
 そんなことを考えながら流れる景色を眺める。昼のシフトだったからまだ明るい。雲の隙間から射すオレンジ色の夕焼けが窓ガラスの縁を染めていた。
……で、蜻蛉からうまいうどん屋があるって聞いたんだけど、この間のとは別のとこ。行ってみたくねえか?」
……なんで」
 咄嗟に口ばしると、日ノ本はちらと長谷部を見た。
「なんでって、うどん好きだろ?」
 それに、と続ける。一瞬の間があった。
「助手席がお前じゃないとなんか変な感じっつうか……なんかもうしっくりきてるし」
「え、」
「ま、スピード出しすぎるなとか、ちいっとうるさいけどな」
 日ノ本はそう言って、目を瞬かせている長谷部に向かってふっと笑った。
 まったく、この男は。面と向かって、平気な顔をして。どうしてそういうことが言えるんだ。
 くすぐったいような、ざわつくような。波打つ胸の内を鎮めるようにして、長谷部は咳払いをひとつした。
「し、仕方がないな」
 どこだそのうどん屋は。なんだ結局食いたいんじゃねえか、じゃ、行こうぜ。だからそんなにスピード出すなと言ってるだろう。
 曲が変わった。ギターがかき鳴らされる。派手なイントロに合わせて、景色がふたたび流れだす。
 日ノ本がふと思い出し笑いをして言った。
「杵のやつがすぐふざけること言い出すからさ、落ち着いて食えねえんだよ。鼻からうどん吸ってみようぜとか。でも、あいつできねえでやんの」
「いやふつうできないだろう」
 男三人が鼻で太い麺を啜る様を想像して長谷部は眉根を寄せた。コツがあるんだよ、と日ノ本が言う。できるのか。
「彼女が見たらどん引くんじゃないか」
「誰がどん引くって?」
 何気なく言った言葉を聞き返されて、長谷部は一瞬、虚をつかれた。
「ええと、いるんだろう? たしかよその学校の、」
「あー」
 低く唸るような声を出しながら、日ノ本は頭をかいた。
「俺はいるなんて一言も言っちゃいなかったんだけどな」
「そうなのか」
「なんか、いつの間にか勝手にそういうことになってたんだよな。ま、そのほうが都合もよかったし放っておいたけど」
「都合?」
 答えるつもりはないらしい。長谷部は質問を変えた。
「じゃあ、その……今は? 向こうにいたりするのか?」
 んー、と口の中でくぐもった声がした。日ノ本は前を向いたままだ。
 訊くべきではなかったのかもしれない。いくらそれなりに親しくなったといっても、いきなり無遠慮に踏み込まれたら誰だって気分良くはないだろう。
 そもそもどうでもいい話だ。別に知りたくもないことを訊いたのも、単に話の流れでしかない。それでも出過ぎた真似をしてしまったと押し黙ると、日ノ本が口を開いた。
……お前は?」
「え、」
「好きなやつとかいねえの」
「あ、いや……わからない」
 どうしてわからないなんて答えたのか、自分でもよくわからなかった。長谷部の咄嗟の言葉に、日ノ本は笑いだした。
「ははっ、わかんねえか」
 ならいいや、とこれまたわからないようなことをつぶやいて、口もとを緩ませている。そんな様子に長谷部は思わずむっとした顔を向けた。
「おい日ノ本、」
「なぁ、それも前から思ってたんだけど。下のほうが呼びやすくねえか? どっちでもいいけど」
 唐突な提案に、出鼻を挫かれた気分でその横顔を見つめた。
……号、か?」
「うん」
「まぁ……たしかに」
 四文字と二文字の違いはある。その二文字は舌の上で転がって溶けるタブレットみたいに一瞬でしみ込んでいった。くすぐったい感覚がまた、身体のどこか奥のほうからこみ上げる。
「そうだな、なんか略称みたいでいいな」
「人を勝手に省略すんなよ」
 機嫌はすっかり戻ったようで、日ノ本はいつもの調子で喋りだした。
「俺は長谷部のままでいい」
「ふぅん? クニシゲって名前だってかっこいいじゃん。まぁお前がいいって方にするけど。長谷部のが短いしな」
 あ、でも、とふと思いついたように日ノ本が続ける。
「國重って一回呼んでみてもいいか?」
「はぁ?」
「今じゃなくていいけど。いつか」
「なんだそれ」
 なんなんだ。首を傾げたところで車は件の店に着き、呼び名の話はそれきりになった。


 問答無用に暑い日が続いた。炎天下に自転車をこげば瞬く間に汗だくになる。勉強の気分転換に図書館を使うこともあったが、こう暑くては足も遠のく。
 家とバイトの往復以外に外に出るといえば、夕飯の誘いがくる時くらいだったが、週が変わってからはそれもなかった。おそらくいつもの連中と出歩いているのだろう。
 昨日の花火もやつらと行ったんだろうな。店頭に貼られていたポスターをはがしながら、ふと思う。
 地元を挙げての花火大会は毎年相当なにぎわいを見せる。周辺の飲食店やコンビニもかなり前から準備をしている。長谷部のバイト先は市街地から遠く、会場からも離れているが多少なりとも影響はあって、昨夜は人員を総動員しての営業だった。
 オーナーは店先に屋台らしきものを出して冷たい飲み物とホットスナックを売りさばき、その傍らで長谷部はひたすらペットボトルを補充していた。
 そんな流れもあってか、今週はずっと夕方から夜にかけてシフトが入っている。今日出勤してみれば、屋台やら積み上げられていたコンテナやらは昼のうちにあらかた片付けたらしく、ほぼ通常営業だった。
 それでもどことなく祭の後の、騒ぎ疲れた残骸のようなものが空気に入り混じり、店の四隅にはりついているような感じがした。ただの想像に過ぎないかもしれないけれど。
 客足も落ち着いている時間だった。一応床にモップをかけておくかと、レジから出ようとした時、車が停まった気配もなく自動ドアが開いた。視界をかすめた大柄な人影に、ふと顔を上げる。
「号?」
 思わず声を出した長谷部に、おう、と平淡な声が返ってきた。ぐったりと疲労を浮かべた顔は汗まみれで、Tシャツもまだらに色が変わっている。
「とりあえずなんか飲みもん買わせて」
 どうした、と驚く長谷部を片手で軽く遮って、冷蔵扉に直行する。スポーツドリンクを持ってレジに来ても表情は険しいままだった。
「奢る」
 差し出されたスマホを無視して、長谷部は自分のポケットに手を突っ込んだ。咄嗟に必要になる時のために数百円だが入れている。高齢の客相手の場合が多いが、コピー機でもたついていたり電子決済のエラーだったり、レジを通すのも面倒な時にさっと出すのだ。
「サンキュ」
 号は軽く口端を上げてペットボトルを受け取ると、長谷部に訊ねた。
「何時上がりだっけ」
「十時」
 同時に壁際を見上げる。アナログの時計は九時半を回ったところだった。
「待ってていいか? ちっと涼ませてくれ」
「なにがあったんだ?」
 イートインスペースへ向かった号を追って長谷部はカウンターを出た。
 客は他にいない。少しの時間なら私語も許されるだろう。
「親父と喧嘩した」
 ペットボトルを半分ほど一気に飲んでから号が言った。
「こっちに帰ってきてから毎日遊び歩いて、いい加減にしろってさ」
 それは事実だろう、と内心突っ込んだが黙っていた。
「そう言われたから今週はずっと家にいたんだよ、昨日なんて花火ドコドコ鳴ってるの聞こえるってのに部屋にひとり引きこもってるとか、最悪だろ?」
 行かなかったのか。それも意外な理由で。長谷部の予想は外れていた。まだ治まらないらしく、号は続けた。
「大人しくしていればしていたで言いたいこと言いやがって、家の恥になるようなことするなとか、誰が金出してやってるとか、挙げ句の果てには大学終わったら地元戻ってこいとか、戻るやつなんかいるかよこんなとこ」
……
「で、ムカついて気がついたら家から飛び出してたんだけど、あの車も親父のだろ。今使うのも癪だから歩いてきたらマジくっそ暑くてさ」
「待て、お前の家って」
「ああ、本町だけど」
 ということは。
 ここまで歩いてきたらどんなに早くても一時間以上かかるはずだ。しかもこの熱帯夜に。あれだけ汗をかいていた理由がわかった。
 いかにもうんざりしたような険しい顔のまま、号はがしがしと頭を掻いた。
「ああくそ、ヤケ酒したい気分だぜ」
「酒は売れないぞ」
「わかってるよ」
 自動ドアの開く音がして、客が入ってきた。長谷部はレジ前に戻った。そうしながらふと見ると、号は背中を向けて長い足を投げ出すようにして座り、ガラス越しに暗い外を眺めていた。
 この時間、ほとんど利用客もないイートインスペースは、照明を最小限に落としている。濃い影を背中に淀ませているその様子は、どこか所在なさげで普段は大人びて見える姿がまるで幼い少年のようにも見えた。
 いつもクラスの中心にいて、自信たっぷりで周りからも持て囃されて。親の望む大学とその代わりに譲り受けた高級車で流行りの音楽を聴くことも、友だちに合わせて時折羽目を外すのも、さらには恋人がいるとかいないとか、荒唐無稽な噂話を放っておくことも。全部、周囲からの期待とイメージ通りに振る舞っていただけのことなのかもしれない。
 むしゃくしゃしているならこんな町はずれのコンビニまでわざわざ歩いてこなくても、仲間を呼び出して憂さ晴らしだってできるはずなのに。
 けれども本当は、そういったことすら望んでいないのだとしたら。流行曲よりも本当は一世代昔のパワーポップが好きで、マイナーなメーカーの炭酸ジュースが好きで。そんな自分を周りには見せたくないのだとしたら。
 そんなふうに生きるのは、長谷部には想像もできないことではあるけれど、きっと自由でありながらも不自由だ。
 本人が他には見せようとしていない隙を今、垣間見ているような気がして、長谷部は込み上げてきたやるせなさを飲み込んだ。
 間もなくして次のバイトがやってきた。引き継ぎ事項も特にないまま交代して、裏口から外に出る。
 熱風を吐き出す室外機と物置の傍に自転車を停めてあった。その手前の壁際で号が待っていた。いつもの調子を少しは取り戻したのか、何事もなかったように話しだした。
「そういや歩きながらお前に電話してたんだ。出なかったからバイト中かと思ってここまで来たってわけ」
 そう言われてスマホを見ると、ロック画面に着信の履歴が残っていた。普段であればかけ直すか、すでに運転席で待っている号の車に乗り込むかするのだが、今日は本人が目の前にいるし車はない。
「河原に行ってみないか。土手を通って」
 長谷部は自分の自転車を引っ張りだしながら言った。
「川ぁ?」
「いいから後ろに乗れ」
 そう言ってサドルにまたがった。店の前の通りを少し進むと橋が架かり川が流れている。土手沿いは遊歩道になっていて、車道からは外れているから道路交通法違反も見咎められることはないはずだ。
 マジかよ、と言いながら号は荷台を掴んだ。長谷部がペダルの踏み込むのに合わせて足を浮かせる。
「重量オーバーじゃね? てか交代したほうがよくねえか」
「進んでるんだから平気だろう。いいから任せろ」
 この自転車だって高校の時から乗っていて、壊れたことは一度もない頑丈なやつだ。何度かふらついたものの、どうにか遊歩道まできた。スピードが出るにつれ、肌に貼りついていた蒸し暑い空気が拭われていく。
 背後からはまだ不満そうな口ぶりでぶつぶつと言うのが聞こえてきた。
「二ケツの後ろとかカッコつかねえだろうが」
「大丈夫だ」
 ほとんど立ち漕ぎの体勢でペダルを踏みながら、長谷部は言った。
「大丈夫だ、お前はかっこいい」
「お、おう」
「運転も上手いし料理もできる。音楽の趣味もいい。それに、性格だっていい。こんな俺にも親切にしてくれるんだから」
 下手な励ましだと思ったが、仕方がない。うまい言い回しなんてなにも知らない。
「それはお前が……、だろ」
「なんだ? すまん聞こえなかった」
 土手を下るゆるやかな坂道に入っていた。振り返ると、号がぎょっとした顔で肩を揺すった。
「おい、前」
……え? うわっ」
 ハンドルを切ろうとしたが、遅かった。前輪が縁石にぶつかって、自転車ごと前のめりになった瞬間、身体が放り出された。芝生に手をつき、倒れ込む。当然号も犠牲になって、ほとんど同時に折り重なるようにして、ふたりで芝生に転がった。
「あっぶねえなぁ、もう」
「すまなかった、大丈夫か」
「ああ、お前は?」
 大丈夫だ、と顔を上げると目が合った。それと同時に、どちらからともなく吹きだした。
「ふっ、くくっ……
「あーっははは」
 笑いだしたら止まらなかった。この年で通学用自転車の二人乗りをして、あれだけ必死に漕いできたことも、こんななんでもない場所で派手に転んだことも、なにもかもが可笑しかった。
「だめだ、くるしい」
「はー、なにやってんだ俺ら」
 文字通り腹を抱えて、笑い疲れてようやく正気を取り戻しても、その場に倒れ込んだままでいた。夜の芝生の匂いがする。ぬるい湿気と草熱れ。夏の匂いだ。
 視界は号の輪郭に沿って暗く翳っていた。鼻先が触れ合いそうな距離で、無造作に束ねられた髪からこぼれる一筋が長谷部の頬をかすめた。ふと見上げると、暗がりの中でもそうとわかる濃い睫毛に縁取られた瞳がすぐそこで見下ろしていた。笑っているのか真顔なのか判別がつかないまま、ほんの一瞬過った強い眼光に吸い込まれそうな気がしてひそかに息を飲む。
……重い」
「あ、悪りい」
 平静を装って口を開くと、覆いかぶさっていた身体はあっさり退けられて、号は自転車のフレームを担ぎながら起き上がった。
 その時はじめて転倒した自転車から庇われていたことに気がついた。号が間に入らなければ車体の下敷きになっていたところだ。
 立てるか、と手が差し出され、つられるようにしてそれを掴んだ。
「こっちの階段から行こうぜ」
 自転車のフレームをひょいと持ち上げ、土手の階段を上る。もう片方の手は長谷部の手を握ったままだった。
 なんとなく振りほどくこともできずに、無言で歩く。指先まですっぽりと包むほど大きく、やけに熱い。けれど階段を上りきる頃には、声に出せない戸惑いはしっとりと絡むような心地よさに変わっていた。離すのが少し惜しいくらいに。
 土手の上まで来ると、等間隔にたたずむ外灯が鈍い光で階段のコンクリートを照らしていた。濡れたような影がふたつ、そこに映る。
「乗っていってもいいぞ。俺の家はまだ近いから」
 また一時間もかけて歩いて帰るよりマシだろう、と自転車のハンドルを向けると、号は眉を少ししかめて渋い顔をしたものの結局うなずいて、反対方向へと帰っていった。


 翌日には電話があった。チャリ取りにこいよ、と気軽に言ってのけるその口ぶりは昨夜の剣幕が嘘のようだった。
「今日も夕方からバイトなんだ」
「だからその前に来ればいいじゃねえか」
「一時間歩いてか? この炎天下に?」
 あの場で気前良く貸したはいいものの、次の日どうするかなんて正直考えていなかった。ふざけるな、と一蹴すると、号が車で迎えにいくと言いだした。
「親父さんと仲直りしたのか」
「ってわけでもねえけど。まぁガキじゃあるまいし、いつまでも拗ねてるってのもな」
 迎えにきた車の中で、号は肩をすくめながらそう言って、笑った。
「妥協するとこは妥協してやるさ。お前とバカ笑いして頭も冷えたし」
 車は市街地から奥まったところにある、いわゆる高級住宅地に入っていった。近隣は似たような規模の家が並んでいる。その中でも号の家はいかにも元知事の住まいらしく古めかしい佇まいで、瓦の塀と樹木に囲まれた門扉をくぐると日本家屋風の平屋建てが構え、奥にはやはり古風な庭も見えた。号曰く改築を繰り返しているから中身はそこまで古くはないらしい。
「上がっていくだろ? あ、俺の部屋こっち」
 お邪魔します、とうわずった声で靴を脱ぐ。実際に足を踏み入れてみれば、ハウスメーカーのCMにでも出てきそうな近代的な内装だった。
「家の人は?」
「大体昼間は誰もいねぇんだ。麦茶でいいか?」
「あ、うん、なんでも」
 号の部屋は驚くほど何もなかった。ぱっと見渡してもベッドと机と本棚くらいは目につくが、そこに置かれているものはほとんどない。
「引っ越しの時に持ってくか処分したから。気に入ってるのとか長く使ってるやつはそばに置いときたいしな。スピーカーも持っていっちまったから音楽も聴けなくてさ」
「なんだか旅行に来た気分だ」
 長谷部はそう言ってベッドの縁に腰かけた。あまりに整然としすぎていて、ホテルの部屋のようだと思った。わずかな一時を滞在するためだけの場所。
 すでにここで暮らす意思はなく、父親に向けた宣言通り卒業しても戻ってくるつもりはないのだろう。
 そんな他人行儀な部屋で、麦茶のグラスがふたつ並んで静かに汗をかいている。
「あーでも、あそこ」
 号がふと思い出したように天井を指した。何のことかわからず首を傾げていると、号は隣でおもむろに仰向けになった。
「こっちからだと見えるだろ、ほら」
 それにならって長谷部もベッドに横たわる。人差し指が示す先、天井に備えつけられた照明のすぐ側に亀裂が入っているのが見えた。
「小六くらいかな、やっぱムシャクシャしててさ、無性に身体動かしたくなったからあそこの枠つかんでこう、けん垂? したら蹴り入っちまってさ」
「なんでここでけん垂なんだ、他になかったのか」
「それな」
 軽く笑って、それからしばらくふたりとも無言のまま、寝転がって天井を見上げていた。
 窓から差し込む真夏の陽射しが頭上に伸びていた。エアコンの振動音と蝉の声。隣からかすかに聞こえる息づかい。
 わずかに触れている肩の厚みを、なんだか妙に意識してしまう。同時に昨夜つないだ手の感触が思い出されて、長谷部はそんな自分に困惑した。
 けれどもそれはたぶん、昨日にはじまったことではなくて。
 どうにか気を逸らそうと、見慣れない部屋の天井に別の風景を思い描いた。
 例えば手が届きそうな満天の星空や、潮騒が聞こえる夜明けの砂浜。外国映画に出てくるようなドライブインシアター。
 どこでもいい、ここではないどこかで。それでもこうして隣で、そして。
……なぁ、」
 不意に号の声がした。
「今、同じこと考えてんじゃねえかって思うんだけど」
……満天の星?」
「あ? うん、そうだ、たぶん」
「嘘つけ」
 くすりと笑って天井から視線を移すと、柔らかくて強いまなざしがそこにあった。
 ただ、見つめあう。号の手が伸びてきて髪に触れた。そっとあやすような手つきで、そのまま長谷部のうなじを軽く押さえて、キスをした。
 透明な緊張の糸に縫いつけられながら、その反面、そうするのが自然で当たり前なことのようにも思えた。
 もどかしいような、終わる前から名残惜しいような、そんな時間だった。ゆっくりと唇が離れていくその音が妙に生々しくて、一気に頬が熱くなる。
 火照った顔をそらすようにしてどうにか起き上がった。
……バイト、行かないと」
「そうか、そうだな」
 号も起き上がってうなずいた。互いに口を開きかけ、言葉を探す。号が言った。
「あー……終わり頃、行ってもいいか」
「あ、ああ」
 じゃあまたあとで、と目を細め、自分を見つめる号が一瞬他人のようにも見えて、長谷部は混乱した。

 バイト中はずっと落ち着かなかった。思い出すまでもなく、その感触は唇にいつまでも居座り続け、マスクの下でうごめいていた。淡々と仕事をこなしているつもりでも地に足がついていない。ミスをしなかったのが不思議なくらいだ。
 あいつも同じ気持ちでいるんだろうか。バイトの後は、今日はやっぱり断るべきだったか。ああ、だけど。
 裏口を出ていつものように停めてある車を見た時には、真っ直ぐ駆け寄りたい気持ちと背中を向けて逃げ出したい衝動が同時に湧いた。意を決して助手席のドアを開けると、号はいつもと何ら変わらずに、よう、と笑って迎えた。独りよがりとわかっていても、長谷部は少しむっとした。
 こっちはバイトの間、ずっと悶々としてたっていうのに。人の気も知らずに、と横目で見ると、号はにっと笑って言った。
「星を見にいこうぜ」
 山の上に向かう狭いカーブも最初に来た時よりはずっとスムーズだった。車を降りて公園の中を歩いていくと、どこからかロケット花火の打ち上がる音が聞こえた。
「夏休みって感じだな」
「ここ、花火禁止じゃないのか」
「貼り紙とかないし、いいんじゃね」
 号の言う通り、近辺の学校も夏休みに入っているせいかそこかしこに人のいる気配があった。駐車場には何台ものバイクが停められていたし、夜ふかしにはしゃぐ子どもの声や、にぎやかな雄叫びが暗がりをかすめる。
 それでも奥に行くにつれ、静けさは増していく。いつかのベンチが見えたところで空を見上げた。
……曇ってるな」
 まばらな夜景の先には鈍色の雲が垂れこめている。特に変わりばえのない地元の夜を見下ろしながら、長谷部は半ば呆れて溜め息を吐いた。
「だいたいなんでいきなり星なんて……あ、」
 そこでようやく気がついた。思わず口を開けたまま、号を見上げる。
……俺が言ったからか」
 すると号は信じられないものを見るような目つきで、わかっていなかったのか、という顔をした。
 こういう時、なんて言えばいいんだ。言葉が見つからないまま、もごもごと口を開けては閉じる。それを見て、耐えきれないといった様子で号が吹きだした。
「っとに、そういうとこ」
「な、だって、そんな」
「ほんと、お前って……
 ひとしきり笑った後で、不意に沈黙が訪れた。ベンチに座って互いに前を向いたまま、隣で号が前髪をかき上げながら静かに息を吐いた。
「あのさ」
「うん」
「さっきのことだけど」
「うん」
「俺の部屋で」
……うん」
「その、嫌じゃなかったか?」
 そう言って、ちらとうかがうように長谷部を見た。どことなく硬い声音に、ああ、こいつも緊張なんてするのかと他人事のように思う。
「ああ、嫌じゃなかった」
「あー、えーっと、じゃあ」
 号は周りを素早く確認して、それから声を低めた。
「今、抱きしめてもいいか」
……さっき、キスした時はなにも聞かなかったくせに」
「じゃ、キスも。いいか」
 こくりとうなずいたのとほとんど同時だった。ゆるりと伸びてきた両腕にあっという間にとらえられ、すっぽりと覆い隠されてしまった。遠くの喧騒から、灰色の濁った夜空から、この世界のすべてから。
 なにも見えないまま、背中を包む手のひらの感触が溢れかえる感情を堰きとめて、その渦に溺れてしまいそうで、長谷部はすくんだ両手を伸ばして号のTシャツの裾を掴んだ。するとさらに強く抱き込まれてしまった。
 密着した状態で布越しに触れた両脇腹は硬く、自分とは別の身体を意識する。そこで長谷部ははっとした。
 そういえば、バイト上がってそのまま来たんじゃないか。
「ちょっと待て、だめだ俺、汗臭いかも……おい嗅ぐな」
 慌てて身を離そうとしてもびくともせずに、それどころか号はさらに顔を近づけて、長谷部の髪に埋めるようにして言った。
「なんで、いいじゃん」
「いいわけあるか」
「好きだよ」
「汗臭いのが?」
「それも。全部」
 耳もとで囁かれる低い声は、やけにしっとり響いて甘い気がした。いや、気がするだけじゃなくて、確実に。
 腕の力が緩められ、わずかな隙間ができた。号は首を少し傾げ、覗きこむようにして長谷部を見つめている。またあの感情の渦に飲みこまれそうになる。口を開くのがやっとだった。
「俺も、その、たぶん」
「たぶんてなんだよ」
 ふ、と笑って号は目を細めた。うまく言葉にならなくても、たぶんきっと、わかってる。互いの目に映るものも、そこにある想いも、同じだと。
 誰も通りかからないようこっそり祈りながら、大きな両手に頬を挟まれ二度目のキスをした。


 翌朝、目が覚めてからスマホを見ると、おはようのスタンプが送られてきていた。横に添えられた時間は意外と早く、六時二十分。一時間以上も前だ。
 長谷部はといえばまだ布団から出るつもりもなく、開いたスマホを一旦手離して、寝返りをうちながら目を瞑った。
 どのくらいそうしていたのか、やはり思い直してスマホを開く。同じようなスタンプを送った。これでよし、とふたたび目を閉じるより早く、音が鳴った。
 〝起きた?〟〝まだ布団〟〝俺走ってきた〟〝早起きすぎだろ〟と取るに足らないメッセージのやり取りを続けた後で、間が空いた。ひとまずこれで終わりかと思った瞬間、それはぽこりと現れた。
 〝昨日は眠れなった〟
 続けざまにもうひとつ。
 〝嬉しくて〟
 長谷部は咄嗟に辺りを見まわした。寝起きのままの状態で部屋にひとりきりで、もちろん誰に見られているはずもないのに、息をひそめて素早く指を動かした。
 〝俺も〟
 それだけを送ってスマホを閉じる。実際、なかなか寝つけなかったのは本当だった。
 だからこそこうして今もだらだらと過ごしているわけだけれど、そうしながら頭の中では昨日の出来事がぐるぐるとよみがえり、思わず叫びだしそうになる。それと同時に頬が勝手に緩んでもいて、今、鏡を見たら、とてつもなくだらしない顔をしているに違いなかった。
 旧家でもある号の家はお盆の間はそれなりに忙しく、特に今年は運転手に駆り出されると言って親戚やら家族やらの愚痴をよくこぼしてきた。
 その間、長谷部はまた図書館に通うことにした。この時期は皆、本や勉強より優先させることがあるのだろう。いつもより空いていて快適だし集中できた。
 時々、夜寝る前に通話した。布団に入って長谷部が寝落ちしてしまっても号は切らずにいて、朝起きて呆れることも何度かあった。
 幾日かがそうして過ぎた。他愛のない、些細な出来事のひとつひとつが眩しく揺らいで、真夏の濃い影のようにくっきりと痕を残していった。


 号の部屋をふたたび訪れたのはそれからほどなくしてだった。
 どこかに昼飯を食べにいくつもりだったのが、そういうことになったのだ。
 ドライブスルーしてきたハンバーガーも放ったらかしにして、誰にはばかることなく身体を寄せあった。もうただのキスだけではとっくに足りなくなっていた。
 手探りで目を凝らして慎重にすくい上げていたはずの欲は、あっという間に膨れ上がってふたつの身体を駆り立てた。互いの舌の味を覚えて、服を脱がせあい、探りあいながらベッドの上ですべてを晒した。
 お互いにはじめてで、これが実際にうまくいった部類に入るのかどうかはわからない。けれど、激しい吐息にまみれて抱きあって、手と手をきつく絡めたその瞬間は少なくとも満たされていた。
「平気か?」
 号はずっと気遣っていた。ぐったりと脱力した長谷部の身体を労るように抱きよせて、大丈夫かと何度も訊ねた。その様子がなんだか可笑しくて、顔やらあちこちを撫でられるのも心地よくて、長谷部は頬を緩ませた。
「やっぱ初っ端からってのはキツかったよな、けどお前がものは試しだとか言うもんだから、つい」
「お前だって乗り気だったくせに」
「そりゃそうだけど、いやだってそうなるだろ」
 長谷部は手を伸ばした。ぶつぶつと繰り返す号の口を塞いで、それから頬に触れる。
「いいんだ、俺がそうしたかったんだから」
「はーーーお前またそうやって、煽ることされるとさぁ」
「べつに煽ってなんかない」
 煽ってんだよ、と身体ごと引っくり返された。戯れつく号から笑って顔をそらしながら、ふと部屋の様子が目に入る。
 相変わらず何もない空間に、その存在をすっかり忘れていたハンバーガーの紙袋があった。途端に空腹を覚える。長谷部はそれを指差して、同じように忘れているに違いない号にも思い出させた。
 号は口をへの字に曲げた。紙袋から冷えきったハンバーガーとしなびたポテトを取り出しているその横で、長谷部はいつ氷が溶けたのかもわからないコーラを一気飲みして口を拭った。喉も乾いていたのだ。
「あ、そうだ」
 ポテトをつまみながら号が言った。
「お前明日、バイト入ってるんだっけ」
「明日も一応、休みにはなってるけど」
「夜、みんなと飯いくことになってるんだけど。杵と蜻蛉と、他にも来るかもなんだけど、お前も行く?」
「いや……、俺はいい」
 他の仲間との約束に誘われたのははじめてだった。そのことに少し驚いたものの、そこに加わるつもりはまったくなかった。顔と名前の一致くらいはするかもしれないが、以前の号と同じように学校ではほとんど関わりのなかった連中だ。正直、どういう顔をしていればいいのかもわからない。
 楽しんでこい、と言うと、号はそれ以上強くは言わず、いくらかほっとした顔をしていた。


 次の日の夕方、電話が鳴った。オーナーからだった。高校生のバイトが一人飛んだ、今から来れるかと言う。いつものやつだ。予定もないので支度をしたら行くと答えた。
 外へ出ると、どこかで夕立が起こっているらしく湿った風が吹いていた。東の空はすでに暗い雲で覆われている。あれがここまで来れば豪雨になるのだろう。連絡がもう少し遅ければずぶ濡れになるところだった。
 店に着き、制服を着てオーナーに簡単に礼を言われ、中年のパートの主婦に褒められて新商品のアイスを奢ってもらった後は通常通りの業務についた。外から大粒の雨音が聞こえてきたのはそれからまもなくしてだった。
 一時の通り雨かと思えば、思いのほかそれは長く続いた。雷も止まず、時折稲光が派手な音をたてながらガラス全面に差し込んだ。当然、客も入ってこない。来たとしてもびしょ濡れで、雨水を撒き散らしながら入ってくるので、そのたびにモップで床を拭かなければならなかった。
 雨足がようやく弱まりかけた頃、背の高い集団がぞろぞろと入ってきた。どこかで見た顔だとか、思うまでもなかった。最後に入ってきたのは号だった。レジにいる長谷部に気づくと、ひどく驚いた顔をした。
 そういえば、休みだと言ってあったっけ。
「あっれー?」
 号が口を開くより早く、長谷部に気づいて声を上げたのは先にジュースを持ってレジに来た御手杵だった。
「長谷部だよな? ひっさしぶりじゃん。なに、ここでバイトしてんの?」
 無言でうなずきながら、お前もか、と内心突っ込んだ。号の時と同じパターンだ。親しかったわけでもなんでもないのに、なれなれしく話しかけてくる。こいつらみんなそうなのか。
 店に入ってくるなりトイレに直行し、戻ってきた同田貫も長谷部の顔を見ると、おう、とぶっきらぼうに言った。
 蜻蛉切はもうひとりとスイーツコーナーを物色している。あの髪を紫にしてるやつ、誰だっけ。
 ぼんやり眺めていると、目の前にいる御手杵が号を指して言った。
「こいつが明日帰るっていうからみんなで集まったんだけど、さっきまで身動き取れなくってさぁ。すごい雨だったよなぁ」
……明日?」
 つい声に出てしまった。長谷部の声色が変わったことには気づいていないらしい。御手杵は続けた。
「そ、こっちにいたって時間の無駄だからさっさと戻るとか言ってたくせに、なんだかんだ結構いたよな?」
 おい、と号の声がした。どんな表情をしているか一瞥もしないまま、長谷部は後ろを向いて備品をチェックする振りをした。今、顔を見ることはできない。
「もう行くぞ。お前がいつまでもここにいたら業務妨害だっての」
 うえぇ、じゃあな、と御手杵が手を挙げる。その間、他の連中はセルフレジで買い物を済ませていたらしく連れ立って出ていった。
 その後はただ時間が過ぎるのを待った。気持ちの整理がつかないまま、タイムカードを切って外に出ると雨は完全に止んでいた。大きな水たまりがそこかしこにできていて、水浸しの駐車場の端に見慣れた車が停まっている。運転席は空だった。
 号は車から降りて、壁際に立っていた。ここで待たれているとは予想もしてなかったし、正直今は顔を見るのもしんどかったが、自転車を動かすには目の前を通らなければならない。
「あいつらは?」
 仕方なく訊ねると、カラオケいった、と返ってきた。
「その、……悪かったな」
 号は気まずそうな顔で言った。視線は足もとの水たまりに泳いでいる。
「顔合わせたくなかったろ。いるって知ってたら無理にでも寄らなかったんだけど」
 べつに、と首を振る。話さなければならないのはそのことじゃない。それだけだったら号だって、わざわざここで待ってもいないはずだ。苛立ちとともに切り出した。
「それより、明日帰るってなんだ」
……言えなかった。けど土日だってあるし、またすぐ帰ってくるつもりだったし」
「ならこんな時間までふらふらしてないほうがいいんじゃないか。また親父さんに言われるぞ」
 一息にそう言って、長谷部は顔をそむけた。わかってはいたけれど、それでもやはり号の口から弁解するような真似は聞きたくなかった。
 そう、わかっていたはずだった。
 どれほど親密になった気がしていても、相手は夏休みの間に帰省していただけで、大学がはじまれば向こうでの生活にまた戻る。
 そもそもこれまでだって何の取り決めも存在していなかった。いつもいきなり連絡が来て、すぐに近くにやってきて、それもあの日の最初から。
 だから明日突然終わりがやってきたとしても、そのことを知らされていなかったとしても、今さら責めることだってできやしないのだろう。
「長谷部、俺は」
 号が腕を掴んだ。スニーカーの爪先で水たまりがぴしゃりとはねた。
「毎週でも帰ってくる、だから」
「そういう問題じゃない」
「じゃあどうしろって言うんだよ」
「やっぱり無理だ、もう放っておいてくれ」
 声が震えそうになるのを必死に隠す。
「こんなところにいたって無駄なんだろう」
「だからあれは」
 その言葉を遮るように手を振り払い、くちびるを噛んだ。長谷部はもう一度言った。
「無理だ」
 溜め息を吐いて首を振る。最初から出会わなければ、お前のことをなにも知らずにいられたら。
 それなのに、どうして。
「どうしてあの時、声をかけてきたんだ……
「好きだったからだよ!」
 ずっと、卒業するずっと前から。
 語気を荒げた後、絞りだすようにして号はそう言った。長谷部は目を見開く。驚いて声も出なかった。
……っ、でも」
「でも俺のせいだよな。ごめん」
 水たまりに足を突っ込んだままうつむく号に、それでも置いていくんだろう、とは言えなかった。
 現実を見たくなくて、先のことは考えないふりをして、少しでも先延ばしにしたくて。それは長谷部だけでなく、号も同じだったに違いない。
 それでもやはり、最初から見ているものが違ったのだろう。
 永遠に続く夏休みなんて、どこにもないのだ。
 ここにいるのが無駄だと言ったという号の意図がどういうものだったのか、本当のところはわからない。
 けれどそれを聞いた時、長谷部はあの何もない部屋を思い出した。冷えた紙袋と丸めて脱ぎ捨てられた服。ひび割れた天井。あそこに残されたのは俺自身だ。このまま縋ってしまったら、きっと亡霊みたいにこびりつく。
 時々は帰ってくるかもしれない。慰められるかもしれない。そうして生きていくのか。空虚を突きつけられたまま。
 昨夜の余韻だってまだ本当は、残っていたのに。
 これ以上は、今は。そうつぶやくと、号は静かに顔を上げた。垂れ目がちの目が細められ、今にも泣き出しそうな表情で長谷部を見つめて微笑んだ。
……國重、って結局一度も呼ばないままだったな」
 長谷部はなにも言えなかった。くちびるを結び、黙ったまま号の目の前を通り過ぎ自転車を出した。
 雨上がりの濡れたアスファルトを進む。ただひたすらペダルを踏んだ。すれ違う車もない車道は闇夜に溶けていながらも、ところどころに光る跡を映していた。
 赤信号でブレーキをかけ、足を止める。長谷部は大きく息を吐き、空を見上げた。
「星が、出てるな……
 声に出してみると、より一層ひとりだという気持ちが増した。
 風雨に洗われて澄んだ夜空に散りばめられた小さな星が、今は遠くかすんでいる。




 その後、号からの連絡はなかった。当然連絡もしないまま、時間は過ぎて秋になった。
 ただ元に戻っただけだ。夏が来る前の生活に。
 そう思い込もうとしたけれど、一度落ち込んだ後はなかなか吹っ切れない。気分を変えたくて教習所にも通いはじめた。シーズンオフなこともあり、免許も一ヶ月足らずで取れてしまった。
 とはいえ車はないのでバイトにも以前と変わらず自転車で通っている。涼しさに心地よさを感じていた風もそのうちTシャツだけでは薄ら寒くなり、厚手のパーカーを羽織るようになった。
 不意に思い出すことはある。あのラーメン屋の前を通りかかった時や、例のプレイリストと同じ曲が流れてきた時。特になにをしているでもない、ふとした瞬間。
 そのたびに身体のどこかが締めつけられる感覚はするものの、だからといってどうにもならないとわかっている分、心境は穏やかだ。
 今もそうだった。寝るにはまだ少し早い時間。勉強にも飽きてなにを見るともなくSNSをスをスクロールしていると、いつか話していたブランドの広告が流れてきた。そういえばあいつが好きだと言ってたな、とふと浮かんだその時、手にしていたスマホが突然震えた。
 反射的に通話ボタンをタップする。
 うおっ!? と、素頓狂な声がした。
「悪りい、出るとは思わなかったもんだから」
 だったらなんでかけてきたんだ、と思わなくもなかったが、いろいろと考えたところでもう遅い。
「どうした? なにかあったのか」
「や、なにってわけじゃねえけど」
 号自身もわからず、困惑しているような口ぶりだった。
「ただ、どうしてるかなって考えてたらなんか指が勝手に動いてたっつーか」
……
……
 このままなにも言わなければ、当たり障りのない言葉の後にどちらかが終了ボタンを押して終わるのだろう。そうしたらもう二度とかけてこない気がした。なんでもないとは言いながら、また落ち込むことがあったのだろうが、プライドは存外高く頭もいい。同じヘマはしない。
 長谷部は迷いながらも口を開いた。
……そういえば、免許取ったんだ」
「へえ。乗ってんのか」
「いや、全然。ペーパーだ」
「まぁ、持ってて邪魔になるもんでもねえしな」
 夏の間、毎日のように聞いていた声で笑う。低く落ち着いているのに時折、鼓膜ごと揺さぶるような声。
 同時に色褪せていたはずの景色が鮮やかに巻き戻された。狂ったような暑さ、蒸れた夜の匂い、鳴り響くエンジン音、流れていく街並、隣でハンドルを握る横顔。
 見かけによらず寂しがりで甘えたで、そんな顔は他のやつにはきっと見せなくて、だから少しだけずるい面も持っていて。
 ついて来いとも行くとも言えなかった。後先を考えないほど子どもじゃないし、しがらみを切り離せるほど大人でもない。
 そんな狭間の場所にいても、もがいてみることはできるだろうか。まだ、もう少し。
 通話口から届くかすかな気配を感じながら、息を吸い込む。
「号、」
「うん?」
「俺たち今、同じことを考えてると思う」


 一時間後、長谷部は生まれてはじめて高速道路に乗ってハンドルを握っていた。正確には二度目だが、教習所の講習で乗った時はほんのわずかな距離だったし隣に教官もいた。今はたったひとりで百キロ超の長距離を運転しているのだから、はじめてといっても過言ではないだろう。
 会いに行くと決めてからは早かった。オーナーに連絡して車を借りにいった。もともと免許を取った時から必要ならばいつでも使っていいと言ってくれていたのだが、その時はそんな機会が来るとはまったく思っていなかった。
 オーナーは、はじめて頼みごとをしてきた長谷部に理由を訊くことはしたものの、深く追求もせず気をつけて行けとだけ言って車のキーを寄越した。
 その対応に感謝しながら、慎重にアクセルを踏む。料金所を通過してしばらくもすると慣れてきて、その後は楽だった。
 ナビの指示通りに高速を下り、一般道に進む。すでに深夜といってもいい時間帯だ。自分の意志で来たとはいえ、見も知らない街の中を運転しているのはなんとも不思議な気分だった。
 号からはマンションの場所が入り組んでいてわかりづらいからと、最寄りのコンビニを教えられていた。さすがに地方よりは狭いが駐車場はある。入り口の前に停めると、ガラス越しに人影が動いて自動扉が開いた。号だった。店の中で待っていたらしい。
 てらてらしたスカジャンのポケットに両手を突っ込んで歩いてくるその様に、季節が変わったのだと実感する。長谷部が運転席にいるという以前と逆の状況も。
 号も同じように思ったのだろう、助手席のドアを開けて目を合わせると、照れたようにふっと笑った。
 その顔を見た途端、言葉が形にならないまま、めまぐるしく頭の中を駆けまわりはじめた。声に出したい衝動を飲み込んでもう一度隣を見れば、号もまたなにか言いたげな顔をして口を開きかけ、それから思い直したように口端を緩めた。
「元気そうだな」
「ああ、お前も」
「この車、どうしたんだ?」
「オーナーが貸してくれた」
「マジで? ここまで来たこと知ってんのか」
「ああ、俺は弟分らしいから、なんだかんだで甘いんだ」
「オーナーってあれだろたしか、あの眼鏡かけた一つ縛りの、」
「そう、たぶんお前のこともそう思ってる」
 思ったよりも普通に話せていることに内心ほっとしながらエンジンをかける。そっちを右、と説明通りに走りだしてまもなく、号が訊ねた。
「音楽聴いてねえの」
……思いつきもしなかった」
 ここまで運転してくるだけで精一杯だったのだ。号がナビのボタンに手を伸ばす。
「俺の繋いでいい?」
 すぐに音が流れた。曲の途中からでもすぐにわかった。ふたりで散々聴いた、あの曲。
「まだそれ聴いてるのか」
「ああ。ずっと、な」
「よく飽きないな」
「俺、一旦気に入ると長いんだ。でもまあ、そろそろアップデートしてもいいかもしれねえな。……そうだ、」
 一緒にプレイリスト作ろうぜ、こころなしか弾んだ声で言った。それより先に訊きたいことや話したいことはある。
 けれど、悪くない思いつきだと思う。
「今、うちにあるスピーカー結構いいやつでさ。気に入ると思うぜ、たぶんお前も。……あ、そこ左」
「もっと早く言え!」
 初心者なんだぞ、と長谷部は顔を引きつらせた。道を行き過ぎてしまった時にはどうすればいいのか教習所で習った覚えはない。目的地は近いはずなのに。
「どうするんだ? 戻るのか」
「いや、遠回りになるけど、このまま真っ直ぐ行こうぜ」
 緩く笑って、号が言う。
「どうせ道はつながってるんだ」




〈了〉