
〈But beautiful〉
一度だけ、キスをした。今となっては笑い話だ。
長い間、それについてお互いに触れたことはなかった。
単に照れくさかっただけかもしれないし、気まずくなるのを避けるためかもしれない。その時の心境を上手く説明できる気もしなかった。
だからといって、なかったことにしてしまうのはどこか惜しいように思う。
気の迷いと呼ぶにはふたりの距離は近すぎて、周到に事を運ぶにはぎこちなく、曖昧な部分が多すぎた。そして何より若かった。
目の前に積み重ねられていたのは決して短くはない歳月。その僅かな隙間で身動きも取れないまま、こっそりと息継ぎをするように。
一時の熱に浮かされた記憶は、その年ごろにとっては無駄に膨大な時間の中の、些末なできごとのひとつとして、密やかに埋もれている。
目を覚ました時には薄暗く、たそがれ時の淡い影が部屋の隅から天井へ向かって伸びていた。ほんの少し横になっていただけのつもりが、すっかり寝入っていたようだ。
頭の中はまだぼんやりしている。仰向けのまま、手探りで頭上のヘッドボードに手を伸ばす。さすがに喉が渇いていた。
確かこの辺に置いたはず、と掴んだペットボトルの中身は空で、小さく舌打ちをする。そういえば昼過ぎに飲み干して、そのまま放っておいたのだった。かと言って今、部屋を出て階段を降りていくのも億劫で、しばしの間虚空を仰ぐ。
ふと、視界の端が黒い大きな塊を捉えた。息を潜めるような気配はじっと微動だにせず、枕元を見下ろしている。僅かに首を動かして目を凝らすと、それは徐々に見知った人のかたちを取って顕れた。
「
……号?」
人影に向かって呼びかけると、口を閉じたまま、短く唸るような返事が返ってきた。
ベッド脇に寄せた椅子の、背もたれに腕を乗せて逆向きに跨るようにして座っている。号は制服のままだった。三年前まで長谷部も着ていた、同じ学ランだ。体格が異なるせいか、ボタンを全開にして着崩しているのを見ると印象も随分と違う。
「電気くらい点ければいいだろう」
「あー
……、よく寝てたから」
起こしたら悪りぃと思って。号はぼそぼそと呟きながら立ち上がり、ドアの傍にあるスイッチを入れた。蛍光灯の明るさに目の奥がしみる。
何度か瞬きをしている間に、号はベッド脇に戻ってくるとふたたび腰を下ろした。どさりという音とともに、椅子がくたびれた音を立てて軋む。一般家庭のほとんどの子どもがそうであるように、学習机は小学校に入学した時に与えられたものだ。成長期に合わせて椅子だけが中学あたりで買い換えられたが、それでも十年近く経つ。頑丈なだけが取り柄のような、何の色気も変哲もない事務用のものではあったが、さすがに経年劣化は否めない。
身を起こして寝過ぎて強張った背中を伸ばすと、ぼきぼきと鈍い音がした。あちこちの関節はまだ少し痛む。
「
……で、せっかく帰ってきたっつうのに、なんで風邪なんか引いてんだ?」
「知るか」
年に一度か二度あるかどうかの帰省中に熱を出して寝込んでいたなどとゼミの連中に知られたら、さぞ大笑いされることだろう。宗三なんかは特に。
この上手ぶらで帰ったりしたら盛大な嫌味を言われるのは目に見えているので、土産は忘れず買っていかなくてはならない。前回までは誰もが知ってる地元の銘菓だったが、またこれですか、とかほざかれたから何か違うやつ。選ぶのも面倒だから新幹線に乗る直前でいいか。
無意識に溜め息を吐くと、号が覗き込むようにして顔を傾けた。
「しんどそうだな」
「いや、大分楽になったんだ。昨日の方が酷かった」
ふぅん、と口をへの字に曲げながら、顎をしゃくる。
「それ、取り替えた方がいいんじゃね?」
「何が、
……ああ、これか」
思い出したように額に触れる。昼前から貼っていた冷却シートは熱と汗を含んで剥がれかけ、すっかり温くなっていた。替えは冷蔵庫の中だ。
「取ってきてやるよ」
言うが早いか号は部屋を出ていくと、ほどなくしてまた階段を上ってくるのが聞こえた。
大股で軽快に、一段抜かして上る足音。
小学生の頃、家の狭い階段の段差を抜かして上り下りするたびに危ないからと叱られた。
駄目と言われると余計にやりたくなるのがその年頃だ。思い返せば何がそんなに面白かったのかまったくもって分からないが、躍起になって歩幅を広げ、二段、三段と挑戦しては得意になっていた。
そしてそれを真似た号がある日、階段の中ほどで足を滑らせ転がり落ちた。号はまだ小学校に上がるか上がらないかといった頃だったと思う。後頭部にたんこぶができた上、ふたりの親からしこたま怒られわんわん泣いたが、しばらくするとけろっとして無邪気な顔でまた後をついて来た。
今では目をつぶっていても踏み外すことすらしないだろう。勝手知ったる足取りで、部屋のドアを開ける。上枠を擦りそうな頭を僅かに傾げ、くぐるような動作をするのを見て、ああまた背が伸びたのか、とぼんやり思う。
それにしても伸びすぎだろう。確実に越されたな。
ベッドの上に横になって見ているからか、そこに立つ姿は余計に大きく見えた。顔つきも去年会った時からより精悍になっている。成長期という言葉が頭を過ぎる。
「おまたせー、っと」
冷却シートとスポーツドリンクのボトルを手にして戻ってきた号は、ペットボトルのキャップを捻ってから長谷部に手渡した。同じ一人っ子のくせに、こういう気の利かせ方ができるのは隣家の躾の賜物か、あるいは持って生まれた資質もあるのか、号はどういうわけか昔から長谷部の世話を焼きたがった。年上相手にも関わらず、だ。おそらくはごっこ遊びの延長なのだろうが、本人が意識しているかどうかは別として、それに甘んじてやっているとすこぶる機嫌が良い。
現に今も心なしか楽しげだ。
「
……サンキュ」
喉を鳴らして半分ほど一気に飲んだ。いつもは人工的な甘ったるさが苦手なスポーツドリンクも、驚くほど冷えているせいか、あまり味を感じない。喉を伝って染み込んだ水分は、身体の中でたちまち蒸発していくような気がした。夕方になって、また熱が上がってきているのだろう。
「それと、おばさんが飯食えるかって。ここで食うなら運んでやるけど」
「いや、まだいい。あとで下に降りてくからって帰り際にでも言っといてくれ」
ん、と号が頷いて、手を広げて差し出した。その大きな手のひらにペットボトルを戻しながらも釘を差す。
「お前も、あんまりここにいると伝染るぞ」
「平気だろ、俺丈夫だし。今日でテスト終わったし」
「ああ、それで帰りが早かったのか」
冬季休暇が明けてすぐの実力テストは二日間ほどではあるが、中間や期末と同様に午前中で終わる。新学期がはじまっているはずなのに、珍しい時間にいると思ったのだ。向かいの窓越しに号の姿を見かけたのは、ベッドに横になる直前、昼を過ぎて間もなくだった。
「さっきの、彼女か?」
すると号は途端にばつの悪そうな顔をして視線を逸らした。はぁ、と吐いた溜め息はこれ見よがしで、どこかざらついていた。
「やっぱ、見てたのかよ」
「たまたまだ」
似たような外観の家が建ち並ぶ住宅街の一画で、間取りも似ている。この部屋と向かい合わせになっているのは号の部屋だ。何の気なしに窓の外を覗いたら、学校に行ってるとばかり思っていた号がいて、目が合ったような気がした。
ブロック塀を挟んで細い敷地が両側にあり、窓もほぼ同じ位置にある。部屋の中に誰かがいれば遠目にも分かる。
顔まではっきり見えたわけではないものの、そこには号とは別の、見慣れた制服姿があった。紺色のブレザーは女子の制服。リボンタイの色は学年で違うが、何色だったかまでは判別できなかった。
ともかく部屋に上げる相手がいても、高二ともなれば何らおかしなことではない。そういう年頃になったかと、感慨深く、少しさみしく思っただけだ。
数日前に帰ってきてから、まともに顔を合わせてもいなかった。昔のようにくっついて来ることもこうして少しずつ減っていくのだろう。
昼間、熱でぼうっとした頭で、そんなことを考えていた。
寝て起きてみれば相も変わらず、当たり前の顔をして、この部屋に上がり込んでいたわけだけれど。
号は視線をうつむけたままだった。無造作に結わえた後ろ髪を掻きながら、歯切れの悪い声がぼそりと落ちる。
「まぁ、一応
……だった」
「だった? 付き合ってるんじゃないのか」
「別れた、さっき」
「なんだ振られたか」
違ぇよ、とむきになって号は言った。
「つうか全然、休み中とかもあんま会わなかったら、やっぱ無理って話になったんだよ。
……あ、ってことはこれ、俺が振られたことになるのか」
つまり、放っておいたら相手に痺れを切らされたということらしい。正直、なるべくしてといったところか。それにしてもちらっと一瞬見えただけとはいえ、別れ話の最中だったとは。
「覗く気はなかったんだ」
「わかってるよ」
長く付き合ってたのかと訊くと、号は首を振り、天井を斜めに見上げた。
「あー、一か月
……や、告られたのが期末の後だったから、三週間か」
なんだ、と口から出そうになった。高校時代の三週間がどれだけ長いか身に覚えがなくもないが、ほとんどお試し期間のようなものだ。早いうちで良かったじゃないかと思うが、日が浅いからといって傷も浅いとは限らない。次があるさ、などという慰め方も場合によっては塩を塗ることになる。十代は繊細なのだ。
中学に入った辺りから何度か告白されたり彼女ができたという話を聞かされていたものの、どれも長続きしていた様子はない。周りに分け隔てなく接するし、背も高く見てくれだって良い。成績もそれなりに上位の方らしい。モテないわけはないだろうに。
「他に、いい子はいないのか?」
「
……別に」
号は不貞腐れた顔をして、この話は終わりだと言わんばかりに片手を振った。
「かえって可哀想なことしちまったなってだけだよ。ま、どっちにしても部活あるし、あまり構ってやれねえし」
「ああ吹部、まだ続けてるんだってな」
「仕方なくな」
口調はぶっきらぼうなまま、肩を竦める。
「土日も行ってるんだろう? おばさんが言ってたぞ」
「三月に定演あるから。ったくあの時、にゃーの奴にうまいこと乗せられなければなぁ。ほんっと、遊ぶ暇もねえっつーの」
懐かしいあだ名だ。号の口からそれがするりと出てくるのが妙に可笑しかった。
「長光先生、元気か」
「相変わらずたらしまくってるぜ」
長谷部が高三の時の担任は吹奏楽部の顧問でもあった。長谷部の卒業と入れ違いで入学したのが号だ。背の高さはすでに他の生徒より頭ひとつ分飛び出ていて、入学初日から目をつけられるには充分だった。
「骨格がどうだとか、その身長を最高に生かせる場所があるとか言われて、行ってみたら問答無用で楽器持たされてよ、ちょっと音出したら理想的な弦バスだとかおだて上げられて、今思うとクッソて感じ」
ようするに体格だけでスカウトされたのだ。
それでも何だかんだと言って続けているのだから、そういうところは素直で義理堅い。矜持とでもいうのか、一度はじめた以上は途中で投げ出すことを良しとしない性格でもある。
「ああ、でもあいつ、やっぱセンスはいいよな。弾く参考になるからっつって、ジャズベーシストの曲とかいろいろ教えてくれるんだけど、これが結構いいんだ」
だから最近はジャズばっか聴いてる、と号は低い音程で何やら口ずさみはじめた。指で弦を弾く真似をしながら、爪先で拍を取る。
あの大きな楽器を抱えて弾いている姿を想像した。こなれた手つきで緩い笑みを浮かべて。なかなかさまになっていると思う。舞台に立てば嫌でも目立つだろう。
端っこだしソロがあるわけじゃねえし地味なポジションだぜ、と号は笑うが、元担任が一目で口説いたというのも頷ける。教師のくせに年中ふざけていた記憶しかないが、さすがに音楽の担当だけあって審美眼には定評があった。
長谷部自身は音楽にまったく詳しくないので何の曲かも知らないが、声は良い。年の割には不釣り合いにずっしりと重いのに、息継ぎをするとの時々掠れて切なげになるのも悪くない。熱のせいで耳の中に膜が張っているみたいに聞こえているから、余計にそう感じるのかもしれない。
「ま、定演なんかでやるのはこういうのじゃないんだけどな」
「三月か、一度くらい観てみたいな」
「んなこと言って、どうせ帰ってこないだろ」
痛いところを突かれた。正直言って気軽に行き来できる距離ではないし、バイトもそう度々は休めない。就活もはじまる。
思わず口を噤むと、動画撮れたら送ってやるよ、と笑って言った。
「そういや、今回はいつまでいるんだ?」
「明後日には戻らないといけないんだ。バイト入れてるから」
明日には熱が下がっていればの話だけれど。
号はふぅん、と呟いただけだった。
「悪いな、飯も一緒にできなかった」
「それは別にいいけどよ」
こんな体調でなかったら、今夜あたりどこかへ遊びに出かけるか、家の夕飯に号も混じって、その後は部屋で一緒にだらだらと過ごしていたはずだ。一週間ほどの帰省中、一度か二度はそういう日がある。大学に入ってからはそれがお決まりのパターンだった。
いつまでもそれが続くとは思わない。物心ついた時から家が隣同士で、いくら兄弟同然に育ったと言っても、離れていく時はいつか必ず訪れる。残された時間はきっと僅かなものだろう。
「
……なぁ、」
いつの間にか号は椅子から下りていて、ベッドの縁に肘をつく。両手を組んでそこに顎を乗せていたのをずり落とし、掛布団に顔を押しつけるようにして項垂れた。ぐにゃりと身体を曲げた体勢で、口を開く。
「俺さぁ、やっぱり」
「なんだ?」
「
……何でもねえ」
号はそこで押し黙った。さほど落ち込んでいるようには見えないものの、何と言っても別れ話をしてきたばかりだ。ひょっとすると慰めてほしくて来たのかもしれない。
ベッドの背にもたれていても、手の届く位置。あちこちに跳ねている毛先を見下ろしながら、うつ伏せているその頭をよしよしと撫でる。小さく唸る声がした。きっと、煩そうにしかめっ面をしている。だらりと力の抜けた手で、無言のまま振り払おうとする。触れた手は意外なほどひんやりしていた。
「つーか、熱、まだ全然あんじゃねえか」
号は顔を上げるとそう言って、思い出したように冷却シートの袋を取った。そこから一枚取り出しながら向き直る。また世話焼き癖が発動したようで、長谷部が受け取るつもりで手を差し出しても素知らぬ顔だ。
「貼ってやるよ」
フィルムを剥がした冷却シートをつまんで目の前にぶら下げる。
「それくらい自分で、
……おい、だからあまり近寄ると」
「大丈夫だって言ってんだろ」
「まったく
……、帰る前に下で手洗いとうがい、よくしていけよ」
結局、されるがままになりながら短く息を吐いた。額にかかる髪を掻き分けるようにして除けたので、落ちないように上を向いてやる。号は神妙な顔つきでひたりとシートを貼りつけて、平たい指の腹で丁寧に端まで伸ばした。
これ自体に身体の熱を下げる効果はない。頭は幾分すっきりしてよく眠れるようになるのは確かだが、ほぼ気分的なものだろう。だからそんなに慎重にならなければいけない処置ではないし、そもそも一瞬で終わる。
なのに号は、そこからしばらく動こうとしなかった。シートを貼り終えた手が離れても視線は何か言いたげに、長谷部の顔を捉えたままだ。
「号?」
じっと見つめられているのを不思議に思った時にはもう、それはすぐ間近にあった。蛍光灯の明かりが遮られ、目の前が翳る。何を言う間もなく号はさらに身を屈め、直後、唇を重ねてきた。
一瞬何が起こったのかも分からず、驚きのあまり見開いた目を咄嗟に閉じて、また開けた。その間も口は塞がれていた。たったの数秒、あるいは数十秒。ただ闇雲に、強く押し当てるだけのキス。
それは触れてきた時と同じくらい突然に離れた。その拍子に鼻先が擦れ、見るとそこには目を丸くして呆然とした顔があった。たった今、自分の取った行動が信じ難いと言わんばかりの表情で見下ろしている。
やがて寄せられた眉根が僅かに歪み、今にも泣き出しそうにも見えた。何か言わなければ、と気持ちばかりが焦る。
先に目を逸らしたのは号だった。
「あー
……帰る」
「あ、ああ
……気をつけて帰れよ」
「いや隣だし」
それもそうだ。やっとのことで口から出てきたのは、これまでにも言ったことのないような台詞だった。動揺している、多分。
その一方で、号は冷却シートの袋をゴミ箱に捨て、ベッド脇に寄せていた椅子をきちんと机の前に戻してから部屋を出ていった。ドアを閉めると同時にリズミカルな足音が階段を駆け下りていく。一、二、三、四、五、六、七。置いて八。不自然に拍がずれる。最後の段だけ踏み外したか。
号ちゃん、帰るの。おう。ああ待って、これおすそ分け、お母さんに持ってき。階下では普段通りの会話が二言三言交わされて、その後間もなく玄関の扉が閉まる音がした。
無意識に手が伸びて口許を覆う。額に触れた手はあれほど冷たく感じたのに、押し当てられた唇はやけに熱かった。じわじわとよみがえる感触を持て余しながら、長い溜め息を吐いた。手のひらに籠る息はやはり熱い。
謝られたりしなかったのがまだ救いだった。謝罪もそれを受諾するのも、ある事実を介する行為だ。つまりその事実を双方認め、なかったことにはできなくなる。場合によってはなかったことにするための謝罪もある。それは困る。
いや別に、何も困ることはないだろう。何だそれ。自分に突っ込みを入れながら、ずるずると背中をずらして布団に潜る。考えたところでどうせ分からないのだ。それよりあいつ、電気消していってくれればよかったのに。
仕方なくベッドを下りて蛍光灯のスイッチを切りにいく。もう寝ることしか頭になかった。
布団をかぶったその後はただひたすら眠って、翌朝には熱も下がっていた。号とはそのまま顔を合わせることもなく、予定通り次の日に東京へ戻った。
数日経ってから実家に電話して、それとなく聞いてみた。あれは結局、何かふとしたはずみだったのだろうと自分の中では結論づけていたけれど、それはそれとして、もし本当に感染っていたりしたら、隣の家にも迷惑がかかる。
号ちゃん? あー全然、ぴんぴんしとるよ。
息子の下手な口実を意にも介さず、呑気そうに母親は言った。
* * *
「覚えてないかと思った」
「まさか」
忘れるわけがないだろ。号は可笑しそうに笑いながら、小ぶりの土鍋が乗った盆をベッドまで運んできた。蓋の穴からは湯気が勢いよく立っている。半日ぶりに起き上がった膝の上に盆が置かれる。
「雑炊なら食えるだろ。少しは腹に入れた方がいいからな」
「ああ、美味そうだな」
「特製だ」
熱々の雑炊をそろそろと口へ運ぶ。空っぽの胃に優しい味だった。呑兵衛のせいか。号は料理もなかなかの腕前で、簡単なつまみや食事を手早く作るのが上手い。
食べている間、枕元の縁に腰かけて見守るように傍にいた号はふと、しみじみと呟いた。
「何せ、はじめてだったからなぁ」
「なにが、」
「いやだから」
ファーストキスってやつ、と言ってにやりと笑った。
「
……は、」
握りしめていたれんげからふやけた米粒がぽたぽたとこぼれ落ちる。呆気に取られて号を見た。
「嘘だろう?」
「こんなこと嘘言ってどうすんだ」
それはそうだけれども。あまりにも意外で、それをそのまま顔に出してしまったせいか、号は少しむっとしていた。しかし長谷部も当事者だ。問いつめる権利くらいはある。
「じ、じゃあ、なんであの時、」
「なんでだろうな? つうかまあ、どっちにしてもあれよりずっと前からしたいと思ってたし」
まったく思いも寄らなかった。
「だったら少しは状況を
……時と場所を考えればよかっただろう」
「いや、熱で目が潤んでるのを見てたらさ、なんかもう気がついたらしてたんだよな」
若かったよなぁ、と懐かしそうにしていながらもどこか他人事のように言った。確かに月日もこれだけ経てば、そうなるのも頷ける。
人間の細胞は数年で全部入れ替わると聞く。あの頃のふたりは今のふたりであって、またそうではないとも言える。だとしたら過去からこれまでの今を繋げ、引き摺ってきているものは何だろう。
「ん、熱は下がったみたいだな」
一人用の土鍋を空にした後で、額に手を当てた。先週から風邪気味で、本格的に体調を崩したのは一昨日の夜からだったが、ちょうど週末で病院にも行けず、寝ているしかなかった。
「ベッド、占領していて悪いな」
「いいって。あのソファーもなかなか寝心地いいぜ。でかいの買って正解だったな」
感染るかもしれないから別の部屋で寝てほしいと提案すると、号はあっさり了承した。十年前とは大違いだ。
とはいえ相変わらず嬉々として世話を焼かれてはいるけれど。それを当たり前のように受け入れるのにもすっかり慣れた。
「ま、ここんとこの疲れが出たんだろ。今日のところはまだ、大人しく寝てろよ。ほら薬」
「ん、」
「飲ませてやろうか」
「いいから、さっさと寄越せ」
水の入ったコップを受け取り、錠剤を飲み込む。
「じゃ、こっちはデザートってことで」
号はそう言うと顔を傾けて、まろやかで優しい、上等なキスをした。乾いた唇に吸いつく音を微かに立てて、とびきり口当たりの良い炭酸の泡のように離れていく。
欲の欠片も見せないそれが妙に憎たらしい。思わぬところで思い出話なんかしたせいだ。今の自信たっぷりな振る舞いと、あまりにもぎこちなかったあのはじめてのキスを比べてしまう。
「
……なんかお前、可愛げがなくなったよな」
「はあ?」
「昔はあんなに可愛らしかったのに」
「今だってそうだろうが」
低い声で号がぼやく。憮然とした顔はあの時と同じように少しだけ幼く見えて、思わず吹き出した。
何もかも変わってしまったようで変わらない。つたなくて滑稽で、笑い出したくなるほど些末な、束の間のできごと。
けれども、どうしようもなく。
手放してしまうには惜しいほど眩しくて愛おしい、瞬間の連続。そのひとつひとつを手繰り寄せるように記憶する。ここまで繋げてきたのは多分、そういうものなのだろう。そして、この先もきっと。
「
……号」
デザートのおかわりは、とねだってみれば、我儘かよと少し笑って身を屈めた。
おそらく機嫌はもう直ってる。