けろか
2024-09-23 17:49:28
5145文字
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ヒート恐怖症の兵助の話②

竹くくオメガバース現パロです。
婿入りしたαな八左ヱ門×跡取り息子なΩ兵助。タワマンから始まる新婚生活の、兵助視点。

 やだ。やだ、ごめんなさい、あつい、くるしい、ほしい、触って、…………許して、ここから出して、……オメガに生まれてごめんなさい……

 汗でぐっしょりと濡れた感覚で目が覚めた。胸の中にじくじくとした不快感が広がり、寝ぼけた意識の中で何かがおかしいと気づく。体が妙に重く、シーツに張りついた下半身が気持ち悪い。喉が詰まりそうなほど息苦しい。焦燥感に駆られ、下着に手を伸ばして確かめると、汗とは違う生ぬるい湿り気が指先に伝わり、心臓が跳ね上がる。自分がしたことの痕跡に気づいた瞬間、押し寄せる羞恥とどうしようもない苛立ちに苛まれる。息が詰まるほどに泣きたくなったが、隣で眠る男を起こしたくなくて、我慢した。

 共同生活の初日からこれだ。新婚初夜、きちんと彼と体を重ねた後だというのに、自分の惨めさに打ちのめされ、言葉すら出ない。息が苦しいほどの動悸と、頭がぐらつくような目眩を無理やり押さえ込み、震える足を引きずってバスルームに向かう。真新しいバスルームの、ピカピカのタイルや鏡が、責めるかのように冷たく光って見える。
 シャワーの温度を適当に合わせて、水流を頭から浴びる。体から汚れを洗い流しながら、無駄に脈打つ心臓が耳元でうるさい。汗も恥も、すべて水に溶けて流れていくような気がしたが、心の中の嫌悪感は消えない。
 シャワーを終えると、髪から滴る水滴も拭う間もなく、手にスポンジを握り直し、真新しいままにそこを保つべく風呂掃除を始めた。汚れや湿り気の残らないよう、タイルの表面から目地まで、無心でスポンジを動かす。屈辱や羞恥心はどこかでかすかに蠢いているが、気付かないふりをした。ただひたすら、無駄な考えを追い払うように、掃除に集中する。流れ落ちる水音と、スポンジが滑る音が、耳の奥で空虚に響き続ける。塩素系漂白剤の匂いと、精の匂いが重なって気持ち悪くなった。
 掃除を終えて、濡れた手のまま予洗いした下着を掴み、無造作に洗濯機へと突っ込んだ。運転のボタンを押して、ふうっと息を吐く。背中の力が少し抜ける。あ、あいつの下着も一緒に回せば良かったな。思い立ち、一時停止ボタンを押す。兵助は本当はドラム式が欲しかったのだが、八左ヱ門の猛烈な縦型推しに抗えず、二人で選んだ縦型洗濯機。と、別で乾燥機。乾燥機に入れるのが二度手間だろうと兵助は反対したのだが、途中で追加投入できるのは意外と便利かもしれない。
 こうやって日常の些細なことに相手を見出す共同生活。新婚というのはこういうことなのか――と、散らばっていた思考がようやく現実に戻り、はあっともう一度息を吐く。煩わしくも微笑ましいこの感覚。そんな煩雑さすら嬉しく思える自分が、少しおかしくて、ほんのり温かくも感じる。
 自分にも、つがいができるなんて。まだ生物学的な番いの誓いはしていないけれど。大丈夫、失敗したけど日常に戻れたし、大丈夫……温かな感慨を頼りに、日常を紡ぎにかかった。

 兵助は、久々知グループ──世間的にはそれなりに名の通った企業の跡取り息子であり、一人息子である。両親は元々自分を一人っ子にするつもりなどなかったらしい。兵助のためにも、家業のためにも、兄弟が必要だと考えていたようだ。だが、いわゆる「二人目不妊」だったのだろう。結局、自分に兄弟ができることはなく、その代わりに一心に愛情を注がれて育った。そして今もその愛は変わらない。何しろ結婚祝いにタワーマンションをぽんと買ってもらったのだから。

 自分だけが、「第三の性」のことで、兵助だけが決定的に隔てている感覚を持っているだけなのだ。両親の愛情は確かにあった。周りの温かさもあった。それでも、このことだけは、どうしても埋められない隙間として、自分の中に残っているのだ。
 兵助の第三の性別がオメガだとわかったとき、両親はヒステリックに騒ぐことはなかった。冷静に、いつも通りに対応してくれた。しかし悲しいかな、聡い兵助には理解できてしまった。この性別が家にとって、そして自分自身にとって、どんな意味を持つのかを。
 すべての始まりは、きっとその瞬間だったのだと思う。

 決して感情的に詰ることはなかった。けれど、物騒な世の中で一切の間違いが起きぬように、我が子が過ちを犯さないようにと、初ヒートのときに徹底的に教育を施した。潔癖に、完璧に。もちろん、何も暴力を振るわれたわけではない。衣食住を完璧に保障された安全な空間に、ただ放置された。極めて冷静に、発情期とはこうなることと己の身をもって説明され、恥を知らない獣のようになる、だからこそ抑制剤は絶対に欠かすなと、念を押されただけだ。ただ、それだけのことだった。なのに、あれ以来、何もかもが裏切られたような気がしている。潔癖なまでに秩序を守り、優等生として求められる限りの期待に応えてきた自分は、その努力と自負は、あの日の出来事で無残に崩れた。体に訪れた不可逆な変化をどうしても受け入れられなかった。オメガという性別があって、それに付随するヒートという現象が、ただそれだけのことであるはずなのに、自分にとって耐えがたいものに変わってしまった。自分が制御できない何かを抱えているという不快な現実が、自らの潔癖さや理想に反して、何か汚れた存在に変わっていくかのようだった。
 もちろん、そんな恐ろしい発情期のことを思えば、抑制剤を飲まないわけがない。両親の指示を守り、自分の意思も重ねて、あれからずっと、毎日、一日も欠かさず薬を飲んでいる。飲み忘れなど許されない、そう心に決めていた。
 初ヒートを経験しなければ抑制剤が効果を発揮しないという事実を知ったのは、さらに数年後のことだった。

 八左ヱ門に出会ったのは、高一の委員会活動の時だった。入学してしばらくして委員会が決まり、委員長代理として初めての挨拶を任された彼と俺は、教壇の前に立っていた。堂々とした姿勢、やたらと通る声で、緊張していた空気を一瞬でほぐすように軽快に話し出す。自己紹介の途中で冗談を交え、皆を笑わせたその瞬間、兵助は思わず目を奪われた。あんなにも無邪気で、自然体でいられる彼が眩しかった。
 八左ヱ門はいつも熱を帯びたような存在だった。どんな状況でもまっすぐで、時に無鉄砲にも見えるその行動力には、隠しきれない誠実さがあった。軽率に見える場面がありそうでいて、実は誰よりも周囲を見渡し、責任感を持って行動していた。勉強も運動もそれなりにこなし、その上、気取ることなく明るく振る舞う姿は、自然と人々を引きつける。いつも笑い声が絶えず、まるで教室や集まりが彼を中心に回っているように思えた。
 本能的に理解した。ああ、これがアルファという存在なんだ、と。

 自分は幸い成績も優秀で、跡取り息子という属性も相待って周りからは「アルファなんだろうな」と見られていた。そう見られることに不満はなかったし、むしろ期待に応えようと努力していた部分もあった。けれど、本物――八左ヱ門を目にしたとき、その差をまざまざと感じた。圧倒的な存在感と人を引き寄せる力。その違いは、無意識のうちに心に刻まれた。
 ほどなくして、彼はしつこいくらいに自分に絡んできた。委員長代理なんて厄介な役回りに就いたせいだろうか。それとも、自分がオメガだからだろうか。その理由はよくわからなかった。ただ、関わってほしくないと思いながらも、自分が悩んでいたのは代理という微妙な立場に彼も同じ立場に置かれていたことで、少しずつ距離が近づいていった。
 背中に突然、蛇やら虫やらとおもちゃを入れられて、この野郎と振り向いた時の笑顔。悪戯っぽくて、無邪気で。目を細めて、口角を楽しそうにあげたその表情にどうしようもなく胸がざわついた。
 体育祭で、借り物競走のあの瞬間。八左ヱ門が迷いもなく自分の手を取って、引っ張って走り出した。その手の感触があまりにも確かすぎて、太陽の下、汗に濡れた彼の肌がきらきらと輝き、あの瞬間の彼はあまりにもまぶしかった。
 オメガという疎い性別をどうしても自覚してしまうから、本当は、アルファに心惹かれたくなかったのに。そう、何度も自分に言い聞かせていたのに。気づけば、彼のことを好きになっていた。そして、そんな自分がそれを自覚する前に、彼からまっすぐに告白された。

「好きだ」

 放課後の教室は夕焼けに染まり、窓の向こうの景色は淡く赤く、時折影が伸びて机にかかっていた。静寂が広がる中、八左ヱ門は教壇の近くに立っていた。いつも何事にも真剣に向き合うその顔は、赤く染まっていた。夕日の光に照らされてたからか、それとも自分がこの言葉を言うことに照れているからなのか、耳まで真っ赤になっている八左ヱ門を見て、胸の奥がぐっと締め付けられる。彼の口から出た「好きだ」の言葉が、耳を通して脳に届くと、そこで初めて自分の気持ちを形としてようやくはっきりと自覚した。

 ――ああ、だめだ。断らなきゃ。

 そんな思いが頭をよぎる。自分はオメガで、彼はアルファ。過ちを犯したら自分が、彼が、一生の傷を負う。理性が叫んでいるのに、口から出た言葉は違った。
「いいのか」
 心の底で、彼が「いいに決まってる」と答えるだろうという確信があった。八左ヱ門の性格なら、何があっても「いい」と言ってくれるに違いない。そうわかっていて、言葉を口にした。
「あ、アルファとアルファでも!愛があればやってけると思うんだ、俺!」
 一瞬、笑いそうになった。いや、笑っちゃダメな部分だ。だが、なんでこいつはこんなに真っ直ぐで、どこまでも熱血で、でもちょっとズレてる部分もあって、その素直さに心がふっと緩んでしまう。そうだ、そういうところが好きなんだ――こいつの、嘘のない、まっすぐなところ。
 嬉しかった。八左ヱ門が自分を「アルファ」と思っていてくれたことが。彼にとって、自分は対等な存在でいられたのだ。そのことが、心の中でほんの少しだけ救いになった。
「いや、俺、オメガだから聞いてるんだ」
「え?」
「俺、オメガだよ。抑制剤を飲んでるけど、それでも何か間違いがあったらお前の人生を縛りつけることになるかもしれないんだぞ」
 両親以外の誰にも告げたことのない事実を口にする。兵助の胸に広がる冷たい緊張が、喉元に絡みつくように重くのしかかった。心の奥底で湧く欲求を抑え込む。ああ、この人のものになりたいけど、ダメだ。今この瞬間、向かい合うべきは自分の欲望ではなく、目の前にいる誠実な同級生――竹谷八左ヱ門だ。
「い、いい!アルファとアルファでもって思ったけど、つがいになれるならそんな嬉しいことない、嬉しい、お前のことアルファなんて言わなきゃよかった、……傷ついた?」
 自分がどうしようもない重みを抱えているのを、なんてことないかのように八左ヱ門は持ち上げた。その軽さに驚く。そうか、アルファとアルファで、たとえつがいになれなくても、一緒にいられるのは嬉しいことなんだ。彼は自分と一緒にいることが、本当に心から嬉しいと思ってくれているんだ――そんな感覚が、兵助の胸の奥で抑えていた感情を再びゆっくりと色づかせた。
「ううん。でも、八左ヱ門ってそんな鈍いのに本当にアルファなの?」
「本当だよ!み、見る?検査結果。あっ今は持ってないけど、写真!明日写真撮って見せるよ!」
 彼の必死な様子に、抑えていた微笑みが溢れる。ああ、そうだ。この人が本当に自分と一緒にいたいと思ってくれるなら、それでいいじゃないか。
……嘘だよ。うん、ちゃんとわかってるよ。俺でいいなら、いいよ」 
 今、抑制剤を飲んでいるんだから、番いとして縛ることなく、普通の恋人として付き合えるはずだ。
 そんな心中が、ふと声に出ていたのかもしれない。
「いや、むしろ縛り付けてくれ!」と叫んだ八左ヱ門がいきなりぎゅうっと抱きついてきた。

 たとえ自分が、八左ヱ門にとってたまたま目についた道端の光る石ころのような存在だったとしても、少しは夢を見てもいいんじゃないかと思った。そんな思いが脳裏をよぎる。でも、今はその夢の続きを生きている。そして、その夢を自分のものにしようとしている。つがいとして、結婚という現実の形に変えようとしているんだ。
 こみ上げてくる罪悪感と、それに交じった優越感に吐き気を覚えた。これもオメガの性だからなのだろうか。抑制剤を飲み続けたせいで、効かなくなってきたんだろうか――そんな不安が頭をかすめる。それでも、何とか気持ちをこらえて身支度を始める。今日は、三ヶ月に一度の定期受診の日だ。