きなこ湯
2024-09-23 14:38:06
2406文字
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荒治療


 付き合っている桐崎次郎と特待生の話。
 episode7読了推奨。


 次郎くんに告白されてから一週間が経った。まったくいつも通りの調子で「俺、あなたに好意があるみたいなんで、付き合ってもらえますか」と言われた時には一体何と勘違いしているのだろうと疑問に思ったが、注意深く話を聞いても言葉通りの意味らしかった。一度持ち帰って検討させてくださいと告げ、一晩考え込んだ結果、こんなに長く悩むということは自分も次郎くんのことを多少は好ましく思っているのだろうと結論付け、晴れてお付き合いすることになった。
 その経緯を私の主治医であり次郎くんの上司のような存在でもある衣佐美さんに報告すると、彼は眉頭の間に深い皺を寄せ「そんなことをいちいち僕に報告しなくてもいいです。誰が好き好んでクランケの恋愛事情など……いや、これはある意味新しいデータが取れるのか……?」とぶつぶつ呟きはじめてしまったので、もしかしなくとも報告するべきではなかったかもしれないとほんの少し後悔している。
 とは言え、私と次郎くんの間に何か特別な変化があったわけではなかった。定期的に行われる大掛かりな身体検査はともかく、日々の往診は次郎くんが担当してくれることがほとんどで、その後に一杯お茶して行きませんかというひと言が増えたくらいである。ただし、免疫不全を患っている次郎くんが外で軽率に飲み食いをすることは難しいらしく、「いえ、お気持ちだけで結構です」と断られるのがお約束だが。
「そういえば、今日からフロストハイムの監査を担当するんです」
 カップに注いだ紅茶はあと半分。「あなたが飲んでいるところを見ているだけでいいです」と言う次郎くんの言葉に甘え、今日も私一人が紅茶を飲んでいる。雑談として思い出した監査役の話を報告すると、これまで淡泊な返事ばかりだった次郎くんが怪訝そうに「フロストハイムの?」と反応を示した。
「はい。何でも、任務そのものが冠氷さんをご指名の内容みたいで。そうしたら、私も同行することになりました」
……それはつまり、フロストハイム寮長とあなたが二人での任務ということですか?」
「え? ……そういえばどうなんでしょう。磴さんも同行されるのかな」
……
 ふと、黙り込んだ次郎くんがその場に立ち上がった。
「次郎くん?」
 上背のある次郎くんが目の前に立つと、座っている私はほとんど真上を見上げる姿勢を強いられる。まだ朝方の薄らとした光が差し込む寮内で、必然的に逆光となった次郎くんの顔は薄暗くよく見えない。
 ――ただ、普段は眠そうで気だるげな赤い瞳が、まっすぐに私を見下ろしている。
「じ……次郎くん?」
 ただならぬ気配を察して退こうにも、すぐ目の前に次郎くんが立っているので移動できない。固唾をのんでその様子を見守っていると、不意に次郎くんの片手がこちらに伸びた。肩に触れ、首筋をなぞる。大きな手、すらりと長い指が私の喉元を覆い、まるで首輪のように掴んでいた。
 自然と呼吸が浅くなる。
 たとえば、このままギュッと力を込めたら、私の首は簡単に絞まるだろう。
 もはや声をかけることすら憚られ、私は静かに次郎くんの顔を見返した。アンダーリムの眼鏡の向こう、隈が濃くて瞼の重そうな瞳はあまりにも鮮やかな赤色に満たされている。血色の悪い顔色だから、余計にその瞳へと視線が吸い寄せられるようだ。感情の波がよく読めない瞳の奥に、きっと次郎くんがこうしている理由があると信じ、ひたすらに見つめ返す。
 すると平淡な赤色が一瞬揺らぎ、やがて薄く細められた。
――ああ。これが、そういう。なるほど、こういう感覚なんですね。はじめて知りました」
 そう一人で何か納得し、次郎くんは薄らと微笑んだ。くちびるの隙間に白い歯が見える。誰かに見せるための表情というより、感情が自然と露出したといったほうが正しいように思えた。次郎くんは満足そうに笑っている。そう、少し嫌な予感が過ぎるくらい。
「じ、次郎く、」
 んぐ、と詰まった声が漏れる。口の中に何かが突っ込まれた。慌てて確認すると、首を掴んでいた次郎くんの手が顎へ移動し、その指先が私の口の中へと侵入していた。
 手袋は外しているらしく、ひんやりとした硬い皮膚が舌の上に触れている。ずりずりと無遠慮に舌の表面を撫でるのは親指の腹で、薬剤のせいだろうか、苦いようなしょっぱいような、不思議な味がした。えずくほど奥まで突っ込まれているわけではないが、口の中に異物がある状態には本能的な恐怖が滲む。思わず指を噛みかけて、ざらついた皮膚に犬歯が引っかかった。破けた傷口からじわりと血が滲む。
 すると、傷付けられたはずの次郎くんが「あはは!」と声を上げて笑った。
「血の味がしますか?」
「じ、じろ、く……っ」
「これが俺の味です。覚えていてくださいね」
 舌先にぐりぐりと傷口を押し当てながら、次郎くんはうっそりと笑ってそう囁く。
 その無邪気な笑顔が眩しく、私は生理的な息苦しさに涙を浮かべながら、どうにか頷くことしかできなかった。

 後日。
 衣佐美さんに呼び出された私は、次郎くんが免疫不全の影響で数日寝込んでいる話を聞かされた。次郎くんの具合が悪化したのはフロストハイムでの監査が始まったあの日らしく、私は思わず黙り込んで衣佐美さんの話に耳を傾ける。
「まったく、色恋に惚けるのも大概にしていただきたい。悋気を起こして自分が倒れるなど愚の骨頂だ。貴様も彼のパートナーであるなら、そこらへんはきちんと管理を徹底しなさい」
「は、はぁ……
 あれはつまり、次郎くんなりのやきもちだったのか。そうとわかると納得しないこともなかったが、それにしては物騒な振る舞いだったなと苦笑する。
 しかしもう一度同じことが起きても、きっと私は許してしまうのだろう。こういうのを惚れた弱みと言うのかもしれない。私も次郎くんも、恋の病は重症らしかった。