きなこ湯
2024-09-23 14:35:08
6925文字
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それをきっと


 付き合っている灰園翔平と特待生の話。
 episode6読了推奨。


 今日最後の授業が終わったタイミングで、スマホの通知音が控えめに鳴った。画面をつけるとDチャットのアイコンと隣に翔平の名前が浮かんでいる。特待生はロックを解除してすぐにアプリを起動させた。

 ――センパイ、授業終わった?
 ――ちょうど終わりました。翔くん、どこにいますか?
 ――お化け屋敷。

 であれば本校舎から少し離れている。特別教室の並ぶ区画を抜けた場所にある、いわゆるサボり場のひとつだ。少し考え、返信する。
 ――じゃあ、私がそっちに行きます。
 手早く荷物をまとめ、特待生は教室を出た。
 目的地へまっすぐ進むにつれ、すれ違う人影の数は少なくなっていった。廊下を渡り特別教室の区画を抜け、お化け屋敷の面する広い道に出ると、周辺にほとんど人の気配はない。
 日暮れにはまだ早いはずだが、足元に落ちる影は濃く長く、どこかひんやりとしている。特待生は手のひらを擦り合わせながら、ほとんど廃材と化している両開きの扉を見上げた。ほんの少し空いている。誰かが出入りした痕跡だ。建物の中に踏み切ると、湿気で歪んだ板材がぎいと大きな音を立てる。
 暗い廊下にともるランプの灯りは青。ダークブルーで統一された調度品にはぶ厚い埃が積もり、ところどころに蜘蛛の巣が張られている。天井の梁から垂れた糸を避けて身を屈め、エントランスから奥へと進む。趣ある洋館と言えばオブスキュアリ寮も同じだが、人の手が入っていないお化け屋敷の荒れようは比べ物にならない。累がいなければあの寮も似たような状態になっていただろうと、場違いな感心が湧く。
 つまらない考え事に気を取られていたからだろうか、片足を乗せた階段が派手な音を立てて陥没したことに、視界が大きく横転してから気が付いた。
「あっ」
 ――転ぶ。いや、落ちる。
 これは間に合わない。
 せめてあまり痛くないといいな――そう願いながら、目を瞑って身構える。

 どん。
 肩に衝撃。
――ッ」
「うっ……あれ、いた……く、ない」
 そろりと目を開ける。目の前には天井ではなく階段があった。両足の裏がきちんと地面に着いている。つまり倒れていない。だが、何かに触れている肩と背中があたたかい。人の体温くらいに。
……はぁ、そりゃよかった」
 耳元に低い声が触れる。呆れと安堵の入り混じる穏やかな声色に、特待生は慌てて顔を上げた。
――翔くんだ」
「ん。センパイの俺だけど」
「わた……ご、ごめんなさい、退きますね」
「別にそれはいいんだけど」
 特待生は飛び退いて後ろを振り返った。呆れを浮かべる双眸と真正面から向き合う。普段から平淡な表情を崩さない印象が強いが、共有する時間が増えるたび少しずつわかってきたことがあった。不用心だった自分に呆れるのと同じくらい、純粋に心配されている。特待生はもう一度「ごめんなさい」と繰り返した。
「あー、いや、こんな場所に来いって言ったのは俺だし」
「でも、私が行くって言ったので」
「俺が迎えに行きゃよかった話でもあんだろ」
「でも」
「でもじゃねぇ」食い気味に言い切ってから、特待生の右手に触れた。「わかった。じゃあこれからは気を付けて歩けよ。はー、今ので寿命縮んだ……
 触れた手を軽く持ち上げ、包み込むように握る。少し乾燥した指の腹が手のひらの感触を確かめるように皮膚をなぞった。手遊びのように動いていた指先がふと外れない指輪に触れ、止まる。ぼんやりと手元を見下ろしていた翔平の顔からわずかに色が引いた。ハッとして特待生の顔を見返したが、当の本人は不思議そうに目をまるくするのみである。
……、悪ぃ。今のは、俺が悪かった」
「今の?」
 反射的に首をかしげてから、ようやくああと思い当たる。
 きっと〝寿命が縮んだ〟を失言だと思ったのだろう。
 そんなことで謝らなくても――実際、特待生は翔平の言葉に気分を悪くしていない――そう言いかけて、彼女は口をつぐんだ。翔平は真剣な面持ちでじっと特待生を見下ろしている。彼女が次に何を言うのか、わかっていたのだろう。
 言おうとした言葉に代えて「気を付けます」とつぶやくと、翔平はようやく眦をほっと緩めた。
……ああ。そうして、ほんとに」
 それから繋いだ手を握り直し、そっと手を引いて歩き出す。翔平のすらりとした指が手の甲に触れ、ぎゅっと離されないことに自然と意識が向けられた。いわゆる恋人繋ぎというそれで、特待生はいつになっても慣れそうにないと新鮮に思う。
 お化け屋敷を出たところで、翔平は繋いだ手を少しだけ強く引き寄せた。
「わっ」
「もっと近く歩けよ。手ぇ繋いでんのに」
「そ……う、ですね。善処します」
「善処ね」横目に隣を見下ろした瞳が愉快そうに細められる。「べつに、あんたのそういうところ好きだし、無理に変わろうとしなくていいけどよ」
「すっ……
 喉の入り口に空気が詰まる。顔に熱ばかり集まってうまく呼吸ができない。特待生が返事に困って口ごもっていると、それを見た翔平はまた面白そうに声をあげて笑った。
 繋いだ手は離されない。特待生は気恥ずかしさと申し訳なさの入り混じる胸中で、繋いだその手を静かにじっと見つめた。翔平はこういうことによく慣れている。ごく自然な振る舞いには、生来のものだろう魅力と経験ゆえの余裕が滲んでいた。なにもかもに慣れない自分とはまったく目線の高さが合っていなくて、息苦しくなるのはきっとそのせいでもあった。
 〝そういうところが好き〟だと言う。自分の拙くて、稚いところが。翔平が好きだというところは、少なくとも彼女にとって優れた点ではない。
 どうしてこんな自分なのかと問う気になれず、特待生は自分の手を引く背中を今日も黙って見上げていた。

 一ヵ月前、翔平に呼び出されて彼のキッチンカーを訪れた放課後のことだった。
「じゃあセンパイ、俺と付き合ってよ」
 フォークの先から抜け落ちたイチゴがぽとりと皿の上に転がった。メープルシロップの足止めを受けて緩やかに減速する。焼き立てのふわふわパンケーキの上に乗っかっているバニラアイスが溶け、ずるりと崩れた。虚空を刺したプラスチックフォークが行く宛てなくさ迷う。
 特待生は目の前にある顔をぽかんと見上げ、それから転がり落ちたイチゴを見つめ、ようやく言葉を絞り出した。
……、任務にですか……?」
「うお、ベタな返答。や、そうじゃなくてよ」
…………冗談……?」
「じゃねぇ。さすがにダルくなってきたんだけど」
 あっと思った時には翔平に左手を取られていた。指先を軽く握られる。キッチンカーの内側から伸ばした手は自分よりも熱く、なぜだかその体温にぎょっとした。自分を見つめる眼差しから逃れたいのに、まっすぐな視線から目を背けることも後ろめたく感じて、その場に硬直したまま翔平の顔を見返す。
「俺と付き合ってよ、センパイ」
 他愛のない冗談ならこれまでにもあった。
 だが、差し出された言葉が質の悪い嘘だとは思えない。
 それでようやく、これまでの振る舞いも意図的な冗談だったのだと思い当たった。特待生が冗談かと問えば翔平はそうだと答えたが、本気かと問えば本気だと答えたかもしれない――そういうつもりも少しは混じっていたのだと、ようやく納得する。放課後、試作品と言いながら自分が好きなものを作ってくれるところ。差し入れを持って任務の合間に様子を見に来てくれるところ。親しいという言葉に収まりきらない言動の裏に、自分への好意があったのなら、つまりそういうことなのかとようやく腑に落ちる。
 そして、腑に落ちるということは、きっと自分も同じなのだろう。
……返事は?」
 黙り込んだ特待生の顔を、翔平が身を乗り出して覗き込む。短い言葉を乗せた声は普段よりもどこか硬く響いた。何でも器用にこなす翔平のことだ、これすら意図的な振る舞いであっても驚かない。でも。
 ――ああ、好きだな。この人のことが。
 そう確かに自覚して、特待生は体温の高い手をそっと握り返した。

 好きだなと思った。さりげない気遣いができるところとか、多趣味で話の幅が広いところとか。任務で危険があるとわかったとき、一番に背中へ庇ってくれるところとか。数え始めればきりがない。付き合おうと言われた次の日も、一週間後も、一ヵ月後も、翔平は特待生の中で好きだなと思わせる魅力を更新し続けている。明るく騒ぐタイプではないが、人付き合いに苦手意識があるわけでもなく、だから慣れていると感じることがあっても驚かなかった。それすら翔平の魅力のひとつで、特待生は感心すら覚えていた。不満なんてあるわけがない。翔平に手を引かれて息苦しくなるのは、繋いだ手が熱くて驚くのと、自分の拙さに劣等感が刺激されるからだ。
 夜、布団に潜り込むと考えなくてもよいことばかりが頭に浮かぶ。目を瞑って毛布を口元まで手繰り寄せるが、頭の芯が冴えていっこうに眠気が訪れない。気を紛らわせようにもすることがないし、本を読んでも目が滑るばかりで内容が何も入って来なかった。
 ――ふと、ベッドの上に伏せて置いたスマホが通知音と共に振動した。
 思わぬ音にびくりとしてから画面を確認すると、翔平からのDチャットだ。

 ――起きてる?
 ――起きてます。どうかしましたか?
 ――や、ちょっと。
 ――センパイ、いま外出られる?

……外?」
 もしかしてと、期待と少しの不安を抱きながら窓際に近寄る。そっとカーテンを開けて窓から顔を出すと、すぐ下に人影があった。暗い視界に細部はよく見えないが、そばには大きなバイクがある。いや、あれはただのバイクじゃなくて。
――翔くん!」
「はは、驚いた? な、ちょっと外走らねぇ?」
「外?」
「島の周り。後ろ乗せるから」
 翔平は片手で愛用するバイク――特質怪具のボニーの後部座席を軽く叩いた。

 特待生は急いで簡単な身支度を済ませ、寮の外へと走った。翔平は変わらず窓の下にいて、片手にスマホを弄っている。特待生が駆け寄ると、反対の手に抱えていたヘルメットを彼女へと投げて渡した。
「わ、」
「これ被ってろ。バイク乗ったことあるか?」
「ないです」
「だろうな。まあ、俺に掴まっていればいいから」
「は、はい……
 サッと跨いだ翔平に続き、バイクの後ろによじ登る。背中の服を掴むと、翔平の手が手首を掴み、自分の腹の辺りまで引っ張った。
「わっ、わあ……
「ちゃんと掴まってろ。落ちたら死ぬだろ」
「はい、すみません……
 落ちたら死ぬ、そうつぶやいた翔平の声は普段よりも硬かった。本当に事故を起こすとでも思われているのかと少し複雑な気分になりながら、特待生は言われた通りきちんと両腕を回してしがみついた。香水だろうか、嗅ぎ慣れない人工的な甘い香りが肌に触れる。
 特待生の準備が完了したことを確認し、翔平はゆっくりとボニーを走らせ始めた。
 旧クレメンティア寮の敷地を抜け、校舎を背に森の中へと入り込む。ただでさえ暗い夜道はさらに暗く、ヘッドライトがすぐ近くの木の幹を黒々と照らし出した。タイヤがガサガサと草木を掻き分ける音が響き、翔平にしがみつく腕に力が込もる。
 やがて森を抜け、平らな場所へとたどり着いたとこりで――特待生はハッと息を呑んだ。
 目の前に、広い海が見える。島の端まで来たのだ。
「センパイ」
 風の音に紛れて翔平の声が聞こえてくる。
「俺、あんたのこと諦める気ねぇから」
 ごうごうと強い風が吹いている。ボニーは機嫌よくエンジン音を吹かせ、踊るようにスピードを上げた。油断していると吹き飛ばされそうな速さだ。特待生は翔平の背中にしがみつき、力いっぱい抱き着いた。この手を離せば、本当に、今度こそ生きていられないだろう。

 私、死ぬんだ。
 一年後には。
 翔くんの隣に私はいない。
 私の隣には、誰もいない。

 息が詰まって苦しかった。喉の入口まで出かかった感情をこれと指す言葉がなく、ぐっと呑み込むことしかできない。胸の内に滲むのは、立ち向かえない大きな力に潰され、酷く打ちのめされたような無力感ばかりだ。
 死にたくない。人として生きていたい。でも――心のどこかに諦めがある。
 たとえば、呪いを解く方法が見つかりませんでしたと眉を下げて告げる学園長の顔が、鮮明に想像できる。
 たとえば、呪いを解くために必要な怪異がグール生徒によって討ち消されてしまう光景が、鮮明に想像できる。
 そうなった時に自分がどうするのか。それもわかる。きっと疲れて、諦める。怒るかもしれない。悲しむかもしれない。けれど最後はこうと決まっている。なぜなら、これは誰が悪かったわけでもないから――
「センパイ」
 でも。
「翔くん」
「ん」
「ずっと一緒にいてくれますか」
 私が死ぬとわかっても。
 私が人間じゃなくなっても。
 死ぬとき、人ですらなくなるとき、私はひとりじゃないのなら。
……当たり前だろ!」
 凛とした声でこんなに力強く返されたら、諦められなくなってしまう。
 島そのものが怪異であるDAは、この海の向こうが直接外の世界へ繋がっているわけではない。見える海はかりそめの光景で、海というより檻だろう。中にいる怪異を逃さないための、秘められた世界が外から暴かれないようにするための。
 そうとわかっていても、ボニーに乗って駆け抜ける夜風は気持ちが良かった。自分たちが不自由に囚われていることを忘れそうになる。
 夜空と海面の世界は夜の暗さに溶けあい、銀河の光が眩しいくらいに煌めいていた。瞬きの合間に消えてしまいそうな光に目を細め、特待生は翔平の背中をきつく抱き締める。揺らがない、いつだって自分を庇ってくれる背中に頬を寄せて、ようやく呼吸の仕方を思い出せた。
 特待生に課せられたタイムリミットが訪れた時、本当に翔平が今と同じく守ってくれるとは思っていない。むしろ人ですらなくなった自分が翔平を傷付けることだってあるだろう。だから、翔平の言葉を真実として信じたわけではない。それはちゃんとわかっている。
 自分が諦めようとしていた一年後の明日を、翔平はごく当たり前に守ろうとしてくれている。
 それだけで充分だった。

「あの、翔くん」
 防波堤に並んで座り、特待生は意を決して切り出した。背後に停めたボニーは翔平が持ってきたBBQサンドを美味しそうに食べて休憩している。
「何?」
「なんで、私のこと、その……す、好きだと?」
「はぁ?」
 翔平はぎょっとして隣を振り返った。その顔には不満と呆れ、それから疑問がありありと浮かんでおり、特待生は思わず「いやあの」と言い訳じみた声をこぼす。
「だ、だって、翔くんと違って私はそんなに魅力ないですし。普通に、その、釣り合ってないというか」
「なんだよそれ」
 翔平は胡乱げな目で特待生の顔を見返した。色素の薄い瞳が彼女を頭からぐるりと一瞥し、もう一度呆れたように嘆息する。
「俺のこと疑ってんの」
「どちらかと言うと、私のポテンシャルを疑っているのですが……
「ハァ、マジかよ。俺、全然信用ねぇのな」
「しょ、翔くんを信用していないわけじゃ」
「してねぇだろ。まあ、信用されるようなヤツじゃねぇってのもわかってるけど」
 翔平はそうつぶやき、特待生の手に触れた。「繋いでいいか」「は、はい」指先がそっと肌をすべり、ぎゅっと硬く手を繋がれる。
……あんたのこと諦めるつもりねぇし、もう二度と、あんな危ない橋渡らせるつもりもねぇ。もし……御堂センパイが間に合わなかったら、あんたは、今頃」
 言葉が途切れる。
……でも、間に合いました。大丈夫でしたよ」
「そういうとこだろ」
「そ、そういう?」
「自分が死にかける状況作った相手にそうやって笑える人間、他になかなかいねぇよ」
 繋いだ手がそっと引き寄せられ、翔平のくちびるが特待生の指先に触れた。
……もうあんな目には遭わせねぇ。そう思ってる。今でもずっと、あの時のこと、俺は」
 具体的な言葉は続かなかったが、その内実は想像できた。後悔している。あるいは、今も悪い夢に見る。
 珍しい弱音に特待生が目を瞬かせると、翔平は気まずそうに苦笑した。
「幻滅したか?」
「いえ! そんな、むしろ……
「むしろ?」
……むしろ、何だか親近感があるというか」
「なんだそれ」目を細めて薄く笑う。「俺もあんたも同じ人間だろ」
 ――ああ、やっぱり、好きだな。この人が。
 同じ目線で笑ってくれるところや、存外義理堅いところや、時々ずるいところが。そういうところすべてが。
 もし翔平が自分を同じく思っているのなら、それ以上に嬉しいことはない。

 夜の海は静かに漣の音を響かせている。
 愛でも恋でも、それ以外でも構わないから、この時間が一年後も続いてくれればいい――そう思いながら、特待生は繋いだ手を握り返した。