きなこ湯
2024-09-23 14:32:33
2640文字
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暗がりより愛を込めて


 候補生を口説くベネッタの話。
 銃マスワンライのお題「黒」より。


 ようやく灯った街灯の明かりを見上げ、彼女は眩しそうに目を細めた。瞼を伏せて足元をじっと見つめる。頭上から降り注ぐ光に少しずつ目を慣らそうとしていた。手持無沙汰な右手でジャケットの襟を弄る。ふと、模様の曖昧な石畳に曇りなく磨かれた革靴が現れた。彼女がハッとして顔を上げると、上背のある男がすぐ目の前に立っている。
 深く鮮やかなナポリの海で染めたような青の髪に、陶器のような白い肌。バイオレットの甘い瞳。息を呑むようなその伊達男は眦を緩めて微笑み、わずかに首を傾げた。右耳に揺れる銀のピアスがきらりと街灯の光を反射する。中折れ棒のつばに遮られ、端整な顔の半分に影を落としていたが、それすら彫の深い顔立ちを浮き出す一助となっていた。
「ああ、失礼。思わず足を留めてしまった。まさか、本物の天使に出会えるなんて思っていなかったんだ」
――は、」
「驚きたいのは俺のほうだよ。美しい人、今夜は先約がいるだろうか? 叶うなら、その権利を俺に与えてはくれないだろうか……
 流暢なイタリア語だ。道行く者の物言いたげな視線が集まる。ここはイギリスで、もっとも馴染みのある言語は英語だ。何を言っているかは理解できるが、同じ視線の高さで返答できるほど熟達してはいない彼女は、困ったように口を開き、結局黙り込む。その沈黙を正しく否定と受け取ったらしい男は、ダブルボタンの胸元に片手を置き、己の無害を示すように肩をすくめてみせた。
……
「あなたを困らせたいわけではない。こんな口下手な男の言葉など響かないかもしれないが、どうか信じてくれ。俺の心はあなたの手の上にある。そう、生かすも殺すもあなたの意思ひとつで決まる」
……、いや……えっと、その」
「ほう、声も愛らしい。何度俺を驚かせてくれるんだ?」
……い、いや。その、ベネ」
 上擦った声がそう呼びかけた途端、男が一歩前に踏み出た。すらりとした指先が彼女のくちびるに触れる。
 ふわり、と香水のスモーキーな匂いが立ち昇る。
「Shh――
 子供をあやすような仕草で、男は静かに目を細めた。
 彫刻のような美しい表情の裏には仄暗い影が滲んでいる。ともすれば悪意とも取られかねない笑みだった。姿形ばかりよく人に似た、底の知れない危険な男の表情だ。この男の本質がそちらであるとよく知る彼女は、眼球だけそろりと動かし、上目遣いに目の前の顔を見上げた。頷く代わりにゆっくりと瞬きをする。男はその意思を正しく汲み取り、一歩後ろに下がった。
……不躾に失礼。なに、これ以上は何もしないさ」
 あなたが何も言わなければ。
 言外に含まれた意図を汲み、彼女は嘆息を呑み込んだ。視線を手元に落とし、手持無沙汰に手袋を弄る。無視を貫く彼女の態度に機嫌を損ねた様子もなく、男はしばらく彼女を口説き続きた。
 相変わらず訝しげな視線ばかりが向けられていたが、事態が変わらないとわかると、往来の足取りももとの通りに流れてゆく。すると、その中から一人がちぐはぐなナンパ現場の近くへ歩み寄った。
「Ciao! お二人さん、お楽しみのところ悪いんだけど、こっちの任務は完了したよ」
――カルカノーレ」
 今度は口を塞がれなかった。候補生がべネッタの顔をちらりと見上げると、彼は軽く眉を上げて何事もなかったように微笑む。
 合流したカルカノーレが片手につまんだ一枚のカードをひらひらと掲げてみせた。黒字に細い金で何某かのマークが印刷されている。
「ああ。手筈通りだな」
「いや〜、なかなか注意が逸らされなくてさ。でも、これで物証はとれたね」
……あの。ちょっといいかな」
「なあにドゥーチェ」
「それ、カルカノ、もしかして」
「おっと」戯けたような声だ。「ごめんごめん、一瞬忘れて? お詫びにキスはどう?」
……
 トルレ・シャフとの繋がりが疑われる人物の調査任務だった。素行を調べるうち、どうやらターゲットは違法の地下クラブで連絡を取り合っているらしいことまで突き止めたが、肝心の現場を押さえられていない。組織的な犯罪の疑いもあり、そちらの筋に比較的明るい貴銃士を連れることにした。
 より決定的な証拠入手のため――カルカノーレが手にしているのは地下クラブの会員証だ――二人が候補生に提示した作戦は〝指定の時間、指定の路地で待機すること〟だった。
 その結果始まったのが、先のナンパ劇だ。
 カルカノーレの手元には物証がある。それはつまり、ターゲットから盗取したと考えられるわけで――
「もちろん、あなたの期待と信頼を裏切りはしないさ」べネッタは意味ありげに微笑み、候補生の顔を見下ろした。「これから俺たちは現場に踏み込む。あなたはそこで、連合軍の職権を正しく行使する。目の前に取り締まるべきものがあるのだから、それ以上の理由など必要あるまい?」
「そうそう。どうやってオレたちが地下クラブに潜入できたのかなんて、きっと誰も気に留めないよ」
……、そっかー……
 二人を使うと決めたのは自分だ。候補生は静かに頷き、ひとまず文句と後悔と反省を呑み込んだ。こうなったなら腹を括ったほうが早い。
 ふと、煙草に火を点けようとしていたべネッタが手を止めた。シガレットケースを胸ポケットに戻し、候補生の手を取る。
――どうか機嫌を直してくれ。愛らしい顔が勿体ない」
……へ、」
「さて。今夜のご予定は? できれば朝まで隣にいてほしいが、天使は俺の腕には留まってくれないだろうか」
 候補生は両目を見開いて硬直した。返事に満たない半端な声が口の端からこぼれ落ちる。
 べネッタは彼女の指に恭しく口付けてから、堪えきれないといったふうにくしゃりと笑った。眉間に横皺が寄る。悪戯好きのきらいがあるべネッタが時々見せるどこか子供らしいその表情に、候補生はようやく自分が揶揄われたのだと理解した。
――べネッタ!」
「ははっ、ははは。そう怒ってくれるな、マエストロ。揶揄ったのは悪かったが、口説き文句は嘘じゃない」
「そ……れはそれで別の問題があると思うけど! そうじゃなくて!」
「そうだよねぇ。べネッタばっかりずるくない? 今度は逆の役でやらせてよ。やたら気障ったらしいべネッタより、オレのほうがよほど楽しませる自信あるけどー?」
「そうじゃなくて――‼」
 候補生が声を張り上げると、ベネッタとカルカノーレは顔を見合わせて一層賑やかな笑い声をあげた。