きなこ湯
2024-09-23 14:30:23
1957文字
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本懐


 雨でずぶ濡れになった特待生をホタルビ寮で出迎える草薙伯玖の話。
 伯特ワンライのお題「彼シャツ」より。


 ホタルビでは年中を通して雨が続く。たいていは肌がしっとり濡れる程度の霧雨がほとんどで、慣れてしまえば毎回傘を持ちだすこともないと言うが、特待生が足を踏み入れた時は運悪くどしゃ降りのタイミングだった。大きな雨粒が音を立てて四方八方に弾け飛び、立ち昇る霧に曖昧な湖面が激しく波打って、特待生は大慌てで寮舎へ走ったが、到着する頃には全身絞れるほどくまなく濡れていた。
 濡れ鼠の特待生を出迎えた伯玖は玄関口であんぐりと口を開け、それからタオルと選択籠を抱えて戻ってきた。濡れた靴下を脱ぎ足を拭いていると、肩に伯玖のブレザーが掛けられる。寮舎へ上がる前に特待生のブレザーは絞ってあらかた水気を抜いていたが、中のシャツまでしっかり濡れていた。ハッとして顔を上げると、伯玖は「いいから。身体を冷やしたらまずいでしょ」と首を横に振る。
「でも、伯玖さんの制服が……
「や、おまえさんをそのままにする方が、おれは気が休まらんよ。いいから、ここは頼れる先輩に甘えなさい。まずは一度着替えよう」
 手を引かれて移動する間、特待生は他の誰ともすれ違わなかった。記憶にある道からは外れた経路を通ったことを踏まえると、どうやら伯玖が気をきかせたらしい。着替えを持ってくるから髪でも拭いて待っていてくれと言い残し、伯玖は一度空き部屋を出てゆく。その部屋に置かれた鏡台に写る自分の姿を見て、特待生はようやく状況と理解した。伯玖のブレザーを羽織っているからまだよかったが、濡れたシャツがしっかりと透けている。それはもうしっかりと。色模様がはっきりと。
……う、うわあ、あああ、やってしまった――!」
 じわじわと羞恥心が胸に滲み、特待生はその場に蹲って頭を抱えた。タオルが畳の上にずり落ちる。薄らと折り目のついたブレザーの袖を見下ろし、自己嫌悪といたたまれなさに苛まれていると、ふわりと線香のようなにおいが鼻に触れた。――伯玖の匂いだ。いや違う、伯玖のブレザーの香り。しかし、これは伯玖が普段身に着けているからこその香りで、それはつまり伯玖の匂いだとも言えるのだが。
 いや、そうじゃなくて!
 思わぬ邪念に動揺していた。それが己の心の内側から出てきた発想であることがどうにも信じられず、今すぐ無茶苦茶に叫んで逃げ去りたい衝動に駆られる。不可抗力で、もちろん故意でなかったとは言え、己の稚さが恥ずかしくて仕方がなかった。
 ――伯玖さん、軽蔑したかな。私のこと。
 ――それとも、子どもみたいだって呆れた?
 伯玖が何気ない仕草や言動で特待生を揶揄うのは、彼女を可愛い後輩、つまり妹分のように扱っているからなのだろう。時々ぎょっとするようなことを口走るが、たとえば累が〝口説く〟のとはまた温度感が異なった。だから特待生も本気にはしていない。お姫様は方便で、脱がせるのは冗談だ。きっと特待生が相手じゃなくたって、似たような状況なら同じ言葉を使うに違いない――たぶん。きっと。意味なんて最初から存在しない。
 それがこんなにも悔しい。
 他人顔の畳の目をじっと見つめ、特待生は細く息を吐いた。羽織ったままのブレザーを脱ぎ、袖を通してみる。肩幅も着丈も合わない。すらりとした印象があるが、こうして直に比べればきちんと男女の差があった。
 悪いことをしている後ろめたさがひたりと背後にすり寄ったが、自分のものより着古されてやわらかくなった袖を顔に近付け、目を閉じた。――伯玖の匂いがする。線香のような、甘い匂い。何気ない仕草で特待生の頭を撫でるとき、わずかにふわりと香ってくる、あまりに儚いあの匂いだ。
 普段は感じられない濃度をしばらく堪能し、罪悪感と満足感の同居する心のまま目を開くと、目の前にシャツ姿の人間がいた。
 本人である。
――
「あら。満足したかい?」
…………
「おーい、特待生? 生きてるかー?」
 冗談めいた口振りでひらひらと手を振る。
 硬直したまま動かない特待生の顔をじっと見下ろしていた伯玖は、やがてにんまりと悪戯っぽく目を細めて笑った。
「生きてるみたいだな。よかった。でも大丈夫か? 顔、真っ赤だけど」
……わ、」
「うん?」
「忘れてくださああい――!」
 その場に勢いよく倒れ込んで頭を抱えた特待生をきょとんと見下ろし、伯玖はからからと彼女の悲鳴を笑い飛ばした。
「いや、無理だって。あんな可愛い姿、忘れられるわけないでしょ」
 蹲って動かない特待生の前に腰を下ろし、膝に腕を置いて頬杖をつく。
 それに、とつぶやいて。
――彼シャツなんてさ、嫌いな男いないから。それが自分の大事なお姫様となりゃ、なおさらね」
 もはや文句すら口にする余裕なく、特待生はしばらくその場で呻き声を上げていた。