きなこ湯
2024-09-23 14:16:39
1893文字
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踏み出せない場所から

 モブ一般生徒視点の特待生と草薙伯玖の話。
 伯特ワンライのお題「羨望」より。


 切り揃えられた明るい髪が、今日は少し膨らんでいるように見えた。ちらりと横目に見上げた空には重く暗い雲が垂れ、ざあざあと雨が降っている。朝方には湿った空気を運ぶだけだったのが、一限の始まる頃には本格的に降り始め、雨粒が窓ガラスを叩く音が聞こえてくるまでに勢いを増した。

 梅雨だから、気の重くなるような天候なのは仕方がない。いくら怪異の覆いダークウィックだからと言って、天候まで自在に操れるわけではない。いや、ひとつ先輩の破天荒なグール生徒にはそんな噂もあるが、いくら人でないからってそんなことまでできるとは思えないのが、一般生徒の素直な感想だ。
 怪異法学の基礎概論は特に派手なこともなく、座っているだけでひどい眠気を誘う。教室内にいるほとんどが比較的新しい制服に身を包んだ一年生ばかりだ。二年である自分の他に見える背中はどれも眠そうで、退屈を隠していなかった。一番後ろの席を陣取ると、そういう姿がよく見える。昨年時間割の都合で取らなかったか、そもそもやる気の希薄な連中がほとんどだろう。――そういう景色の中で、背筋よく前を向いている彼女の背中には、なんだか目を引くものがあった。

 特待生。ダークウィックにしては異例の編入組のひとりであり、グール生徒の新しい監査役。そして――通年課題の中心人物。

 グール生徒の監査役と言えば、これまではDA職員が担当することが通例だった。現役の職員はほとんどすべてが学園を卒業したエリートのひとりであり、特に監査役は特殊な立場で有名である。だと言うのに、突然降って湧いた〝特待生〟に同じ役職が任せられるなど、なかなかあり得ない出来事だ。島の外で生きる人間と比べ多少の知識とコネしかない一般生徒にとって、グール生徒はある種悪魔そのものにも等しい。それに近しい彼女もまた、周囲から遠巻きにされるのが常だった。

 背筋の伸びた姿勢の良い背中。肩の上で切り揃えられた柔らかそうな髪。――不注意で落としたノートや筆記用具を、床に膝をつけることも厭わずに拾ってくれた、ごく普通に善良そうな顔立ち。教室の前の方にちらりと視線を向けると、やはり彼女はまっすぐに教壇を仰いでいた。さすがにその手元までは見えないが、ノートに並ぶ文字はきっと綺麗に整えられているだろう、そんな気がする。
 ――案外、普通に優しくて良い子なんじゃないか?
 そう思うと、遠巻きに恐れている自分が恥ずかしくなった。もしそうなら、彼女は本当に呪いの解けないただの不幸な女の子だ。

 今日こそ、話しかけよう。
 この授業が終わったら、すぐに。
 善良な一般生徒のひとりとして。

 時間が過ぎるのをもどかしく思いながら待つ。授業の内容などもはや頭に入ってこない。時計の長針が終了時間へ迫るにつれ、静かに緊張が高まってゆく。
 授業終了の鐘が鳴り、今日も中途半端なところで解説が切り上げられた。ぽつぽつと立ち上がる生徒たちの間を抜け、急いで彼女の背中を追いかける。前の方に座っていた特待生は出口に近い。
 ようやく追いつこうとしたところで、彼女は扉付近に差し掛かっていた。意を決して声を上げる。

「あの――
――特待生、ちょっといいか?」

 凛とした声だ。張り上げたわけではないのに、まっすぐ耳へと届く芯があるような。
 中途半端な自分の声はあっけなく途切れ、ついぞ彼女がこちらを振り向くことはなかった。

……伯玖さん! こんにちは。どうかされましたか?」
「ああ、うん。ちょっと通りかかったもんだから、顔が見たくてさ。呼び止めて悪いね。おまえさんこそ大丈夫だった?」
……? はい、もちろん。伯玖さんとお話できてうれしいです」
「はは、そりゃどーも」
 
 ――ちらり、と。
 ほんの一瞬。勘違いなんじゃないかと思うような些細な眼差しが、それでも明確にこちらを向いていた。
 柔らかい色をした細い瞳が、肌を撫でる夜風のように冷えている。

 それだけだった。起こったことは何もない。呆然とその場に突っ立ったまま、自分がまたも一步を踏み出せなかったことになぜだか嫌な予感を覚える。――善良そうな彼女の姿を思い浮かべ、それから一步遠巻きにされている光景がよぎった。彼女がそうしていないなら、その空白に線を引くのは誰なのだろうか。あるいは、その線の内側に踏み入る権利を持った者は、この学園のどういう存在なのか。
 決して羨ましくなんかはない。ただ、やはり彼女はかわいそうな子だと、率直にそう思わざるを得なかった。
 雨は重く降り続き、しばらく止みそうな気配はしない。