一年三六五日どこかで必ず騒ぎが起こっている、とこの地の住民さえ錯覚しがちな新横浜にも、穏やかで静かな夜が訪れる日もある。ポンチ吸血鬼による騒ぎも人間同士の諍いもなく、緊急車両のサイレンひとつ聴こえない、今夜のような。
そんな希少ともいえる静寂を、ふと揺らした悲鳴がある。ギャッと鋭く一声、男のそれだ。市民のものではない。緊急性の高いものでもない。まさにその悲鳴の現場に居た、吸血鬼退治人の青年にはそれがわかる。
今度は一体何だと呆れながら振り返れば、首から上だけを器用に砂に変えた高等吸血鬼が歩道脇にへたり込んでいるところだった。
赤い退治人服の青年と、青褪めた顔を取り戻した黒いマントの吸血鬼、それから吸血鬼に抱かれたアルマジロ。この街くらい混沌とした場所でなければちょっとした騒ぎになってしまうであろう取り合わせだが、ちょうど彼らとすれ違ったサラリーマン風の男は、それを一瞥しただけで足を止めもしない。
「おのれ、鼻先掠めて行きよった!」
わなわなと震える吸血鬼と、その腕の中で勇猛果敢に雄叫びをあげ拳を繰り出すアルマジロ、その視線の先を青年が目で追えば、虫とも鳥とも異なるシルエットの生物が闇夜を切り裂くように舞っている。
「あ? なんだよコウモリじゃねえか」
「なんだとはなんだ、こっちへ突っ込んで来たんだぞ!」
「コウモリがお前みたいな雑魚にぶつかるわけねえだろ……あ、ひょっとしてお前エコーバケーションにすら回避されるタイプの雑魚?」
「罵倒のつもりかもしれんがそれを言うならエコーロケーションだ! なんだエコー休暇って」
「うっせ! 一文字間違っただけだわ!」
「そのせいで言葉として成立しとらんのじゃ! まあいい、それじゃコウモリの生態にさえ通じる博識なロナルド君にクイズを出してやろう! 日本国内にコウモリは何種いるでしょう、さあ答えて!」
「ハァ!? なんだよ急に……え、あー……さ、三種類くらい……?」
「なるほど三種類! ではその内訳は?」
「えっ!!」
吸血鬼退治人はその名の通り、吸血鬼に関するエキスパートである。所属ギルドを通じて回される吸血鬼に関わる様々なトラブルの解決、身近なところで言えば下等吸血鬼の退治や防除の業務などを担うわけであるが、仕事の精度を上げるためには様々な知識が欠かせない。武器や薬剤の扱いについてはもちろん、地域の野生の生き物、特に人家に入り込む可能性のある生物についての理解もその一つだ。天井に血のシミがあるとの依頼で屋根裏を探ったところ実態はハクビシンの糞尿だった、とか、忌避剤の散布中あまりに不用心に藪に入ってスズメバチに襲われた、などという事態は稀なことではない。
青年も下積み時代には、地域の野生動物について一通りのことを師から学んでいる。出向いた先で退治人が発見したのが危険な吸血鬼であれば駆除を、吸血鬼でも人に危害を加えない種であったならば追い払って忌避剤を撒く、このような対処が可能だ。しかし相手が野生動物だった場合、仮に何らかの被害が依頼主に発生していたとしても、その場では捕獲や駆除が行えないことの方が多い。役所の許可を必要とするケースがあるためだ。こういった場合退治人達は、依頼主に吸血鬼ではない野生動物であったことを伝え、音や燻煙材などで追い出して侵入口を塞ぐという防除の手段を伝えることになる。
ともかく、そういったことで青年はコウモリについても当然知っている。夜行性の哺乳類で、空を飛べて、音を使ったレーダーを巧みに操って虫を捕って食べていること。これは子供の頃見た教育番組から学んだことだ。そして、退治人業を営む上で覚えておくべき三つの区分だ。すなわち、保護鳥獣でもある野生のコウモリと、それが仮性吸血鬼化したもの、そして高等吸血鬼の変身によるもの、この三種である。退治人が引き受けるのは後ろ二種だ。
尤も、高等吸血鬼の変身したコウモリというのは、吸血鬼発生のホットスポットと呼ばれるここ新横浜であっても非常に稀な存在であるとされてきた。己の事務所を通じ、ギルドの外からも仕事を請けてきた青年にとっても、同居吸血鬼の祖父や父親が巨大なコウモリに変じた姿を見るまでは、知識の上だけの存在だったほどだ。
「……いっいいい今飛んでたやつと、吸血鬼化してるやつとしてないや、つ、吸血鬼が変身したやつ……?」
「いや君、退治人兼作家でなんでそこワヤワヤになるんだ、コウモリなんて真っ先に我らに結び付くものだろうに……」
「マジに憐れむやつやめろや! だったらそんなコウモリにビビって死ぬオメーは吸血鬼としてどうなんだよ!」
青年はこの吸血鬼と交わす日々のこうした小競り合いのうち、本人の自爆と暴力以外で勝てた試しが無かったが、それとこれとは別だ。立ち向かわねば勝利もまた無い。返せそうな弾が飛んできた時には全力で打ち返すのみだ。しかし、そんな日に限って相手は普段のような諍いの連鎖に持っていくつもりがないようで、呆れたように続ける。
「三五種を超えるそうだぞ、日本のコウモリ……そんなにいるのかって顔してるな? ま、ロナ戦のネタにしたいならそこらは自分で調べたまえ」
「言われなくてもそうするわ!」
「それで思い出したんだが」
「いや続くのかよ、クイズは?」
「たった今答え合わせしただろ、不正解どころの騒ぎじゃないわ。で、ケブカクモバエってのが居るんだが」
「……は?」
「ケブカクモバエ」
自分の知るコウモリの十倍を超える種数について消化しきらないうちに、耳から入ってきて、頭蓋の中で玉つき事故を起こした謎の文字列。
「特定種のコウモリにだけ寄生して血を吸うんだって、その虫」
「虫なの!?」
ケブカク、モバエ。けぶか、雲、映え。吸血する虫だと言うその姿を、青年はつい想像してしまう。差し向かいに立つ男の、下手くそな変身結果の一バリエーションとして。
ケブカとは一体何か。深海ザメの仲間か、ケバブの仲間か。いや、きっと毛深いの毛深であろう。つまり、ダチョウ風の剛毛にびっしりと覆われた楕円形の体に、クモみたいな脚が八本。それにハエの羽が一対ついており、頭部は当然、同居吸血鬼のそれ。そこに蚊のような口吻が装着されて、見事完成だ。思わず呻き声が漏れる。こういう時ばかりは、青年は己の作家としての想像力を恨めしく思う。
「想像力豊かな作家先生が何を想像したか知らんがね、そのケブカクモバエに、好んで宿主にするコウモリと別種のコウモリの毛を選ばせると、きちんとお気に入りの方に行くんだと……って説明してたらなんか背中痒くなってきたな!? ウワーぞわぞわ死ッ」
「なんっでだよ! テメーから始めた話だろ!!」
「いやあ、ロナルド君寄生虫とかムリなタイプかなって? ちなみに日本に居るよ」
「日本にいんのぉ!?」
青年は大慌てで夜空を仰ぎ見る。なにしろ、先ほど想像したクリーチャー虫が、自分たちの頭上を飛び交うちいさなコウモリの体表でひしめいている、そんな恐ろしい想像で頭の中が一杯だからだ。ケブカクモバエとは顕微鏡で見るサイズなのだろうか、それともノミのように肉眼で捉えられるサイズなのか。いずれにせよ恐ろしい。
「いや、そこらへん飛んでるアブラコウモリには居ないんじゃない?」
「それを! 先に! 言えや! アブラコウモリって何!」
「やーい予想通りのビビりルドくんー!」
「殺! ……なあ、特定のコウモリにしか付かねえって匂いかなんかで判別してんのか?」
「さあ、そうなんじゃないか? 宿主から離れてしまっては生きていけないから、進化の過程でそうなったんだろう。虫ながらなかなかやるものだと思うよね、ジョン」
吸血鬼がそう腕の中の使い魔に語りかけたが、主が塵と化すたびに涙を見せる健気なアルマジロの顔は今、明確な困惑に染まっている。永遠を誓い合った己と主人であるから、声、匂い、気配、塵の一粒、何であっても間違いなく主人を見つけられると胸を張りたいが、この話題でそう主張するのは憚られる、そういう葛藤だろうと青年には思われた。なにしろ、コウモリにつく寄生虫の話だ。ジョン、嫌なら嫌って言っていいんだよ。青年は心の中で海のような広い心を持つアルマジロに語り掛けずに居られない。
「ま、決まった場所でしか餌を得られず、移動の制限もかかるのは少々不便にも思えるがな!」
「そうか? バイキングに棲みついてるようなもんだろ。居付かれる側としちゃいい迷惑だろうけどよ……ところでこれマジの話?」
「出た! 自分で調べるって言った事さえもう忘れてる単細ぼアァーッ!」
暦の上での春は過ぎ、けれどもそれらしい気配を拾うのはまだ難しく思える二月末の新横浜、二一時。青年がお見舞いした右ストレートで歩道脇には砂の山が今一度築かれる。
そんな人と吸血鬼、それからアルマジロの営みとは無関係に、コウモリは忙しなく飛び交っている。今年は随分早くに冬眠から目覚めてしまったのではと、青年はふと思う。
決まったコウモリからしか餌が取れない虫、これと定めた場所から離れられない生き物。
ヒトの一生分くらいの年月を一人と一匹っきりで暮らしてきたいう引きこもり吸血鬼は、それを不便だと感じる感性をどうやら持ち合わせているらしい。そして、一方的な寄生に過ぎない関係を、離れてしまったら生きていけないなどとも言い表した。
青年は、外に出たらすぐ死んじまうのはお前もだろ、と吸血鬼に言いかけはたと口をつぐむ。実際、しょっちゅう死にはするのだ。今夜のように、毎夜毎夜ちょっとしたことで。だからといって今居座っている場所の他で生きていかれない男かと聞かれれば、きっとそんなことはないのだろうと、突然始まった同居生活から季節が一巡する間で青年は理解しつつある。
高等吸血鬼ドラルク。野生のコウモリにちょっと煽られたくらいのことでショック死する雑魚体質のくせに、パラメータは享楽を求めることに全振りで、押したらいけないボタンを率先して押してしまう命知らず。あちらこちらで余計なことばかりしては青年の事を巻き込んで、反省させようにも出てくるのは言い訳ばかり、しかもその内容が自分は可愛いから許される、などという世迷言ときている。愛らしい使い魔マジロのオマケおじさんの分際で、だ。
人をからかうためのネタは決して見逃さず、他人を怒らせる腕もまさに天下一品。それなのに気づけば多くの人の懐へ入り込み、人も吸血鬼もなく大勢の輪の中で笑っているのだ。いつでも。
きっとどこでだってうまく生きていける。居所を縛られるのを不便に思うなら、取れる選択肢はいくらでもあるはずだ。加えて今の同居は『餌』の都合ですらない。青年は最初から除外されていたが、成り行きで床下に住まうことになった少女のことさえ、食餌とすることを諦めたようなのだ、この吸血鬼は。
なのになぜ。疑問の答えを、青年は見いだせずにいる。
「ご覧よジョン、ここのコブシは気が早いぞ! 蕾がずいぶん大きい」
「ヌヌー!」
青年が物思いに耽る間に姿形を取り戻していた吸血鬼は、もう特に言いたいこともないらしい。使い魔を頭上へ高々と掲げ、街路樹の枝先を見せている。青年にはわからない春の匂いを彼らは嗅げるとでも言うのだろうか、つられてそちらを見れば、愛くるしいアルマジロの鼻先、丸裸に見えていた木の枝に、ふわふわとした蕾らしきものがいくつもついていることに気がつく。
思えば、ギルドから自宅までの道のりにこんなに時間をかけることはこれまでなかったし、その傍らに話相手が居るというのも、青年にとってはかなりの異常事態だ。
勝手に居付いておきながら、やれウサギ小屋だなんだと文句を言いつつ、喧嘩の最中に出て行けと何度言われようとも頑なに出て行かない吸血鬼。
異常であることがもうすっかり日常になってしまったのだから、人生何が起こるか分からない。
この夜歩きの終点、ロナルド吸血鬼退治事務所はもうすぐそこだ。毎日と言っても過言ではない頻度で歩いて来た道に花芽をつける樹木があったのだということを、青年は今夜、初めて知った。
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出会って一年ちょっとのにっぴき夜散歩でした。
そのくらいだと、ロナルド君はジョンの言わんとすることは察せられても言葉は理解できてないくらいかな、ドラちゃんは口はそこまで悪くなっておらず、喧嘩をしても賑やかでしっちゃかめっちゃかな罵倒のラリーにならない、でも手足が出る喧嘩ばかりじゃないおしゃべりが続く夜がちょっとずつ増えてきてるかな……みたいなこと考えながら書きました。
銀弾7お疲れさまでした&ありがとうございました。
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