■7:00 A.M.
ピピピ、と左手首に巻いたデジタル時計が朝の七時を知らせる。
開店時間だ。箒とちりとりを片手でまとめて持ち、玄関のプレートを「CLOSE」から「OPEN」にひっくり返す。それから店の裏手に回ってゴミ箱にちりとりの中身を捨て、手を洗ってから厨房を経由して売り場に戻った。あ、上着脱ぐの忘れてた。バックヤードのロッカーに慌てて戻る。上着を戻してレジへ向かう途中、厨房で母に呼び止められた。
「ティム、これ表に並べといて」
「はあい」
返事は伸ばして言わない、とすかさず叱責が飛んでくる。別にいいだろ、相手はお客様じゃなくて母親なんだし、とティムは肩を竦めてトレイを受け取った。焼きたてのパンとチーズの香りが鼻腔を満たした。モーニングで一番の人気を誇るクロックムッシュだ。店内で最も目につきやすい中央の棚に並べ、値札の端に「焼きたて」と書かれたプレートを追加で挟む。トレイを手にレジの内側へ戻った。
「並べといた」
「ありがと。接客しっかりね、ティム」
「了解」
漏れそうになったあくびを噛み殺しながら、ティムは前方のウィンドウ越しに外の様子を眺めた。
日曜日の朝だからか、通りを行く人々の目的も大抵は散歩かランニングで、開店直後からパンを買いに来る人はそうそういなかった。平日は開店直後からそれなりに忙しいらしいが、彼は生憎と大学の講義があるために手伝えない。約半年後、二年に進級したら平日にも余裕が生まれるはずだから、そうしたら店の仕事を本格的に手伝いたいと考えている。母だってもう若くはないのだし、自分が店を継ぐときが来るのを考えると、働く時間を増やすに越したことはなかった。
店の前をひとりの男性が通った。彼がティムの目を引いた理由は、ずいぶんと変な……物珍しい格好をしていたからだ。下半身は映画でよく見るスーパーヒーローのスーツみたいな、体の線にぴったりと沿ったデザインで全体的に派手な黄色をしている。もしかしたら上下で繋がっていて、上も同じような感じなのかもしれない。けれどその人は黒いジャンパーを着ていて、上までしっかりジッパーを上げていたので、デザインの全貌は確認できなかった。
それにしても手足がすごく長くてスタイルが良い。モデルみたいだ。あるいは俳優だろうか。ジャンパーの下に着ているのは撮影用の衣装で、近くの現場へ撮影しに向かっているのかも……。ティムがあれこれ考えを巡らせていると、件の人物がガラス戸を押し開けて店内に入ってきた。
「マジかよ」
驚きのあまり本音が口をついて出た。素早く口を横に引き結び、ティムは失礼にならない程度に相手の挙動を目で追った。本当にスタイルが良い。トレーとトングを手にパン屋の中をうろつく様子が似合わない人物は、彼以上にいないんじゃないかと思えるほどだ。奇抜な服と相まってとにかく浮いていた。男性は中央の棚からクロックムッシュをふたつ取り、まっすぐレジに向かってきた。
絶対にモデルか俳優だとティムは確信する。成人男性の平均とほぼ同じ身長であるティムより、頭半分ほど背が高い。年齢はティムの母よりも少し下くらいかと思われたが、それでも顔立ちがものすごく整っていた。テレビや映画をあまり見てこなかったことをティムは後悔した。彼の名前を知っていれば、明日大学で会う友だちに自慢して回れたのに!
「袋は要らない。包んだままで渡してくれ」男性がジャンパーのポケットから小さな財布を取り出しながら言った。「コーヒーはあるか?」
ラジオパーソナリティもやってそう。男の自分でも羨ましくなってしまうほどに心地良いバリトンボイスだ。
「セルフでよければ。レジ横のバリスタです」
男性はバリスタにちらりと視線を走らせて口を開いた。「一人分」
金額はぴったり、釣り銭無し。クロックムッシュの包み紙をテープでとめて空の紙コップを渡すと、男性はコーヒーを淹れて蓋をはめ、さっさと店を出て行ってしまった。
「見ない顔だったね」
背後から声がして振り返る。件の客は母も気になっていたようだ。
「この辺に住んでる人かしら」
「顔見た? モデルか俳優なのかも、母さんはテレビで見たことない?」
「うーん」母は腕を組んで唸ったが首を振った。「知らない。あんなにかっこいい人だったら、絶対に忘れない自信があるけど」
新しい客が入ってきた。ランニングの帰りに毎週寄ってくれる常連だ。ティムと母は同時に朝の挨拶をして業務に戻り、謎の男性客のことはその後、昼の忙しさに埋もれて忘れてしまった。
店を後にしたローガンはコーヒーを飲みながら朝の街を歩いていた。
春の近付く気配を感じてきたとはいえ、早い時間帯は未だ冷え込んだ。気分がいまいち上向かないのは曇り空であることも影響しているのかもしれない。吐く息は僅かに白く、ジャンパーの隙間から入り込む冷気が首元をくすぐる。ウォーキングやランニング、犬の散歩をしている人々とすれ違いながら歩いたのち、ローガンは角を曲がって古びたマンションに繋がる扉を押し開けた。空気が淀んで埃っぽい。彼は足を止めずにコンクリート製の階段をのぼり、四階まで上がったところで通路へと曲がる。突き当たりのドアの前で立ち止まった。ポケットから取り出した鍵を差し込み、がちゃりと音が聞こえると部屋の中へ足を踏み入れた。
コンクリートが打ちっぱなしであるために、気温は外とほとんど変わらなかった。広々とした部屋の中央にはテーブルと二脚の椅子、壁際には大きなサイズのベッドが置かれ、テーブルの上には銃や刃物などの物騒な品が散乱している。部屋の主の性格を感じられず、必要最低限なものだけ置かれたような印象を受ける、殺風景な部屋だった。
ローガンは後ろ手に玄関の鍵を閉め、勝手知ったる足取りで部屋の中を歩き回る。ベッドの上の乱れた毛布をめくり、キッチンを覗いたあと、リビングを横切り窓へ近付いた。灰色のカーテンを引けばその先はベランダに繋がっており、真っ赤なスーツに身を包んだ男が、手すりの格子から足を放り出して座っている。
窓を開けると彼が振り向いた。いつものマスクを被っている。
「おはようローガン。元気?」
「まあな」
答えてローガンはベランダに出た。なぜかティーカップが置かれており、危うく蹴飛ばしそうになる。その場でたたらを踏んだローガンに対して男が静かに笑った。
「足元おぼつかないねおじいちゃん」
「お前が悪い。片付けろ」
「んん」
歯切れの悪い返事が返ってきた。彼は格子を両手で掴み、空中へ投げ出した両足をぶらぶら揺らしている。ローガンは溜息をつき左手を振り上げた。
「ウェイド」
「んー? ……おっと」
放り投げられたものをウェイドは危なげなく受け止めた。首を傾げながら包みを開け、黙り込んだのちに感嘆の声を上げる。彼の反応を横目に見ながらローガンはティーカップを跨ぎ、ベランダの手すりに両腕をもたれさせた。
「ウッソこれ、あんたが? マジ?」
「どうせ何も食ってないだろ」
「オイ、どうせってなんだよ。あんたの分は?」
ウェイドと同じ包みを振って示す。手すりの上に紙コップを置くとウェイドが指差した。
「ブラックコーヒー」
「ああ。一口いるか」
「いいや、気分じゃない。聞いただけ」
首を振ったウェイドはクロックムッシュを掲げ、サンキューな、と言った。
「じゃあいただきまーす……はーあったかい、焼きたてだ。チーズの良い香り……」
マスクを鼻上まで引き上げてパンの香りを嗅ぎ、かぶりついたのを見てからローガンも手元の包み紙を剥がした。ウェイドのように座りはせず、パンを咀嚼しながら眼下の景色を見下ろす。
やはり冴えない朝だ。太陽が雲の向こう側に隠れているせいか、街全体が灰色に染まってしまったようだった。表を通る車のエンジン音ばかりがうるさく響き渡り、耳元で寒風が唸りを上げているのもどこか侘しい気分にさせる。
横目でウェイドの様子を伺うと、ジャンパーを羽織っていたローガンとは異なり、彼はいつものスーツ姿のままだった。格子から手足をだらりと投げ出して背中を丸め、ぼんやりと遠くを眺めながらパンを頬張っている。
食べ切った頃合いを見計らってウェイドに声をかけた。
「今日の予定は?」
「あー、忙しいよ。けっこう」空になった包み紙を丸めながら彼は淡々と答えた。「午前中と午後と夜にそれぞれ別の仕事が入ってる。何かの護衛と何かの襲撃と悪い子ちゃんたちに成敗」
「詰め込み過ぎだ。終わるのか」
「んー、ぼちぼち」
首尾についてはあまり期待しないほうが良さそうだった。
「早めに出たほうがいいだろ。行くぞ」
ウェイドに告げて部屋の中へ戻り、ベッドの上へジャンパーを放り投げる。ごみは屑箱にホールイン。遅れて部屋に入ってきたウェイドも包み紙を投げ入れ、テーブルの上に散らかった武器へ手を伸ばした。彼の愛銃であるデザートイーグル、銃弾の予備、ナイフ、アダマンチウムの刀。最後にマスクを首下まで引き下げてドアへ向かう。ローガンが最後に部屋から出た。重い音を立ててドアが閉まった。
× × ×
■01:00 P.M.
「えー、本日のパスタをひとつ。いちごワッフルひとつ、アップルジュースひとつと——ローガンは?」
「コーヒー」
「またあ? ていうかそれだけ? ご飯は? ……いいや別に不満じゃない、何を頼むかは本人の自由……コーヒーを追加で。ミルクと砂糖は無し」
「はい」
クセの強そうな客が来たぞ——そんな第一印象とは裏腹に注文がスムーズに進んでいくので、やっぱり人は見かけによらないのだと、アシュリーはレジを打ちながら心の中で目の前の客ふたりに謝り倒していた。だって、変な服を着ているんだもの! 全身を覆うぴっちりしたスーツと言えばいいのだろうか? 接客態度には出ていなかったはずだ。
それにしても彼らは俳優かモデルだろうか。奇をてらってコメディアン? まさか。でも仕事仲間っぽい気がする、奇抜な服を隠すために色違いのパーカーを羽織っているから。赤い服の人はフードを深く被っていて口元しか見えないけど、黄色い服の人の顔は絶対にコメディアンって顔をしていない。ドラマの中で銃を構えて犯人に投降を呼びかける、かっこいい警官役とかやっていてほしいもの。じゃあ、ひょっとして何かの撮影の休憩とか? ……おっと、朝礼で言われてたやつの確認を忘れてた。
「本日のパスタはペペロンチーノで少し辛いんですが、辛いものは大丈夫ですか?」
「うん? ああ、問題なし、です。どうもありがとう」
フードの人が答える。やっぱりすごく良い人だ、見た目は怖いけど。アシュリーは頷いてレジの画面を叩き、注文を確定させた。
時刻は午後の一時。支払いを終えた件のふたりは、カフェから出て外のテラス席を陣取った。テラス席側の壁はガラス張りなのでふたりの様子は店内から丸見えだった。暦上は春とはいえ、まだ冬の寒さが残っているのに外で良いのだろうかと心配に思う。だが、店内にも空席はあるのに、わざわざ外へ出たのは何か事情があるのだろう。
その後も何件かの注文を完了させ、件のふたり客に出す料理が厨房から上がってきた。アシュリーは右手にパスタ、左手にワッフルを持って(ドリンクは注文完了後、レジ横のカウンターで即時提供される仕組みだった)、テラス席へ繋がるガラス戸を肩で押し開けた。
やっぱり、外で食べるにはまだ寒すぎる。長袖のブラウスを着ていたアシュリーの腕に一瞬で鳥肌が立つ。さっさと提供して中に戻ろう——アシュリーに気が付いたふたりは、直前まで交わしていたであろう会話をぴたりと止めてこちらの挙動を伺っていた。こういう微妙な沈黙がアシュリーは少し苦手だった。学業の合間を縫ってここのバイトを始め、そろそろ一年経つのにまだ慣れない。
「お待たせしました、本日のパスタといちごワッフルです」
「パスタはこっちで」とフードを深く被った赤い服の人が言った。「ワッフルはこっちのおじさんに。どうも。サンクス」
「食い切れるのか?」頬杖をついた黄色い服の人が怪訝そうに尋ねていた。
「何言ってんのローたん。このワッフルはあんたの分だ」
「はあ?」
「えっ?」
だって頼んだのは赤い服の人だったじゃない?
アシュリーと黄色い服の人の声が見事に重なる。ふたりの視線がこちらに向けられ、アシュリーは頭のてっぺんまで体温が急激に上昇したのを感じた。慌ててテーブルを離れたものの、会話の続きが気になって仕方がない。結局、周囲のテーブルに枯葉や砂が飛んでいたりしていたのでキッチンからちりとりと布巾を持ってきて、それらを拭き取りながら聞き耳を立てることにした。我ながら性格が悪い——いいえ、私はこのお店のスタッフだもの。店の備品を清潔に保つことは従業員の義務だわ。
怪しまれない距離を保ちつつテーブルを拭く。会話が断片的に聞こえてきた。
「俺は食わねえぞ……」
「一口だけでも食えって。絶対においしいから……」
「おい……イド……」
赤い服の人の名前だろうか? 黄色い服の人はさっき、ローなんとかって呼ばれてたっけ。愛称っぽかったし仲が良さそうだ。見た目も口調も性格も真逆そうなふたりは、どんな関係なんだろう?
「じゃあ……一枚もらうから……一枚はあんたが……」
周囲がエンジン音で急に騒がしくなった。テラス席とは木の柵と植え込みで区切られていたが、すぐ外は大通りなのだ。赤信号から青信号に変わり、通りの車が一斉に走り出したのだろう。ああ——最悪のタイミング!
それにアシュリーの肌も寒さの限界を訴え始めていた。潮時だ。枯葉の入ったちりとりと汚れた布巾を持って、アシュリーはテラス席から撤退した。
カウンターの裏側から厨房に戻ると同僚に捕まった。なぜかにやにやと笑っている。
「偵察の結果を報告してよ、アシュリー」
テラス席に行った奇妙なふたり客についてはスタッフの間でもちょっと話題になっていたようで、どうやら自分の計画は筒抜けだったらしい。アシュリーは汚れた布巾を洗いながら、ふたりの謎めいた容姿や盗み聞きした内容について洗いざらい打ち明けた。話を聞き終えた同僚はちょっと残念そうだった。食事がどうとかの会話より、謎の二人組がどんな生活や仕事をしていて、どんな関係だったのかということに興味を持っていたからだ。短時間でそんなのわかるわけがないでしょうとアシュリーが正論を突きつけると、同僚もそれはそうだとあっさり受け入れた。
「じゃあ一緒に想像しよ。何をしてる人だと思う?」
布巾を干し、ちりとりを片付けて、アシュリーは同僚と一緒に店番に戻った。とはいえ、新規の客が来ていなかったためにカウンターの内側で暇を持て余し、ふたりの視線は自然と外のテラス席へ向いていたのである。黄色い服の人はまだ渋っているようだがいずれ言い負かされそうだ(第三者がそう直感できる瞬間ってあるじゃない?)。
「俳優かモデル」同僚の提案に乗っかり、アシュリーは自分の考えを述べた。「スタイルも顔も声もすごく良いのに、その道の人じゃなかったらこの世界の何も信じられなくなる。そっちは? どう思う?」
「んー……案外よ。先生……とか、警察?」
予想外の回答にアシュリーは仰天した。「どうして? どうしてそうなるのよ?」
「だってそのほうが面白いでしょ」同僚がむっとして言い返してきた。「表向きは一般人なのよ。先生とか警察とか、そうじゃなくてもスーパーのレジ打ちでも工場の作業員でもピアノの先生でも、真っ当な仕事に就いてるならなんでもいいわ。普段はそうして普通の生活を送ってる。けれどどこかで事件が発生したり、発生しそうだって通報を受けると、コスチュームを着て人助けのために駆けつける——」
「コミックスの読みすぎよ」
アシュリーはうんざりして呟いた。「要するに自警団じゃない、ただのボランティア。警察に怒られそう」
「うるっさいな。いいじゃない。ただの空想なんだし、あり得ないことを夢見るくらい」
「今度の新作はヒーローもの?」
「まあ、それもありかもね」同僚は下唇を突き出して言った。「プロットだけでも書いてみようかな。で、出来上がったプロットをサイトに一旦上げて、フォロワーのウケが良かったら書く。始まりは主人公とその相棒がカフェに来たところから」
「絶対にウケると思う。楽しみにしてる、プロットが書けたら私にも見せて」
「いいよ、ファン一号」
「やった」
同僚が突き出してきた拳にアシュリーも拳を合わせて応える。二人は今から数時間後、一緒にシフトを終える予定なので、その後ショッピングへ出かける約束をしていたのだった。
「見られてた」
「さっき運んできた子?」
「もう一人」
「見えたぞ。あの子の友だちかな」
「ああ」
「何か撮られた?」
「いいや」
「なら大丈夫だろ。最近の若い子は変なヤツを見かけたらすぐ盗撮してSNSに晒すから——今一瞬だけ絶対あんたの足踏んだわ痛くないと思うけど一応謝っとく。ゴメン」
椅子を引いて座り直したウェイドは不意に唇を歪め、腹部を押さえて背中を丸めた。このために外の席を選んだのだが、無意識のうちに周囲を憚ってローガンの声も自然と低くなる。
「傷の具合は」
「もう少しで治りそう」ウェイドは腹から手を離し、背もたれに体を預けさせて天を仰いだ。「ご心配どうも。あークソ、痛かった」
そう言うとばねのように起き上がり、椅子から腰を浮かせて身を乗り出してくる。
「ローガン」
名前を呼ばれると同時に、デザートの隣にパスタが盛られる。見ると、ワッフルを一個持っていったウェイドの皿からペペロンチーノが半分消えており、ローガンは呆れたように肩を竦めた。
「要らねえ。お前のパンケーキも」
「夜の仕事が終わるまで何も食えないだろうから食っておけって」
皿を押し返すがすかさず押し戻された。
「俺やだよ、仕事中にあんたの腹が鳴るとこ聞くの。あとこれはパンケーキじゃなくてワッフル。テニスのラケットみたいでかわいいよな」
「これで充分だ」
本心だった。だがウェイドは気に入らなかったらしい。フードを後ろに下げて顔を見せると、ローガンの顔を覗き込むように体を屈める。マスクをしていない分、彼の険しい表情がよく見えた。
「——タンパク質と鉄分不足で頭の回転が追いついてないんだけど、もしかしなくてもコーヒーだけで足りるって言ってるのか?」
テーブルの上に頬杖をついたまま沈黙で返す。これ見よがしにウェイドが溜息をついた。パスタを盛り終わるとどかりと椅子に腰掛け、先ほどと同じようにフードは深く被り直している。そのままカトラリーを持たずにじっと押し黙り、沈黙の末に息を吸う音が聞こえた。嫌な気配だ。
「あのな。……ローラと二人でちゃんとメシ食えてる?」
「……家ではな」
「あっそう。その言葉信じるよ。俺の前だけでこういう風に気を抜いてくれる瞬間があるのは嬉しいし、そういう時に言いたくはないが、あんたはもっと自分のことを気にかけるべきだ」
ローガンは溜息をついて下を向く。小言などを聞く気分ではなかった。
「なあ、聞けって。ヒーリングファクターありきでもいつか限界がきてぶっ倒れるぞ。こっちに来るまでずーっと酒浸りの生活だったのは理解してるけど」
「そんなに食わせたいならお前がふたり分頼めばいい」
「急にふたつ頼んだら余計なお世話だって、あんたが今より不機嫌になるだろうが」
顔を上げて様子を伺うも、ウェイドは腕を組んだままこちらを睨みつけている。お前が折れなければ俺も食事には手をつけないぞという意思表示らしかった。諦めてカトラリーに手を伸ばすとウェイドもフォークを手に取り、パスタを食べ始めた。
「んん。うまい。シェアして正解」
ウェイドの言うような美味いも不味いもローガンにはわからない。食事はエネルギーの補給に過ぎず、かつて浴びるように飲んでいた酒に比べれば、ひどく刺激の無い代物だった。ゆえにローラと一緒に食事をするときを除き、特に外食では、食事の必要性を感じてこなかったのだ。
ふと、ウェイドの発言を思い返して眉間に皺が寄る。——こいつの前だけで気を抜いているだって? 食事を取らないのは単に面倒なだけだ。それも、元を辿れば酒に溺れていた過去があるからで、寧ろローガン自身が逃れられない瑕疵に由来する習慣でもある。それを晒しているに過ぎないのに、どこに気を抜いていると読み取れる要素があるものか。
「ねえローたん」
パスタを食べ切ったウェイドがふと顔を上げ、フォークの先端で外の一点を指し示した。「見て。一番手前の車線で信号待ちしてる黒いバン」
フォークで示された先に視線を向ける。テラスと道路の間は木の柵と植え込みで遮断されていたが、枝葉の隙間から向こうを窺い見ることはできる。手前の道路の先頭に、ウェイドの言った通り黒いミニバンが信号待ちで停まっていた。運転席と助手席を除いた窓は黒く反射して、車内の様子を伺うことはできない。だが、明らかに乗車人数以上の人影が確認でき、銃と思しき物騒なシルエットも見られる。加えて、車を運転している男もその隣に乗っている男も、顔にタトゥーが彫られており険しい表情をしていた——つまり、一般人には到底見えなかった。
「あれね、午後の仕事で襲撃する予定の車」
ウェイドがさらりと告げた事実に驚き見遣るも、彼は食事に戻ってフォークでワッフルをつついている。
「あの車が何だと?」
「だから、午後の仕事で襲う予定の車」
「なぜそうだと分かる」
「ナンバープレートと車の特徴……」
ふふふ、と低い声でウェイドが笑った。「マジでウケる、デカい道路を堂々と通ってくるものかよ普通。いかにもって車で来て、尾行のリスクも考えてなさそう」
反対車線の歩行者用の信号が点滅していた。このまま待っていれば、例の車は間も無く発進してしまうだろう。
「行くか?」
ローガンが問いかけるとウェイドは再び小声で笑った。切り分けたワッフルを口に運んで首を振る。
「まさか。この後の奴らのルートは全部把握してる。こっちがランチを挟んでもまだ移動中だ、だからここで逃がしても先回りできるので問題ナシ。俺たちは休憩時間をきっちり確保するクリーンな業者としてやっていこうぜ」
それに、とウェイドは得意げに言った。「いくら悪い子ちゃんたちでも人目のつく場所で、ましてや真っ昼間のメインストリートで騒ぎを起こすなんて——」
彼の発言を遮るように甲高い悲鳴が響き渡った。続いて激しい銃声。連射し尽くして弾が消えたのか、大声で悪態をつく男の声が聞こえる。
「全員、両手を挙げて地面にひれ伏せ! その場から一ミリでも動いたらぶっ殺してやる!」
ローガンはフォークを置き、ワッフルを掴んで数口で飲み込んだ。ウェイドは半分ほど残ったワッフルを黙々と切り分けていた。その間も半狂乱じみた男の叫び声と銃声と悲鳴は止まず、ガソリンと硝煙の臭いが漂い始めて辺りは騒然としている。
植え込みの隙間から表の惨状を確認したローガンはウェイドに視線を戻した。
彼は未だ目の前のワッフルに集中していたが、唇の端に浮かんだ微笑みが神経質的に痙攣している。
「……」
「……。ウェイド」
「だあーっ! クソーッ!」
カトラリーをテーブルに叩きつけ、ワッフルを口の中に詰め込みながらウェイドが立ち上がった。「ふぇっふぁい……絶対に許さねえぞせっかくの休憩時間をパーにしやがってクソビッチどもが!」
ローガンも溜息をついて立ち上がる。
「とっとと片付けるぞ」
「おうとも、下のおクチに全弾ブチかましてやる——ミントいる?」
「ああ」
「はい」
シャカシャカ、ゴリゴリバキッ。タブレットを噛み砕きながらパーカーを脱ぎ捨てる。デッドプールのスーツは腹部が大きく裂けていたが、傷は無事に治ったようだった。マスクを装着したウェイドが柵を飛び越えて茂みに突っ込み、銃を抜きながら敵の元へ躍りかかる。遅れてローガンも駆け出し、茂みから飛び出ると同時に爪を振り上げた。
「嘘でしょ。マジだったよアシュリー」
「『事実は小説よりも奇なり』ね」
その後ろ姿を見ていたカフェの従業員たちが、肘で互いの脇腹をつつきながら囁き合っていたのを、無論ふたりが知ることはない。
× × ×
■23:00 P.M.
暇だなあ。
ていうかこんな時間までアイスクリーム屋を開く必要なんてあるか?
バリーは暇を持て余していた。日曜日の夜遅く——治安の悪いストリート——周囲にはバーも小売店も何も無い——そしてとにかく寒い——そもそもこんな寒い時にアイスクリームなんて食べる物好きがいるものか、ヤクをキメてるカップルがその場のノリと勢いでしか買わないだろう(実際、今日の客はそんな感じが多かったし、昼間はそこそこ稼げた)。
そろそろ閉店作業に入ろうかなあ、でも閉店時間はもう少し先だ、これは創業者である祖父の代から決められていてそう簡単には覆せない、でも今日はこれ以上客が来なさそうだし……。
などと考えながら中空をぼんやり眺めていたバリーの視界に人影が映り込んだ。電灯を背にした長い影。男だ。左肩にでかい麻袋を背負い、足取りがどこか覚束なくて酔っ払っているようにも見える。バリーがじろじろと観察している間にも人影は徐々に大きくなり、どうやらこちらへ真っ直ぐ向かっているらしいとわかると、彼は軽いパニックに陥った。明らかにそう若くもない男がひとりでアイスクリーム屋に? ここらの地域で夜遅くにひとりでいるってことは絶対にカタギじゃない。嘘だろ、これは何かの悪い冗談……。
「おい」
「ヒイッ!」
ばん、とカウンターの上に拳が叩きつけられ——本当は少し音が立っただけだったが、臆病なバリーの脳がそう解釈してしまった——、バリーは文字通り飛び上がった。恐怖のあまり顔を上げられない。冷や汗をだらだら流すバリーはカウンターの下に隠していた拳銃を掴み、男の額へ突きつけるべきか葛藤していた。
酔っ払いか? それとも強盗? まさかマフィア? 最悪だ、こんな目に遭うなら店を早く閉じておくべきだった!
「煙草か……酒はあるか」
「えっ?」
「酒じゃなくてもアルコールなら何でもいい。売ってくれ」
拳銃を両手で握りしめたまま、バリーの思考はいくらか冷静な回路を取り戻した。煙草? 酒? ……こいつは何を言っているんだ?
「あ……あんた、字が読めないのか? 俺はアイスクリーム屋だ、そんなの売ってるわけないだろ」
カウンターに置かれた男の拳がぎゅっと固く握られたのを見て、拳銃を握るバリーの手もかたかた震える。数秒間にわたる沈黙ののち、おいと再び声をかけられてバリーは肩を跳ねさせた。
「近くで売っている店はあるか」
「な、無いね。無いと思う。この辺は治安の悪い地域だから……」
ただのアル中かよ、早とちりしたかも。そう思って顔を上げたバリーはすぐに後悔した。
辛うじて悲鳴を飲み込んだ自分を讃えたい。男の見た目はその——なんというか——すさまじかった。顔を含めて全身に飛び散っている黒い斑点は血だろうか? かなりの時間が経過して酸化し黒ずんでいる。それだけじゃなかった。男の全身は砂や泥や煤に塗れ、元の服の色が辛うじてわかるぐらいに汚い。
バリーは言葉を失い、男の顔をまじまじと眺めた。鼻や口の周りには出血したと思しき痕跡があり、特に鼻の骨なんかは途中で変な方向に折れてしまっている。だが、それらの要素がなければ、かなり整った顔立ちをしているような気がする。こいつは何者だ? 何をしてこうなっちまったんだ?
長く見つめすぎたらしい。男の瞳に怪訝な色が浮かび、バリーが特に凝視していた鼻に触れて顔をしかめる。男は折れ曲がった部分を掴んで下を向き、ボキッと躊躇なく逆方向へ折り曲げた。
「ヒッ」
次に男が顔を上げると、鼻がまっすぐに戻っている。
「邪魔をした」
そう言って腰をかがめ、地面に置いていたらしい麻袋を背負い直す。向こう側へ歩いていき、角を曲がって姿を消したところで、バリーはようやく銃から手を離すことができた。
「何だったんだよ一体……」
変な人ではあったが不審者ではなかった。しかし怖かったことには変わりないので、放心している暇があったら一刻も早く閉店作業に取り掛かるべきだ。バリーは拳銃をカウンターの奥へ仕舞おうとして、安全装置をかけ直したか不安になった。手の震えが収まっていなかったせいだろう、引っ張り出したところで取り落とし、道路の上に落としてしまう。慌てて拾い、安全装置がかかっているのを確認して安堵の息をついた。
その瞬間、件の男が姿を消した方向から足音が聞こえてきた。そちらへ顔を向け、バリーは慌てて銃をカウンターの奥へ押し込む。さっきのクソきたねえ男だ!
「まだ開いてるか」
「えっ?」
彼の口から発せられた言葉が理解できずにバリーは聞き返した。男は再びカウンターの前に立ち、同じ言葉を繰り返した。
「店はまだ開いてるか」
——なんてこった。こいつはなんと、俺の店のアイスクリームを買いにきたらしい。
本音を言えば店仕舞いだと追い返したかった。が、売上が発生するなら奴は客だ。邪険に扱うわけにはいかない。バリーは頷き——しかし拳銃からは手を離せないまま——営業用のスマイルを浮かべることに成功した。
「ちょうど閉めようと思っていたところだが、あんたのためにまだ開いてることにするよ」
「そいつはよかった」男が無表情で答える。
「よし。フレーバーは何がいい?」
カウンターの上にメニュー表を置くと、男は文字を見るために身を乗り出した。同時に、背負っていた麻袋を地面の上にどさっと落とす。
「いてっ!」
——ん?
目の前の男じゃない、第三者の声が聞こえたが気のせいか? いやいや俺も歳を取ったものだ、幻聴を耳にしてしまうなんて……。
男の指がメニュー表の一点を指差した。
「キャラメル——」
「チョコチップ」
「……ん?」
また幻聴だろうか? こいつはキャラメルと言ったはずなのに、チョコチップという声も聞こえた。しかし、男はキャラメルの上に置いていた指をチョコチップへ移動させたのである。
「チョコチップをひとつ」
「いいやふたつだ」
「えっ」
ここまではっきりと聞こえるならさすがに幻聴じゃないぞ。男のほうから声がふたつ聞こえる!
幻覚じゃない証拠に、男の眉間に皺が寄る。バリーはびくびくしながら聞き返した。
「悪い、チョコチップが何個だって?」
「ひとつだ」
「ふたつで」
「えっ?」
男の眉間に作られた皺の数が増え、体が激しく左右に揺れた。下方で重い物を蹴り上げる音。
「アウチ!」
ほぼ同時にくぐもった悲鳴が聞こえた。誰の声でもない、男は唇を真横に引き結んでいるのに——クソ、悲鳴を上げたいのは俺のほうだ。とっとと金を払ってどっかに行っちまえ!
「わ……わかった。チョコチップふたつだな、すぐに用意するから少し待っててくれ」
「ひとつで……」
男が訂正しかけたのを無視してディッシャーを手に取る。水に濡らしてチョコチップアイスをすくい、綺麗な球に整えてカップの中にひとつ。別のカップにももうひとつ。最後にスプーンを刺してカウンターの上に出せば、男は反論する気が失せたようだった。
しゃがんで束の間姿が消え、再び立ち上がった手には財布が握られている。ファスナーの持ち手からハローキティのキーホルダーがぶら下がっていた。……本当にこいつの財布なのか? いいや絶対にこいつの趣味じゃない。じゃああの麻袋の中は、それに時折聞こえた謎の声の正体は……。バリーは顔から血の気が引き、気が遠のきかけたのを、カウンターの端を掴んで耐え切った。
「店を閉める間際に邪魔して悪かった」
会計が済むとそう言い残して男は去っていった——アイスの入ったカップを持ち、例のごとく麻袋を背負って。袋の底が黒ずんでおり、何某かの液体がぽたぽたと滴り落ちているのをバリーは見なかったフリをして、大急ぎで閉店作業に取り掛かった。
「何だったんだチクショウ……!」
俺は幽霊にでも会ったのかもしれない——あるいは犯罪か? いずれにせよ俺の理解が及ばない恐ろしい何かだ、とにかく考えないようにしよう。
一日の終わりに本当に酷い目に遭った。一刻も早く撤収してやる、そしてこの地域には二度と来るもんか!
「アイスが溶けちまう」
非難の声が聞こえたので、ローガンは立ち止まると左肩に背負っていた袋を掴んでひっくり返した。
無論、さっき買ったアイスは近くのベンチの上に置いてだ——逆さまになった麻袋から次々と中身が転がり落ちる。かつてウェイドだった右の脛、ウェイドだった右大腿、ウェイドだった左腕と左足と腹部と臀部と以下略。辛うじて繋がっていた頭と胸部と右腕が道路の上を転がり、標識の柱にぶつかった。
「いてえ!」
悲鳴を上げるもすぐに起き上がり、ウェイドは体のパーツの間を縫って片腕で這い回る。
「あちゃー、これは久しぶりに派手にやってもうたなあ。あはは」
「てめえで何とかしろ……」
答えるローガンの顔も呆れや嫌悪で歪んでいた——異様な光景だ。切断された人間が元気に動き回っている。辺りには持ち主の元から切り離された生身のパーツ。彼が這った後には赤黒い血痕が残った。
ローガンの返答を聞いたウェイドが非難の声を上げる。
「ケチ。ひとりだと厳しいから手伝ってくれると嬉しいな。要するにジグソーパズルだ」ウェイドの右手が左腕を掴み、左肩に押し当てて仰向けに寝転がった。「固定しなきゃいけないから俺ちゃんもう動けねえ。あとは頼んだウルヴィ」
「クソ野郎」
「褒め言葉? ありがとう、あんたも最高にイケてる」
舌打ちをするにとどめた。文句を言っても状況は変わらない。ローガンは溜息をつき、ウェイドのパーツを拾うために膝をついた。
程なくして自身の足元に転がしたウェイドは、一応は人体の形を取り戻した。ベンチに置いていたアイスは大部分が溶けてしまっている。ウェイドはこの間に接合が完了したらしい両腕を掲げ、ベンチに腰掛けるローガンへ手のひらを向けた。
「アイスちょうだい」
「食えるのか」
「寝たまま食ってやる。おっと、ひとつはあんたのだ。俺ちゃんのおごり」
忙しなく開閉を繰り返す右手にカップを持たせてやる。ローガンの手とカップにべったりと血が付いた。ウェイドの右手はカップを握りしめたものの、いっこうに腕を下ろそうとしない。
「ローガン」
「何だ」
「今日はマジでお疲れさま」そう言ってウェイドがカップを左右に揺らす。「本当に疲れた。ようやく終わったな」
「……ああ」
ローガンが腰をかがめ、カップの縁同士をぶつけてウェイドはようやく腕を下ろした。胸の上にカップを置き、スプーンでぎこちなくすくってからマスクを下ろしていないことに気付いたらしい。片手で苦心しながら鼻の上まで引き上げ、スプーンを舐めて満足げに笑った。
「うまいけど溶けてら。さすがにこれだけ時間が経ってればな、しょうがない」
ウェイドにつられてローガンもスプーンを摘んだものの、食べる気にはなれなかった。好き嫌いや食欲の問題ではなかった。彼の目は目の前のアイスではなく、足元のウェイドに向けられていた。
ほんの数十分前まで彼は今の姿ではなかった——ターゲットもろとも爆発に巻き込んだ代償として、ローガンが運んできた麻袋の中で死体同然と化していた。爆発で吹き飛んだ彼の体を拾い集め、袋に詰めて街をさまよい歩いている間、袋を提げた左肩が異様に軽く感じられたのをローガンは思い出した。食わずじまいになりそうなアイスを脇に置き、身を乗り出す。
「——ウェイド」
「ん?」ウェイドはスプーンを咥えたまま首を傾げた。「どったのローたん」
「お前は普段からこうなのか」
「こう、って?」
彼の体を覆うスーツの腹部には巨大な穴が空いている。午前中の任務で無鉄砲な突撃を決行した結果、相手にライフルで撃ち抜かれたのだ。冷静に対処していれば回避できる事態だった、しかしあのときも彼はローガンの静止を聞かなかった。
「ひとりで戦うときも無鉄砲に突っ込んで、自分ごと敵を吹き飛ばすのか」
「あー……」
ウェイドはスプーンを口から放し横を向いた。奇妙な間だった、四六時中饒舌なウェイドの態度からすれば。
「……ひとりのときは多少気を付けてる。回復中は無防備になるし、動けなくなるのも面倒だし」
「俺がいたからあんな真似をしたのか?」
「んーどうだろ、気分の問題?」声のトーンが上がり、ウェイドは普段の調子を取り戻したように捲し立てた。「無性にムシャクシャしてスッキリしたいときってあるだろ。何もかもがメチャクチャで複雑で面倒になってもう収集がつかねえ、けど俺ちゃんがちょーっと頑張れば一気に解決! みたいな——」
「ウェイド」
話し声がぴたりと止む。
「ウェイド。俺の目を見て話せ」
地面へ頰を押し付けるように横を向いていたウェイドの顔が、ぎこちない動作で正面に戻ってきた。明るい声色とは裏腹に彼の顔は全く笑っていなかった。マスク越しにローガンと目を合わせたウェイドは、わざとらしく小首を傾げて唇を笑みの形に押し上げる。
「ウルヴィ。——なんて顔してるの」
膝の上で頬杖をついたまま何も答えないでいると、ウェイドの唇からふっと笑みが消える。
「あれはあんたのせいじゃない。俺が必要だと思ってやったことだ。俺は……人間じゃないしな。プラナリアとブロブフィッシュとゾンビで3Pした結果生まれてきたようなもんだ。だろ?」
無言を貫いた。
……回復能力だけはあんたと共通、とウェイドは続けた。「ご覧の通り、爆発四散しても自力で再生可能ってワケ。だけど今日はあんたがいてくれて助かった。俺ひとりじゃ、ここまで綺麗にくっつけられなかっただろうからさ」
「ウェイド」
「うん」
名前を呼ばれたウェイドは微笑んだ。またこの顔だ。形式ばった笑み。これ以上の会話を拒んでいる。
「……お前が、俺の前でそうやって気を抜いてくれるのは嬉しいが——」
冗談だと思ったらしい、あるいはそうだと思い込んだ。彼は小声で笑った。「そうだろ。俺ちゃん、推しの前では幼くなっちゃって甘えん坊なの」
「お前はもっと自分のことを気にかけるべきだな……」
——続く言葉が見つからない。慣れないことはするものじゃないとローガンは低く唸り、だが止めるわけには、投げ出すわけにはいかなかった。絞り出すように続きを口にする。
「後で戻るとしても、傷を負った事実は覆らない」
見下ろす顔から笑顔が消えた。
束の間黙り込み、「なにそれ」とウェイドが低い声で呟いた。「あんた何言ってんだ」
「自傷の目的は肉体を傷付けることじゃない」
「自傷?」嘲笑いながら彼は吐き捨てる。「俺は人を殺してるだけだ。そんなことしてないだろ」
「してる。お前のやり方は心を駄目にする」
誰に言い聞かせているのかわからなくなりそうだった。ローガンが描写しようとしているウェイドの姿は過去の自分そのものだ。
「お前を否定しているわけじゃない、体をバラしたいならいくらでもすればいい。だがお前の内側はどうなる」
目を伏せると眼前に過去の光景が鮮明に蘇ってくる。あれは肉体ではなく魂の破壊だった。堕落と絶望を象徴する琥珀色の液体、その水面に映る自分は、どんな顔をしていたのだったか?
「回復能力ありきでもいつか限界が来るだろう。……お前ほどの実力があれば、あの自己犠牲は必要じゃなかったはずだ」
今度は言い返してくるまでに間があった。
「無理はしてない」
「表立って見えないだけだ……おい、ウェイド」
彼が再び横を向こうとしている。今度は体ごと動かそうとしていたが、下半身が繋がっていなかったために未遂に終わった。悪態をついて仰向けに戻る。かと思えば、俊敏な動きで近くにあるローガンの脛を殴った。しかし体に力を入れられないせいだろう、全く衝撃を感じない。気の抜けた軽い音が鳴っただけだ。それでもウェイドは力無く、スーツに覆われたローガンの脛を叩き続けた。
「なんだよ、本音ならちゃんとあんたの目を見て言った、何を言われても俺のスタンスは一ミリも変えねえからな。全部俺がやったことであんたのせいじゃない。だからあんたに心配される筋合いはない——」
声を荒げたウェイドが不意に沈黙した。深い溜息をつきながら両手でマスクの目元を覆い、唸り始める。
「……捨てられた猫みたいな悲しい顔すんなよ」
「してねえ」
「あっそ。はあー……」
長い沈黙だった。顔を覆ったまま片方の手がローガンの脛に触れ、乱暴な手つきでさすってくる。しつこかったので振り払った。ウェイドは自身の手の甲を撫でながらローガンを見上げ、への字に曲げていた唇を億劫げに開いた。
「ミスター・ウルヴァリン。このたびはご迷惑をおかけして誠に申し訳ございませんでした。このデッドプール、心から深く反省しています」
「本心か?」
「マジ。大マジよこの通り——ってああっ! 俺ちゃんのアイスーッ!」
ウェイドが自身の胸を叩いた拍子に、胸の上に置かれていたカップがぐらりとずり落ちる。止める間もなかった。ウェイドの手からすり抜けたカップが転げ落ち、ほとんど液体と化したアイスが地面にぶち撒けられる。
ローガンは溜息をつき、自分のカップを差し出した。
「やる」
「あんたのだろ」
「甘すぎて食えねえ」
「……明日は『ドクター・ストレンジ』のメイキングでストレンジが落としまくった棍棒が空から無限に降ってくるンミィー!」
下腹部を思いきり踏みつける。鼓膜をつんざいて響き渡った甲高い悲鳴に、ローガンは顔をしかめながら足を下ろした。
「要らないなら捨てる」
「食う食う。はは、これじゃあ食うってより飲むだな。ありがと」
ウェイドは肘をついて上体を支え、液体と化したアイスを飲み干した。ある程度の回復は済んだらしい。
「あとどれくらいでくっつきそうだ」
「もうちょいかな。すぐには歩けないかも」
「わかった。袋に詰めて持ち帰る」
「サンタクロースかよ? ——いいやサンディ・クローズ! 実在したのか」
「誰だそいつは」
「『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』を見たときからあんたに会うのが長年の夢だった。会えて嬉しいよ、握手してくれ」
ローガンは溜息をつきながらベンチから腰を上げた。こちらに向かって伸ばされた右手を掴んで引き、立ち上がるのを支えながら腕を自身の首の後ろへ回す。途端にウェイドが悲鳴を上げて脇腹を押さえた。
「こぼれた。ちぎれる」
両手を掴んで肩の上に置いてやると、意図を察したウェイドが背中にもたれかかってきた。膝の裏に腕を通して持ち上げる。居心地が悪そうにウェイドが身動ぎ、結局は左肩の上に顎を乗せて安定したらしい。安堵の溜息が耳元で聞こえた。
「明日はマジで槍が降る」
「腹が破れそうになったら言え。……今日みたいな無茶は二度とするな」
例のごとく沈黙が返ってくる——ローガンとて返答は期待していなかった。歩き始めるとウェイドの手が首の前へ回り、躊躇ったように宙を彷徨ったあと、鎖骨の上を撫でてきた。
「……約束するよローガン。これからは無闇に突っ走らないようにする……検討可能な範囲で」
ローガンは軽く目を見開いたあと、緩みかけた唇を引き結んでウェイドを睨みつけた。
「検討可能な範囲? 駄目だ、信憑性が低すぎる」
「じゃあ臨機応変な判断に基づく行動」
「却下だ」
「オイ、こっちがあんたに妥協してやってんだ。黙れよ砂爪野郎」
「やってみろ。振り落としてやる」
ウェイドは慌てて首を振った。
「これからはひとりで突っ走るな。いいな」
「わかった、わかったよ、俺の負け。——かわいいクズリちゃん……」
そう囁いて彼が首筋に頰を押し付けてきた。先の威勢の良い態度とは打って変わり、今にも消え入りそうな声だった。首元をくすぐる吐息は彼の頬同様に熱く、微かに血の臭いが混ざっている。
「……どうした」
「帰ろう。ローガン」
ふざけた調子のない、低く落ち着いた声でウェイドが囁いた。
「明日はTVAの奴らと世界を救う仕事が待ってる」
あんたも来るだろ。そう呟いたきり黙り込み、やがてがくんと首が落ちた。全身が一気に重くなったので、眠るか気を失ったかしたのだろう。体力も気力もとっくに限界を迎えていたらしい。そんな状態でよくべらべらと喋れたものだ。
ローガンは視界の隅に映るウェイドの頭を見、ふと頭上を振り仰いだ。
都会ゆえに星はほとんど見られない。真っ黒に塗り潰された夜空がこちらを見下ろし、冷たい夜風が頰や肩の上を通り抜けていく。
ローガンの世界は急に静かになった——だが、背中に感じる体は重くて温かかった。
ウェイドの体を抱え直し、ローガンは夜の街を歩いていった。
× × ×
■07:00 A.M.(Next week)
ピピピッ。日曜日、朝の七時。
扉のプレートを返してティムは店内に戻った。母は厨房の奥でパンを焼いているらしく姿が見えない。レジに立って間もなく、本日第一号と第二号の客が扉を押し開けて入ってくる。
「この前パンを買ってきてくれたお店ってここ?」
「ああ」
「へえー。こんなところにあるなんて知らなかった」
朝一から面倒くさそうなのが来た——ティムは表情に出さず胸の内側で叫んだ。背が高いせいか、何となく威圧的な雰囲気を感じる二人組の男。ひとりはキャップを深く被った上にパーカーのフードを重ね、徹底的に顔を隠している。明らかに柄が悪い、つまり得体が知れなくて男の俺でもちょっと怖い!
対して、彼の後から入ってきたもうひとりの男はまあ……休日のラフな格好をした普通のおじさんという感じだ。その組み合わせがちぐはぐで余計に目立つ——後から入ってきた男の顔を見てティムは首を傾げる。既視感を覚えたのだ。以前、どこかで見たことのあるような……。
フードの男がトングとトレイを持って店内を回り始めた。その後ろを例の男がついていく。フードの男が背後を振り返って彼に問いかけた。
「何が食いたい?」
「お前と同じやつでいい」
「じゃあ前と同じのを食いたいんだけど、何ていうやつだったの」
「忘れた」
返答を聞いたフードの男が項垂れる。
「おいおい、しっかりしろよローたん。ほんの一週間前だろ……」
「——あんたらがこの前食ってたやつね、今ちょうど焼き立てを出せるから!」
突如として厨房から上がった母の声に、ティムは二人組の客と一緒にびっくりして振り返る。母は鼻歌を歌いながらクロックムッシュを並べたトレイを持ち、厨房とレジを隔てるカウンターの上に置いた。
「ほらティム、包んであげて」
「そうそう、これ! もしかしてこいつの顔を覚えてたの?」
フードの男が片割れを指差しながら母に問う。それでティムもようやく思い出した。先週うちでクロックムッシュとコーヒーを買っていった、スタイルの良い謎だらけの人だった! あのときは不思議な格好をしていたし、ひとりで来ていたので、今日の普段着姿と相まってなかなか結びつかなかったのだ。
「当たり前でしょ」問いに対し、ティムの母はカウンターに両肘をついてにやりと笑った。「一度来た客の顔は全部覚えてる」
「ワオ、すごい。俺も見習いたいよ」
「兄ちゃんの顔は見えないけど、たった今声で覚えたからね」
「おお……」
ハハ、と笑った彼はキャップのつばを掴み、より目深に被り直す。
「びっくりして照れちゃいそう。今後ともよしなに、ボス」
「ボスなんてよしてよ、どうもご贔屓に。そっちの兄ちゃんもね」
「はあ……」
「兄ちゃんだって、よかったなローガン」
フードの人が笑いながら隣の男性を肘でつついた。途端に顔をしかめた様子を見て不思議な気分だった。笑っているのを想像できない、生真面目そうな人が調子を狂わされているのがちょっと面白い。性格が真逆そうというか、見た目は怖いけど明るい感じの友人がいたなんて意外だった。あるいは真逆だからこそ、かえって気が合うのだろうか?
焼きたてのクロックムッシュをふたつ包みながらふと気付いて言う。
「コーヒーはいりますか?」
「確かに飲みたい気分かも」小さな財布——ハローキティのキーホルダー付き——を開いていたフードの人が答えた。「ふたり分で。あんたも飲むだろ」
先ほどローガンと呼ばれた人が頷いた。ティムが空のカップを置くとふたつとも手に取ってバリスタへ向かい、その間にフードの人が会計を済ませる。
コーヒーを淹れ終わるまでふたりはずっと話し続けていた。組織がどうとか、次の仕事がどうとか、今日はこれから何をして過ごそうとか聞こえてきて、仕事でもプライベートでも仲が良い関係なのだと知る。
平和だなあ、幸せだなあ。漠然と浮かび上がってきた温かな感情に、ティムの口元が自然と綻ぶ。何度も来てくれる人もいるけれど、この仕事における客との接触、邂逅は一瞬だ。けどその一人一人に人生があって、友人がいて、それぞれの日常を送っている。それら日常のほんの一コマ、ほんの一瞬を彩るものに自分が関わっていられるのはどんなに素敵なことだろうと、ティムは働いていて気付く瞬間がある。だからティムはこの仕事が大好きだし、レジ打ちと簡単なパン作りしかできない見習いではあるが、誇らしく思うのだ。
ふたりが出ていく直前、普段ならしないことだったのに、ティムはその背中へ声をかけていた。
「よい一日を」
扉の向こう側へ行きかけていたふたりが振り返る。余計な言葉だったかと尻込みしたのは一瞬だけで、両手に紙コップを持って肩で扉を支えていたローガンさん(そう呼んでいいよな?)が、横に引き結ばれていた口元をわずかながら緩めたのが見えた。フードの人——今度来たときにさりげなく名前を聞き出そうとティムは誓った——の顔は大部分が隠れていたけれど口元は見えたし、何より動作のすべてで感情を伝えてくれた。彼は袋を抱えていない右手でピースサインを作り、大きな声で言い返してくれた。
「——よい一日を!」
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