夜半というにはまだ早く、かといって日が落ちてからもうそれなりの時間。いつものように同居している兄と夕飯を食べてすこし休憩してから、風呂を順番で入るくらいの時間。先に湯を貰った一彩は、髪を乾かしてからベランダに出た。理由は単純で洗濯物を干すため。昼間は一彩も燐音も基本家にいないから、洗濯物は夜の間に乾かして朝に取り込むことが多いのだ。
Tシャツとかタオルとか、生活感あふれる濡れた布たちをハンガーや挟みを駆使して物干し竿に吊るしていく。とはいえ毎日怠らずにしていれば干すものがたまることもなく、十数回作業を繰り返せばもうベランダでやることはなくなった。他にやることはと脳内で探してみるも、家事も仕事も勉強もやるべきことは終わってしまっている。一仕事終えた一彩を労わるように、涼しい夜風が頬をさらい、洗濯物をはためかせて抜けていく。その心地よさに軽く息ついて、少しだけ伸びをすれば、視界の中に満月よりも少し欠けた月が見えた。雲も少なく、夜空に穴をあけたようなまっさらの光はなにものにも遮られていない。
今日の月は、天候的にも月齢的にも綺麗に見える。あとで兄にも教えてあげようか。星がよく見えない都会では月の光こそが夜空の中で人を導く唯一の明かりになりえる。好きか嫌いかは分からないが、事実を述べるだけならまあ、無関心な返事を一つ寄越されるだけだろう。
ちょっとした話題の種は手に入れられたが、もう月の観測は必要ない。ただ美しいだけの光は、一彩にそれ以上の感慨を生まなかった。
こういう、何をするべきでもなくやることもない空白の時間が、一彩は苦手だ。やることがあれば余計なことを考えたり物思いに呑まれることもなく充実感や達成感があるのだが、突如降って湧いたようなぽっかりと空いた時間はただただ無駄だと思ってしまう。余暇というほど纏まった休みでもなく、けれど日常の次のサイクルへ移るにはまだ早い。暮らしの中で余ってしまった時間。普段ならこういうときは結局暇を持て余して勉強や自主練に取り組むことが多い。確かに今日の月は綺麗だが、このままぼんやり眺めていたってなんの成果も生まない。今回も例に漏れず、部屋に戻って先々の予習でもしようかと思ったときだった。
「おっとーとくん」
跳ねるような声音で、突如後ろから声をかけられる。振り返ってみれば、とっくに風呂から上がったのか髪も乾いて湯上がりの名残など何一つない兄が窓枠に手をかけ、覗き込むようにして半身を乗り出していた。風呂上がりに飲もうと思ったのか、片手にはビールの缶を持っている。
「なに黄昏てんの?思春期?」
「年齢的に僕は思春期だろうけど、別に黄昏てはいなかったよ」
「じゃ何してんの」
「洗濯物干してたんだ。それで月が綺麗だと思って」
「あら情熱的なことで」
「僕の今の発言のどこが情熱的なのかな」
「知らねーならいいわ」
「教えてよ」
「後で自分で調べてみな」
はぐらかしながら燐音はベランダ用の外履きスリッパに足をつっかけて、一彩の隣に立った。おーよく見えンな、と投げ渡すような感想を言って夜空を眺める燐音に、一彩は少し驚く。
「なんで出てきたの?」
「ん〜?気分?」
「湯冷めするよ」
「そりゃおめーもだよ」
気まぐれを起こしただけなのだろう。燐音はベランダの手すり壁にもたれかかって、カシュッとビール缶のプルタブを開けた。喉を鳴らしてビールを飲んでしばらく居着く気がある姿に、なんとなく部屋に戻りづらくなって仕方なく一彩も再び月を見上げるが、相変わらずの冷たさがあるだけ。無意味だと思いながら燐音をちらりと見れば、燐音もすぐ視線に気づいた。ビール缶を呷りながら、物問いたげな眼差しを向けられる。それに後押しされて思っていたことを素直に口にした。
「……つまらなくない?」
「別に。つまんねぇの?」
「非生産的だと思う。綺麗だとは思うけど……やることもないし、僕は部屋に戻ろうかな」
「戻って何すんだよ、もうやることねぇんだろ」
「うーん……予習とか、寝るとか。兄さんは月見酒を楽しんでいたらいいと思う」
「ビールで月見酒とか風情ねェなぁ」
燐音はからりと控えめに笑う。そしてまた一口流し込んだ。
「暇なんだろ。しばらく付き合えよ」
「それは構わないけど、外は暑いから中に戻ったほうがいいんじゃない?」
「お前は平気そうじゃん」
「風が吹いたら涼しいからね。でも、いつもお酒飲むと暑いって言うじゃないか。冷房が効いた室内の方がいいと思うんだけど」
夏だから暑いのは仕方ない。風があって比較的涼しいが、じわりと汗が滲んできている。もう風呂に入ったのに、これでは本末転倒というか、何をしているやら分からなくなる。
そう思っての提案にも関わらず、燐音は眉をひそめた。そして軽くため息をついて、また月を見上げる。視線は月明かりに向けたまま、徐に口を開いた。
「あのさぁ、さっきから非生産的とか俺が暑いとか、そんなことばっか言ってっけど。お前はどうしてェんだよ」
「僕?」
「そ。お前はどうしたいんだ?月を綺麗だと思ったんだろ、部屋に戻るのをちょっとの間でも後に回すくらいにはさ」
「……うむ」
一彩の相槌を聞いて、月を見ていた目線は手元の缶に移される。もてあそぶように縁を指で撫でながら、噛んで含めるようにつなげる。
「弟くん、こういう暇な時間苦手だよな。さっさと寝てたり勉強してたりさァ、真面目にも程があんだろ」
「でも無駄なことをしたって意味がないから」
「……そうだよな、お前はそんな奴だよ」
その言葉は、燐音が燐音自身に言い聞かせるかのようだった。手元の缶が呷られ、その嚥下と共に飲み込まれた兄の心情。一彩は、自身の返答が燐音の望んでいたものでは無かったことを悟った。
「……月を眺めるだけなのは無駄だと思うけど」
嘘は言わない。それは一彩が決めた事で、燐音も望んだ事だ。だから、どんなに合理性だけで凝り固まった思考だろうが、一彩自身が思ったことであればもう隠さないでいようと、同居を持ちかけられときに決めた。
月を見るのは無意味だと思う。けれど、思うことはそんな味気ないことだけじゃない。
「洗濯物を干して、月が綺麗で……」
「……で?」
燐音は拗ねたような声音で続きを促す。
続きを言いたくないわけじゃないが、内容が内容なので些か恥ずかしい。一彩は小さく唾を飲み込んで、燐音から視線を外した。
「兄さんと、見られたらいいなって。後で教えてあげようと思ったんだ」
兄さんは興味ないと思ってたけどね、と付け加える。綺麗な月とか夜空とか、燐音の琴線には触れないと思った。だから、一緒に見たいと思っても無理に誘うことはしなかったし、子供が親に拾った石を見せるように綺麗だったよと言うだけにしようと思っていた。
一彩の言葉を聞いているはずなのに、隣からはなんの反応もない。横目で窺えば燐音は瞠目してぽかんとしていた。それがすこし滑稽に見えて、くすくすと笑ってしまう。
「僕は月そのものに興味はないんだ。でも、兄さんや仲間と見られるのなら、話は別だよ」
じとりと汗が背筋を伝う。風が吹かなくなってきたので、部屋に戻ろうと閉められた窓を開けた。からから鳴る滑車の音が夏の夜にくぐもる。つけっぱなしだった冷房のおかげで、快適な涼しさが一彩を迎え入れた。部屋に上がって燐音を振り返れば、まだ少し理解が追いついていないらしくただ黙っている。
「部屋の中からでも月は見える。僕もなにか飲み物を持ってくるから、兄さんの晩酌に付き合うよ」
そして奥へと引っ込んでいった一彩。燐音はしばらくその背を眺めた後、まんざらでもなく薄く笑って、仕方ないとでも言いたげに溜息をついた。そして同じように部屋に戻って、からからと窓を閉めた。
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風呂あがりに酒、と上機嫌で冷蔵庫から至福の缶を取り出して、るんるん気分でリビングに向かえば、窓が薄く開いているのに気付いた。閉め忘れか?と近づいて、ようやくベランダにいる一彩の姿が視界に入る。洗濯物でも干していたのだろう、空のかごを抱えたまま十六夜月を見上げていた。その表情も心模様も分からない。贔屓目に見たって鍛えている男子高校生の後ろ姿は攫われそうとかそんな儚げなタマではないが、それでもどこか寂しそうに見えた。
一彩は何もない時間が嫌いだ。やることもするべきことも、考えることもない。この生真面目な弟は、そんなのんびりしても良いゆとりをすぐに無駄だと判断する。そして自己研鑽に走る。都会に出てきてからはそんなことも少なくなったが、まだまだ自然とそんな行動回路を取ってしまうのだ。もっとゆっくりすればいいのに、とユニットの仲間達が言っているのに、何かしてないと落ち着かない、と走りに行ったり勉強したりする。才能あるのに努力も怠らないとかずるい、と藍良から筋違いの八つ当たりをされていた弟を見たのはついこの間だっただろうか。生来、活動的なタイプなのだろう。元気なのは良いことだ。動けるうちに目一杯動けば良い。だが、それが遊びでもなんでもなく、暇つぶしで娯楽の一つでもないのなら、それはちょっとどうかとも思う。
隙があれば、何かしらをしている弟。同居するようになってから、ゆっくり二人で過ごした時間は数えるほどしか無い。向かいに座って一緒に飯を食べても、隣に座ってテレビを見ても、きっかけ無しにぐしゃぐしゃ髪を掻き回したって嫌がっている様子は見たことがない。といって、だらだらと雑談を引き延ばしたり、ただ黙って空間を共有したりしたことは、殆どない。
遮光カーテンの向こう側で、じっと月を見上げている。一彩が何に心動くのか。その事実と感想は沢山の笑顔と共に語られる。
先週の仕事で。昨日のレッスンで。今日の学校で。さっき、ベランダで、こんなことがあった。驚いた。嬉しかった。楽しかった。
過去形で語られる光景と感情。その驚嘆と感動に輝く瞳を、俺は見たことがない。
せっかく、一緒に暮らしているのに。まだ一線引かれているような緊張がもどかしい。規則正しい模範的な生活は息が詰まらないのだろうか。こうしたいああしたいと言ってみたくならないのか。事実だけではなくて、自分一人の感覚というだけで完結しないで、共有したいと思ってほしい。
もっと、お兄ちゃんに構ってくれてもいいんじゃねぇの?
絶対弟にはバレたくない子供じみた拗ねる気持ちに、内心自嘲する。一彩がこういう人間だというのは知っていたはず。そして自分がだらしない人間側だというのも把握している。一致しない生活への認識と時間の使い方についても承知していたはずだ。その中で、隣り合う時を共に過ごせたらそれでいいと納得したはずなのだが、どうにも人というのは欲深くていけない。
もっと隣に、側に、いっそ重なってしまえたら。より深くなる求めの喚び声の出所は、他でもない自分だ。
せめて同じ月を見上げられたら。からかう素振りでベランダに出て、気まぐれを装って缶を開けた。
だというのに、一彩はすぐに部屋に戻ろうとする。
そんなに俺とは居たくねぇのかよ。別に良いけど、好きにしたら良いけど。お前がいなきゃ、俺にとっては月なんてただの丸い明かりなんだよ。
ここにいろよ。ちょっとでいいからさ。
いじけた心がどんどんこじれるくせに、言葉になんて絶対出来ない。自分が本格的に拗ねていくのが手に取るようにわかる。
あーもう今日はダメだ、ダメな日だ。
風呂上がりのご機嫌さはどこへやら、すっかり気落ちしてしまう。なんとか平静を装っても、無意味に手元の缶をもて遊ぶばかりで、この後の一人酒がやけ酒に変わることをぼんやり考えていた。
「兄さんと見られたらいいなって」
そんな一彩の一言を、一瞬理解できなかった。だってお前は、そんないじらしい奴じゃないと思ってたから。まさか一彩の情緒が俺に起因しているなんて、思いもよらなかったから。拗ねる気持ちの裏で、そうだよな、と納得していたから。重なるところなんて無いと諦めていた。
想像外の言葉に、そのままビールを飲むことも忘れてぽかんと馬鹿みたいに呆けていれば、一彩は控えめにくすくす笑って部屋の中に戻っていく。晩酌に付き合う、とキッチンに引っ込んでいく直前の言葉。
まだ俺といたいと思ってくれていたのか。俺は興味がないだろうと飲み込んだ願いを聞かせてくれた一彩は、仕方ないとでもいうように、眉尻を下げていた。
面倒で鬱陶しい構って欲しがりな兄を、こんな風に程良く甘えさせてくれるのなんて、一彩ぐらいしかいない。兄さんと、という偽らざる本音がなにより俺を喜ばせているなんて、一彩は思いもよらないのだろう。清廉に見えても燐音の弟ということか。一彩の小さな欲が燐音の願望と一致する。偶然、というよりも相性による符合。
良かった。俺たちにも重なるところがあった。
一彩が見えなくなって、胸を撫で下ろした。
早く部屋に戻ろう。きっと何か肴も持ってきてくれるはずだ。こと俺に関しては変に気が利きすぎるきらいもある一彩。未だ理解が及ばないことも多いが、それも共に過ごす時間を増やせば反比例して減っていく。突き詰めても埋まらない溝は、それはそれとして受け入れられたらそれでいい。
からからと窓を開けて、ちょうど良い塩梅に冷えた室内に戻った。
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