삐약さん翻訳
2024-09-20 16:00:00
16046文字
Public
 

彼は進む。





 初めて愛を告白したとき、胸の高鳴りや昂揚感より恐ろしさのほうがはるかに上回っていた。初めて抱いた真摯で純粋な心が、万が一にも拒絶に遭って踏みにじられるのが怖かったからだ。だが幸いなことに、彼女は受け止めてくれた。自分が好きだった明るく涼やかな笑顔で応じ、告白を受け入れてくれた。愛する人と共にする出来事はすべてが初めてのようにぎこちなく、それがまた思い出となった。思い出は心に保存される。保存された思い出はタイムカプセルのように取り出して眺めることができたが、その対価は凄絶の一言に尽きた。

 包帯をゆっくりと彼の腕に巻いていたジェイムスは、もう包帯の余分がないことに気付いた。不規則に削除された記憶、幸いにも現世での記憶は完全に残っていた。そろそろまた記憶が消されるだろうか。一度目を瞑って開いたジェイムスは来たるべき危機に体を震わせた。また生存者たちと互いの名前を明かし、出身地も明かし、あの邪神の配下たちの名前を覚えなおすのにあくせくするのだろう。どんなに嫌だと抵抗しても、すべてを消されてふたたび始まる瞬間、この苦痛に満ちた感情さえも消えてしまう。だからこそ、このあらゆる瞬間がひたすら物悲しく感じられた。



「何を考えてらっしゃるんですか?」

「──医療キットが終わったね。また箱からいいのを漁ってこないと。もちろん、脱出できればの話」

……



 言葉を無視されたのが気に食わないのか、レオンが口をへの字に曲げる。暗い考えを共有したところでいいことなどない、憂鬱が伝染するだけだとジェイムスが判断したからだ。首を巡らせる。みんなが焚き火の周りに集まっていた。いったいどこで手に入れてきたのか、メグがマシュマロをちぎって焚き火で炙っている。甘く焼ける匂いが香水の残り香のように漂う。砂糖の塊であるマシュマロが、ジェイムスは昔から好きでなかった。けれどもなぜかいまは無性に食べたくなって、結局メグと一緒に炙っていたドワイトに頼んでみる。「まだ欲しかったらここに置いておくから食べてね!」 おかげで自分の前にはマシュマロが山と積まれてしまい、食べたかったのは確かだがいざとなると扱いに困って、シェリルのところへ向かう。文句を言いながらも、シェリルはほどよく焼けて茶色く美味しそうにコーティングされたマシュマロを前にごくりと唾を飲みこんでいる。困ってるようだから食べてあげるわと言いつつ、ほとんど半分を平らげてしまった。舌がひりつくほど甘い。働いていたころ、ただでさえ甘ったるいミックスコーヒーに砂糖を入れて飲む人が理解できなかったものだが、ストレスが溜まったときは甘いものがいちばんだと、そう言っていたのをジェイムスはようやく理解した。もちろん体には大層悪いだろう。ただ、人生というのは苦痛に囚われているものだから、常に摂取してやるべきなのかもしれない。



「体から甘い香りがすると思ったら、マシュマロだったんですね」

「ああ」

「さっき、何を考えていたんですか?」



 この男には執拗なところがあった。とりわけ、誰かが悩んでいる気配を察すると解決のために聞き出そうとする。ジェイムスはそういう面を、少しは煩わしいと思っていた。人のことは人のことなのに、彼は何かと警察官の顔をしようとする。もう警察官でもないのにだ。ジェイムスはまだ焼いていないふわふわのマシュマロを彼の口に押し込み、質問を無視した。どうせこの何もかもが白紙に戻って別の物語を紡いでいくのだ。前回の私は彼とどんな物語を紡いだだろう? 彼はマシュマロをもぐもぐしながら、やたら歯にくっつくと不満を言った。口の中で溶けていくのだから当たり前だ。口元についたマシュマロの粉を軽くぬぐって木にもたれる。

 記憶が削除されるということは、記憶が削除されたという事実も忘れて然るべきだった。だが、ジェイムスはその真実を知っていた。ただしすべてを覚えているわけではなかった。ぽつぽつと、己を除いた全員が記憶を失ったとき、ただ一人ジェイムスは記憶が消されたということを察したが、それ以前にどんなことが起こっていたか記憶にいくつも穴が空いていたからだ。これが偶然だとは思わない。あの謎めいた邪神はこういう凶悪なことをよくしでかしたから。自分はただの操り人形に等しかった。邪神の力が弱まっているのかとも考えたが、その仮説も理に合わなかった。力が弱まったなら、邪神の力に屈しない何人かの奴隷たちが真っ先に反抗し、この世界から抜け出そうと暴れ回ったはずだ。ジェイムスは彼らのような力もなく、存在感も薄かった。だからこそ口を噤んで人々がひそひそと話すのを見守るだけだった。話せば、どんな火の粉が降りかかるかわからない。



「俺のことをどう思います?」

「私に訊いてる?」

「あなたを見て言ってます」



 彼の青い目が自分を見つめる。いつだったか邪神が彼に擬態したことがあったが、そのときのレオンの目は実に真っ青だった。まるで蛍光色を混ぜていたように。この記憶が続くかぎり、ジェイムスは邪神が他の人に擬態したことを直ちに見抜ける自信があった。邪神は全知全能だが、人の心の窓であり、特に高貴な器官である瞳だけは真似ることができなかった。なぜなら、奴には人の魂がまったくなかったから。



「特になにも」

「ふむ、それなら。俺は何でもない人ってことになりますね」

「私の何がそんなに気になるんだ」

「目を合わせてくれませんか」



 それが人と話すときの礼儀でしょう? ジェイムスは、人と会話をするとき目を合わせられなかった。失礼だと直接的に言う人はいなかったが、話している相手に興味がないと映ったのか、それ以降ジェイムスと言葉を交わす人は出てこなかった。しぶといな。ジェイムスは内心で舌打ちした。もし真実を教えたら彼はなんと言うだろう。狂人の烙印を押して私から遠ざかるだろうか? だが、この真実を話して彼が苦痛を被らない確証は? 同じように地獄へ落ちてきた人たちだが、ここよりも酷い煉獄があるかもしれない。ちょうど、サイレントヒルのような。罪責感が具現化したあの場所に。

 目を合わせられないのには理由があった。一つ目はジェイムスが持って生まれた弱気であり、二つ目は人々の目に対する漠然とした怖れ、三つ目はここで経験した邪神の粗末な擬態だった。いまは三つ目の理由がもっとも大きかった。ジェイムスは医療キットの荒くひび割れた表面を撫でつつ、またしても返事を避けた。彼ががっかりしたように溜め息をつく。聞こえないふりでジェイムスは彼から離れた。



「以前、あなたが俺に何か話していた気がするんですが」

……

「──思い出せないんです」



 当然だ、記憶は突然消されるのだから。ジェイムスはわざと明るく笑った。レオンはそれが相当お気に召さなかったのか、いい表情ではなかった。ぼうっと燃え上がる音が聞こえ、全員に緊張が走る。まもなく儀式の始まりだった。ところで、記憶はすべて消されたはずなのに彼は私が何を言ったというのだろう。私ですらも思い出せないものを。











* * *











 ジェイムスは手帳にこれが何度目の儀式かを記した。手帳の記録までは干渉しない傲慢な慈悲を施す邪神に、皮肉を言いながらも小さく礼を言う(しかしジェイムスは確信できなかった。人の記憶を操作する奴がたかが手帳の記録を操作するのに難儀するはずがない。おぼろげながらジェイムスはわかっていた。この手帳は、近々より大きな絶望を味わわせるために残されているのだと)。今回は記憶が消されてから12回目の儀式だった。手帳の前のほうを見返してみる。23回目、31回目、11回目、4回目。すべてが初期状態に戻されたときの周期が書かれていたが、どれも一様に変則的だった。ならば殺人鬼たちも記憶を失うのか? それは間違いなく否だった。邪神の配下、兼、奴隷たちの記憶まで失うのは、邪神にとっても相当大きな損失ではなかろうか。自分が何より大切にしていた生存者が記憶を消され、その消された状態で『初めて』邪神が主催するチェス盤に立たされたとき、そのときの殺人鬼たちの表情を覚えている。無念、怒り、挫折、驚愕、恋しさがすべて入り混じった、一言では言い表せない表情の彼らを。ただし顔を覆っていたり、顔がない者たちは表情が読めなかった。行動を読まねばならなかった。金属頭の奴はとりわけ、邪神に妨害を受けるどころか制御不能であるらしかった。制御不能だなんて。別の観点から見れば、邪神は実際、途方もない力があるというわけではないのかもしれない。そもそも人間界に降臨するために絶望を喰らって育つなどと。滑稽な話だった。

 だがこうして笑ったところで、自分たちのような未発達の幼虫たちは逃れられない。これは覆せない事実だった。ジェイムスは錆びついた保健室のベッドに腰を下ろした。血を流しすぎたせいで、もうこれ以上走れなかった。鼻血が逆流してきそうでごくりと飲み下していたのを、床に吐き出す。凝固した血の塊が喉につっかえながら出てくる。悲しくはなかったが、苦痛が酷すぎて生理的な涙がぼろぼろとこぼれた。いまの私はどんなにみっともないことだろう。朦朧としてくる視界にジェイムスは目を閉じた。このまま目を閉じればもう起き上がれないとわかっていても、睡魔に引きずられてどうしようもなかった。



「ここで死んじゃダメよ……

「リサ──」



 そんな自分の胸元を掴み、この世に引き上げる手があった。血だらけで泣いているリサの姿に、ジェイムスは当惑することしばし。彼女が薬草を混ぜ合わせて自分に飲ませ、腕をアルコールで消毒しはじめる。看護師らしい腕前だった。安定した手つきに、荒く上がっていた息が少しずつ落ち着いていく。彼女もまた酷い有り様だった。あちこち引っかかれて服は穴が空いており、いつも端正にしとやかな姿勢を保っていた脚も血をだらだらと流していた。「リサ、君は」。ジェイムスの言葉で彼女がようやく傷に気付いたのか、苦痛の呻き声を上げた。生理的な涙が浮かんでいっそう憐れみを誘う。彼女の茶色の髪は汗で顔のあちこちに貼りついていた。ジェイムスは手を伸ばして彼女の髪を整えてやった。いや、伸ばしかけてやめた。血が大量に流れすぎたせいか、悪寒が這い上がって腕を上げることすら一苦労だったからだ。



「ああ、可哀想な人たち」

「リサ」

「あたしがもう少し上手ければきっと生き延びられたのに

「君は彼らが死んだほうが嬉しいんだろう」



 ジェイムスは突然、彼女に鋭い言葉を投げつけた。大した理由はない。彼女の目が蛍光色だったからだ。なるほど、長い前髪で目を隠していたのには理由があったわけか。ジェイムスは邪神が巻いてくれた包帯を強く握りしめて止血した。お前の手で死んでたまるか。



「ああ、まったく。やはり目を蔽うのは容易いことではない。絶望は喰っても喰らい足りぬ。しかし、私も演技が上達したようだ。お前が初め、ああしてうっかり騙されたところを見るとな」

「演技は誰にでもできる。極端な話、私ですらも。慣れるほど上手くなっていくのが演技だ。お前は永遠に目という魂の空間を満たすことはできない。お前がいくら喰らったとしても、お前は根本的に欠陥の塊だから」

「はは、ずいぶんと親切なことだ。私をそれほど心配してくれるとは。だが、お前にそう心配されずとも、私はいつかお前たちの世界に降り立とうよ」



 して、お前をどう喰らってやろう? ジェイムスはリサの顔がだんだん頭のてっぺんから歪んでいくのを見た。哀れなリサ。こんな残虐な邪神に利用されるなんて。被害者をごくりと一呑みにして擬態する。それが奴のやり方だった。いまの彼女は焚き火のところで気絶した状態だろう。奴のミュージカルが終われば彼女の意識も戻るはずだ。一人残ったいま、いっそ自決してしまうのも悪くはない。ジェイムスは固く目を瞑り、舌を噛み切るため顎に力を込めた──。















 レオン、話があるの。エイダの静かながらも震える声が聞こえた。スティーブがレオンの腕を小突いて口笛を吹く。どんなに説明しても、彼らの中で彼女は自分の恋人ということになっているらしかった。

 リサが気絶状態にある。柔らかな木の葉の上に落ちてきたリサはどんなに揺すって起こしても意識を取り戻さず、体の傷も一向に癒えないままでシェリルがひどく不安がった。このまま永遠の死を迎えるのではないかと誰もが語り合っていた。しかし、レオンには妙な確信があった。彼女は死なない。ただ意識が別の場所にあるのだという、妙な確信が。彼女の体を手当てしたクローデットは爪を病的なまでに噛んでいた。こういった悪い習慣はここにいる生存者たちの基本的な嗜みらしかった。レオンはクローデットの手を優しく握り、あまり心配するなと声を掛けた。あなたはどうしてそんなに落ち着いてるの?という言葉に、レオンは言った。警官ですから。



「なんだ、昔のことを謝る気にでも?」

「ずいぶんと長く引きずるのね。あなたも私も、肩一つ交換したつもりでおあいこって言ったでしょう。そうじゃなくて、訊きたいことがあるの」



 チョーカーを巻いたエイダの首は傷だらけだ。「おい、エイダ、その傷」。レオンの驚いたような声に、エイダは大したことなさそうな顔でここに来てから出た不安症状だと言った。彼女の爪に肌をかきむしった痕がついていた。何をしたというんだ? エイダは不安な感情を隠せずにいた。らしくない。警察署での息詰まる一連の事態にあっても、悠々かつ堂々とした姿を保っていた彼女なのに。



「いつだったか、あなたと一緒に儀式をしていたときの話よ。発電機を直して、一台が回りきり、それから一人ずつ箱庭から消えていった。ええ、いつも通りのことだわ。残りの二人は死んで、私とあなたが残った。あなたなら私が何を言い出すかわかるでしょう。私の代わりに犠牲になってくれって、わがままで図々しいお願いをしようと思っていたのよ」



 レオンはその言葉に笑った。ひそかに情が深いくせして犠牲になってくれと頼もうとしただなんて。おそらく、どうにか自分の心を落ち着けようとしているのだろう。彼女が言葉を続けた。



「そうして道をうろついていたら、あなたの後ろ姿を見つけたの。ほっとしたわ。あなたの着ていた防弾服、濃い青色の警察服、丸い頭。全部あなただった。近付いてあなたの名前を呼んだわ。なのに振り返らないのよ。ゆっくり立ち上がってあなたが顔を見せた。そのとき、その瞳の色といったら」

「待ってくれ、エイダ。何の話だ? そんな出来事は記憶にない」

「私と一緒に儀式をしたじゃない。この馬鹿げた、終わりのない遊びの一つに」

「最近、君と一緒になった覚えはない。人違いじゃないのか」

「そんなはずないわ」



 彼女の声はかつて聞いた中でもっとも荒々しかった。本人もそれに戸惑ったのか、己の体を抱きしめた姿勢で腕をさする。落ち着け、エイダ。肩を軽く叩きながら話の続きを聞こうと努力した。木が風にざわめく。エイダが彼の顔をがしっと掴んで瞳を見つめる。切羽詰まった手つきのせいで爪が顔に刺さり、痛みが走ったものの、レオンは何も言うことができなかった。



「あなたの目が青かった。あり得ないほど真っ青だったの。だけどあなたの目はそんなじゃない。あんなにも青いはずがないじゃない」

「俺の目が青かったって?」

「そのあとのことは私も覚えてないけど、それだけは覚えてるわ。あのときのあなたは間違いなくあなたじゃなかった。だけど、それだって変よ。あなたの目以外に何も思い出せないなんて。まるで誰かに操られてるみたい」

「エイダ、俺は。俺は君が何を言っているかわからない」



*『──目が』、『──大丈夫……合ってる?』、『まったく──』、『──ごめん』 『なんでもないよ』 『なんでもないよ』 『なんでもないよ』*

 風が激しさを増す。木のてっぺんが火花のように燃え広がって徐々に消滅していく。儀式の終わりを告げ知らせていた。















 ガキンッ、



 ──ジェイムスの舌が噛み切られることはなかった。これは歯に何かが断ち切られる音ではなく、武器が強く打ち下ろされる音だった。黒いねばねばした物資が顔に飛び散って流れる。汚らわしい感覚に体が真っ先に反応してぶるっと震えたが、ジェイムスはいましがた起きたことが理解できず、しばし静止状態に陥る羽目になった。何が起きたんだ。驚きすぎると人は全感覚が停止するというが。心臓がばくばくと跳ねる。血液が一瞬にして血管を駆け巡り、息が苦しくなる。巨大な鉈は血と臓器にまみれており、鋏のような形をしていた。見慣れた大鉈。ジェイムスは顔を上げた。赤いピラミッド頭をしたそれ。引き締まった大きな筋肉が組織的についた体をしたそいつ。いつだったか焚き火の前に生存者たちが集まり、奴の体を品定めしていたことがある。ジェイムスは彼らの話に耳を傾けながら内心で嘲笑した。近くで見ればそんな考えは絶対に浮かびやしない。奴の筋肉は美しく見せるために整えられた筋肉ではなく、殺戮のために作り上げられている。だからこそジェイムスは威圧感を感じていた。あの体に私はそのうち潰されて死ぬだろう。巨大な鉈で私を捌き、本来の姿を完全に葬り去ってしまうだろう。ジェイムスは恐ろしかったが、矛盾したことに、恐怖が大きすぎるあまり恐ろしくないように感じていた。かえって心が平穏になった。隅に追い詰められた鼠はキイキイわめくことを忘れ、静かにじっとしているものだ。

 奴はピラミッド型の頭をのっそりと動かし、己が大鉈で切りつけた邪神を眺めた。邪神は相変わらず大きな口を貪欲に蠢かせながらそれを嘲笑った。うねうねと、タコ足のように動く黒色のインクが床に増えつつあった。



「仮にもお前を作った主人だから守ろうというのか、処刑人? 処刑人という名前がもったいない。死刑囚に愛情を覚えて何とする? 己の役目を全うすると私の手を取ったのはお前ではないか。私はお前が本来の役目くらいは満足に果たすものと──」



 聞きたくないとばかりに奴が邪神の口まで大鉈で切り裂いてしまう。学生時代の運動会でだってここまで息が上がったことはなかった。ジェイムスは破裂しそうな心臓のあたりを握りしめ、奴を仰ぎ見た。黒色のインクが存分に奴に跳ね返っていた。謎の自信から、ジェイムスは奴をなじった。あるいは、はるか昔から積もり積もってきた鬱憤であったかもしれない。



「ああ、奴の言うとおりだ。どうして私を殺さなかった? それがお前の仕事だろう? 大鉈で容赦なく真っ二つに斬り殺すのがお前の仕事じゃないか。それともこれも仕事だっていうのか? 私の恐怖心を最大限に育てて奴に捧げるって? これも一つの芝居か? なら私は、どう反応してやるのが正解なんだ。どうすればお前は満足なんだ。記憶が残っているだけでも苦しい。初期化するならまともにしてみせろ。みんな私を気ちがいを見るような目で見る。だけど、当たり前だろう? 今日初めて会った人がまるで昔から自分を知っているように振る舞うんだから。それが狂人でなければ何なんだ。記録に何の意味がある。奴なら私が血の滲むような思いで書いた記録さえも消してしまえるのに。話せるもんなら話してみろ。いまの私の絶望はどんな味だ? 何よりも待ち望んだ珍味だろう? なあ?」



 頼むからほっといてくれ。ジェイムスは泣かなかったが、つんのめるように倒れ込んだ。奴はじっとしていた。憎悪に昂った息遣いが徐々に小さくなったころ、それは彼を懐に抱きかかえ、風の音がする脱出口の近くへ最大限の注意を払って座らせた。奴なりの配慮だと。視界から失せろと脱出口に押し込むのではなく、気持ちが静まったら出ていけというようだった。ジェイムスは風の音がうるさい脱出口を見つめた。いっそ記憶がなくなってしまえばいい。まっさらに、また初めて会う人々のように、初めて聞く名前と声、初めて見る殺人鬼たち。いっそそうして始められたら、これ以上の苦痛は受けないだろうと。ジェイムスはこれまで自分を冷静な人間だと思っていたが、実際は違ったのだと思い知らされた。内側で限界まで膿んで爆発したのだ。



「お前がここまで連れてきてくれたんだから、私の分不相応な願いも聞いてくれ」



 少しだけ胸を貸してほしい。心臓の音はしないだろうけど、誰かの温もりが必要なんだ。奴はゆっくりと両腕を広げ、ジェイムスはその胸に顔を預けた。いつの日かこの世界が崩壊しても。私はまだあの*湖の底*だろうか。







* * *







 なんでもないよ。レオンは誰かの声とともに文章を思い浮かべる。なんでもない、か。どういう状況で俺に語った言葉なのだろう。

 あの日のリサは儀式が終わったあと、幸いにも意識を取り戻し回復の一途を辿っていた。レベッカはここに時計がないので正確には伝えられないが、儀式の始まりと終わりを一日の基点とすると、彼女の体は9日ほどでいくらか回復するだろうと言った。リサと儀式を共にしていたジェイムスもひどく負傷した状態だったが、一人生還したという理由で、みな口には出さずとも小さな疑念を抱いていた。果てはレオン本人ですらも。その火種を鎮めたのはジルだった。彼が何をしたにせよ我々の味方であることに変わりはない、敵を作ったところでいいことなどないと厳しく畳みかけて叱りつけた。見習わなければ。ジルの言うとおり、彼は民間人に過ぎないのだから。特にジルはレオンを咎めた。



「私たち以外は民間人だから無理もないとしましょう。彼らは警戒するしか方法がない。だけどあなたも私も、警察なのにこれでいいと思ってるの? 疑うのも判断するのもあとからで遅くないわ。何の武器もない一般人が鍛錬を積んだ警察と同じだと思っているなら、あなたは学校からやり直すべきよ」

……すみません」

「どうしてみんなあんなに疑うのかしら。もし彼がそんな人間なら……とっくにあの邪悪なニコライのようになっていてもおかしくないのに」



 なんでもないよ。耳に蘇る声でジルの呟きはまともに聞こえなかった。あれはいったい何だっただろう。レオンは彼と二人きりで話がしたかったが、彼はみんなに疑われているという雰囲気を察したのか、もう輪に加わらなかった。それがあまりにもやるせなくて、レオンはわざと彼の後を追わなかった。皺の寄った紙をまっすぐに伸ばし、一つずつ彼の隣に置いて去るのがすべてだった。返事は来なかった。



「処刑人という殺人鬼のこと? ああ、はは。本当に見逃してくれたことが一度もないのよ。全身がボロ雑巾になった気分」

「体の具合はどう、リサ?」

「ええ、大丈夫よ。これぐらいの治療は自分でできるわ」



 会話は彼女の体を心配する内容が主だったが、レオンはそこに違和感を覚えた。なぜ誰も彼女の意識が戻ったことについて言及しないんだ? 患者に精神的な負担をかけるのはよくないからと、クローデットには席を外させている。結衣はとりわけ女性の生存者たちの面倒見がよかった。彼女に自身の毛布やお湯を譲り、早く治るようにと細い背中を叩いてレオンの脇を通り過ぎていった。患者は、安静が必要だ。しかしこれだけは訊かねばならない。俺はあなたの意識が戻ると確信していた。なぜ? 俺はあなたについてよく知らない人間だが、あなたが死ぬほどの怪我を負ったときにも大して動揺しなかった。これは俺が非情だからとか冷酷だからという話ではない。



「リサさん」



 彼女は飲んでいた水を脇に片付けてレオンに向き直った。看護師特有の優しげな微笑を浮かべながら。俺には君が、よく理解できない。



「体は大丈夫ですか?」

「ええ、ご覧の通り」

「意識も戻ったようですね」

「ええと、うーん……。気分がすっきりしてるから、よく眠ったみたいです」

「何の話をしているんですか? 俺が言ったのは、あなたの意識が戻ったということです」



 リサは困った顔をした。その表情には、ずいぶんおかしな質問をされているという感情も混じっていた。彼女の混乱した瞳を見てレオンは悟った。エイダが言っていたこと。自分はその蛍光色の目を見たことはないが、どんなものか徐々に頭へ描かれていく。あなたの目は柔らかな茶色だが、何らかの存在があなたを真似たときには一目であなたではないと気付けるだけの光があるはずだ。そう、その色合いは儀式で見た妙な棘の色に似ている。研ぎ澄まされた美しい光ではなく、不快なほど存在感を主張する光が。



「ごめんなさい、レオンさん。あたしはその、儀式でひどく怪我をして気を失った記憶しかなくて。誰かと人違いしてませんか?」



 誰かと人違い。レオンは彼女の顔を撫でた。誰かと。俺はいま彼女を誰かと錯覚したのか? 緑色の、目をした。



*『レオン? ……よかった。いつもの君だ。──ああ、いや。儀式で君を見たとき、君の目が、とても青かったから。まったく、私はいったい何を見たんだ? 心配になって見に来たんだ。ごめん。寝てくれて構わないよ。私は少し、頭を冷やしたほうがいいようだから。なんでもないよ。──レオン。怪我は深いのか? ガーゼだけ新しいものに換えて寝たほうがいいかもしれない』*



 レオンは頭痛に呻いた。リサが彼の肩をさすりながら薬を飲んで休んだほうがいいと助言する。レオンは場を離れた。記憶にもなかった記憶が無理やり注入されるようだ。広がらない隙間をこじ開けて強制的に棒切れを突っ込み、脳をかき混ぜる。レオンは焚き火に集まる人々の輪から外れて彼を探した。どのみちあなたが遠くに行こうと、ここから脱することはできない。がさがさ鳴る木の葉を踏みつけながら彼の痕跡を辿る。遠く向こうのほう、頭に包帯を巻いたまま座って何かを書きつけている彼が見えた。



「ジェイムス」



 彼は手帳を懐に隠しつつ、己の名前を呼んだ人に目を向ける。儀式から脱出した直後、彼は鼻血を出したまま姿を現したが、誰も簡単に近付いて治療できなかったことを覚えている。黒色の何かが彼の体にくっつき、ぐねぐねと蠢いていたからだ。勇敢なレベッカは近くに寄って何とか彼を治療したが、それ以降彼は人々に近寄らなくなった。そのおかげで疑心の芽が育ったのは当然のことで。完全に、彼自身の意図したところだったのだろう。何でもないように振る舞えばみんな何でもなくなるだろうに。あなたは心配性が過ぎる。俺には話してほしい。二度も裏切られたくはなかった。



「教えてください」

「何を?」

「以前、俺のことを見て目の話をしていました。俺の真っ青な目についてです。リサさんの件を見て思い出しました。何を覚えていて、何を知っているんですか。どこまで知ってらっしゃるんですか? それならなぜ言ってくれないんですか」

「──もう戻ってくれ」

「俺はなぞなぞがしたいんじゃない、ジェイムス。答えが聞きたいんだ」



 瞬間かっとこみ上げた感情に手首を強く掴んでしまってから、彼が怪我をしていることに気付いてまずい、と思う。思った通りジェイムスは痛みで顔をしかめていた。そうして、だらりと力を抜きながら憂鬱そうな表情を浮かべる。誰も信じてくれないと思ったんだ。物静かな彼の姿は、ある意味では強みだった。先ほどにしたって怒りで心を燃やしていたようなのに。

 レオンは彼の隣に座った。まだ生きている。息遣いが聞こえて、体温が感じられて、何よりもあなたが隣で動いている。ただ、その動きの一つ一つが憂鬱に浸っているのが問題だったが。あなたが精一杯生きているということだけでも一歩前進したのだ。彼はひとしきり雑草をいじっていたかと思うと、口を開いた。声は年を重ねたように弱々しく、くたびれて聞こえた。



「言えば誰かがまた被害に遭うかもしれない、言えば狂人扱いされるかもしれない、言えば、いや。ただ何もかも怖かったんだ。人にはない記憶が自分だけあるという事実、それ一つだけでも苦しかった。奴のやり方はこうだよ。リサや君のような人たちを一口に飲みこんで意識ごと眠らせ、体を乗っ取る。だけど目だけはそっくり真似ることができない。ただ蛍光色のネオンのような光を放つのがせいぜいだ」

「そんな事実なら周知するほうがいいのでは?」

「レオン。この手帳には数多くの記憶の犠牲が記されてる。13、12、8、21、17。人が見れば意味のない数字の羅列だけど、儀式の始まりと終わりを基点に分けてみるとしよう。私たちは常にこうして記憶を失っていたんだ。いまが何回目の儀式か知ってる? 18回目」



 私たちはすぐまた振り出しに戻るよ。何もかも。

 ジェイムスは穏やかな声で語ったが語尾が震えていた。恐ろしいのはあなたも同じだった。俺たちはこれからも振り出しに戻るだろう。レオンはジェイムスの手を握ってその体ごと抱きしめた。あなたの話が聞きたかった。もし目を覚ました次の日に記憶が消されるとしても、俺が誰より先にあなたの最初になりたい。

 もうすぐ消えるだなんて。それなら少しでも多くあなたと触れ合いたい。レオンは恐れなかった。記憶が消えるからといって自分という存在がすっかり変わるわけではない。もしあなたの記憶している俺が変わらずあなたに気持ちを向けているのなら、記憶が消えるというのは恐れるような状況ではなかった。俺は必ずあなたのところに戻ってくるのだから。

 俺たちは何度目の恋人になるのだろう。1回目、それとも8回目? レオンは彼の手のひらから順に口付けを落としていった。素晴らしい場所ではもちろんないけれど、俺たちはそんなことに文句を言える世界になかったから。



「ここに来てから、キスしたことはありますか?」

「前にもその前にも、君は同じことを言ったよ。変わらないな」

「俺と夜を過ごしたことは?」

「レオン」

「いまの俺には、そういう記憶がないんです」



 できることなら作らせてほしい。彼の頭を飾る包帯を指先で撫でながら口付ける。唇が血が滲むほど乾いていたが、それは大した問題ではなかった。しきりに舐められてくすぐったかったのか、それとも拒みたかったのか、押し返してきたものの力が弱くて押せていなかった。服をまくり上げる。腹部にも傷があってあちこち絆創膏だらけだった。かちこちに固まっている体に笑みがこぼれる。俺以外の人にあなたが侵された様子がなくて。特にあなたと関わりの深かった処刑人でさえも、あなたにむやみと手出しはできなかったようで。開くまいとする脚の間に手を差し込み、片手で内腿を掴む。赤く上気した顔が、行為そのものに恥じらいを覚えているようだった。まだろくに始まってすらいないのに。

 どうせ振り出しに戻るなら、否定的なものであれ肯定的なものであれ、すべて俺が最初に目にしたい。レオンは彼に前もって謝罪する。もうあなたの命令や頼みの類は、聞き入れてやれそうになかったから。







* * *







 処刑人がまともに儀式をこなさないのはこれでもう3度目だった。邪神は契約違反だと処刑人をつつき回るのに忙しかったが、処刑人は巨大な鉈を携えたまま何もしなかった。結局、邪神は一歩だけ譲歩してやった。ならば、どんな条件があればお前はその巨大な図体を動かし絶望を捧げるのかと。



*『彼は自身が創造主の記憶にとどまることを望んでいる』*



 は、そのようなことなら造作もない話だ。脅迫のような要求に従い、邪神は彼ともっとも近しい存在の記憶を消さなかった。ああしておいて一口に飲みこんでしまえば、それに勝るご馳走もなかっただろうが。邪神は契約に従い、彼に手出しができずに欲望ばかりを募らせた。惜しいことだ、実に惜しい。ぶつぶつ呟く邪神の長い舌を切り捨て、処刑人はふたたび己の道に邁進した。しかし邪神は処刑人と彼を引き離した。絶望が喰らえないなら、焦慮の感情でも喰わねば気が済みそうになかったからだ。

 それから処刑人は黙々と己の任務を遂行した。おかげで質は低いが数多くの獲物が調達されるようになり、邪神はわざと処刑人を記憶する者を彼と同じ儀式にしなかった。そうしてついにひとところへ集めたとき、邪神はわずかに驚かされた。無慈悲な刃は彼の創造主もまた例外でなかった。やはり頭も鉄の塊に過ぎないということか? それとも情だの愛だの関係なく、本当に誰かが自分を『覚えてさえ』いればいいと望んだのか。そのせいで邪神は契約に背き、彼を一口に飲みこもうとした。濃縮された絶望は文字通り最高の食事になるはずだった。口を貪欲に開いたとき、奴がいったいどう嗅ぎつけて辿り着いたのか、体を真っ二つに切られて機会は失敗に終わった。初めからわかっていればこうして契約を破る理由もなかったものを。図々しい話だったが、わかりにくい金属頭の野郎が悪いのだ。

 創造主、愛情。あんな巨大なナリして自分を息子だと思っているのか? 邪神は実に久方ぶりに思考に沈む。包丁を振りかざし変態のごとく生存者どもをつけ回す奴でさえ、こうまで私に一杯食わせたことはないのにだ。

 ああ、もしや自分が彼を守っていることを見せつけるために、わざと最初は知らぬふりで彼を攻撃したのか? 利口で、かつ可愛らしい行動だ。実に大した演技力ではないか。拍手を贈りたいものだよ、処刑人。パチ、パチ、パチ。手を真似た邪神は憂鬱そうな処刑人の隣で拍手をしてやった。演劇を主催するのはいつだって自分だったのに、こうもいちいち俳優に監督されるとは。贈られて然るべき拍手だった。

 もう間もなく初期化の時間だ。処刑人は邪神の行動を見守っていた。見守るというより、監視だった。己の創造主に害を加えないとも限らないのだから。しかし、愚かな処刑人よ。お前がそうするほどあの者の絶望はいっそう深くなることを知らないのか? 己の欲望しか満たさないとは、処刑人の利己的な面は相変わらずだった。彼は己が愛した人たちが記憶を失うのを目の当たりにさせられ、振り出しに戻る状況を幾度も繰り返させられ、しまいには精神の限界を迎えるだろうに。だが、邪神は教えてやるつもりなど毛の先ほどもなかった。面白いショーなら続けさせるべきだ。邪神は彼らの頭に棘を差し込み、かき混ぜる。暴力的かつ、野蛮極まりない方法だった。死はすなわち初期化である。お前たちは血に濡れて眠りに落ち、血の寝台の上で目を覚ましたあと、何度も経ているのに初めてのような行動をとるだろう。処刑人は邪神の儀礼を見守り、邪神は絶望で腹を満たした。*処刑人は邪神の儀礼を見守り、邪神は。*







 儀礼が終わると処刑人は彼らのもとに行き、己の創造主を探し出した。創造主は長い意識不明に陥っており、他の者たちの頭は穴が空いてぐちゃぐちゃだった。ゆっくりと、黒いミミズが彼らの脳をほじって食べている。創造主を一度抱きしめた処刑人は人が溜め息をつくような仕草を真似た。大きな肩が上がって、下がる。それが、処刑人が創造主を見て初めて覚えた行動だった。彼は裏世界の案内者、神の代理人。黙々と仕事をこなす堅実な存在。しかし、己の創造主の苦痛だけは取り除いてやりたいと望む者。彼は創造主の柔らかな髪を手袋を脱いで撫でてやる。無骨な指を滑らせていく。自身とは異なる創造主のやわい肌を満喫しながら、彼は逸脱を決心した。死体にも等しく地面に散らばる者たちへ加護を施す。これは神の代理人が授ける加護だ。記憶は永遠に汝らの隅にとどまるであろう。しかし、これが後に汝らのごとくちっぽけな動物に苦痛を与えるものになろうと、幸福を与えるものになろうと、それは処刑人の知ったことではない。己の意志で本人の苦痛を克服し、真実に到達すること。それが神の代理人にできる最大限だ。処刑人の存在の目的は消滅だった。汝らが自ら脱出口を見つけるとき、処刑人も剣を下ろすだろう。

 黒いミミズ(邪神から落ちてきた肉片に違いない)は処刑人を脅威と判断したのか歯向かって挑みかかってきたが、そもそも邪神は神の代理人にはまだ力不足だった。小さな逸脱はこれぐらいにしよう。処刑人は彼らの頭に空いた穴を塞いでやった。そして彼らの傷の上には蝶が刻まれる。最後に未知の空間を後にする前、彼は創造主の顔を撫でた。苦痛が存在しなければ楽園も存在しない。汝らの楽園は果たしてどこであろうか。重々しい頭を傾げて彼を見つめていた処刑人は、やがて空間から姿を消した。











* * *











 眠りから覚めたジェイムスは不吉な感じを覚えた。少ししか寝ていない気がするのに、長いこと意識を失っていたようなこの気分。また最初に戻ったのか? 隣で眠っている彼を揺すってみる。どんなに起こしても起きなかった彼は、ジェイムスが諦めるころになってのっそり起き出し頭を押さえた。ジェイムスはどうせ期待してもいなかった。ここはどこで、あなたは誰で、どうしてここに来たのかと聞き飽きた質問を繰り出すのだろう。ジェイムスは口を開き、彼の質問を先取りしようとした──。



「私の名前は、」

「ジェイムス?」

「──」

「すみません。寝てる間になったのか、頭が痛くて……



 どうなっている。記憶が消されたんじゃないのか? 混乱する彼をレオンが落ち着かせる。何なのかはわからないが、いや。ひょっとすると自ら察していたのかもしれない。昨日の儀礼をレオンはおぼろげに思い出す。あなたを愛する生命体が近付いてきて、頭を一度ずつ撫でてまわっていた。それが夢なのか現実なのかは曖昧だが、夢の中の彼は蝶だった。蝶を手に収めて慈しんでいる大きな生命体は、ただその蝶のために己の契約を破った。レオンは彼の手を取り、手首を見る。あなたはあの存在にとって蝶であり、世界だった。



「夢の中のあなたは蝶でした。誰かの手に止まり、少し羽を休めて、また飛んでいったんです」



 彼の手首には小さな蝶が刻まれていた。ジェイムスは蝶を見つめ、自分が訪れた町を思い浮かべる。いつも暗かった空がどういうわけか今日に限って赤色だった。恐れていた真実をもはや拒むことなく見つけ出した者に、二つの卵を差し出してくれていた。赤色と緋色。楽園は遠くない。

 ジェイムスは希望など見出せなかった場所で希望を探しはじめた。これがその生命体が望んだことなのか? ジェイムスは人間でない者の心を読むことはできなかったが、なぜか今回はそれで合っている気がした。後遺症が残ったのか隣で体を震わせるレオンを、ジェイムスは初めて自分から抱きしめた。認めたくなかったが、ジェイムスは奴にまたしても助けられた。前へ進まねばならない。それが、私とお前がここに二人で存在している理由なのだから。