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千代里
2024-09-20 12:59:22
8510文字
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リーブラ13話
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リーブラの針は問う・13話・その48
ノエを叩き起こしたのは、世界が砕かれたかのような轟音だった。
意識が覚醒しきるのも待たずに、ノエは素早く身を起こす。同様に、ノエと同室だったルーシャンもオランローも、寝台からすでに体を出して周囲の気配を探っていた。
「今の音は
……
!?」
「分からない。オレも今起きた所だ」
「どうやら、近くで何かまずいことが起きているらしいな」
ノエたちは言葉を交わしながらも、すでに着慣れた防具を体に身につけ、寝台のそばに置いていた武具を装備し始めていた。
深夜に生じた、街中の人を起こすような轟音。どう考えても、穏便にことが終わるとは思えない。
「ノエ、無事かい?!」
「ええ。僕らは何も問題ありません!」
部屋を出ると同時に、同じように廊下から顔を出したヤルマルに問いかけられる。短い返事だけをして、ノエは階段を降りる時間ももどかしく、外に飛び出た。
そして、彼は瞬時言葉を失う。
「なぜ、こんなところにドラゴン族が
……
!!」
がらがらと崩れ落ちる音は、近くにある教会の一角が崩れた音だった。
まだ真っ暗に近い時間の中、薄い雪あかりに照らされているのは黒の影。ノエが対峙したランドンにこそ及ばないものの、その有翼の生き物の姿は、イシュガルドに来て何度も目にしたものだ。
「襲撃の鐘は鳴っていない。外からの襲撃ではなくて、中にいた異端者が竜に変化したのかも」
冷静に状況を整理して告げたのは、サルヒだった。彼女は既に、愛用の斧を手に構えている。
「オデットとヤルマルさん、孤児院の方に避難するように伝えてもらえませんか。僕たちは教会の様子を見てきます」
「分かった。君たちも、気をつけてね」
ノエの指示を受けて、二人はすぐさま宿泊所の隣にある孤児院に向かう。残ったオランロー、サルヒ、ルーシャンを伴って、ノエは教会に向かって駆け出した。
教会の隣には、孤児院の子供たちの遊び場でもある広場がある。一面雪に包まれたそこに、ノエたちは足を踏み入れる。
一行が広場に入ると同時に、ずん、と地鳴りがノエの靴をつたった。異端者が変じたと思しき竜もまた、広場へとその姿を見せたのだ。
「おい、誰か襲われているみたいだぞ!」
「僕が助けに行きます! ルーシャンさんたちは、竜を惹きつけておいてください!」
返事を待たずに、ノエはオランローが指差した方角へと走る。竜から死に物狂いで逃げようとしている人影に、竜が喰らい付かんと首を突き出している。
「させない!」
サルヒの声が響き、彼女が突進する姿がノエの視界を横切る。岩塊を投げ込んだかのような彼女の一撃は、竜の注意を惹くには十分だったようだ。
竜の首が向き先を変えた瞬間、追いかけられていた男が、長い裾の服に躓き、転ぶ。すぐさま、ノエは男に手を差し伸べた。
「大丈夫ですか!」
「お、お前は、あの田舎貴族の家にいた
……
!」
その言葉に、ノエは自分が助け起こした相手が、ベルナールの家に来ていた司祭であると気がつく。
あの時点で、この男に対するノエの心象は決して良くなかった。しかし、竜に食われそうになっている場面で、個人的感情など大した問題にならない。
「転ばれたようですが、立てますか。怪我はありませんか」
ざっと視線を男に這わせ、大きな負傷がないことを確認する。続けて、ノエは周囲を見渡し、
「たしか、同僚の方がおられましたよね。その方はどちらに?」
「あ、あいつは、あの異端者のガキに、く、食われたんだ
……
!!」
司祭は震える指で、今もサルヒやオランローと戦闘を続けている竜を指差す。
つられて、そちらを見たノエは、竜の口元に引っかかっている『それ』に気がつく。
「
……
!!」
司祭の装束と思しき布の破片。そして、イシュガルド正教の司祭が身につける、特徴的な形の帽子。それらが、かつて腕だったのか顔だったのかも分からない肉片に引っかかり、竜の牙にぶら下がっていた。
竜の頭には、同様に突起の部分に布のようなものが引っかかっている。それが、果たして誰のものかを確かめるよりも先に、竜の咆哮が周囲に響く。それに気圧され、司祭が悲鳴をあげた。
翼を打ち鳴らしたせいで、肌を打つ風がノエたちを襲う。咄嗟に、ノエはその身で司祭の体を覆い、彼の身を庇った。
「ここは危険です。急いでこの場を離れ
――
」
「ノエ、盾を作れ!!」
司祭に集中していたノエに、突如ルーシャンの警告が響く。すぐに自身の盾を振り翳し、ノエは魔法で組み上げた障壁を前面に張り出す。
同時に、ガン、と重たい音が障壁越しに盾に伝わってきた。ガラスの割れるような音が響き、障壁が消えていく。
(サルヒさんたちが惹きつけてくれていたはずなのに、どうして、こっちに
……
!?)
竜の爪が障壁を打ち破ったことよりも、ノエにとって竜が急に標的を変えたことの方が驚きだった。
並の竜ならば、目につく脅威をまずは排除しようとするはずだ。だが、目の前の竜はなりふり構わずノエの元へと突っ込んできた。その意図が分からない。
「あ、あ、あいつは私を殺そうとしているんだ! おい、お前! 金なら出す! だから、命に代えても、必ず私を守れ!!」
司祭の俗っぽい救難の依頼は、ノエの神経を嫌な方向に逆撫でした。しかし、今はとやかく言っている場合ではない。
ノエに向かって、首を振り上げる竜。そこに、彼と竜の間を遮るかの如く、サルヒが体を滑り込ませる。
「サルヒさん!」
「今のうちに、行って!!」
サルヒが二人の間に挟まったことにより、竜は目障りな障害が立ち塞がったことを理解したようだ。無理にノエたちに迫るのを中断し、サルヒの斧がくり出す攻撃を回避する方に集中し始めた。
ノエは司祭を立たせ、彼を先に走らせる。まだ混乱の只中にいるせいか、足取りはおぼつかないが、それでも少しずつ距離を稼ぐことには成功していた。
「な、なぜ、私がこのような目に
……
!」
ひいひいと息を切らして走る司祭は、現実を呪う声があげる。それに答えてやる余裕はないが、同様の疑問はノエも抱いていた。
(異端者の残党が残っていて、司祭を仕留めにきた
……
? でも、それなら司祭よりも領主を狙うべきだ)
彼らの襲撃における当初の目的は、ベルナールの命であった。もし、まだ当初と同じ狙いがあるのなら、彼らが狙うのは新参者の司祭などではないはずだ。
疑問への答えは出ないままに、ノエたちは広場の端へと逃げ込んだ。竜との距離は十分だ。
司祭に柵を越えさせ、孤児院に逃げ込ませるべきか。それとも、子供たちの巻き添えを避けるために、大通りに逃すべきか。逡巡している間に、オォォォ、と竜の咆哮が轟く。
「ノエ! 気をつけろ!!」
距離を置いても響くオランローの声に、ノエはハッと竜へと視線をやる。
まるで天に向かって語りかけるように、首を上に向ける竜。その周囲に、微かにエーテルの高まりを感じる。
(例の雷を投げつける魔法か
……
!)
先日、異端者が変異した竜と戦った時、同じような雷の魔法を操っていたことを思い出す。
この場で障壁を出し、自分たちの身を守る。順当に閃いたその考えを、しかしノエは自ら棄却した。
「おい、何をしている! さっさと先ほど出していた壁を作れ!」
「ここじゃ場所が悪い。ここで防げば、後ろの孤児院にまで攻撃が当たるかもしれない」
「平民が何人死のうが、知ったことか! それよりも、私の命の方が何十倍も重要だ!!」
司祭の発言は、ある意味ではもっともイシュガルドの上層部に生きる人間らしいものだった。貴族として生まれたものにとって、孤児の平民など、虫ケラも同じ。その価値観は、今、ノエがどうこう言っても仕方ないものではある。
しかし、そうは言われても、先だってからノエの神経を逆撫でするような発言ばかりのこの男に、ノエは嫌悪の念を感じずにはいられなかった。
無造作に司祭の腕を掴み、ノエは彼を引きずるようにして立ち上がらせ、孤児院から少しでも距離を置くように進路を変えて走り出す。後ろで男が何か喚いているが、その発言の全てを無視して、走りながらノエは薄い障壁を築き上げた。
竜の口元に、巨大な雷球が生み出される。あの大きさを受け止めるには、即席の障壁はあまりに頼りない。
(だけど、致命傷にはならないはずだ。だったら、後からどうにかできる)
急な移動だったので、孤児院にも多少影響は出るかもしれないが、先だっての場所で受け止めるよりは被害は少ないはずだ。
なんだかんだ言いながらも、後ろにいる司祭だけは守ってやらねばと、ノエが自身の体で男を庇いながら、盾を構えたときだ。。
「
……
?」
竜は確かに、ノエの方を見た。あるいは、司祭の方を見たのかもしれない。そして、雷球が
――
竜の足元に落ちた。
「え
――
」
まるで、ボールを投げようと振りかぶっていたのに、いきなり取り落としたかのような。それは、フェイントというにはあまりに突発的な出来事だった。
だが、竜が落としたのは子供が投げるボールではない。巨大なエネルギーの塊は、竜の足元で爆ぜ、雷撃となって地面を走った。
「くっ」
地面に沿って走ってきた雷撃の余波を、受け止める。もっとも、微弱な余波などノエにとってはものの数ではない。それよりも気がかりなのは、
「オランロー! サルヒさん、ルーシャンさん!!」
竜の足元で敵を惹きつけていた面々にとって、この一撃は不意打ちだったに違いない。
彼らのもとに駆け出したい気持ちと、後ろで腰を抜かしている司祭を守らなければならない使命感。どちらも今は譲れないものだ。
ノエが剣を握りしめ、歯噛みしていると、
「
……
っと、今のはまずかったな」
ノエのすぐそばに、落ちてくる影が一つ。一瞬、誰かが雷撃の直撃に吹き飛ばされてきたのかと、最悪の予感に寒気が走る。
しかし、影の主は姿勢の一部を崩していても、地面に叩きつけられることなく、着地してみせた。
茶褐色のローブに、片手に持った細剣。そのシルエットを持つ魔道士は、あの中に一人しかいない。
「ルーシャンさん、無事ですか!?」
「ああ。俺は、何とか回避が間に合った。だが、サルヒとオランローは直撃を喰らったかもしれない。サルヒの防御が間に合ってたらいいんだが
……
」
間に合ったと言いつつも、立ち上がったルーシャンの体が一瞬ふらつく、どうやら、全くの無傷というわけにもいかなかったようだ。
「悪い、ノエ。選手交代だ。お前、前線に出られるか」
「それは
……
」
「何を言っている! こやつには、私を守ってもらうという役目があるのだ! 貴様こそ、早く竜を惹きつけてこい! 平民ならば、平民らしく私の盾になれ!!」
口角泡を飛ばして己の安全を主張する司祭に、ルーシャンは取り繕うことなく、嫌悪感をそのまま顔に浮かべた。
「こいつのことは、今はどうでもいい。ノエ、俺がお前に問いたいのは、お前に異端者を殺せるのか、ということだ」
「
……
!!」
ルーシャンは、竜を殺せる、ではなく、異端者を殺せるか、と問うた。
ノエは、すぐにその問いの意味を理解した。技量としての、できるできないを尋ねているのではない。
ルーシャンは『かつて、人であったとわかっているもの』を殺せるのかと尋ねているのだ。
「あれだけ派手に暴れて、人に戻る気配もないとなれば、あいつはもう人の体には戻らないだろう。竜の血を飲み過ぎたのか。それとも、竜の血に体がなじみすぎたのか」
コーディやマルコ、クララのような者とは違うとルーシャンは言う。
竜の血を一度飲んだだけならば、竜に変じても人の姿に戻ることはある、と以前ベルナールは語っていた。
だが、それとて例外もある。それに、常飲していたような者ならば、既に手遅れだ。
「
……
そう、ですか」
ルーシャンの見解に、間違いはあるまい。ノエとて、自分がこの街で仕留めた異端者と同じものを、目の前の竜から感じ取っていた。
暴れ狂う竜の目に宿るのは、憎悪の念だけだ。そこに人だった頃の理性があるかは定かではない。
「
……
止めなければ、あの竜はより多くの人を傷つけるでしょう。それに、もうすでに、奴は人を殺している」
竜の口に引っかかっていた、司祭の帽子。血に濡れたそこにこびりつく、いくつかの肉片。
誰かは知らないが、あの異端者は、すでに人を殺している。ならば、次がないなどと言えない。実際、竜はノエの背後にいる司祭を執拗に殺そうとしている。
それが、他の異端者たちが命じた使命によるものなのか。それとも、反射的に襲おうとしているだけなのかは、定かではないが。
「よし。それなら、俺がこの爺さんを見ててやる。ノエ、お前は前に出ろ」
「おい、貴様ら! 勝手に私に相談もなく決めるんじゃない!」
「いいから黙ってろ、くそじじい。守ってやるって言ってるんだから、大人しくしてろ」
ルーシャンはにべもない一言を、司祭にぶつける。見下していた平民からの痛烈な一言を受けて、怒りのあまりか、司祭は唇をわなわなと震わせていた。
「分かりました。僕が前に出ます」
先ほどの雷撃は、前線に立つ二人にとっては手痛い一撃になったはずだ。サルヒ一人では、竜を惹きつけるにも限界がある。
短い作戦会議を終え、ノエは剣を握り、盾を構え、地を蹴る。
魔力を練って生み出した推進力が、爆発的に体を加速させる。こちらへと首を向けた竜に対して、ノエは瞳に力を込めて睨みつける。
「これ以上、殺させてなるものか
……
!」
走りながら溜めていた魔力を解放。光の花が竜の視界を焼き、竜への手痛い目眩しとなる。
だが、それだけでたじろぐほど、竜という生き物は柔ではない。懐に潜り込んだノエの元に、強烈な尻尾の一撃が振り抜かれる。盾で受け止めようと構えていたところに、
「やらせない
……
!」
分厚い斧の刃が、間に割って入る。鱗の表面を削り、肉の幾ばくかを削った一撃が、周囲に赤い花を散らせた。
「ノエ、旦那様は!?」
「ルーシャンさんなら無事です。司祭の警護を代わってくれました」
ノエの報告を聞き、サルヒに安堵の色がよぎる。しかし、すぐにその薄い唇を引き締め、彼女は黄金色の眼差しを異端者へと向ける。
「ノエ、合わせられる?」
「はい。オランロー、援護を頼んでいいかな」
「分かった。だが、オレの攻撃は決定打にはならない。攻めるのは任せるぞ」
無言の首肯を返し、三人は目の前の異端者に相対する。自分たちが、誰と対峙しているかを知ることもなく。。
***
どこか遠くで地鳴りのような音がした気がして、コーディは瞼を開いた。
目が覚めた瞬間、見慣れない天井が目に映る。同時に、ここがどこだっただろうかと思いを馳せる。
(そうだ。俺、街に戻ってきて
……
それで、門番の人の家に泊めてもらうことになったんだ)
正確には、門を守る騎兵が仮眠をとるための宿泊所が、コーディたちの今の寝床である。
旅の疲れもあって、彼は夕食を食べるや否や、すぐに眠りこけてしまった。だが、外はまだ暗く、今が夜であることを教えてくれている。
再び、かすかな地響きが空気を揺らし、窓がガタガタと音を立てる。寝ぼけ眼だった意識も覚醒し始め、何やら不穏な空気が辺りを包んでいることにコーディは気がついた。
「何かあったのかな
……
?」
ばたばたと、階下を急ぎ足で行き交う人の気配。言葉を掛け合う彼らの様子には、まるで竜の襲撃のときのような緊張感がある。
「竜
……
?」
まさか、と思いつつ、コーディは窓の向こうを見やる。
そこには、静まり返った夜の闇があったはずだ。だが、再び窓ガラスがガタガタと揺れ、そこでコーディは気がつく。
「違う。これ、地面が揺れてるんじゃない
……
!」
窓を開けた瞬間、冷たい風が室内にぶわりと入り込む。体を震えさせながらも、負けじとコーディは窓の向こうから響く『それ』に耳を澄ませる。
風の通り抜ける音の中に紛れ込んだ、低く太い
――
竜の雄叫び。旅の道中でも何度か聞いた咆哮。
瞬間、体が竦む。飛竜に体を持ち上げられたときの恐怖が、コーディの全身を侵食していく。
――
オ、オ、オ、オォォォ!
風にのって運ばれる咆哮は、細く低くコーディの耳に届く。
今すぐ、窓を閉めて危険な存在から逃げ出したい。そう思う一方で、コーディは窓枠に釘付けになったように、竜の声へと耳をそばだてていた。
もう一度、耳に届く咆哮。二度目の雄叫びを受け止めて、彼は呟く。
「
……
グレン?」
なぜ、その名前を口にしていたか分からない。だが、確信めいた何かが少年の胸を突き動かしていた。
「グレン。もしかして
……
そこにいるのか?」
姿も見えない竜の声に、少年は友の名を呼び続ける。
やがて、意を決し、彼は上着を引っ掴み、部屋を飛び出した。
***
――
守らないと。
最初、己の中に芽生えた衝動はそれだけだった。
守るために、力が欲しい。
だから、自分は力を得た。痩せっぽちの体では何年かかっても得られなかった、圧倒的な破壊の力を。
手は翼に変じ、大きく広がった。足の爪は大地を踏み割り、体を巡る血潮の瑞々しさに歓喜した。
牙は鋭く尖り、どんなものも切り裂ける。今までは存在しなかった尾の一振りは、容赦なく敵を叩き潰すだろう。
(これなら、
――
を守れる。あいつらを、殺すことができる)
まず手始めに、ひいひいと甲高い声をあげて震え上がる男を一人、噛み潰した。そいつは、たった一度噛み裂くだけで、あっという間に真っ二つに裂けて動かなくなった。
溢れる血潮は決して美味くなかったが、目障りな敵が悲鳴と共に流したものだと思えば、甘露のように美味に思えた。
(あいつらを許すな。一人たりとも、逃すな)
逃げ出したもう一人を仕留めるため、自分は歩き出した。以前ならば何分かはかけなければ移動できなかった距離も、たった一歩で踏破することができる。実に愉快だった。
逃げ惑う男は、情けなく顔を歪め、涙やら鼻水やらでぐちゃぐちゃの顔をこちらに向けていた。
痛快だった。逃げ惑う男を追い詰め、恐怖の只中にいる時に、最初の男のように引き裂いてやろうと思った。
だが、それを邪魔する者が現れた。しかも、彼らは自分の標的を守ろうとしているではないか。
(邪魔だ。そこをどけ。そいつを、殺させろ)
邪魔をするなら、目の前の存在も敵だ。瞬時に、怒りの炎に燃える頭は結論を出す。
眼前の羽虫のごとき連中を蹴散らさねば、標的の男には牙が届かない。そう判断して、まずは周囲にいる雑兵を蹴散らした。
それでも業を煮やして、自分から距離を置く標的に向けて、雷の魔法を放ろうとしたときだった。
視線の先に、ある建物が目に入った。
周囲にある似たような建物と同じ作りの、少しばかり大きいだけの古びた建物。
けれども、何やら奇妙な感情を自分に抱かせる。憎悪に駆り立てられ、憎しみと怨嗟が全てを満たす体を、僅かに疼かせるもの。
それを、何と言うのだろうか。
(あれは、だめだ)
意識したわけではない。だが、反射的にそう思っていた。
気がついたときには、自分が蓄えていた雷の魔法はまるで見当違いな場所に落下していた。
羽虫どもには効果があったようだが、到底、標的に男には届かない。
(何をしているんだ。早く、早く殺せ)
頭の中を占めるのは、自分でも説明ができない激情だった。
それは、自分の内側にあったものでもあるような気がするし、自分ではない誰かのものでもあるような気がした。
大事なものを奪われた。故に、奪ったものを殺さなければ気が済まない。自分にも覚えのある怨嗟の炎が、今まで以上に強く燃え上がり、己の思考を全て焼き尽くしていく。
(でも、僕は、どうして殺そうとしたんだっけ
――
)
自分を傷つける者たちを、機械的に迎撃する。その一方で、己はかすかな疑問を抱く。
(僕は、
――
を守ろうとしたんだ)
そのために殺すのだ、と内側を巡る血潮が囁く。
自分の中に混ざったそれは、果たして誰の声だろうか。
その声の主も、きっと、とても近しいものを、誰かに殺されたのだろう。その怒りは、自分にも分かるものである。故に、自分はこの衝動を拒めない。受け入れ、飲み込み、恩讐の炎を燃え上がらせる薪としてしまう。
(だったら、僕は止まらない。あいつを殺すまでは)
竜となった少年は吼える。吼えながらも、彼は思う。
(でも
……
――
って、だれ、だっけ)
同時に、自分に立ち向かう剣士に、言葉にできない感情の断片がくすぐられる。
(どうしてだろう)
すぐに怒りの炎にかき消される、その一瞬。思考が、ざわつく。
(あなたを見ていると、胸が、痛くなるんだ)
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