千代里
2024-09-19 08:00:52
11991文字
Public リーブラ13話
 

リーブラの針は問う・13話・その47


 眠れない。
 ベッドの中でもう百になるほどの回数、寝返りを打ちながら、彼――グレンは思う。
 数日前に風邪を拗らせて熱を出してから、グレンは多くの時間を自室のベッドにて過ごしていた。勝手に抜け出そうものなら、孤児院の大人たちに怒られるからだ。
 相部屋の子供は、グレンの風邪がうつらないようにと、別の部屋に移されてしまった。おかげで、グレンは一人きりで自分の考えに耽ることができた。
 つい数日前まで、思考の多くは同室でもあった友人の少年――コーディのことと、彼の救出を依頼したノエのことだった。
 グレンが突き飛ばしたせいで、飛竜に攫われてしまったコーディ。
 その彼を助けるために、竜の後を追って旅立ったノエ。
 自分のせいで、二人が傷つき、苦しむような結果になっていないか。
 そのことを思うだけで、胸の奥が苦しくなって、喉まで締め付けられるかのようだった。
(でも、ノエさんは帰ってきた。コーディも連れて)
 寝込んでいたため、実際に姿を見たわけではない。だが、看病をしてくれているプリシラや他の大人の様子から、彼らが嘘をついているわけではないことはすぐにわかった。
 グレンは、大人の嘘には敏感だ。わずかな目の動き、声の調子、身振り手振りで彼らが嘘をついているかどうか、すぐにわかる。
 裏を返せば、彼らが正直に話しているかどうかも、グレンにはお見通しだった。
……ノエさんと、ちゃんと話をしたかったのに)
 グレンはもぞりと体を動かし、布団から顔を出す。
 窓から見える外はすでに暗い。家々の照明もほとんど消えているので、今は深夜なのだろう。
 きっと、ノエももう寝ている。そう思うと、グレンは胸の奥が安心するような、一方でズンと沈むような不思議な感覚に襲われた。
 ノエと会って話をしたい。グレンは、ノエが戻ってきたと聞かされた直後に、プリシラにそう頼んだ。
 とはいえ、熱が出た直後ということもあり、すぐに許しは得られなかった。グレンの希望は伝えておくと言ったので、もしかしたらグレンが寝ている間に来てくれたのかもしれない。もしそうだったら、と考えると残念に思う一方で、顔を合わせずに済んだことを安堵している自分もいる。
 なぜなら。
(コーディは、もうノエさんに話したんだろうか)
 自分の手を見るたびに、あの日、返り血で赤く染まった指先を思い出してしまう。アランにナイフを突き立てた、あの瞬間のことを。
 竜に変化してしまった異端者を迎え撃つアランの姿を見て、心臓の奥がざわりと揺れ動いた。母を殺した男に再会した時の怒りが、炎が、グレンの腹の内側を再び焼いた。
 アランと共に過ごし、ノエから言葉をもらい、少しずつ宥められ、小さくなっていた炎が。
(許すべきではない、と『あの人』は言った。僕も……そう思っていたことを思い出した)
 最期の雄叫びをあげて、母が絶命した瞬間をまざまざと思い出してしまった。
 母は、世間的には良い母親ではなかったのだろう。異端者と交流を図り、家にいない日もしばしばだった。グレンの将来のことを省みることもなく、竜の血をあおって、自らが竜へと変じてしまった。
 だが、それでも――グレンにとって、唯一の家族だった。
 だから、彼女を否定する世界が許せなくて。
 中でも、彼女にとどめを刺した男を受け入れられなくて。
 アランがどれだけ優してくれようと、取り返しのつかないくらいに彼をめちゃめちゃに傷つけたい気持ちを捨てられなかった。
 その捨てられない気持ちが膨らんで、あの日、グレンはナイフを手に取っていた。
 人を刺すのは、思っていたより、ずっと簡単だった。
 でも、人を殺すのは、思っていたより、ずっと難しかった。
 不意打ちだったからか、アランはグレンの凶刃を避けられず、その身で受け止めていた。けれども、彼は苦しそうに顔を歪めても、その場で崩れ落ちるようなことはなかった。
 子供の細腕では、鍛えられた大人の腹を刺し貫くには到底足りない。そのように冷静に状況を分析する前に、グレンは飛竜の追撃を受けた。そして、竜からグレンとコーディを庇い、今度こそアランは取り返しのつかない怪我を負って、命を落とした。
 あの瞬間のことを思い出すたびに、呼吸は浅くなり、世界がグレンから遠ざかっていく。
 ちょうど、母が死んだときを思い出すのと同じように。
 アランを傷つけたことを悔いているのか、それとも、ざまあみろと思っているのか。自分でも、どんな気持ちを抱いているのか、いまだに整理できていない。
……このまま、眠ってなんかいられない)
 そう思ったら、自ずと体が動いていた。
 寝台から滑り降り、襲撃の時から一度も洗っていない上着を体にかける。被り慣れたキャスケット帽子を頭に乗せ、防寒具へと袖を通す。
(ノエさんに、会いに行こう)
 できる限り、床を軋ませないようにそっと足を踏み出す。
 大人たちにバレないだろうかと、程よい緊張に体を強張らせながら、グレンは扉を開いた。
(だって、今のままじゃ、僕はコーディに顔を合わせられない)
 アランを殺した所を見られたから、コーディを飛竜の前へ突き飛ばしたわけではない。だが、本当にそうだと言い切れる自信もない。
 アランを殺した事実を、世界の全てから消したくて、目撃者を自分の目の前から消そうとしたのではないか。その自問に、否と言い切れる自信がグレンにはなかった。
(だから、ちゃんと話をしたい。きっと、ノエさんはもう知っているはずだから)
 コーディの性分なら、自分が目にしたものをいつまでも黙っていられないはずだ。それに、グレンも、今となっては、殊更に隠し立てしようとも思っていなかった。
 このままでは、グレンはコーディに会えない。会ったときに、自分がどんな気持ちになってしまうか想像できない。もしかしたら、コーディを傷つけてしまうかもしれない。
 だけど、コーディと会える機会は、当分得られないだろうという話だった。コーディ何砦で暮らすようになったら、今までのように頻繁に顔を合わせることはできなくなる。もしかしたら、これが最後の機会になってしまうかもしれない。
 だから、曖昧な自分の形を固めるために、グレンはノエの力を借りたかった。
 大人であり、グレンに寄り添ってくれた人であり、グレンの願いを聞き届けてくれたノエなら。きっと、グレンの犯した罪にも、共に向き合ってくれると信じられた。
(僕は、神様に懺悔するよりも、ノエさんに打ち明ける方がいい)
 ノエが戻ってくるまで、グレンは夜中に何度か部屋を抜け出して、礼拝堂で祈りを捧げていた。
 自分の犯した過ちが本当に間違っているのなら、戦神ハルオーネが裁いてくれるのではないか。そんな少年の一縷の希望に対して、ハルオーネ像は冷たい視線を向け続けるだけだった。
 夜中に冷えた礼拝堂にずっといたせいで、グレンは風邪をひいてしまった。容体の変化を無視して、更に礼拝堂に通い続けたせいで、ますます風邪は悪化してしまった。
 それでも、ハルオーネ像からの裁きは訪れなかった。グレンは、自分にとって信仰は救いにならないと思い知った。
 防寒具で重たい体を引きずるようにして、ゆっくりと廊下を歩く。
 こんな夜中に訪れたら、ノエは驚くだろう。けれども、彼はどれだけ眠たかったとしても、真剣に話は聞いてくれる。グレンはそう信じていた。
 階段を降り、一階までやってきて、グレンは勝手知ったる裏口まで足を進める。
 数日前まで、夜中に礼拝堂に向かうときは、いつもこの勝手口を使っていたので、足取りに迷いはなかった。
 玄関と違って、ドアベルもない勝手口は、ほぼ無音でグレンを通してくれた。扉の隙間から吹き付ける冷気に、グレンは体を縮こませる。
 寒さに数秒体を慣らしてから、今度こそ彼は外へと足を踏み出した。
 冷え冷えとした夜空には、どんよりとした雪雲が居座っている。夜に一度降雪したようだが、今は雪が降っている様子はない。これ幸いと、グレンは孤児院の裏手を通り、まずは表通りに向かおうとした。
 だが、彼は最初の数歩で足を止める。
……教会に、灯りがついてる?)
 グレンの視線の先にあるもの――それはグレンが広場を挟んで隣にある教会だった。
 この時間なら、司祭はとうの昔に自宅に帰っているはずだ。夜の番をしている者も、教会の建物内にいても、奥の仮眠室で眠っている場合がほとんどである。
 教会が無人にならないのは、迷える信者が夜半に来て懺悔を願い出た場合であると、グレンは教えられていた。だが、この街ではほとんど形骸化している風習でもあった。
 実際、グレンが礼拝堂に忍び込んでも、宿直の司祭が顔を見せることは一度もなかった。
 故に、グレンは今の状況が不自然であると分かった。
(灯りの位置は……礼拝堂の奥。司祭様の控室だ)
 好奇心と不審の気持ちが折り重なった結果、グレンの足は自然とそちらに向いていた。
(泥棒? それとも、熱心な司祭様が起きているだけ?)
 教会に関することで、昨日と違うことはあったか。それを考えて、グレンは一つの可能性に思い至る。
(ノエさんたちが、戻ってきたから……? コーディのことで、何か話をしているんだろうか)
 ノエと教会に一体どんな因果関係があるかはわからないが、グレンは自分の可能性に縋るような気持ちで礼拝堂――その裏口にあたる戸に手をかける。
 正面の出入り口とは異なり、祭壇の近くにあるこの扉は、普段は司祭が勝手口代わりに使う場所でもある。そして、グレンはこの扉の鍵が壊れていることを知っていた。何度か木戸を押し引きするだけで、緩んだ錠前は簡単に少年を通してくれた。
 礼拝堂の中に入ったグレンを出迎えたのは、照明が落ちて静まり返った礼拝堂と、無言のハルオーネ像だった。
 グレンにとっては馴染みのある、冷えた静謐な空間。しかし、そこには外からも確認できた違和感の残滓があった。
 礼拝堂の奥――司祭の控室に続く扉から漏れる、照明の光。耳の奥をくすぐるような、微かな人の話し声。
(やっぱり、誰か起きてる)
 そこにいるのはノエではないかもしれないが、コーディに関わることなら、自分も知っておきたい。己の関心に従い、できる限り足音を殺し、グレンは灯りの元へ向かう。
 扉に近づけば近づくほど、声はよりくっきりとグレンの元へと届いた。
……ような、地図の端にあるような辺境では、碌な功績は残せまいと思っていたが」
「まさか、今更……年前のことが、蒸し返されたのでしょうか」
 少しずつ、声がはっきりとする。聞こえてきたのは、二人分の男の声だ。一人は低く深みが威圧感を覚えさせるものもある。もう一人は、何だか蛇に睨まれたような寒気をグレンに与えた。
「五年前のことなど、うやむやにしてしまえばいいのだ。すでに、五年も辺境にいたのだぞ。禊は終えたはずだ。だから、中央に戻ってきたというのに、またこのような場所に派遣するとは!」
「関係者が、五年前の幽霊に殺された、などという話もあるようですが?」
「それこそ、おいぼれどもの妄言だ。首謀者どもは、そうして震え上がっていればいいのだよ」
 男たちは、苛立ちの隙間に嘲笑のような気配を交えて話をしている。それは、グレンが最も嫌う『大人』の話し方だった。
「それよりも、今はさっさと功績を挙げて、我々を皇都に戻すように陳情する策を考えるべき時だ。そうだろう」
 教会にいる以上、男たちは教会の関係者であるのだろう。だが、グレンの知る司祭の声と、扉の向こうの二人の声は合致しない。
 一体誰だろうと、グレンはより息を詰めて、扉に近づく。鍵穴を覗き込むと、煌々と灯りの灯った部屋に、見慣れない装飾が施された司祭服を着ている者が見えた。
「ちょうどよく、ここには竜の血を飲んだ異端者が何人もいるのですから。まさに、我々の功績とするにはお誂え向きです」
「そうだな。明日にでも異端審問官へ手紙を送ろう。奴らを絞り上げればば、我々は辺境の異端の芽を摘んだ救世主だ。あの田舎貴族も、まさか中央の者に逆らおうとはするまいよ」
 低い忍び笑いの声が響く。それは、鍵穴を通してグレンの耳にもしっかりと届いていた。
「いやはや、あれは傑作でしたな! まさか、私たちが竜の血を飲んだ者を擁護すると、本気で信じているとは」
「お前の機転には驚かされたぞ。だが、邪魔をさせないためには、まずは懐柔されたふりをした甲斐はあったな」
「そうでしょう。孤児院にきた兵の言葉を盗み聞きして正解でした」
「田舎貴族というのは、頭にも藁が詰まっているらしい。あのような、下賎な旅人を家にあげる者が貴族とはな」
 嘲笑の標的にされているのは、この街の領主であると、盗み聞きしているグレンにも分かった。竜の血を飲んだ者とはコーディたちのことか。グレンは、ますます耳をそばだてる。
「そうそう。その旅人についても、一つお伝えしなければならないことが」
 丁寧な言葉使いではあるが、まるで蛇のような悍ましさを感じさせる声が、得意げに語る。
「連中の中に、黒いうろこを持つ者がいました。あれも、邪竜の眷属として突き出すことができるでしょう」
「それはいい考えだ。奴らも、暫くはここに滞在するだろうからな。一網打尽にすれば無駄がない」
 肩の荷を下ろすように大きく息を吐くと、男はうんざりしたといった調子で続ける。
「まったく、さっさと皇都の石頭どもに私の功績を認めさせて、戻りたいものだ。ただでさえ、五年前は若造どもが引っ掻き回したせいで、辺境で長く暮らさざるを得なくなってしまったというのに」
「ええ、あなたの言う通りです。ですが、今回の件、上手く根回しをすれば、ラペイレットの一族を領主の座から引きずり下ろすこともできるでしょう。それを手土産に、諸侯の後ろ盾を得ることも不可能ではありません」
「その辺りは、まずは旨みを求める貴族を探してから調整すべきだろう。ともあれ、先に既成事実を作っておくべきだな」
「ええ。では、例の異端者どもがここから離れる前に、明日にでも皇都に――
 グレンには、大人の難しい話はわからない。けれども、異端審問官がコーディらに詰め寄れば、彼らが危ないことぐらいは分かっていた。
(領主様が、せっかくコーディも街の外で暮らせるようにするって言ってくれたのに)
 寝込んでいるとき、コーディの帰還の知らせとともに、プリシラはこの朗報も教えてくれた。コーディと頻繁に顔を合わせることはできずとも、彼がこの先も人として生きられると知って、グレンはほっと胸を撫で下ろした。
 なのに、もし異端審問官がきたらどうなるか。
 領主様が心変わりをして、コーディたちは異端者として処刑されるべきだと言い出してしまうかもしれない。たとえ領主様がコーディたちを守ろうとしても、教会の大人たちに詰め寄られて、守りきれなくなってしまうかもしれない。
……あの人たちに、異端審問官を呼ばせちゃいけない)
 思い出すのは、グレンが母を失った日のことだった。
 寂れた家屋の扉を叩く、荒々しい音。踏み入ってきた見知らぬ大人たち。怒鳴り散らして追い払おうとした母に、異端の嫌疑について問いかけた、教会の人たち。扉の向こうに見えた、近所に住んでいた大人や子供たちの、恐怖と好奇心の入り混じった表情――
 はあ、と心の中で息を吸い、吐き出す。焦燥に逸る心臓を宥め、グレンは扉から一歩距離を置く。
 だが、少年の震えた足は彼の思うように動いてくれなかった。ざり、と石畳を擦る靴の裏の音が、無音の礼拝堂に大きく響く。
「む……? そこに誰かいるのか!!」
 瞬間、怒号とともに扉が開く。
 弾かれたように、グレンは踵を返して駆け出そうとした。だが、十歩も行かないうちに追いかけてきた司祭の手がグレンの襟首を掴み、その細い体を地面へと引き倒した。
 はずみで、頭を礼拝堂の椅子にぶつけたせいで、鈍い痛みが火花のように走る。遅れて、頬が地面にぶつかる痛みが広がり、床の冷たさと熱を持った痛みがグレンの顔面を駆け巡った。
「何者だ、こいつは。まだガキじゃないか。浮浪者の類か?」
「さあ、どうでしょうね。浮浪者にしては身なりがいいようですし、近くの孤児院の子供が迷い込んだのではないでしょうか」
「こんな夜中にか? ……まあいい。貴様、どこまで話を聞いていた」
 男の問いかけに、グレンは答えない。否、彼は今も言葉を失ったままであるがゆえに、答えることができない。
 グレンの沈黙を、強情な黙秘と受け取ったのだろうか。二人いる司祭のうちの一人――ヒューラン族の男の方が、不愉快そうに眉を寄せる。
「だんまりか。どちらにせよ、我々以外の人間に先ほどの話を漏らされたら面倒だな」
 転がっているグレンの腹に、男のつま先が勢いよく突き刺さる。内臓を直に蹴られたような痛みに、グレンは体を二つに折って咳き込んだ。
「どうする。どこかに閉じ込めておくか」
「ですが、いつ解放するのですか。ことが終わった後に、余計な告げ口をされては、我々の計画が水の泡です」
 呻いているふりをしつつ、男たちから距離を置こうとしていたグレンの背中に、激しい衝撃が走る。踏みつけられたのだと分かったのは、その背をぐりぐりと踏み躙る靴の感触を背で感じ取った後だった。
「それもそうだな。ならば、もう消した方が早いか」
「そうですね。平民の子供の一人や二人、姿を消したところで大した問題にもなりますまい。五年前もそうだったように」
 男たちは、いともあっさりとグレンの存在をこの世界から抹消すると決めてしまった。
 自分に向けて告げられた死刑宣告同然の言葉が、グレンにはすぐに理解できなかった。司祭というものは、異端者に対しては厳しくとも、それ以外の人間には優しく接する存在だと思っていた。
 なのに、目の前の男たちは、異端者ですらない子供を殺す算段を立てている。
(この人たちは、嘘つきの、悪い大人だ)
 司祭の服は着ている。けれども、グレンが嫌う誤魔化しや嘘を平然と使うことができる大人だ。きっと、プリシラやノエたちは優しいから、このような大人の嘘にすぐ騙されてしまうに違いない。けれども、グレンには彼らの腹の底が透けて見えていた。
 彼らは、本当にこの街に異端審問官を呼びつけるだろう。自分たちが異端者を見つけとという報告をして、よくやったと認められて、皇都に戻るという理由のためだけに。
(コーディたちが……ノエさんの仲間たちが、危ない)
 男たちは相談を終え、グレンへと手を伸ばす。このまま殺されてなるものかと、グレンは手を振り払おうとしたが、つい数日前まで熱で寝込んでいた体の抵抗は、思った以上に貧弱だった。あっという間に男の一人に腕を捻りあげられ、抵抗の手段を封じられる。
「無駄な抵抗を。大人しく、自分のベッドに寝ていれば、このようなことにはならなかったというのに」
……っ」
「悲鳴の一つもあげませんね。声を出されないのは都合が良いですが、それにしても不気味な子供だ」
 話をしながら、司祭は少年の襟首を引っ掴み、礼拝堂の奥へと引きずっていく。もし礼拝堂内部でグレンを始末すれば、犯行の現場を見て礼拝に来た町民が気づくかもしれないと思ったようだ。
 扉が開き、先ほどまで司祭たちが話していた小部屋に、ゴミでも投げ捨てるかのように放り込まれる。グレンの体のあちこちは、先だっての暴行のせいでずきずきと痛みを発していた。泣きたくなるほどの疼痛は、ひょっとしたら骨にヒビが入ったせいかもしれない。
 痛みと衝撃でくらくらしながらも立ちあがろうとして、更なる倦怠感がグレンに襲いかかる。まるで喉が見えない腕で掴まれているように、息の隙間に混ざっていた呻き声すら、グレンの口から消えていた。
 それが、人の声を奪う魔法のせいだと、グレンには分からなかった。だが、自分を見下ろすエレゼン族の司祭の手がこちらに向いているので、彼に何かをされたのだとは分かった。
「こうしていると、五年前を思い出しますねえ。私としては、子供の末期の叫びを聞く方が趣味だったのですが」
「お前の悪趣味のせいで、例の件は露見したようなものだぞ。少しは自重しろ」
「とはいえ、あなたも楽しんでいたじゃないですか。ほら、今日ラペイレットの家にいた、あの旅人の少女。彼女に似た子供がいた気がするんですよねえ。管轄が別だったので、手を出す機会には恵まれませんでしたが」
 悍ましい内容を懐かしげに目を細めながら話す男たち。このまま話に耽っていてくれと望むグレンの願いは届かなかった。グレンが身じろぎすした矢先、
――――っ!」
 体に走った衝撃は、今までグレンが感じたどんな痛みよりも激しく、彼の神経の隅々を焼いた。
 それが強力な雷魔法の一つだと分かったのは、視界の端を紫電が飛び散っていったからだ。
 弾け飛んだ紫電の輝きに吹き飛ばされ、グレンは壁に体を打ちつける。それでも、すぐに起き上がることができない。体の筋肉の全てが、グレンの意思を無視して、てんでバラバラの方向に動いてしまっているかのようだ。
「命乞いの一つもしないとなると、興醒めですね。せっかくなのですから、言葉は発せずとも涙の一つぐらい見せればいいものを」
 ふ、とグレンの目の前に影が落ちる。壁にもたれてぐったりとしているグレンがよろよろと顔を上げると、目の前にエレゼン族の司祭の顔があった。
 ご丁寧にも膝を折り、視線を合わせ、今にも神の慈悲を説くような笑顔を見せながら、
「どうですか。先ほどのように、痛い思いをして死にたくはないでしょう。地に頭を擦り付けて伏して慈悲を求めるのならば、苦しまずに楽にさせてあげられますよ」
……でも、それはどうせ死ぬってことじゃないか)
 痛みがもたらす衝撃に慣れてきた頭が、グレンの中で淡々と答えを導き出す。
(この人たちは、本当に僕を殺してしまうだろう。僕がいなくなったら、プリシラさんやノエさんは僕を探してくれる。でも、この人たちが異端審問官をここに呼ぶ方がきっと早い)
 そうしたら、全てがおしまいになってしまう。
 ノエの仲間は異端者の仲間と思われてしまうだろうし、コーディたちは竜の血を飲んだという部分を咎められたら、言い逃れができない。コーディが竜に攫われたことは、孤児院の皆が知っていることだ。
(止めないと。でも、僕には……何もない。何かできるほどの、力がない)
 そこまで思った瞬間。
 グレンは思い出した。
 竜の二度目の襲撃――アランを刺したあの日の前日に、グレンに声をかけた男の言葉を。
 
 ◇◇◇
 
 その男は、かつて母と暮らしていたときに、何度かグレンの家に訪れていた者だった。母とは『同胞』の間柄であると、彼は自分をグレンに紹介していた。ヒューラン族の男は、母とは親密な関係だったので、てっきりグレンは彼が『新しい父親』になるのかと思っていた。
 グレンの父は、グレンが小さいときに姿を消してそれっきりだと聞く。女手一つで二人分の生活費を稼ぐのは楽ではなく、グレンはいつも空腹を抱えていた。
 そのせいか、母は裕福な身なりで村を訪れる貴族たちに、常日頃から憎悪の念を滾らせていた。それが異端者への道を選び取る理由になったのだと、グレンも薄々分かっていた。
 同胞の男は、母が死亡した後は一度も姿を見せなかった。そして、グレンの記憶からもゆっくり薄れていくところだった。
「久しぶりだな、坊や。まさか、こんな所で会うとはな」
 思いがけない知人との再会に、グレンは動揺のあまり、唖然としてしまった。
 男は、お使いに出ていたグレンを路地裏に引き込むと、母を失ったあの日のことを後悔の涙と共に悲しんだ。
「お前の母さんのことは、残念だった。助けに行ってやれなくて申し訳なかった」
 そんなことは、どうでもよかった。どちらにせよ、母が異端の道へと足を踏み入れた以上、後は時間の問題だとグレンにも分かっていた。
「だけど、いいか。明日が、お前が仇をとれる最大のチャンスになるんだ」
 どうして、と目線でグレンは問いかけた。
 だが、男は「詳しい話はお前にはできない」と言うだけだった。そして、仔細を語る代わりに、グレンにあるものを押し付けた。
「あの異端審問官が油断した隙に、こいつを使え。使い方は、お前の母さんを見ていたなら分かるだろう」
 グレンはそれを見て、驚きのあまり息を止めそうになった。戸惑いの視線をどう解釈したのか、男は何やら瞳を輝かせて言葉を続けた。
「無理を言って、持ち出してきたんだ。これは、間違いなくお前の『力』になる。引退した異端審問官なんて、目じゃないさ」
 彼の瞳は、かつての母と同じ炎を抱いていることに、グレンは気がついた。
「あいつが、お前の母さんを殺したんだ。復讐の機会を、逃すんじゃないぞ」
 その言葉が、グレンの内で埋み火となっていた恩讐の炎を、再び燃え上がらせてしまった。
 
 ◇◇◇
 
 しかし、結局、グレンは『それ』を使うことはなかった。グレンの復讐は己のナイフによって行われ、中途半端な形で終わった。
 だが、押し付けられた『それ』は、まだグレンの上着の中に残っている。
……何だ。力なら、あるじゃないか)
 意識が、現実へと引き戻される。下劣な笑みを浮かべる卑怯な者たちを、グレンは決然と睨みつけた。
「盗み聞きした上に、我々を楽しませることもできないとは。まったく、つまらない子供ですね」
 司祭の男の手が、グレンの首へと伸びる。
 首を絞めて殺すつもりだったのか。それとも、ただ痛ぶるだけのつもりで、締め上げようとしたのか。
 しかし、その意図がわかることはなかった。
――――!!」
 グレンの手が懐に伸び、そこにしまい込んでいた凶器を取り出していた。
「なっ――
 不恰好な鞘に入れた、一振りのナイフ。ノエから教えてもらった短剣の扱いを思い出し、刃が修練の軌跡をなぞる。
 飛び散る赤。一拍遅れて、男の耳障りな呻き声が耳に届く。
「ぐっ……この、クソガキがあぁ!!」
 ナイフが肉を貫く感覚が、持ち手越しにも伝わる。二度目の感触は、一度目のときより罪悪感は薄かった。
 ナイフを突き立てたのは、男の手のひらだった。致命傷には程遠いが、不意の一撃は司祭を一時的にたじろがせるには十分だった。
「何をしておるのだ、馬鹿者が。そのような子供一人殺すのに、大騒ぎするでない」
 思いがけない反撃にたじろぐエレゼン族の司祭に、ヒューラン族の司祭が嘲りをまぜた言葉を投げる。しかし、グレンは彼らの言葉の応酬を聞いていなかった。
――力が、いるんだ)
 目の前の大人のような、誰かの願いを踏み躙って笑う者から、大事な者を守るために。
(僕は、母さんを守れなかった)
 今までの貧しい生活を呪い、貴族を呪う母を引き止められなかった。
(僕は、アランさんを守れなかった)
 それどころか、グレンを守ろうとする彼を傷つけてしまった。母の仇としての怒りがあったとしても、本当にそんなことをしていいのかと自問する声はあったのに。
 自分は、自分の内に買っていた衝動に負けてしまった。
(僕は、コーディを傷つけてしまった)
 唯一無二の友人だった。口のきけない自分を馬鹿にすることもなかった少年。それどころか、他愛のない話題で何度もグレンを笑わせようとしてくれた。心無い声から、コーディは何度も守ってくれた。
(僕は、ノエさんに、全て任せてしまった)
 コーディを助けてほしいという願いを、青年は真摯に受け止めてくれた。一度は取り下げた願いであっても、グレンが心の底で願っているのが何かを、彼だけは見抜いてくれた。
(だから、今度は――僕が、守るよ)
 異端と認められれば、覆すのは難しい。たとえ、どれだけ善良な人であると人々が知っていても。
 この国の秩序は、時にそのような残酷な一面を見せることを、グレンは母を失った日に知った。
 だから、少年は大人の決まりごとや正教の教えには頼らない。
(ごめんなさい。ノエさん。……コーディ)
 謝罪と共に、懐に潜ませたもう一つの『力』に手を伸ばす。
 あの日、男に押し付けられた小さな瓶。中に揺れているのは、かつて母が竜になる直前に飲み干していた――竜の血。
「貴様、何を持っている! まさか、それは――!」
 栓を片手でこじ開け、躊躇わずに中身を飲み干す。どろりとしたものが体の中を行き交い、少年の細い体に満ちていく。
(全部飲んだら、きっと戻れなくなる)
 だが、途中でやめれば、戻れるかもしれない。そんな直感がどこかで働く。
 けれども、弱音を吐く自分を、グレンは否定した。
(行こう。最後まで、皆を守るために――
 目の前の敵と見做した者たちを見据え、グレンは『吼えた』。
 失ったはずの声の代わりに、竜に変じた少年の雄叫びが、狭くなった室内に轟く。体はぐんぐんと大きくなり、竜の巨体を隠しきれなくなった小部屋の屋根が音を立てて崩れる。
 そこにはもう、無力な少年はいなかった。
「ま、まさか、お前は、本当に異端者――!」
 震え上がる司祭を見下ろしているのは、黒々とした鱗に体を覆われた、一頭の竜だった。