田舎のダイナーでは確かに目立つ女性だ。清潔感があって、愛嬌がある。フレェクルの散った鼻のあたりに、うっすら汗をかきながら忙しなく動き回る様子も、仕事に対する誠実さをうかがわせる。注文を受ける度に、念入りにメニューを確認する様子も微笑ましい。客の男性二人組に話しかけられ、最初は気前よく笑っていたフレェクルの彼女が、腕を組んで受け答えし始める。彼女はちらちらとダイナーの厨房に視線を送るが、あいにくオーナーは死角となる位置で絶賛調理中らしい。感覚的に、引き留めの時間が長いのはメニューに関する注文以外のことだろうと察しがつく。愛想のいい彼女が腕を組んだのは無意識の防御だ。
男性客二人組は店の奥まった位置に座していて、用事がなければ他の客はそこに向かわない。作為的な選別だろう。
女性があしらい方に慣れるということは決して良き心持ちではない。彼女の場合はダイナーで働くことによる結果だろうけれど、見目麗しく若い女性であるという真実は、時として枷になることもあるだろう。
男性客二人組と、彼女の雰囲気は穏やかではなかった。彼女の持ちうる魅力的な微笑みを自分達へ向けられた行為だと勘違いしている男のうちの一人が、彼女の二の腕を掴もうとする。その手を横から掴む者がいた。
「あんたらさぁ。若い女の子に昼間っから絡むなんて酔ってんの?トイレん中まで会話丸聞こえ。用足しくらい静かにさせてくれよ。会話がセクハラすぎて落ち着かねーよ。通報するぞ?」
トイレから出てきたルースターが男の腕を掴んだまま凄む様子が見て取れて、マーヴェリックは浮かしかけた腰を戻した。
目的地に向かう途中で立ち寄ったダイナーだ。運転手を担っていたルースターがトイレに立った間の出来事だった。ダイナーのパートタイムジョブであろう若い女性がきびきびと動き回る様子を眺めながら、マーヴェリックはメニュー表を開いていた。これとこれとそれ、とルースターの好物ばかりが目につく。元から食に関してはそれほどこだわりがある方ではない。生きるためと戦闘機乗りとしての、必要最低限の摂食。喫食という感覚がマーヴェリックには欠如しているので、こういった場合に楽しみにしていることといえば、ルースターが大きな口で好物を頬張る様を見守ることだ。
いささか甘い思考回路に浮かれていた自覚のあるマーヴェリックは意味なくブラックコーヒーの文字を辿る。そんな風にルースターを待つマーヴェリックの耳に、ダイナーの彼女のいささか困ったような声が聞こえてきたのが先ほどまでの顛末だ。
世間一般的に見ても愛らしく美しい彼女に声をかけ、口説き始めた男性客二人組。彼女が好意的にそれを受け入れるのならば、マーヴェリックが口出しする出番はないが、やはり闊達な印象の彼女は男性客二人の誘いに困惑し始めた。話し方に強い訛りがある点もチャーミングだ。彼女の話し方に、男たちはある種の興奮を覚えているようだった。
マーヴェリックが立ち上がりかける。と、同時に、レストルームから出てきたルースターが抜群のタイミングで、彼女の二の腕を掴もうとした男の腕を掴んだ。男性客二人組よりも遥かに上背が高く、肩から胸筋にかけてはシャツ越しでも筋肉が詰まっていることはひと目でわかる。
レストルームに入る前に、外してシャツの胸元に引っ掛けていたはずのサングラスをかけて凄むルースターにマーヴェリックは思わずメニュー表で顔を隠した上で吹き出した。ルースターはサングラスを外せば垂れ目の柔らかい雰囲気持つ青年だが、表情の見えないサングラスに髭、顎下の傷とくれば、初見思わず身構えてしまいそうな風情がある。男性客二人組に比して、ルースターの体格ははるかに上回り、軍属であることからしても力で負けることはないだろうが、一般人に対して武でもっての仲裁はできない。だからこその見た目でわかりやすく威嚇した熊のような青年に、男性客二人は早々に負けを認めた。盛大な舌打ちをかまして、席を立ち上がると、忙しなく勘定をしてダイナーを出て行った。ルースターが席に戻ってくる。
「なに笑ってんの」
「いや、お前はいい男だなって微笑ましく見てた」
「ぜってぇ違うじゃん。その顔やめて」
ルースターが拗ねた様子でサングラスを外す。途端、マーヴェリックの愛し子であるブラッド坊やと部下のルースターと、パートナーであるブラッドリーが現れる。
「嘘じゃない。僕のパートナーは世界一いい男だと自慢したいくらいには浮かれている」
ルースターがぱか、と口を開けて呆然とした顔を見せる。してやったりとマーヴェリックが笑い、頬を染めたルースターが言葉を発しようとする。と、声がかかる。
「決まった?」
先程ルースターが救ったダイナーの彼女が注文を取りに来たのだ。ちらちらと上目でルースターをうかがい見、フレェクルの乗った可愛らしい鼻先と頬を赤く染めている。無理もない、とマーヴェリックは苦笑した。
「大丈夫だった?ごめん、声をかけるのが遅れて」
ルースターが労わりの言葉を投げかける。
「だ、だいじょうぶ。ありがとう」
頬を染めた彼女の返答に、ルースターが笑う。マーヴェリックはルースターにメニュー表を渡すと、彼女に声をかけた。
「どこから?」
「ドイツ。留学してきたの。やっぱすぐわかる?訛り」
『なるほど。いや、とても可愛らしい話し方で僕は嫌いじゃない。おっと。これもセクハラって彼に怒られるかな』
マーヴェリックがドイツ語で返答すれば、彼女は一瞬虚をつかれたような顔をしてから花が綻ぶように笑った。
『久しぶりに母国語で話せるなんて』
『僕の発音大丈夫?』
『素敵よ。旅行?』
『うん、ここから船に乗って、向こうのリゾートホテルへ』
突然目の前で交わされるドイツ語での会話を理解する言葉のツールを持たないルースターが、マーヴェリックにだけわかる変化で機嫌を下降させた。
そんな心配するようなことなどあり得るはずがない。事実彼女が先程から頬を染め、視線を送るのはルースターに対してだ。
メニューを聞きえ終えると同時、彼女はドイツ語でマーヴェリックに話しかけた。
『ねぇ、彼、すごく素敵。あなたたち親子?それともお友達?彼にお礼をしたいのだけれど、ナンバーを聞いても?』
彼女の懇願に、少し前のマーヴェリックならば喜んでメモを差し出しただろう。心持ちがアンクルマーヴのままだった少し前なら。
彼女がルースターと渡りをつけたいと思う気持ちもわかるし、先ほどのやりとりからして、誰もがルースターに抱く印象は好青年としての好意だ。再度ドイツ語で話しかけた彼女に対し、ルースターが怪訝な顔をする。それを見ぬふりで、マーヴェリックは困ったように眉根を寄せて彼女を見上げた。
『ごめんね、彼は僕のパートナーなんだ。彼を好ましく思ってくれてありがとう。あと、相手がこんなおじさんでごめんね』
マーヴェリックが並べた言葉に、彼女は一瞬茫然としたのち、頬を染めて俄に焦り出した。
『あぁあ、ごめんなさい、私ったら!すごく失礼なことをしちゃった……!あなたにも謝罪させてしまってごめんなさい!』
恐縮しきりの彼女に微笑みかける。気遣いのできるいい子だともマーヴェリックは思った。
『あの島のリゾートホテルに行く二人組なんてカップルに違いないのに!ハネムーン?そんな幸せな時間に助けてくれた上に、私から声をかけるなんて、あぁ、ごめんなさい!』
笑いながら頬を染めて、最後は自分自身の行動を笑う彼女自身は非常に魅力的だ。
そのままひとしきりマーヴェリックと彼女が笑って話した後、彼女はルースターにも「楽しんでいって」と微笑みかけて、厨房奥へと消えた。
「……なに話してたの……」
暗雲を背負ったような暗い表情で、ルースターはすぐさまマーヴェリックに問いかけた。すごい顔だな、見覚えがあるな、と18年の決別を経て再開したあの日のルースターの顔を思い出した。
「この店のおすすめを聞いただけだよ」
「本当に?それなら英語で俺にも話せばいいじゃん。あれ、ドイツ語だろ?」
「留学中なんだって、彼女。久しぶりに母国語が話せるって嬉しげだったから」
ルースターが面白くなさげに唇を尖らせる。
──なにをそんな心配をしているのやら。
既に幾度か体を重ね、覚悟を持って添い遂げるつもりでいるはずなのに、ルースターの嫉妬を喜ぶ自分も大概だ、とマーヴェリックは〝あの顔〟で笑った。余計にルースターは機嫌を降下させた。
⭐︎★
店を出て、小さな船に乗り込む。他に客はおらず、ルースターは自分達の荷物を積み込んだ。
男二人だけだ。荷物は少ない。あっという間に荷物の積み込みを終えてマーヴェリックを探せば、ダイナーの入口で、件の彼女から手渡しで小さい紙を渡されている。ルースターはそれを見て再度苦虫を噛んだ。愛想よくそれを受け取ったマーヴェリックは彼女に軽く手をあげてから、こちらに小走りでやってくる。
「遅くなってすまな……なんだ?エスコートか?」
船に乗り込んでいるルースターが、手のひらを上にマーヴェリックに手を差し出す。
「んなわけねぇだろ。体幹完璧なあんたが船から落ちるわけねぇし。さっきの紙。セルナンバー?受け取んなよな」
マーヴェリックが片眉を跳ね上げる。そうして苦笑した。
「なぁんだ。ブラッド、お前やきもちか?」
「うるさいな。ほら。やましくないならいらないだろ」
「うーん、違うんだけどな。まぁいいか」
よくわからない言葉を発し、マーヴェリックは渡された紙を素直にルースターの手に乗せた。ルースターは中身を見ることなく、それを丸めて捨てようとして──やめた。流石にその辺りに放るのは気が引けて、ルースターはデニムのポケットにそれを押し込む。
「お二人さん、もういいか?出発しても」
恰幅のいい船の運転手が、興味なさげにルースターとマーヴェリックに声をかける。
結局ルースターはおざなりにマーヴェリックに手を差し出した。マーヴェリックは笑って、握手をする様に手を差し出し、いささか強引にルースターに引っ張られる。そのまま、ふらついたていで、ルースターの胸元に抱き止められたマーヴェリックは、一瞬だけ強く抱きしめられる。
──本当にこの子は。心配することなどない。あるはずないのに。
存外に独占欲の強いルースターは、すぐさまマーヴェリックの拘束を解く。
「あの島に行くなんて、あんたらカップルか?んなわけないか」
ルースターとマーヴェリックが返答する前に運転手は吐き捨てた。ルースターが肩をすくめる。答える必要もない。
「2日前とその前もカップル送り届けたから満室だなぁ。あそこのホテルは限定三組までだからな」
「世間と断絶したようなリゾートホテルだと聞いているけど?」
マーヴェリックの問いかけに運転手が頷く。
「あぁ。電波も届かない、電力は自家発電、飲料水は備蓄用のミネラルウォーターってなもんでさ。不便な島だが、カップルが二人きりで過ごすにはまぁいいんじゃないのか。時間の概念もないだろうしな。島のオーナーはこの間亡くなったんだが、独り身で跡継ぎもいないし、あの島もどうなるのかねぇ。なんか貴重な植物が自生してるらしくて、そこも売りらしいんだが」
船はリゾートホテルに泊まる客が利用する時にのみ運行される。その際に、不足した食料も運ばれる仕組みとなっっているが、緊急時用に、ホテルで働く数人が、船舶の免許を所持しており、食料が足りない際などは買い足しに出かけることもあるらしい。
「不便が売りの理想郷ね。若いカップルが行っても飽きちゃうんじゃねーの」
ルースターの言葉に運転手が笑う。
「その通り。理想郷とは名ばかりで、隔絶された空間すぎて、ハネムーンに来たのに別れるカップルも多いって聞くぜ。まぁ、あの島に限らず、ハネムーンで壊れるカップルなんて世にごまんといるだろ。環境が変わること、いつもと違う雰囲気の中で、なにか起こった時には互いだけが全てだ。進んで試練に行くようなもんだからなぁ。あんたらカップルだっけ?こんな話しまずいか?ははは、あれ?カップルじゃないんだよな?」
運転手は自分で発言し勝手に自分で納得して操縦に戻った。存外に話しの長い運転手の質問に答えることなく、ルースターとマーヴェリックは曖昧に笑うに留めた。
「お、見えてきたぞ。あれだ」
砂浜から崖がぐるりと周囲を取り囲むその上、木々の間に白い大きな建物が下からも見える。
ルースターはマーヴェリックを振り返った。やはり、ルースターの恋人は、今日もあの顔で笑っているのだ。
⭐︎★
自分達の他に、泊り客は一組だと聞かされていた。だから、エントランスが俄かに賑やかになった気がして、思わず部屋を出て、二階の手すりから下を見下ろす。
天窓から覗く空は晴天で、昨日も今日も景色は変わらない。ショッピングをする場所もなければ、美しい景色も一日歩けば島を一周してしまえるほどに狭い。
たしかに美しい木々と地平線まで見渡せるような青い海と空は美しい。でもそれだけだ。
自家発電で賄う島の電力は日々限界があって、その上ネットなど一切繋がらないのだから、持参したタブレットも意味はない。セルフォンだって通じないから、結局フロントで電話を借りるという手段に限定される。
最も、ハネムーンに来て、わざわざ何マイルも離れた地元の友人に、退屈の極みだなどと愚痴をこぼすわけにもいかず、ただ時を過ごすしかない。
そんな中、新たな事物が起こるのならばと期待して階下を覗き込んでみる。果たしてそこには娯楽以上に興味を惹かれる二人の人物が立っていた。
「だからもう少しは着替え多めに持ってこいって言っただろう!」
「そんなん俺だけじゃなくてマーヴもだろ!」
妙齢の男性と、若く背の高い青年──男性はTシャツにデニム、青年はアロハシャツにサングラスの出立ちで、どう見てもこのハネムーンアイランドと世間で称されるリゾートに来る出立ちではない。とどのつまりは場違いだった。
島への備蓄品を届けに来た業者だろうかと眺めていれば、二人がほぼ同時にこちらを見上げる。随分と気配に敏感らしい。咄嗟の反応に惑えば、二人は軽く会釈をする。
「あー、騒がせてすまない、ミセス」
男性がこちらに向かって謝罪する。
「あぁ、ありました、ミスタミッチェル!オーナーの知人の名簿に、確かにあなたのお名前が!」
支配人が男性に声をかける。男性はチェックインの手続きに移り、隣に立つ青年がこちらに向かって〝Sorry〟と唇でかたどるのが見えた。こちらも唇だけで、〝Never mind.〟と返答し、手のひらを返す。
大丈夫、気にしないで。
むしろ感謝したい。
退屈な時間に刺激を与えてくれそうな、あなたたちの登場に。
⭐︎★
チェックインする前と後、ルースターとマーヴェリックは〝ここに来た目的〟を確認し、服装を若干オイルで汚してから、与えられた部屋に戻った。
ホテルの部屋は全部で3室で、ルースターとマーヴェリックの来訪により、全室が埋まった。
たまたま同じタイミングで島を訪れたハネムーンのカップルは、他に二組。そのうちの一組の妻とは先程顔を合わせ、軽い挨拶をしたばかりだった。
2階建てのホテルの部屋は、それぞれ眺めのいい場所に造られていて、大きく迫り出したバルコニーからは、ここに来るまでに通ったダイナーのある街が遠く小さく見える程度だ。
ルースターとマーヴェリックは案内された部屋で少ない荷物を整えたのち、バルコニーへと足を運ぶ。
「急にハネムーンに行こうだなんて言うから、なにかの暗喩かと思った」
ルースターの言葉にマーヴェリックが笑う。
「暗喩ね。別に間違ってないし、そのままの言葉の意味で言ったんだが。まぁ降って沸いた休暇を楽しむいい機会だと捉えてほしい。こんな機会でもなければなかなか互いに一週間も休み取らないだろう?」
「それ素直に捉えていいの?マジでハネムーンのつもり?俺本気にするよ?」
「本気もなにも。お前と僕は恋人関係だと思っていたが」
「そーだよ、いやそうじゃなくてさぁ」
ルースターがなおも言葉を紡ごうとすれば、後方から人の気配がして、ルースターとマーヴェリックは同時に振り返る。
「いい男が二人で仲良く話してるところ、お邪魔かしら」
そこには品の良い、ひと目で富裕層とわかる老婦人が立っていた。マーヴェリックはすぐ様近づくと、エスコートするように手を取り、老婦人の腰に手を添えてバルコニー備え付けのテーブルチェアに誘導した。ルースターがチェアを引いて待っている。
「こんな風に貴女を僕らで〝二人占め〟してお喋りに興じてたら、貴女のパートナーに怒られるかな」
マーヴェリックは老婦人をエスコートすると、そのまま対面に腰を下ろした。ルースターも同じように、その隣に座り、テーブルチェアに備え付けられているメニュー表に目を通した。
「風は冷たくありませんか?あたたかいドリンクがよければ、俺、頼んできますよ」
ホテルには支配人のみが常駐していて、ほかに数人の従業員がいるが、人数は極端に少ない。
シェフと手伝いの男女は交代制らしく、過干渉なサービスを売りにしているというよりは、客たちの自主性にある程度任せ、日々の喧騒を忘れさせるための安息地のようなサービス展開だ。賑やかなハネムーンの聖地と違い、互いだけの時間を大切にするというコンセプトの元、事前にマーヴェリックから知らされた情報によれば、ハネムーンベイビーを授かる報告が多いというなんとも反応に困る側面も持ち合わせているらしい。
ルースターとマーヴェリック以外の新婚夫婦のうち、チェックインの場で遭遇した女性と夫のカップルが一組と、もう一組が眼前の老婦人のカップルだった。彼女のパートナーは、今ここにはいない。
「ありがとう、ハンサムな坊や。もうすぐディナーだから大丈夫よ。それと、私のスイートハートはここに滞在してもう4日目だから飽き飽きしているみたい」
老婦人はころころと鈴が鳴るように笑う。発せられた言葉の内容に関してルースターは答えようがなく、マーヴェリックをちらりと見つめた。この時ばかりは、マーヴェリックの〝あの顔〟に感謝した。その顔で老婦人を見つめながら、若い頃から今に至るまでに醸造された美貌をこれでもかと発揮し、老婦人に微笑みかける。
「僕がもっと若ければ、マダムの手のひらで望むままに転がされるのに。若く奔放な婚約者は、貴女の心の広さに感謝すべきだ」
まるで映画に出てくる伊達男かの台詞を宣うマーヴェリックに、マダムは流し目でうっとりと酔い、ルースターは別の意味で酔った。尻の座りが悪いことこの上ない雰囲気を裂くように、勤めて平静を保ったままルースターは再度尋ねた。
「この島、出歩くにしてもそれほど広いわけでもないし。貴女を放って出かけた彼は、Netflixがつながるポイントでも探しに行ってるんですかね」
冗談めかしたそれに、老婦人とマーヴェリックはルースターを見つめ、やがて顔を見合わせて爆笑した。
「さすが同世代ね!私のスイートハートの行動が手に取るようにわかるのね!」
「戻ってきたら、彼に聞いてみよう!幾ら払ったのか?ってね!」
ルースターは笑う二人を前に、肩をすくめた。
カップルのうちのもう一組である老婦人のパートナーは、ルースターと同年代で、30代の青年だ。若干ルースターより年下で、老婦人との歳の差は50歳近い。
おしゃべりな支配人から聞いていた宿泊客の情は、支配人がルースターとマーヴェリックをカップルであると認識していないからこそ漏らした情報だ。
そもそもマーヴェリックの誘いありきで辿り着いたこのハネムーンリゾートホテルは、元々マーヴェリックの知り合いの所有物で、オーナーであるその彼が亡くなったことにより発生した副産物の旅行だ。
〝ハネムーンに出かけないか〟というマーヴェリックの言葉に浮き足立ったのも束の間、理由を聞いてルースターがいたく不機嫌になっても仕方がない。
けれど、実際マーヴェリックと二人だけの旅行という魅惑的な響きと行程は、ルースターの下降した気分を遥か上向かせる効果があった。
老婦人と若きパートナーとの関係性を深く追求するつもりはないが、こうして老婦人を放って島内のどこかに出かけているらしい件のパートナーの心情を思う。ルースターと同じく年上の恋人を思う温度差はもちろん人それぞれで、年の差は関係ないと本気で考えているルースターの思いと、同じ熱量であるかどうかは察して余りある。
老婦人の指に幾つか嵌る大ぶりの宝石。品よく、仕立てられたオーダーらしき老婦人の服装。あきらかに住む世界の違う富裕層の雰囲気だ。
マーヴェリックと楽しげに会話する老婦人の心裡が読めないのとは別に、マーヴェリックがルースターに傾ける情を今は理解しているからこそ、ルースターは賢く黙した。
⭐︎★
ディナーの時間はPM0600-PM0800まで。元々三組の客しかおらず、互いに干渉しないことを望めば時間をずらして各々が食事を摂ることはできる。現に、昨日までは別々だった。
けれど、今日の新しい客人男性──ピートと青年──ブラッドリーの登場によって、私たちは同じ時間帯にディナーと相成った。
老婦人とは少し会話をする程度で、彼女の後方でにやついていた彼女のパートナーとはひとことも会話を交わしていない。随分と歳の離れた相手だと驚いたものだが、金持ちの老婦人に、若く顔立ちだけは優れた青年の組み合わせに、私と夫は賢く口を噤んだ。性差が逆転してもよくある光景だと。
その若いパートナーの姿は見当たらなかった。
ディナーの席には私の夫と老婦人、そしてブラッドリーとピートだけだ。
互いへの詮索を口にする者はいなかった。
ブラッドリーは場の空気を総浚いし盛り上げる話術に長けていて、笑いの絶えないディナーは随分と久しぶりな気がするほど。
好青年なブラッドリーを優しく見守るピートの姿に、彼らの関係を想像して、すぐに考えることを放棄した。今日この時、偶然に出会えたことを感謝したい。
ブラッドリーが、ディナーの場に備え付けられた古いピアノを器用に弾き始める。
そうしてピートは老婦人と、私は夫と。手に手を取り合って、満開の星空が見える天窓の下で踊った。
そんなハッピータイムから数時間後のことだった。老婦人の悲鳴が真夜中のホテル内に響く。
ホテルの入口で、老婦人の若い恋人の青年が冷たくなって発見されたのだ。
⭐︎★
夕食後の深夜、叫び声が響いた。
部屋でリラックスタイムを楽しんでいたルースターとマーヴェリックは、すぐさま身なりを整えて部屋を飛び出した。少し離れた部屋から、夫婦が何事かと顔を覗かせている。
「確認してくるからそこにいて!」
ルースターが夫婦に静止の言葉を投げかける。
マーヴェリックに続いて階段を駆け下りる途中で、同じく支配人の恐れ慄く声が上がった。
老婦人と支配人はホテルの入口にいて、老婦人はその場にへたり込んでいる。
ルースターとマーヴェリックが近づいて確認すれば、入口のドアにもたれかかるように、老婦人のパートナーが横たわっていた。支配人が青年の脈と呼吸を確認している。
振り返り、震える声で呆然と呟いた。
「し、んでます」
「……ブラッド、警察に連絡を」
「……OK」
すぐさまルースターが引き返し、ホテル備え付けの電話に駆け寄る。
マーヴェリックは支配人に声をかけ、老婦人をその場から移動させると横たわる青年を改めて確認した。
呼吸も脈も、完全に止まっていた。外傷はない。
ディナーの場にも姿を現さず、それは奔放にどこかで時を過ごしているのだろうと老婦人がため息をついてこぼしていた。若い恋人に手を焼く様子に慣れていたからこそ、深く考えなかった。
──一体いつごろからここに?
ディナーは全員が揃っていた。しかもドアは開け放たれていて、その時には青年がここにいた気配はなかった。
ディナーを作り終えたシェフと手伝いの数人はちょうど入れ替わりのタイミングで、船で街に戻っていった。そして、明日の早朝に別のスタッフがやってくる予定だ。
つまり、PM0600以降に島内にいたのは、ルースターとマーヴェリック、老婦人に夫婦と支配人、そしてこの、老婦人のパートナーの青年だけのはずだ。
青年がなんらかの疾患で命を落とすにしても、年齢が若いからこそ確率は低い。とはいえ、年齢で彼の死亡原因が判明するわけでもない。
「支配人、この島から帰ったスタッフと、今ここにいる僕たち以外に人はいるか?」
支配人が勢いよく首を横に振った。
「い、いません!そもそもスタッフのうちの数名が船の免許を持っていて、交代時はホテル所有の船で出発して陸に降りて、明日リターンで別のスタッフがその船に乗ってこちらに戻るシフトなんです」
乗っていないスタッフがいればすぐに気がつくし、元から夜間は数日おきに支配人のみが常駐する仕組みが出来上がっているという。
マーヴェリックが思考していると、ルースターが慌てた様子で戻ってくる。遺体の横に膝をつくマーヴェリックの隣に腰を下ろすと、ルースターは声を顰めた。
「……電話が繋がらない」
「線は?」
「……切られてた」
青年は、突発的な疾患によるものでも、崖から落ちたなどという外傷でもなかった。
だとすれば──?
ルースターとマーヴェリックは顔を見合せる。
蒼白の顔をした老婦人、彼女を支える支配人──そして階上から、なにが起きたか分からず不安そうな顔でこちらを見下ろす夫婦。
そして、意図的に切られた電話線が意味するものは──。
⭐︎★
昨日までの晴天が嘘のように、夜が明けると空は曇り空だった。風も強い。
波が高いらしく、湿った空気が島内に漂っていた。
陰鬱な気にさせるのは天気のことだけではない。
ホテルのすぐ外に備え付けられた倉庫には、亡くなった老婦人の若い恋人がシーツを被って安置されているらしい。
らしいというのも、ブラッドリーとピートと支配人の3人が彼を運び込んだため、そう聞いているだけだ。
私の夫は怯え、蒼白な顔をしている。老婦人の方が夫よりも早く落ち着きを取り戻していた。流石に人生経験が長いだけはある。
いや、これは、人生経験の長さで押し測れる事象ではない。
倉庫に遺体を運び入れた3人によれば、倉庫内に収められていた諸々の用具品が、ほぼ全て無くなっていたらしい。中には緊急時のキットや、救命のボートなどがあったはずだと支配人が大騒ぎしていた。
バッテリーなどが収められていたと聞いたブラッドリーは、倉庫から続くなにか重いものを引きずった後をたどり、どうやら全て海に投げ込まれたらしいと報告してきた。幸いにして、医療キットと食料品はホテルの内部にあった。
「だ、大丈夫です、朝になればうちのスタッフが入れ替わりでここに来るはずですから……!」
「出勤時間は何時なの……?」
私の問いかけに、支配人は返答しようとして動揺し、窓の外を見て、結局なにも答えなかった。
本来であればとうに朝食の時間だ。入れ替わりのスタッフが来ていてもおかしくない。
つまりは海が荒れていて、出勤して来られないのだろう。そういったことなら過去にもあったかもしれない。だから、特に連絡を入れる必要もなく、それが当たり前の運営状態──けれど今回は、電話が通じない上に、こちらから島を脱出するための船もない。外の倉庫に収められていた救命ボートではなく、普段なら崖下に停泊させているはずの船さえも無くなっていたと、支配人と確認に行ったブラッドリーとピートの言だ。
つまりここにいる私たちは、死体と共にこの離島に閉じ込められたのだ。
不安要素はそれだけではない。老婦人の若い恋人を検分したピートによれば、彼は突発的な疾患によるものや外傷の類が見当たらず、死亡に至る原因が不明なままだということ。
「なんだかミステリーによくある展開みたいだね」
夫が恐れからか、空気を読まない発言をする。ひゅ、と支配人がおかしな音を立てて息を吸う。
ピートとブラッドリーは表情を変えずそれを静かに聞き、老婦人は大きくため息をつくにとどめた。私は夫の脇腹に肘打ちした。誰もが口にしてはいないけれど、察していることだ。
倉庫から運び出され、海に流されてしまった緊急用の備品。切られた電話線。ディナーに現れず、深夜にドア前で息絶えた富裕婦人の奔放な若い恋人。その彼の死因がわからない状況は、第三者の関与を疑わせる。
頭痛がするかのように頭を抑えた老婦人の膝に置かれた手が震えていて、私は思わずそれを握った。気づいた老婦人が困ったようにこちらに微笑みかける。この中の誰かを疑うようなことはしたくないけれど、誰一人として言葉が紡げない中、ピートが手を叩いた。
「とりあえず、朝食を食べよう。腹が空きすぎると考えがまとまらないからな」
ピートの言葉に皆が顔を上げる。不安げな表情を見渡して、ピートは眉を下げて笑った。困っているようにも見えるし、懇願しているようにも見える、そしてなぜか、皆が頷いてしまいそうな、ピートの顔。
「抵抗があるなら缶詰かなにかがいいな。支配人、食糧庫を見ても?」
「わ、私も一緒に確認を……!それともう一人手伝ってもらえませんか?」
互いが相手の腹を探るような言葉にならないよう気をつけているが、内容には皆が賛同する。
「私が見るわ。ていうか、皆で準備しましょうよ。ね?ほら、あなたも立って。マダム、お体は大丈夫?ブラッドリー、テーブルを拭いて」
私は率先して立ち上がり、指示を出す。
ブラッドリーが笑って〝イエス・サー〟と答えれば、皆の緊張がほぐれた。
そうだ。昨日このディナーの席にはここにいる全員が、ブラッドリーのピアノでダンスを踊ったのだ。だから、きっと大丈夫。
皆の気持ちが少しだけ上昇し明るくなったことに反し、外は雨が降り出していた。
⭐︎★
「マーヴ、なんか顔が暗い。クソでも詰まってんの」
「お前な。慰めに声をかけるにしてももっと言いようがあるだろう」
死体を検分してからというもの、思考する風情のマーヴェリックが気になって、朝食の用意をしながらルースターが声をかける。
「なんとなく違和感があるんだ」
「あの死体に?」
「あぁ、うまく言えないんだが……」
「そういうのは警察に任せようよ。あんた変なことに首突っ込まないでよね」
ルースターがそう言って、大きな体をかがめてマーヴェリックを覗き込んでくる。その瞳に浮かぶ焦燥や心配が見てとれて、マーヴェリックは苦笑した。ルースターがマーヴェリックの頬をそっと撫でてくる。マーヴェリックは心地よさげに、ルースターの手のひらに頬を寄せた。
「……あぁ。いざとなれば脱出の方法はあるし、海の荒れが収まればスタッフもやって来るだろうしな。電話が繋がらなければ異変に気づく者もいるかもしれないし」
安心させるように、含めて言い聞かせるマーヴェリックの経験則に基づくそれらは、あのプラントミッションでの脱出劇を思い出させる。
頼りになる上官兼年上の恋人の、頬を撫でて、ルースターはそのまま口付けたくなって、マーヴェリックの唇をそっと指で撫でた。
視線を感じてそちらを見れば、夫婦の妻が目を丸くしてこちらを見ていた。カップルの名乗りを上げたわけではなかったので、彼女はいささか驚いたようだったが、すぐににこりと笑った。ルースターも苦笑してそれに微笑み返す。
缶詰ばかりの遅いブレックファーストは、昨夜に比べ随分と味気なく、また会話も少なかった。
食後、テーブルを片付け終え、皆がホールに集まったまま。ミネラルウォーターから沸かされた湯で、夫婦の夫と老婦人が淹れたコーヒーで一息ついていると、マーヴェリックが部屋に探し物をしに行くと告げてきた。ルースターが一緒に立ち上がれば、緊張した面持ちで、支配人が、マーヴェリックには自分が同行する、と告げてくる。
この中で男性の二人組という、いささか不穏分子に見えるルースターとマーヴェリックを疑うのも無理はない。視線の意味を重々に承知していたので、ルースターはもどかしく思った。
支配人の言葉に笑って頷いたマーヴェリックは、ルースターに「すぐ戻る」と声をかけ、支配人と一緒に階段を昇っていく。
他の3人は気を取り直すように会話に戻った。ルースターも結局は椅子に座った。
しかし、マーヴェリックはなかなか戻って来なかった。わずか1階と2階の距離で、探し物というには時間がかかりすぎている気がして、ルースターが席を立つ。戻りが遅いことに、老婦人も夫婦も気づいていたのだろう、無言で顔を見合わせて、ルースターの後に続く。
「マーヴ?」
ルースターが階段を二段飛ばしで駆け上がる。
廊下から続く部屋の奥──ルースターとマーヴェリックの宿泊していた部屋のドアが開いたままだった。
「マーヴ!!」
ルースターが走り出し、夫婦の夫も慌ててルースターの後に続く。夫婦の妻は老婦人を支え、老婦人もまた妻と手を取り不穏な空気に怯える。
果たしてルースターが部屋にたどり着くと、そこには支配人が倒れていて、窓が開け放たれたまま、打ち付ける雨が室内を濡らしていた。
マーヴェリックはいなかった。
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こめかみにタオルを当てたまま、支配人が蒼い顔をして状況を説明する。曰く、ピートが室内で自分達の荷物を確認している時、支配人は後ろから誰かに殴られ倒れた。物音に気づいてこちらへ向き直ったピートが、支配人の後ろに目をやり、驚いた顔でいるのを最後、支配人は朧げな視界のまま、黒尽くめの男がピートに襲い掛かるのを見て、意識を失ったという。
その話しを途中まで聞いていたブラッドリーは、止める暇なく、雨が降る外に飛び出していった。
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──新着メッセージ1件
『ミスタミッチェル。先日の件ですが、正式に手続きが完了しましたので、近いうちに島に渡り、ご確認をお願いします。なにか不明な点があればご連絡ください』
『サンクス、先生。オーナーの遺志は確かに私が承りました。バカンスも兼ねて、〝あのこ〟の様子を見にいってきます。戻りましたら報告します』
──メッセージ送信済
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空気がひんやりとしたのは空調だけのせいではないだろう。セルフォンのスピーカーから声高に宣言された言葉に、穏やかで優しげな風情だったピートの顔がみるみる変わっていく。ピートの唇を撫でていたブラッドリーは、やはりピートのパートナーだったのだと悟った。
ブラッドリーが拉致された理由は恐らくは体格の良さと、なにがしかの組織に属しているかのような様相から。状況判断の速さとこんな状況下でありながらも、皆がある程度の落ち着きを保てたのは、ブラッドリーとピートのおかげだ。
単なるサバイバル知識で片付けてしまうには、彼らはこのリゾートホテルの中で異質だった。
最初行方不明になったのはピートだ。
ブラッドリーが狂ったように雨の中探しに飛び出して行った。そしてブラッドリーもが戻らず、皆が身を寄せ合って待つ内に日も暮れてきた。
嵐が激しさを増す中、突然大きな物音がして、何事かと皆が恐怖に混乱をきたす中、手首を縛られ、口にタオルを巻かれたピートが現れた。
「ピート!」
驚いた私と老婦人が彼に近寄り無事を確かめる。
ピートはキッチンの食糧庫に閉じ込められていたが、内側から扉を蹴破って脱出してきたというのだ。
室内で支配人と共に探し物をしていたら、黒尽くめの男に支配人が殴られ、揉み合ううちに、ピートも薬を嗅がされ、意識を失ったと。
「寸前で息を止めたから早めに薬が切れた」
猿轡を噛まされた粗末な布をむしり取り、そう説明するピートは、私たちを見渡し、焦った様子で口を開く。
「ブラッドリーは?」
尋ねる勢いに、私も老婦人も惑い、無言でホテルの外に目を向けた。土砂降りの中、ピートを探しに飛び出したブラッドリーの残像を追うように、切なげに眉を顰めるピートがなにかに気づいたように、ホテルのカウンター裏へと飛び込んだ。
カウンターの内側、本来ならば支配人が立っているはずのそこは無人だ。
ピートはカウンターの内側に手をやると、そこからテープで貼り付けられていたのだろうトランシーバーをむしり取った。忌々しげな舌打ちがピートの薄い唇から放たれる。
彼はトランシーバーをカウンターの上に放った。
『かくれんぼは楽しかったかぃ?おっさん』
トランシーバーから犯人の愉快げな声が響く。機械を通した異質な声色のそれを遮るようにピートが言い放つ。
「小賢しい真似を。あんな緩い拘束で僕を監禁するなんて。はなから殺すつもりなんてないんだろう。なにが目的だ」
ひゅぅ、とトランシーバー越しに、いやらしいまでの口笛が響く。
『緩い?あれはそれなりのサバイバル知識がなきゃ解けない代物だ。まぁ確かに知識があれば解けるが。あんたといいあのガタイのいい連れといい、あんたら素人じゃないだろ。お陰で俺の計画が台無しだ』
ブラッドリーに言及したあたりで、カウンターに置かれたピートの拳に力が入る。浮き上がる血管が、彼の怒りを表していた。
「貴様、まさか」
『そうだよぅ!あんたの大事な大事な坊やだか恋人だかなんだか知らないが、あんないかにも強そうな輩、どうにかしないとこっちが危ないからな!あんたは囮、本命はあのでかい兄ちゃんだよ!』
トランシーバー越しに高笑いと共に通話が切れる。ピートの周りだけ、一瞬にして空気が冷えた。外は相変わらず土砂降りで、激しく雨粒が窓を叩く音がうるさい。
雷が遠くで鳴った。
落ちた、と誰もが思った。
一瞬停電し、遅まきに輝く雷の光に、ピートの顔が浮かび上がる。
冴え冴えとした怒りを滲ませたピートは、白く凍てついた表情をしていて、怖気を催すほどに美しかった。
「ここに武器はあるか」
静かな声で問いかけられたのは支配人だ。支配人は怯えきったままの眼差しで、ピートを見つめた。
「え、あ、は?」
「武器はあるかと聞いている!」
「は、はいぃ!こちらに……!」
ピートの叱りつける声音に、背筋を伸ばして支配人が案内しようとするのを夫が引き留める。
「な、なぁ、あんた、ピートって言ったっけ?ぶ、武器なんてどうすんだよ!犯人がどこにいるかもわかんないのに、この状況で武器を持つなんて、た、互いに殺し合う可能性だって……!」
「……いいえ、このままここで黙って殺されるのを待ってるだなんて嫌よ!私たちも武装しなきゃ……!」
夫の言葉に反論した私に、支配人はおろおろと焦るばかりだ。
「落ち着け!」
ピートが一喝する。恐らくは状況判断にも長けたピートの声は、外の土砂降りの音にも負けず私と夫の動揺を裂くように響いた。
「犯人の目星はついている。死んだと思わせて、今ここにいない、倉庫に安置した彼だ。死体に違和感があったんだ。薬かなにか分からないけれど、仮死状態を装っていたんだろう」
皆が息を呑んだ。そして、老婦人が大きく息を吸って吐いた。
「……そう、そうなのね。もしかしたらと思ったけれど。ごめんなさい、あなた達を巻き込んでしまって」
老婦人はなにかしか事情を把握しているようだった。私と夫が思わず追求しようとすると、ピートがそれより先に口を開いた。
「マダム、あなたと彼の事情をのんびり話してる時間はない。聞きたいことはひとつ。彼は僕らを皆殺しにするような輩ですか?」
老婦人が首を横に振る。
「人殺しだなんて度胸はあの子にはないわ。典型的な結婚詐欺師らしくてね。弁護士に調べさせていたの。今回の旅行を最後に別れるつもりでいたのよ」
「そこまで分かれば充分です。それなら僕のブラッドリーも無事な可能性が高い。無事じゃなかったらあいつ殺すけど」
一瞬だけ低い声で最後に宣言されたピートの言葉に、隣の夫がびくりと震えた。それだけ本心が込められた冷たさだった。
「今更だけど、僕は軍属だ」
ピートの言葉に驚きつつも、皆が一様に納得した。
「ついでに言えば僕のブラッドリーも。保障しよう、生きてここを抜け出したいなら指示に従ってくれ。僕を信用してほしい。僕も君たちを信用するから」
妙に説得力のあるピートの言葉の真偽は定かではない。けれど、今はここにいる全員が、彼を信じるほかない。
そしてなによりも、ピートは青年──〝僕のブラッドリー〟──を取り返すべく、全力で犯人を捕まえる気でいることは疑いようもなかった。
ピートが夫と支配人に小型の銃を渡す。支配人は震える手でそれを受け取ったが、夫は使い方が分からないと嘆いた。
「使い方?教えてやるから2分で覚えろ!」
ピートの叱責に、アイサー!と夫が思わず返答する。
「君は君の妻とマダムを守れ。支配人、僕と一緒に外へ。倉庫を確認したい」
「わ、わかりました」
ピートと支配人が土砂降りの外へ向かう。支配人は当初に比べ、落ち着きを取り戻していた。犯人が判明したことと、確実な保証はないけれど、犯人に殺人を犯すような度胸がないこと。そして、ブラッドリーとピートが軍属であることに安心したのだろう。
結果、ピートと支配人は、倉庫に閉じ込められていたブラッドリーを見つけて、ホテルへと戻ってきた。
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倉庫の入口ドアには板が斜めに差し込まれていて、内側から開かないようになっていた。マーヴェリックは支配人に板を外すよう指示し、銃を構えたままドアを静かに開けた。薄暗い中、持ち出してきたライトで室内を照らす。
ルースターが倒れていた。
人の気配が他にないことを確認して、マーヴェリックはすぐさまルースターに駆け寄った。
「おい、ブラッド!ブラッドリー!しっかりしろ!」
脈を確認し、生きていることに安堵する。頬を幾度か叩くと、ルースターがうっそりと目を開けた。どうやら気を失っていただけらしい。
「、っぅ、まぁゔ……?え、マーヴ!?」
ルースターが飛び起き、マーヴェリックの両肩を掴んだ。
「よかった、マーヴ……!あんたどこに……!」
「それはこっちのセリフだ!土砂降りの中飛び出していくなんて正気かお前!」
「考えるな、動け!だろ!?」
「このクソガキ、今言うかそれ!?」
「あの、無事なら戻りませんか……?」
無事を確かめ合うと言うよりも、痴話喧嘩のような様相のルースターとマーヴェリックに、支配人はそっと声をかける。
ルースターとマーヴェリックの動きが止まる。
支配人の言うことは最もだった。
ルースターとマーヴェリックは向き合い、改めて無事を確認し、一度だけ強く互いを抱きしめた。
「無事に会えてよかった」
「俺も。いや、でももう、勘弁してくれよ。俺の前からいなくならないで。俺だってあんたを喪くす人生なんて、考えられないんだからさ」
ルースターを抱きしめたまま、マーヴェリックは心当たりがありすぎるそれに、抱きしめた背を優しく摩ってから体を離す。
「マーヴ、この後は?」
ルースターの問いかけに、マーヴェリックは不敵に笑った。
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ピートがブラッドリーを連れて戻ってきた。私たちは安心して思わずその場にへたり込む。
ブラッドリーはどうやらピートと同じく薬を嗅がされ、倉庫に閉じ込められていただけらしい。ブラッドリー曰く、間違いなく犯人は老婦人の若い恋人で、体力的に敵わないと悟っていたブラッドリーの後ろから襲い掛かり、薬を嗅がせて倉庫に運び入れたようだと。
油断していた、と悔しげなブラッドリーは、ピートを心配するあまり周りが見えていなかったのだろう。無理もない。
「俺が意識失うまで、あいつなんか色々言ってた。マダムの不動産がどうとか株がどうとか。マダムが別れ話しようとしてたのに気づいてなにがしか仕掛けて財産奪うとかそういう事考えてんじゃねーの」
老婦人の話しとブラッドリーの遭遇した事象から大体の予測をつけ、私たちは改めて自分達の状況を確認し合う。
老婦人の若い恋人は、確かに老婦人になにがしか危害を加えようとしていて、そこに偶然ブラッドリーとピートという、傍目に見ても体格の良い男性が現れたために、焦ってことを起こし、場当たり的に行動しているように見える。
そうは言っても追い込まれた人間はなにをしでかすか分からない。
結果軍属であり、有事の経験値が高いブラッドリーとピートが一番最初に攻撃を受けた。
「いちばんいいのはこの島から早々に脱出することだけど……」
「天気の回復を待つしかないのでは?」
「悠長にしてる間に、追い詰められて、あいつがなにを仕出かすか……!」
「じゃあどうやって逃げるって言うの!」
「マーヴ、あんたはどう思う?」
黙って思考していたピートにブラッドリーが話しかける。
「脱出方法がないわけじゃないんだが……」
ピートの言葉に皆が皆振り返る。
「マーヴ、もしかして〝あれ〟?
「そう、〝あれ〟。ただ、ひとつ問題があって。港と連絡がつけば、脱出自体そう大した難しさはないんだが……」
ブツブツと独り言を言うピートが、ふとなにかに気づいたように、ブラッドリーを見つめた。
「ブラッドリー、お前、そのデニム、初日に着てたやつか?もしかして」
「そうだけどそれがな、に、ぅ、む」
ブラッドリーが答えると、私たちの視線などお構いなしに、ピートが突然ブラッドリーに抱きつき、口付けた。
繰り返されるリップ音が周囲に派手に響く。口に、頬に、額に、まぶたに。
ピートのキスの嵐が止まらない光景に、老婦人はあらまぁ眼福だわと喜んでいる。
「あはは、やっぱりお前は最高の、僕のブラッドリーだ!」
「ま、マーヴ!?」
ひっくり返った声を上げるブラッドリーを尻目に、ピートは踊る勢いでブラッドリーのデニムのポケットに手を突っ込んだ。
「ぅお、あんたなにして……!」
突然のピートの行動に、ブラッドリーが慌てふためく。ピートがブラッドリーのポケットから手を抜くと、彼は紙片を掴んでいた。
「マーヴ、それ確か……あのドイツ人の子からもらったナンバーだろ!今それ必要か!?」
「馬鹿だなブラッドリー、そんなんじゃないって言ったろ。お前、見てないんだな、これ」
そう言ってピートはブラッドリーの眼前にその紙片をひらりと翻した。凝視したブラッドリーが、「あ」と声を上げた。
「あの子は僕らの女神だな。さぁ、島から脱出するぞ!」
紙片にキスをしてから、皆を振りあおいでピートが宣言する。皆が皆、ピートの言葉の意味が分からなくて、呆然と言葉が発せられないままでいる。頭にクエスチョンマークが浮かんだまま。
支配人が震える声で尋ねた。
「ど、どうやって?」
「亡くなったオーナー所有のプロペラ機で」
「プロペラ……あの島のはずれに置いてある、6人乗りのセスナですか!?あれはオーナーがしばらく乗っていなかったし、今はこの島の展示品のようなもので、第一整備もろくにしていなくて……!」
「ここに到着した初日に整備は済ませた」
「は?」
「僕は元々オーナーの友人なんだ。彼があのセスナを大切にしていたのをよく知っている。生前から、自分が死んだらもらってほしいと彼から言われていてね。全ての手続きが済んで、先日弁護士から連絡があって様子を見にきてたんだ。バカンスも兼ねてね」
ピートが下手くそなウィンクを寄越す。ブラッドリーが、「マーヴ、両目閉じてるよ」と場違いな感想を述べた。
支配人はあんぐりと口を開けたままだ。しかし、気を取り直したらしく、再度ピートに詰め寄った。
「し、しかし整備は済ませたと言っても、操縦できるものがいなければ意味が……!って、あれ?そういえばあなた軍属って言いましたっけ?」
ピートが笑う横で、ブラッドリーが補足する。
「この人アメリカ海軍所属のアヴィエイターで、トップガンの教官で海軍大佐。俺卒業生」
⭐︎★
横殴りの雨の中、マーヴェリックが先頭を、ルースターが後方を務め、支配人が老婦人を支えながら、夫婦が手に手を取って、島のはずれに向かう。
そこには大きな倉庫が聳え立っていて、中にはプロペラ機が格納されている。
マーヴェリックの友人であるオーナー逝去後、遺言を管理している彼の弁護士から連絡があったのだ。
マーヴェリックの言うとおり、生前から懇意にしていたマーヴェリックに、オーナーは愛機を譲りたいと遺言していた。
マーヴェリックの住処にも、自ら愛機を操縦して訪れていたらしいオーナー。オーナーとの出会いは数十年前の任務でとだけ。
マーヴェリックは詳細を話さなかった。そのオーナーの遺志に従い、マーヴェリックが愛機を受け取る前に、確認のためにルースターと共に島を訪問したのが旅程のきっかけだ。
目的は確かにプロペラ機の確認だったが、マーヴェリックは島についた矢先、荷物を置く暇もなくすぐにプロペラ機の整備に取り掛かった。
お陰で島からの脱出が叶う。
そもそも死ぬ直前までオーナーはプロペラ機を大切にしていて、大層な修繕箇所もなく、ルースターも整備の手伝いをしたために、短時間でそれらな済んだ。
モハーヴェまでの輸送をどうするか、はたまたどこか別の場所に格納するかで悩む程度で、マーヴェリックは新たな愛機のいく末を、ルースターに楽しげに相談した。それがこんなにも早く飛ばすことになるとは。
プロペラ機が格納されている倉庫の入口を開け放つ。
空に再び飛び立つ日を待ち望んでいたかのように、プロペラ機は静かにそこに在った。
不安げな表情で、支配人が空を見上げてからルースターに話しかけてくる。
「こんな大雨の中、大丈夫なんですか?」
「心配しないで乗って。ていうか、ここから港までならそう遠くないから」
さまざまな心配事や危険性はもちろんある。しかしそれよりも、先程マーヴェリックから打ち明けられた言葉の方がルースターの心を乱していた。マーヴェリックが黒尽くめの男──老婦人の若い恋人と遭遇した際に、彼は小型の銃を所持していたというのだ。
支配人はそのグリップで殴られていて、マーヴェリックは銃口を向けられ、そこでホールドアップの体勢のまま、スプレー状のなにかを顔に向かってかけられたのだと。
『ホテルの金庫に保管されていたオーナーの武器じゃなくて、自分で持参したものだろう。慣れていなさげだったし、恐らくはマダムを脅すためのものだと思う。皆には言うなよ。あんな危なっかしい小僧が銃を持ってうろついているのに、朝まで待つのは良くない。飛ぶぞ』
『あんたそんな大事なことなんで言わないんだよ!』
『僕が気がついた時にはお前はもう外に飛び出した後だって言われるし、あの小僧からトランシーバーでの連絡は来るし。ゾッとしたぞ。僕が殺人者になってないのはたまたまだ』
そこまで言い終えて、マーヴェリックはルースターに抱きついてきた。わずか震えながら抱きしめてくるマーヴェリックの様子に、ルースターも同じように抱きしめ返す。
『ブラッド、無事でよかった』
『あぁ、もう!マーヴもな!あんたがいなくなって、俺マジで焦った……』
老婦人の若い恋人は、今もどこかでこの脱出劇を見ているに違いないのだ。
多勢に無勢、どこかで機会を窺っているかもしれないし、どこから攻撃されてもおかしくない。
ルースターとマーヴェリックの急くような誘導に従って、老婦人、夫婦、支配人がプロペラ機に乗り込んでいく。
操縦はもちろんマーヴェリックだ。
暗闇と雨風が吹き荒ぶ中、心もとない灯りでルースターとマーヴェリックが離陸の準備を進めていく。
すると、マーヴェリックがなにかに気づいて、ルースターの前に出る。
倉庫の入口に、黒尽くめの男──老婦人の若い恋人である男が立っていた。
銃口をこちらに向けている。ルースターを庇うように前に出たマーヴェリックに焦り、ルースターがなおも前へ出ようとする。
「逃がさねぇぞ!ババァを今すぐ降ろせ!」
「マーヴ!前出ないで!」
「うるさい」
三者三様の言葉が口から発せられた瞬間、端的に〝shut up〟のみを発したマーヴェリックの〝p〟の辺りで、マーヴェリックは携えていた銃をノールックで放った。
「マーヴ!前出ないで!ってぇええ!?撃った!?今あんた撃った!?」
ファック!と男が叫んでいる。
マーヴェリックが撃ったのは天に向かってだ。
威嚇射撃でありながらも、あまりにも躊躇なく放たれたそれに、男が汚い罵りの言葉を吐きながら倉庫の入口の影に引っ込んだ。マーヴェリックは銃を構えたま躊躇いなく男に近づいていく。
「マーヴ!」
影に隠れ、動揺していた男は、マーヴェリックが近づいてくることに気づいていなかった。
プロペラ機の中で、皆が息を潜めて様子を窺っている。ルースターが慌てて駆け寄ろうとすると、マーヴェリックに視線だけで制された。
鋭い眼光は、恋人であることやアンクルであるマーヴェリックの側面ではない。ルースターの足を無意識に止めさせたのは、軍属であり、上官でもあるミッチェル大佐の本領だ。
マーヴェリックが銃口を突きつけたまま、視線で男を促す。男は渋々銃を手放して、頭の後ろで腕を組んだ。
「人に銃口を向けておきながら、自分が向けられる覚悟もないくせに振り回すな」
「……ぅるせぇ、ジジイ。どうせ逃げられやしないんだ。この荒れた海と横殴りの雨の中でこんなプロペラ機が飛ぶかよ。街にたどり着いたところで、こんな田舎の街じゃ灯りだって乏しい。全員あの暗い海に落ちるんだ」
男がなおも憎まれ口を叩く間に、マーヴェリックは油断なく銃を向けたまま、男の銃を取り上げた。
「電話線だけじゃなく、無線機も壊すべきだった。トランシーバーは使えても、年代的にそこまで頭は回らなかったかな?」
「は?」
訝しげに男がマーヴェリックを見上げる。
マーヴェリックは不敵に笑って海の向こうを顎で示した。
「な、なんで!?」
雨の中、一筋の光が海に伸びていた。灯台だ。
「港のダイナーに無線機で連絡して灯してもらった。残念だったな」
マーヴェリックがキスをした、ドイツ人の彼女から渡された紙片。あれは、ダイナーのCQナンバーが記された紙だった。
島では携帯電話が通じないということ、ダイナーに無線機が置いてあることに気づいたマーヴェリックが、ドイツ人の彼女を経由してダイナーのオーナーに聞いてもらったのだという。
ダイナーのオーナーの趣味で置いてあるらしい無線機は、たびたび島に訪れる人々や、マーヴェリックの友人である島のオーナーに重宝されていたという。
呆然としたのち、最後の悪あがきで、マーヴェリックに向かって手を伸ばした男は見事マーヴェリックに顎下を殴られた。急所に攻撃を受け、目を回した男が昏倒すると、マーヴェリックは無造作に男を引きずって倉庫の影に放置した。
鮮やかな手口に呆然としていたルースターは我に返ってマーヴェリックに駆け寄る。
「マーヴ!怪我は!?」
「ない。くそ、もっと殴ればよかった。お前の分が足りない」
「え?今殴った分は?」
「マダムの分」
マーヴェリックの優しさにルースターは安堵し、大きくため息を吐いた。
ルースターとマーヴェリックは滑走路がわりの舗装路に異物がないかを確認してからプロペラ機に乗り込んだ。
老婦人の隣に腰掛け、ルースターは老婦人に、「マダムの分、マーヴが殴ってくれたよ」と律儀に報告した。場を和ませるための真実を織り交ぜたジョークに一瞬だけ場が和らぐ。
「あのままで大丈夫なのから」
老婦人の言葉にルースターは頷いて見せる。
「防寒で倉庫の汚れたシート被せてやったし、あと数分で目を覚ますよ。場当たり的すぎて、あいつ逃げる手段もないだろうし、食料品はホテルに備蓄品があるし。なにより天候が回復すれば、警察が来るから」
無線機でダイナーに連絡したマーヴェリックは、そのままダイナーのオーナーに警察を呼ぶよう依頼している。
「それよりさぁ、ばぁちゃん。夜の遊覧飛行は初めて?」
ルースターの殊更に軽い口調に、老婦人は刻まれた皺の年齢分に落ち着きと品を取り戻し、穏やかに微笑んだ。
「若い時、ここのオーナーに連れられて旦那と一緒に飛んで以来かしら」
「ラッキーだね。あの操縦士、俺が知る中で世界一だからさ。楽しんで」
エンジンがかかる。
世界一優秀なアヴィエイターが整備したプロペラが、雨風をものともせず動き出した。
⭐︎★
崖から飛んだ瞬間、一瞬だけ死の恐怖に直面したけれど、無事にプロペラ機は飛び立った。
そうは言っても、遥か向こうに見える灯台だけの灯りを頼りに飛ぶプロペラ機は不安定だ。老婦人が静まり返った機内で静かに呟く。
「私の恋人が迷惑をかけてごめんなさいね」
老婦人の謝罪に続く言葉を、誰もが静かに聞いた。
「……死んだ夫は人生のほぼ全てにおいて仕事に忙殺されていたけれど、この島に来ると唯一安らげると言っていたわ。時代に逆行して、世界から切り離されたかのような孤島。あの島の美しい景色や緩やかに流れる時間を過ごしたなら、少しでもあの子の心になにがしかの思いが芽生えるかと期待していたの」
偽りの愛情を嘯く若い恋人。無駄な努力だったと老婦人は嘆息した。
「マダムの思い出とお気持ちが通じなかったあんな愚か者のことは忘れましょう」
元気付けるように支配人が言う。老婦人は困ったように笑った。
「そうね、その通り。でも、若い頃の夫に似ているからと、あの子を手放せなかった私はもっと愚か者ね」
「……大丈夫だよ、ばぁちゃん。人生はまだまだ長いんだ。これからもっといい男と出会えるかもしれねーじゃん。旦那以上のさ」
ブラッドリーの言葉に、私と夫と支配人は吹き出してしまった。優しい青年だ。
老婦人はきょとりと目を見開いてから、大笑いした。大笑いして、涙を浮かべながらブラッドリーを見つめてくる。
「……あなた見れば見るほどいい男ねぇ。ねぇ、あなた、ピートの恋人なのでしょう?じゃあ年上が好きなのよね?私はダメ?あなたのピートより10歳は上だけど」
「え、20歳は上だろ?いってぇ!」
老婦人に腕をつねられたブラッドリーに、こんな状況でありながら、私たちは笑った。
「着陸するぞ。少し揺れるから気をつけて」
ピートの声が機内に響く。
夫は私の手をぎゅぅ、と握り締めてきた。怯えながらも、私を安心させるためか、夫は額に汗を流しながらぎこちなく笑った。
ホテルでもそうだった。使ったことのない銃を拙く握りしめて、ピートと支配人がブラッドリーを探しに外に出かけた時には、自らドアの前に立ち続けた。
臆病で不器用な人。
強くなくていい。
それでいい。
あなたがいい。
私が選んだ私の愛する人。
⭐︎★
天才的な技量で持って、マーヴェリックは港の広めの通路にプロペラ機をランディングさせた。
一様に緊張してその瞬間を待った全員が、地上に降りた瞬間に、大きく安堵の息をついた。
プロペラ機から、順番に降りていく。
ルースターが老婦人を伴って降りると、老婦人が振り返って空を見上げる。
「綺麗な夜空だったわねぇ」
そんな中、プロペラ機、しかも整備仕立ての機体を手足のように操縦するマーヴェリックは矢張り天賦の才能を持つ。
無事着陸したのち、無線機で連絡したダイナーのオーナーが、マーヴェリックとハグし合っているのを横目で見やる。老婦人ののんびりとした言葉にルースターは苦笑した。
大荒れの横殴りの雨は嵐に近かった。星空が見えるわけもない。
「灯台がこう、空に筋を作って光る様が、ミルキーウェイのようだったでしょう?灯台が回る度、光が交互に地平線に伸びるのね。まるでふたつの星が、雨の中、くるくる踊っているみたいだったわね。だから怖くなかったわ、ちっとも」
航路標識を老婦人が見上げる。
マーヴェリックが操縦桿を握り、真っ暗な荒れた空を飛んだその目指す先。
標のように光る灯台を、老婦人はふたつの星と称した。ルースターは思わずマーヴェリックを振り返る。
視線に気づいたマーヴェリックが見返してくる。老婦人の声が聞こえていたのだろう、あの顔で笑っていた。
そうだ、言葉など必要なかった。
ふたつの星を標に飛べば、きっと帰れる。
ルースターはもう知っている。
マーヴェリックがダイナーのオーナーに手を振って戻ってくると、ルースターの腹が盛大に鳴った。マーヴェリックは呆然とルースターを見つめる。
「……お前すごいな」
「……緊急事態だろうがなんだろうが腹は減るよ」
「なんかでかい動物でもいるのか、その中」
「うるさいなぁ、もう。あんたみたいにレーションだけで過ごせるほど燃費良くないんだよ、俺は。あー腹減った」
ルースターの言葉に、老婦人と合流した夫婦と支配人も笑う。
「オーナーが早朝だけど、店を開けてくれるらしいぞ。警察が来る前に食事にありつこう。さぁ、みんなも」
「やったね。そういえばあの彼女、今日も来るかなぁ。俺らの恩人だもんな」
街の向こうに赤いパトライトがいく筋も見えてくる。
雨は止み始めていた。警察車両がここにたどり着く頃には晴れるだろう。
差し込む朝日に目をすがめ、皆がダイナーに向かう後ろで、ルースターはマーヴェリックの腕を引いた。
いじけたようにルースターが唇を尖らせている。
「……ハネムーンなのに、ベッドの中の時間がほとんどないに等しかった」
ルースターの言葉にマーヴェリックが吹き出す。
「そういえばそうだな。思ったよりも短かった孤島のハネムーンの上書きをしようか。幸いにして休暇はまだあるし、続きはどこにしようか」
「あんたと一緒ならどこでもいいよ」
マーヴェリックが笑って近づき、ルースターもまた笑んだ唇のまま、マーヴェリックに口付けた。
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