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らん
2024-07-19 13:37:53
10911文字
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そして僕らはこころを知る
WB/さくこと
※新刊一部公開
人が恋に落ちる瞬間をはじめて見た。
ことはは桜と相対する同じ年頃の少女の顔を見て、感情の機微を悟ってしまった。眼前で交わされるやりとりをキッチン越しにぼんやりと眺めながら、彼女が視線を外すことはない。どうやら恋に落ちた女の子の顔というものは大層甘いようだ。
まるで飴玉みたいにきらめく表情と、瞳に宿る星のようなまばゆき。それら全てが反射して、思わず目蓋を下ろしたくなるほど。それでも、一度も逸らせなかった。
目は口ほどに物を言うとはいえ、ことはがその意味を体感したのはこれがはじめての出来事だった。
桜と清会女子の生徒が駆け込んで来たのは十分ほど前のこと。勢いよくポトスのドアベルが鳴り、閉める時もなかなかの激しさだったので、ことはは例のごとく入店してきた見慣れた白黒頭に注意をしようとした。しかし、その背に隠れるように縮こまった女生徒を見て、流石のことはも今日ばかりは咎める口を噤んだのだった。
「何事?」
「変な輩に囲まれて困ってた」
「ああ
……
お疲れ。空いてるところ座って。今飲み物用意するわ」
ボウフウリンの登場で落ち着いたとはいえ、桜も該当するが外の人間にはまだ過去の遺恨が残っている。今日も古い噂で集った連中が道行く人に迷惑をかけていたのだろう。
ブラックコーヒーよりもミルクたっぷりのカフェオレの方が落ち着きやすいだろうと算段をつけ、ちょうど今さっき淹れたばかりのコーヒーに合わせる為ミルクを冷蔵庫から取り出す。
商店街の人間にとってはいざこざなんて日除茶飯事でも、いざ自分が当事者になると誰でも怯えるものだ。それが女性であれば恐怖心も殊更煽られただろう。事実、桜に連れられてきた女生徒の顔は見るからに青かった。
見回りならば誰が現場に残ったのだろうか。話を振れば、案の定副級長の二人と行動を共にしていたと分かる。どうやら連れてきた彼女がチンピラらしき数人に囲まれて困っていたので、ボウフウリンとして割って入ったらしい。女生徒は楡井に任せて一番近い喫茶であるポトスまで送ろうとしたが、相手の絡みが楡井の方に向き、致し方なく彼女に一番近かった桜が引っ張ってきたという顛末らしかった。
「今の楡井なら躱せるだろって感じのザコだったし」
蘇芳も居るから、と添えつつ、誰かを信頼して任せる事を自然と行えるようになった桜につい感心してしまう。すると、店内に入って落ち着いたのか、手首を掴まれてここまで一緒に逃げてきた彼女が泣き出してしまった。ちょうど調理中だったことははフェイスタオルをキッチン下から取り出して桜に放り、どうにか落ち着かせてやれとジェスチャーで合図する。
「ありがとうございます」
感謝の言葉を何度もこぼす彼女に照れつつも、ぎこちなくではあるがどうにかタオルを渡した桜の顔を見た女生徒の顔は、きっとそこまで変わりがない。けれど、その綻んだえくぼと目は確かに物語っていた。
(すごい、)
明らかに恋する目だった。生まれつきの容姿のせいで避けられ続けた男が、そんなのも気にならないほど一瞬の出来事で惚れられている。他人と関わる事にあまり臆さなくなったのが良いのかもしれない。端から見ていても、今の桜はまさしく少女を救ったヒーローだ。
掴んでいた手首が若干赤くなっていたのか、それに対して素直に謝罪している桜の姿を見、ことはは目を細める。
変わり続ける男の良さを色んな人が知っていく。そこにはもちろん恋愛感情が芽生える人間もいる。桜の成長が認められていく瞬間に立ち会えたようで嬉しいのに、何故だろうか、ことはの心臓には少しずつ小石のような何かが落ちてきているような心地がした。
「カフェオレ、良ければどうぞ」
あまり邪魔をするのも良くないだろう。桜は困惑したような顔でことはへ助けを求めていたが、ことはは気づかないフリをしてまずは腰を落ち着けろと言いたげに仕上がったドリンクを提供する。ちょうど一番奥の席が空いていたので誘導し、あとは二人でお好きにするようにとキッチンへ戻った。
しばらくはすすり泣くような声が聞こえていたが、いくらかするとその音も消え、ぽつぽつと会話に変わっていった。ちゃんと相手から目を離さない桜の姿は、ことはがはじめて会った時よりも頼り甲斐のある男に映る。向かい合って座っているので女子生徒の表情はほとんど見えないが、時折笑うことでちらりと覗く桜を見つめる眼差しは何度見ても星がきらめいているようだ。
幾分か経つと軽やかにドアベルが鳴り、ふわふわとした金髪と中華風のピアスをしゃらりと揺らす二人が顔を出した。隻眼でありながら昔から名を馳せていた蘇芳はもとより強いのでともかく、喧嘩初心者の楡井にもたいした傷が無いところを見るに、桜の見立て通り見掛け倒しの所謂「ダサい」輩達だったのだろう。
「桜さん! やっぱりまだ居たんすね」
「さっきの人達は街の外にお帰り頂いたよ」
それぞれことはに会釈し、奥に居る桜と女生徒の下まで向かう二人にも女生徒は立ち上がって礼を述べた。守る事が当然の二人も気にするなと手を振り、ちょうど頃合いかと彼女はそろそろ帰宅することになったようだ。テーブルの上のカフェオレはほとんどなくなっていたが、桜の分として提供したブラックコーヒーはまだ半分以上残っていた。
「連絡先を聞いてもいいですか」
そんな言葉が聞こえてきたのは、出入り口付近まで全員が向かった時だったろうか。
少し震えている両手がスマートフォンを強く握っている。女生徒にとって、きっと一大決心だったのだろう。初対面の相手に連絡先を聞くなんてこと、ことはだってそうそうしない。蘇芳はただにこやかに桜と女生徒を眺め、楡井も口を出すことなく様子を見守っている。その場で一番大きな声を出していたのは、連絡先を聞かれた張本人だった。
「は、
……
はぁ?! き、っ聞いてどうすんだよ!?」
顔を赤く染めた桜のそんな返しに彼女は上手く答えることが出来ない。でも、あの、駄目でしょうか。消え入りそうなほどのか細い声はことはにまで届かなかったが、肝心の相手はどうにか聞き取ったようだ。それでもまだ桜がスマートフォンを取り出す様子はなく、仕方なしに蘇芳が助け舟を出す。
「この街の中で危なかったり、怖いことがあったら連絡出来るようにしてもいいんじゃない? もしオレ達が近くに居なくても、誰か助けを呼べるし」
「な、なら、楡井と交換したほうが」
「あー
……
っと、オレ、今スマホの充電が切れてるンすよね
……
すみません」
やんわりと空気を読んでホラを吹く楡井の言葉を信じ、ようやく桜はズボンのポケットからスマートフォンを取り出した。最近覚えた方法で連絡先交換用のコードを画面に映すと、女生徒は隠しきれないほど顔を綻ばせて読み取っている。
ああいう姿を、世間では可愛いと形容するのだろう。実際、ことはも可愛らしいと思ってしまった。こんな聞き耳を立てるような行為をするべきではないが、目に入る光景なのだから仕方ない。洗ったばかりの皿を素早く拭きつつもことはの視線はずっと出入り口付近の四人に向いている。
無事に連絡先の交換を終え、そのまま送っていくのかと思えば此処で解散するようだ。清会女子の制服はそそくさとポトスから見えなくなり、ドアベルの音が鳴り終えたところで桜から低い唸り声が聞こえてきた。
「お前、ちったぁ間取り持つとかしろよ
……
」
それはことはに対する恨み節であり、受けたことはは盛大に溜息を吐く。
「私はただの店員なの。場所と茶の提供はするけど、桜の手助けは業務に入ってませーん。
……
ちゃんとふたりで喋れてたじゃない。あの子は桜が居たから安心してたのに、知らない人間が間に入ったら変でしょ?」
「けどよ
……
」
「まあまあ桜君、無事に乗り切れて良かったじゃないか。見回りの時間もちょうど終わりだし、せっかくポトスに来たんだからオムライスを食べて帰ろうよ」
「いいっすね!ことはさん、オレもオムライスで!」
「はーい。桜とにれーがオムライスで、蘇芳はコーヒーで良いかしら。一応この前仕入れたから紅茶もあるけど」
「ありがとう。それじゃあ紅茶で」
先ほどまで桜と女生徒が向かい合っていた奥のソファ席に三人は陣取り、既にお喋りに夢中になっている。不貞腐れた表情を浮かべていた桜の顔も今では随分と落ち着いていた。
ことはは慣れた手つきでチキンライスを調理し、薄焼き卵がフライパンの中でじっくりと仕上がっていく様を眺めながらも、頭の片隅では尚も星が煌めく。清会女子の女の子の瞳に輝いたあの星々の意味は、確実に恋心だ。一目惚れのような、吊り橋理論のような、そんなあやふやなものでさえ自覚すればそれは恋になる。錯覚だろうと彼女がその感情を掴んだのだから、あの星々は瞬いたのだ。
(あんな風に想ってもらえるなんて、本当にすごいじゃない)
あの時のことはに出来たのは、その星を燃え尽くさないよう見守ることだけだった。もしあの場に居合わせたのなら他の面子だってそうしていただろう。そこにことはの意思は必要なく、この喫茶ポトスの店員としての業務をただ全うするだけである。それが本来の店員と客の在り方なのだから。
この商店街は風鈴高校の生徒に庇護される形で存続している。ことはも商店街の人間であり、ボウフウリンに庇護される立場だ。それ以上でも以下でもなく、守ってもらうその礼に憩いの場の提供と茶や料理を振る舞っているに過ぎない。
全員が家族みたいなものだと商店街の皆や風鈴の連中は言うが、それ自体をことはも否定はしない。むしろ良い心構えだとは思えど、時折家族ではないことを忘れて踏み込みすぎてしまう時がある。
思えば、そういう意味で桜には肩入れしすぎたかもしれない。元々は外の人間だった自分と同じ立場だからと、何かと気を回していたところもあった。
見込みのある人間だと思ったから。この街が似合う男だと感じたから。ボウフウリン総代であり、本人を前にして認めることはないけれど、確かに兄貴分である梅宮みたいな人だと信じられたから。
まるで自分が姉や何かのように諭していたのは認めよう。後悔はしていないが、反省はするべきかもしれない。
内容までは把握出来ない桜達の話す声をBGMに奥深くまで入り込んでいた意識を気力で表層まで持ち上げ、気づけば焦げそうになっている薄焼き卵を菜箸で器用に救出する。どうにか綺麗な焼き色のままであることにほっと胸を撫で下ろし、もう一枚仕上げる頃には、ことははただ見守るだけの人間になろうと心に決めた。
だって、桜にこのまま春が訪れたら、きっともう此処には来なくなるだろうから。
それは淋しいと感じる心が芽生える前に、本来の立場を明確にしたほうが良いだろう。
いつものように綺麗に卵を巻けたオムライスにケチャップを絞る。なんの変哲もないただのオムライスだが、今日だけは手助けしなかったお詫びとしてトマトとブロッコリーの代わりにオレンジと苺を添えた。
女生徒を助けた翌日、あいも変わらず今日も朝食をポトスで摂っている桜はスマートフォンとずっと睨み合いをしていた。ことははその様子をカウンター越しに眺め、なかなか減らないサンドイッチをいい加減下げようと腕を伸ばす。すると、ようやく桜の視線がスマートフォンから離れた。
「まだ食べる」
「もー、じゃあまず食べてからスマホと仲良くしなさいよ。先にコーヒー淹れようか?」
「ん」
素直にことはの言う事を聞き、桜はスマートフォンを脇に置くと空気に触れすぎて表面がしけり始めたサンドイッチを口に運んでいく。目の前で気持ち良いほどみるみる無くなっていくサンドイッチを視認しつつ淹れたばかりのコーヒーを提供すれば、ものの数分で空になったサンドイッチの皿が代わりに返ってきた。
コーヒーを飲むまでの一連のルーティンが終わったおかげで少し落ち着いたのか、桜はそこでようやくひとつ息をこぼす。今一度スマートフォンに手を伸ばそうとして、結局彼の手は電子機器を掴まなかった。
「なんか気になる事でもあるの?
……
あ、もしかして、昨日の子から連絡が来たとか」
途端にゴフッと咽る音が聞こえ、ことはは仕方なくカウンター下から洗濯済のタオルを桜の顔面目掛けて放る。上手くキャッチした桜は口元を隠したものの、頬は赤いままだ。
「図星かよ。なに悩んでるのよ」
「
……
礼が、来て。なんて返すか迷ってるだけだ」
「そんなの、」
また何かあれば連絡しろ、だとか、任せとけ、だとかで良いんじゃない。
いつもなら躊躇わずそう口にしていた。けれど、喋るための酸素は二酸化炭素になることなく口内でわだかまる。
礼なんてこれまでだって桜は何度も言われてきたはずだ。風鈴に入学してまだ数ヶ月とはいえ、入学前から人を助ける為に動ける人間である。ことはだってその時助けられて、その縁でこの朝の時間も存在している。
誰かを助け、他人を諦めないたびに礼を貰っていればなんとなく返す言葉も決まってきているはずなのに、返答に迷っている。それは無意識的にも相手からの好意に気づいているからではないのか。
そして、そんな彼女に対して返す言葉が他の女性から与えられたものだと気づいてしまったら、あの垣間見たきらめきは潰えてしまうのではないか。
普段なら気にもしない何かが今回ばかりはことはの中で引っかかってしまう。それは直接ことは自身が彼女の変わる感情を目の当たりにした事も少なからず関係していたが、ちょうどよい親もとい兄弟離れみたいなものだと思うことにした。
「
……
そんなの、桜が思う通りにしたらいいのよ」
「だから、それが分かんねぇんだって」
「今までだってお礼は言われてきたでしょ?」
コーヒーを飲みながら黙ってしまった桜を前に、ことはは今まで悩みを表出させていた相手が自分で考えるという選択肢を持つことにほんの少し心が重くなる。本来であれば、これが正常な距離感のはずだ。
これまでが過保護過ぎたのかも、梅の影響かな。内心そんな風に自分を嘲笑って、ことははのろのろとスマートフォンに手を伸ばす桜を見守った。
ゆっくりと文字を打っている桜の眉間には皺が寄り、いつもより険しい顔になっている。長い時間をかけてようやく一言か二言返したようで、スマートフォンを仕舞う頃には人肌程度に冷めたコーヒーを胃に流し込んでいた。
そんな姿を見て、いつもの自分ならどう思っただろうか。きっといつもならひと息つくくらいはあったはずなのに、今日はそれも出来ず、ことははただ無言で桜のカップにおかわりを注ぐだけだった。
それからというもの、ほぼ毎朝ポトスへやってくるたびに誰かへ何かを返信しているであろう桜の姿が目に入る。今日もあの子から? そう聞くのは違う気がして、ことはは一度も触れずにいた。ただ今日もたまごサンドを提供し、コーヒーを淹れ、変わりない朝を演じるだけだ。
一週間もすればスマートフォンを数分もかからず確認し、何かを打ち込んでは仕舞う桜を見るのも当たり前になってしまった。
今日は久々に楡井も朝から来店し、桜と共に朝食を食べている。相変わらず美味しいと世事抜きで褒めてくれる楡井の感想に満面の笑みで返していると、楡井の隣ですっかりルーティンになったスマートフォンの確認をしていた桜が怪訝な表情を浮かべていた。
「なんて顔してるんですか、桜さん」
思わず口をついて出てしまったのであろう楡井の反応に、桜はそこで自身の表情を悟ったようだ。眉間に寄った皺はそのまま、やはりまだ画面から目を離しはしない。
「卵の殻でも入ってた?」
謝罪と共に作り直そうかとことはが進言すると、どうやらそうでもないらしい。片手に持っていたサンドイッチを一気に頬張り、無言で咀嚼しながらも、説明することを放棄して楡井にスマートフォンの画面を見せている。すると、楡井の表情は桜と反して興奮気味に赤く染まっていった。
「こ、これ、デートのお誘いじゃないですか!」
画面に表示されているであろう何かを指差して、楡井は声を裏返しながらも叫ぶ。それにすぐ反応するのは声よりも血流が先で、桜の顔面はみるみるうちに林檎のようになっていく。
「ば、っで、デートじゃねぇだろ! どこにもそんなん書いてねーし! 茶でもどうかってだけで
……
」
「いやいやいや、そりゃ相手はデートなんて椿ちゃんさんみたいに言えるワケないですよ! だからこそガチっていうか
……
とにかく! これはちゃんと応えなきゃいけないヤツです!」
カウンター前で繰り広げられる同級生同士の喧騒は、今のことはにとって何処か遠い世界の会話に聞こえる。自らが選んだ社会人という道に後悔は無いけれど、同じ制服を纏い、同じ集団生活に身を置き、学生として気の置けない関係を築いたふたりが年頃の少年のように騒ぐ話題が『デート』なんて、ことはにとってはまさしく体感の無い世界だ。
空になった皿やカトラリーを彼等の腕が当たらないように引っ提げ、水に浸ける。それと一緒にコーヒーを淹れ始めると、コーヒーの香りが漂う頃にようやくふたりは腰を落ち着けた。
「
……
どう返すんですか」
「
……
」
「桜さん! 既読付けちゃってますから! あっちも気が気じゃないと思いますよ!」
「うっせーな考えさせろ!
……
誘われた経験なんかねーし、ちゃんと応えろって言われたって
……
」
チラリとこちらを確認してくる桜と目線がかち合う。分からない時、悩む時、桜が吐き出す場所は大抵ことはの前だ。答えを貰えると思っているのは、これまでの接し方のせいなのかもしれない。既に赤みの引いている桜の顔には困惑だけが浮かび、ことはは仕方なしに言葉をかける。
「まず、そういう大事な話を人に気軽に見せないの。
……
相談するのは良いけど、その言葉を打った相手は桜に見てほしくて送ってるんだから。まあ楡井とか蘇芳なら良いとも思うけどさ、面倒くさがらないであげて。ちゃんと相手があんたに向き合ってる証じゃない」
ぐ、と言葉に詰まってバツが悪そうにしおらしくなる桜を見て、説教じみたものはそれだけで終わらせることにした。
「デート
……
お茶?に誘われてるのよね。桜はどうしたいの?」
「どうって、
……
」
「その子とふたりで行ってみたいと思う? 気になる? 別に恋愛感情があるかどうかは気にしなくて良いと思う。相手のことを知りたいと思うなら、その知りたいって気持ちだけでもいいんじゃないかしら」
黙ったままの桜を前に、ことはは更に言葉を重ねる。
「これは誰かに言われて決めることじゃないわ。あんたの感情の問題だから」
桜と楡井にそれぞれコーヒーを渡し、すっかり静かになった空間でただコーヒーを啜る音が聞こえる。洗い物も片付き、そろそろやってくるであろう常連のモーニングを用意し始める頃には登校時間が迫っていた。
そろそろ学校に遅刻するわよ、とことははが声を掛ける前に楡井が桜の名を呼ぶ。随分と前に空になったコーヒーカップの底を見つめ、桜はようやくスマートフォンに一言打ち込んでから立ち上がった。
「ごちそーさん」
「お粗末様。
……
決められそう?」
「
……
自分で決めなきゃいけないんだろ?」
憮然とした態度ではあるものの、目は揺らがない。ある程度自分の感情に折り合いがついたのだろう事が読み取れたので、ことはもそれ以上何かを告げることはしなかった。
「行ってらっしゃい」
「ご馳走様でした! いってきます!」
桜を伺いつつも楡井が彼の先を歩むことはやめず、最終的に走ってポトスを後にしたふたりの後ろ姿を見送ったことはは一人きりの店内で盛大な息を吐く。
こんなにも重苦しい気持ちを抱くのははじめてだ。誰かに何かを言う時、今までなら思ったことを素直に伝えられていた。それなのに、今日は桜の感情に寄り添う事が難しかった。
(私が行くなって言ったら、「そうする」とでも言うのかな、あいつ)
ありはしないと分かってはいても、そんな考えが頭をもたげる。桜の行動は、ただ親の言う事を素直に聞く子どもと変わりはない。それなのに、そこに自分は別の感傷が乗りそうで怖い。その感傷に名前を付けられない。恋や愛ではないのだと思う。それにしてはあまりにも汚く、澱んだ色をした感情だから。
ことはが施設に預けられたのは、何の特異さもない。ただ、実の親が育てられなくなったから捨てられただけだ。梅宮は愛を知って、愛に護られて、触れられなくなっただけで、彼の入所のほうが世間からしたら独特だろう。そんな彼を始め、施設の皆が家族として居たから、ことはは今此処に立っている。
中学卒業と共に就職の道を選んだことはは既に施設を出所しており、このポトスの二階に居住している。ポトスも元を辿れば施設出身者がオーナーであるからこそ、ことはに許された運営だ。自分だけでは作ることも、提供することも、金銭を扱うことだって許されない。世間的にはまだ成人にも満たない子供で、社会人という枠組にいるはずなのに、それさえ認められていない事実は変わらない。良くも悪くも、ことははこの店において責任者にはなれない。だって、まだ働けるようになった『子供』でしかないから。
出自故の落ち着きや諦観が身についている上に、そうやって子供扱いされるのが嫌だから、いつのまにか歳上ぶって振る舞うことが増えた。桜に年齢を伝えた時、彼がもっと上だと思ったのは正しい。当の本人がそう見せたい様を無意識に汲み取っていただけだ。
それなのに、桜と相対するたび自分の中身がどんどんと退化していく気がする。
羨ましい、だとか、ずるい、なんて言葉がまろび出そうになるたび、一体全体自分はどうしたのだろうと口を噤む事が増えた。納得した上で諦めた何かを見せつけられるようで、それに何故かあてられる。
清会女子の生徒の手を掴んで桜が現れたあの日、制服に身を包んでいるふたりが並ぶだけで様になるんだなと思った。本来の年齢より上に見られるようにしている自分と制服を着た桜が並び立つと姉弟のようにしかならないのに、制服というアイコンが付属するだけであんなにも似合うのかと驚いた。あの日心の臓に積もった小石のひとつは、確かに羨ましいと思う濁った感情のひと粒だ。
納得しているのに、理解しているのに、感情はいつも脳で処理しきれない何かを吐き出す。嫉妬では無い。ただ、羨ましい。
羨ましいってなによ。何が羨ましいの。
分からないからこそ、ことはは誰にも言わずただ小石を積もらせる。それしか出来ないから、そうするしかない。
ポトスのドアについたドアベルが軽やかに鳴った。その途端、ことはの表情はパッと明るく笑みを浮かべる。いつもの常連がやってきたのだ。
悩んだって意味が無い。それも理解しているから、理解しがたい種は頭の片隅よりもっと奥深くに捨てる事にした。
数日後、その日は雨が降る日だった。ビニール傘を乱雑に入口前で振り、雫を落としてから入店してきた桜を迎え、ことはは朝食を作り始める。いつもの席に腰を降ろした桜は今日もスマートフォンを前に何かを打ち、すぐに仕舞う。その様子を盗み見て、ことははいまだに続いているんだと勝手に認識した。
サンドイッチの横に季節のフルーツを乗せ、カウンターからそのまま桜へとプレートを手渡す。いただきます、と小さく聞こえた声はそのまま、最初の一口を含む前にふと桜が口にした言葉はただの世間話のような呆気ないものだった。
「そういや、茶、行くことにした」
「ああ、この前の子と?」
声なく頷き、桜はそれ以降一切黙っている。今日はのんびりとたまごサンドを頬張る桜を前に、ことははただ笑う。
「しっかり満喫してきなさいね」
「
……
、
……
他は聞かねぇのかよ」
「なぁに、聞いてほしいの?」
ニヤニヤと下卑た笑いで茶化してみれば、桜の顔はやはり赤く染まった。そうじゃないとごちる相手を前に、ことはは微笑ましくなるはずだった。そのはずなのに、表情筋が上手く動かない。それでもどうにか取り繕い、笑っているように見えるくらい口角を上げる。
「話したくなったら教えてよ。惚気くらいは聞いてあげる」
「のろ、?! ンなコトするか」
それからふたりの間に言葉は無く、ただ平穏な時間が過ぎていく。このカウンター越しの距離が自分と桜の心の距離だ。これが丁度良い。どうして丁度良いと思うのか、こうであるべきかと考えるのか、そういうものは何も考えない。
わざわざ行くと宣言してきた律儀さを今日ばかりは恨めしいと思う感情にも名前をつけたくない。それを飲み込んだ瞬間、何もかも瓦解しそうで怖かった。
「で、いつ行くの? 服は買った?」
「めちゃくちゃ聞いてくるじゃねえかよ
……
今週の土曜
……
」
「アクセとかにれーに借りたら? あいつ、たくさん持ってるよ」
「いや
……
なんで見た目気にしなきゃなんねーんだよ
……
」
ただでさえ目立つのに、と呟かれた声は気にせず、いつもの平静を取り戻した気になったことはは先を続ける。
「せっかく誘われたらオシャレしたくならない?」
「
……
お前はしたくなるのか」
「そうねー、どうせなら可愛く見られたいし」
そこから一切桜からの返答はなく、無言で完食された皿を片付けるといつも通りコーヒーを振る舞う。結局その日、最後まで桜は「ご馳走様」以外無言でポトスを後にした。
何か考えたくなる事を言ってしまったのだろう。土曜日に会った相手に言うことでも考え始めていたのかもしれない。なんにせよ、後は桜の問題だ。ことはが何かを考えてもなんの意味もない。
週明け、桜は自分から話してくれるだろうか。拙くデートの顛末を話す桜を想像するだけで面白さとは別の何かが胸を焼く。聞きたいのか、聞きたくないのか、今のことはには自分でもよく分からなかった。
店内に居ても雨の音がよく響く。こんな日も登校なんて大変だろう。居住している家が勤務先のことはには移動という概念がほとんど無いため、どこか他人事だ。
じめじめとした空気が漂うから変に気落ちするのかもしれない。これだけ雨が降ると残念だが集客は見込めない。高校には通っていないが、店が暇な時は施設の高校卒業生に貰った教科書で勉強することにしていた。今日もそうしようと決め、自分用の軽い朝食を作って先ほどまで桜が居たあたりに移動する。
コーヒー片手に苦手な数学を解いていると雑念も晴れる。悩むべきは目の前の問題になるからだ。週明けの感情なんて予測したところで意味が無い。
そう思っていたのに、週明けの月曜日、桜はポトスにやって来なかった。
つづく。
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