らん
2024-05-23 13:04:33
3677文字
Public
 

桜とことは

ウィンブレ

 触れた感覚はあまり覚えていない。感情に流されて衝動的に動いたのに、ケンカの時とは違って目蓋を下ろしたせいでろくに顔も見れなかった。ただ、離れた時にぽかんとした表情を浮かべていた目の前のあいつがいて、何を考えていたのか、オレがあの瞬間奪った何かをどう処理するのか、オレはどうしたいのか、何も分からなかった。

 人間の脳味噌が馬鹿なのか、それともオレが阿呆なのか、考えたくもないのにコレは後者だと認識出来てしまうのが居た堪れない。昨日の夜の出来事があるのに、いつものルーティンで朝は喫茶ポトスに赴く足取りは今日も無意識に此処へ足を運ばせた。
 馬鹿かよ、どんな顔して会うんだよ、つーか対話も何もないだろ、ケンカですらないのにケンカよりタチの悪い暴力を振るったようなモンだ。見慣れた扉を見つめて、結局踏み出しはせず踵を返す。
 人に触れると温かい事を知ったのは最近で、誰かを頼ったりする事や、ひとりじゃない事を知ったのも日が浅い。そんな中ではじめて向き合ってもらった人間に少なからず恩義を感じていたのに、返せたものがアレだ。何考えてんだよ。胸の内のオレは今日も饒舌で、あーだこーだ何かを並べては結論を出さずに逃げていく。
 ポトスに向かうということは朝飯を食べるということで、そこに行かないということは飯を食べなくなるということだ。昔のオレはそれでも良かったのに、慣れてしまった胃が内容物が無いと知らせるように気の抜ける音で鳴るのがムカつく。
 こんなの当たり前だったろ。今までがイレギュラーで、そんなイレギュラーを普通にしたのは最近の事で、別にそれが今更無くなったって嘆く事はお門違いのはずなのに。
 甘えていたんだと気づいてしまうのが嫌だった。なんだかんだ言いつつ朝食を作って待ってくれていたアイツの顔が浮かぶ。卵たっぷりのサンドイッチのあとは食後のコーヒーが入って、少し話して、なんでもなさすぎて、オレにとっては今まで無かった朝の在り方。
「美味しいなら良かった」
 声に出して言ったわけでもないのに、食べっぷりだけでそう判断してくれるその汲み取りに寄りかかった。与えられる言葉がいつもオレの芯を揺さぶって、認める事の強さと弱さを曝け出させるくせに、何故か飲み込めた。本当に同年代かよ、そんなに人間出来てねぇよ。そう思う相手は此処に来てから沢山居る。そんな中でも拳が無い代わりに言葉に力のあるアイツとの空間は悪くないと思っていたのに、衝動だったのか打算だったのかもう分からないたったひとつでオレは気まずくなって、こうして居場所を潰していくらしい。
 さぼてんのパンでも買ってくか。そう思っていくらか歩いたところで、勢いよく近づく足音に振り返る。軽くて歩幅の狭いその音の連続はオレの背後で止まって、代わりに聞き慣れた声が耳朶を打った。
「桜!逃げるな!」
 逃げてねえ。いや、逃げてる。返す言葉がなくてバツが悪そうな顔をしていたらしく、うんともすんとも言わせてもらえないまま腕を掴まれてポトスまで引っ張られるだけになった。合わせる顔がないと思っていたのに、目の前のことははいつもと変わらない。
 いつもならオープンにしたままの看板をクローズドに変えながら、わりと乱暴に扉を開いたことはに連れられるまま、鈴の音と共に閉まった扉前で足を止める。
「おはよう」
……
「別にあんたが朝食食べない時もあるのは知ってるけど、あんた、さっき目の前まで来たでしょ」
……見間違い、……
「んなワケあるか。白黒頭は他にいねーだろ」
 眼前で両手を組むことはの表情は少なからず怒気が滲んでいた。その怒気の根源が何処なのか、聞ける気はしない。聞きたくもない。だけど、まだ此処に来てもいいんだと引っ張ってこられた事で思えてしまうのが浅ましく感じている。いつからこんなに弱ぇんだろう。
……昨日の夜のことだけど」
……なんだよ」
「あんた、後悔してんの?」
「ハ?」
「もし後悔してるんだったら平手かます」
「ハ、……?いや、……はぁ……?」
 腑抜けた声が出た。なんで後悔してたら平手食らわせられんだよ。どう考えてもあの行動自体咎められるべきだろ。
 だってオレは昨日の夜、こいつにキスをしたんだ。
 ほぼ衝動的に、帰る時にふたりきりだった店内で、店仕舞もついでにするからと扉まで見送ろうとキッチンから出てきたこいつの髪を軽く払って、少し屈んで、形の違う同意の無い暴力を振るった。
 一瞬だけ触れ合わせた唇同士の感覚は、握手なんかと何もかも違った。何か言われるのが嫌で、かといって俺は謝罪もせず全力で走り去ったのだ。何が人間だ。猿と変わらねーじゃねぇか。したくなったからした?そのしたくなった衝動性を抑えられない自分に嫌気が差して、そこでようやくオレは気付いた。
 欲しくなってしまった。あいつの特別のひと欠片が、自分であればと願った。独りしか知らない人間が『普通』にうつつを抜かした結果がこれだ。
 悪かった、と絞り出そうとした声は音にならない。究極的には悪いと思ってないから。喉が締まる。はくはくと息だけが漏れ出す。全部ことはを考えてじゃない。オレのエゴだ。いっそ殴られたほうが良いかもしれない。あの時の一瞬のしあわせにも似た達成感と恍惚に近い何かを忘れるわけがなかった。
 一歩、ことはから近づいてきた。こちらも一歩下がればすぐ玄関扉に背が当たる。逃げ場の無い中でもう一歩近づかれる。足の先と先がぶつかって、見上げるようにこっちを射抜く瞳から目を逸らしたい。思わずふいと横を向けば、無理矢理顎を掴まれて前に固定されてしまった。
「逃げるな」
……いや、……悪、かった……
「本当に悪いって思ってる?……というか、私は嫌だったろうって思ってんの?」
「そりゃ誰だって突然自由を奪われるのは嫌だろ……
「それは分かるのに昨日あんたは私にあんなことしたんだ。……あのね、昨日の事はもう怒ってない。怒ってなかったのに、ッ私が今怒ってんのは!桜が私の感情も聞かずに、私に何も言わせずに自己完結してるから!」
 そこから始まった怒涛の言葉の波にオレは飲み込まれる。
「そりゃ突然すぎてはっ倒そうかと思ったわよ!順序ってもんがあるでしょ!それよりも何よりも逃げるように帰ってくのが腹立った!あんた、私に何も言わせずに何をどうしたかったわけ?!――っ、私は!あんたなら、……桜なら、良いのよ」
 こんな事怒って言いたくなかった!そう締めくくって軽く脛を蹴られる。前にナイフで切られた方とは逆の足の脛を選択するあたりがこいつの優しさみたいなモンなんだと思う。
……い、いやだった、とか、」
「今嫌じゃなかったって言った。つーか嫌だと思わないって分かっててしたんじゃないの?」
……分かんねえ」
 そういう感情を誰かと共有したことがないから分からない。分からないから不安で勝手に想像して解決した気になる。分からない事は駄目じゃないと学んだのに自ら知る機会を放棄しようとした。こいつが引き止めてくれなきゃ、多分そのまま突き進もうとした。
 唇を噛み締めた俺の両頬にことはの手が触れる。親指でゆるく撫でられて、それが落ち着かないのに案外心地よくて、どうしてかオレのものにしたかった。
「逃げないで。ちゃんと言って。私も言うから。拒絶されることは怖いけど、私はあんたを向いてるって前から言ってるでしょ?……それとも、私の言葉は信じられない?」
 どう足掻いても言葉を吐き出せない口の代わりにかぶりを振る。そんなこと、一度だって思ったことがない。怖気づいて納得するまで時間がかかるのはオレのせいであって、こいつの言葉を本気で馬鹿にしたことなんて存在しない。今でさえ思い描く言葉のひとつにこいつの言葉があるのに、何をどうして信じられないと思うのか。
 そこまで考えて、六方一座で出会ったふたりを思い出した。信じてやれ、と発破をかけたのはオレで、覚悟を決めろと促したのもオレだ。オレは今、あの時のしずかと似たような行動を選択しようとしていた。
 噛み締めていた唇からゆっくりと力を抜いていく。逸らした目線をことはに戻して、瞬きさえ忘れたようなその虹彩を眺めた。
「好きだ」
 たったの三音。ただのひと息。人と人が向き合うための感情のひとつに好意があるのなら、今オレがこいつに抱いている『好意』は『欲』が乗る。これまで一度だって求めてこなかったものを、こいつから貰おうと烏滸がましくも吐き出す。告白なんて名前で片付くモンじゃない。これは謝罪の代わりの最大級の甘えだ。
 結局、オレは今日もことはに甘えている。
「桜がこの街に来て、最初に会えたのが私で良かった」
 そうでなきゃ、きっとあんたと私はこうもならなかったと思うから。
 現実的なその思考でもう一度重なった唇の柔さは、昨日より鮮烈に残る。辿々しく手繰り寄せた腰を拒まれることはなくて、どうしてか泣きたくなった。