らん
2022-07-04 20:36:44
2014文字
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千空とコハク。

本誌読切版時系列

「驚くほどに波がないな」
 手を差し入れて海水を弄ぶコハクは、僅かな月の光の中でさえ海の透明度を楽しんでいるようだった。
 簡易オールを流されないように木に括りながら、俺は適当に相槌を返す。
「サルガッソ海は確かに澱みはあるが、ほとんど波がねぇ。それが天候によって大きく変わんだよ。幸か不幸か時期的に雨も少ねえからな」
「波が無いとなると、ほぼ人力で移動しなくてはならないのか。それでは明日から千空が簡易オールを漕いで、私は泳ぎながらいかだを後ろから押そう」
「それはマジでおありがてぇ。じゃねーと一生他の奴等と出会えねえからな」
凪がない海の中、漕ぐことさえ止めてしまえばこのサルガッソでは遠くに流されることもない。今日はこのまま眠ろうと再会して半日そこらのコハクを促せば、夜の番は私がしたいと言い出す始末だ。要らねえんだって。
「これでも警官達の手伝いをしているからな!夜勤とやらにも慣れたぞ!」
「あ゛ー、今日はまじで要らねえ。それより明日動くための体力蓄えろ」
「しかし、まだこのヤシの木だけではふたりいっぺんに横にはなれんだろう」
そっちの心配か、と軽く息をつく。日本より湿気はあまりないものの、気温はそのぶん少し寒く感じるくらいだ。俺が横になってから寝場所を探そうとするコハクに、水遊びを止めて隣に座るよう促した。
「背中合わせで寝るぞ」
「横にはならず?一応転がれるくらいのスペースはあるが……
「横にはならねえ。今日はこのまま背中合わせといて寝る」
 それであれば体温も下がりにくくなるし、寝にくさも少ないだろう。確かに横になれるが、その場合、万が一にも波が動けばジ・エンドだ。
 俺の言いたいことをなんとなく察したのか、コハクは何も疑わずに肯定した。相変わらずソッコーで決めやがる。
「テメー、俺の言うことに疑問を抱くとか、そういうのが一切ねぇよな」
「当たり前だ。千空は危機的状況の時、最適解しか選ばない。そこに疑念を挟んで時間をロスするほうが不合理だ」
「そォかよ」
 信頼されている、と思う。こんな生死に関わるときでさえ、全幅の信頼を寄せてもらえるというのは存外悪い気はしなかった。
 することもないせいか、眠気はゆっくりとやってくる。隣に座るコハクの腕が俺の腕に当たって、そのまま動かなくなった。触れた箇所からコハクの体温が少しずつ移ってくる感覚に、少しだけ目を瞑る。
 (子供体温、)
 俺よりも幾分か高い体温。俺より肌を曝け出しているからだろうか?といっても、この状況じゃフツーは俺のほうが高くなるはずなのに。
「千空は相変わらず少し冷たいな」
「うるせえ、これでも36度は超えてるわ」
「この状況で千空に風邪を引かれたら困ってしまうぞ」
「それはテメーもだ」
 何気ない会話をぽつりぽつりとこぼして、無音の海の中ふたりで微睡んでいく。
 そろそろ背中合わせにでもなろうと思って腰を動かせば、今まで合わせていた腕が俺の腰を素早く抱いた。男の俺よりしなやかなのに、俺よりも力強い手だった。
「な、んだよ?」
「落ちそうだと思ってな」
「さすがに落ちねーわ!……雌ライオンこそ暴れて落ちるなよ」
「雌ライオンではないがな、水の民はこれしきのことで溺れん」
 軽く頭を引っ叩かれた。痛いと思えることはやっぱり幸運なのだろう。悪運が強すぎる俺にとって、最初に出会えたのがコハクだったことだけは褒められる点だ。
 結局隣に座ったまま、背中合わせにもならずにふたりで意識を落としていく。腰に回った腕は振りほどかなかった。
 きっと、振りほどこうと思えば出来たのだろう。他人のことを慮って生きている性根の人間は、拒否すればいつだって自分が悪かったと手放してくれるから。
 それでも甘んじたのは、独りじゃないと思わせてくれるからなのかもしれない。
 独りだなんて何度だって経験したのに、今となっては少し痛いくらいに、脳が拒否する感情だった。
 腰を抱かれたことでグッと近づいた距離は、抱きしめられた時より少しだけ遠い。俺のほうが体格だけはいいんだから、本来なら俺がコハクの腰に腕を回すべきなんだろう。それでも、今はしない。
 夜が深くなっていく。反射した海面も透明すぎて全て吸収しているように、深い。近いようで遠い月と星が肉眼では眩く見えるのに、手元までは彩らない。そんな世界で、ふたりきり。
 馬鹿みてーに熱い体温が、俺の体温と混じって丁度良くなっていく。36.6度、多分きっと、それくらい。
「テメーは腕枕をしても痺れなさそうだよな」
「うでまくらってなんだ?」
 ふやけた声に少しだけ笑ってしまった。さっきまで夜勤も慣れただとか豪語した声とは思えない。それでも、本当に危険が訪れたら電光石火で救ってくれるんだろう。
「デキる人間のするモンだよ」
 支えられた腰は、朝までそのままだった。