ついた溜息の行方は飲み干したミネラルウォーターのペットボトル。ジュダは片手で握りつぶすことの出来ない海外産のソレを放り投げ、見事にダストボックスへと着地させた。
リリースイベントの曲合わせ、そして新曲発売を祝って行われる予定である東名阪ツアーの打ち合わせを重ね、時刻はそろそろ深夜零時を示す頃合いだ。彼はもう一度溜息を吐くと、今度は空気に溶かした。
懇意にしているプロデューサーが到着するまであと一時間、どう考えても今日はこのまま事務所に寝泊まりが確定している。日にちをずらせれば良かったものの、生憎と篝火もプロデューサーも多忙なスケジュールに代わりはない。今日以外ですり合わせようと思えば月を跨ぐことにもなりかねず、仕方なしにスタッフも含め徹夜が決まっていた。
「あーあ、」
よくあることとは言え、何しろ昼前から動いているせいでジュダの身体は既に限界に近かった。歌うだけで体重は落ちるし、元から積極的に食物を取り入れる性格ではないことが原因で腹もろくに空かない。やつれたように見えるとマネージャーに釘は刺されたものの、それさえ彼は突っぱねて、結局今日も水だけだった。
食欲が満たされないせいか本能は睡眠を求めて、欠伸を食べるのはこれで何度目か。溜息のあとそのまま欠伸をかまし、溢れた唾液を嚥下する。もう一本水でも飲もうと席を立つ前にスタッフがジュダの前に先ほどと同じミネラルウォーターを置いた。そんな彼女の顔も既に隈があり、疲れているのは全員なのだと思い出す。それでも、眠いものは眠い。
なし崩し的にプロデューサーが到着するまでは込み入った話も出来ない為、暇という大敵に脅かされたミーティングルームは既に誰から眠るのか分からないほど微睡んでいた。
もう寝てもいいんじゃね、つか寝かせろ。そう言いたいのは山々だが、正直一度寝たら一時間後に起きられる自信もなかった。我慢しないタチだが、音楽に関しては少しくらいの我慢は出来る。今後のライブの為だと言い聞かせ、ジュダは何度も欠伸を食らった。
(こんなことなら、昨日ちゃんと寝ておけば良かった)
うつらうつらとした意識の中、カノジョを構って結局寝たのは日付を超した時間だったことを後悔する。あの時は後悔なんて無かったし、カノジョが可愛いことに偽りもない。ありがとうと笑ったカノジョだって自分よりも早く家を出て、自分よりもキツいタイムスケジュールだったのではないだろうか。そんな最中、約一週間ぶりに会ったというのに結局ほとんど会話は出来なかった。
(やっぱ、リリース前後に会うのはやめたほうが……とか、我慢出来ねえのはオレのほうなんだけど)
我慢が得意なカノジョはきっとジュダが控えたいと打診するだけで頷くだろう。会えなくても大丈夫だと言う姿を想像することは容易い。本当は寂しいくせに、我慢ばかりが得意なカノジョのことだ、きっと連絡もほとんどしてこなくなるに決まっている。
ジュダ自身も連絡はほとんどしない、というより忘れるだろうし、音楽にのめり込めば何もかも忘れる自分が器用にカノジョの相手を出来るはずもなかった。それでも我慢が出来なくなると唐突にカノジョを呼んで困らせるからタチが悪いと自分ですら思う。
昨日のことだって後悔しているだとか思いはするものの、現状の寝不足を招いたのは自分のせいで、欲しがったのも自分だ。そして満たされたのも事実で、実際今日の曲合わせはほとんど不機嫌にならずに済んだのもカノジョのおかげだった。だから後悔は言いすぎかもしれない。それでも、眠いものは眠い。
もう一度欠伸を噛み殺すと、近くに控えていたマネージャーがジュダの肩を叩いた。ナニ、眠さを隠しもせずにパイプ椅子の背もたれに体重をかけて上を見やれば、ジュダの眼前にサンプル盤が揺れる。
「あー……プロデューサーに渡すヤツ?そのままアンタが渡せばよくね」
総編曲者が渡したほうが良いに決まってるだろうと言い包められ、ジュダは反論も面倒になり雑に受け取るとそのまま長机に置いておく。ツルリとしたビニールシートの感覚に、もう見慣れてしまったCDのジャケット写真を眺めては昨日のカノジョを思い出した。
絶対にサンプルで聴かないことが分かっているから、わざとケースではなくて盤面に書いたメッセージを英語の意味が分からない、ではなく、筆記体さえ分からないからと受け取ってもらえなかった。
(筆記体分かんねーとか、……まあ確かに学校とかでやってねえかも)
それならいっそ丁寧に書けば良かったのかとも今更ながらに思うが、そう簡単に分かられても面白みはない。けれどまあいいかと流せるワケもなく、ジュダは舌打ちをかました。その音でスタッフの数人が背筋を正したが、ジュダが何かに耽っているせいで鳴らしたのだと理解した途端、彼らはまた微睡みに落ちていく。
盤面のメッセージは、あまりにもありきたりで、あまりにも甘いものにした。好きだとか愛してるとか直接的ではないけれど、とびきりの愛の言葉だ。普段なら直球で好きだと言うけれど、歌うわけでもなく、言葉として残すなら、と思い浮かんだソレを書いたのだ。
(マジでずっと分かんねーままだったらどうすっかなあ)
分からないままでもいい、なんて優しくなれない。手紙やメッセージを贈ったことなどないから、尚更だった。歌で伝えてきた愛を改めて言葉として吐き出すことは、ジュダにとっては難易度が高いものだった。カノジョには出来て、自分には出来ないこと。
それでも今回ばかりは言葉でも伝えたかったのだ。あんなに荒れて、謹慎まで食らって、それでも愛想を尽かしもせず支えてくれたカノジョのために。
(しょうがない女、なんて、……しょうがないのはオレだし)
大好きだよ、昨日も囁いてくれたカノジョからの言葉をジュダは反芻する。ありがとう、大好き。カノジョが沢山くれる言葉。まっすぐに、ただ純真に届く気持ち。
お節介を焼く姿を思い出す。伝えてきた大好きを聞き返せば照れる顔を思い浮かべる。キスで蕩けた瞳を思い描く。触れれば触れるだけ溶ける身体の柔らかさを思い知る。カノジョの香りを思い感じたところで、目が冴えた。
三大欲求はひとつが満たされない場合他のふたつで穴埋めが出来る。満たされない食欲を睡眠で埋めようとして、今度は埋まらない睡眠を彼は性欲で埋めようとした。あろうことか、昨日のカノジョを思い出して。
(ダメだ、会いたくなる)
我慢が出来ないタチだとジュダ自身が一番理解している。だからこそ、今だけは抑えたかった。メッセージの意味が分かるまで会ってやらないと自分で決めたのだ。ギブアップを聞くか、カノジョから正解を聞くまではそんなガキみたいな我儘の為に我慢するのだと、すぐ反故にしそうな事を考えたのである。
(はやく正解しろ)
じゃないとオレが負ける。
いつもカノジョには負けているくせに、そう自嘲気味に欠伸ではなく溜息をこぼし、先ほど貰ったミネラルウォーターをジュダは一気に飲み干した。
時刻はそろそろ午前一時。プロデューサーに渡す予定であるCDの表面をなぞり、彼はふと浮かんだワンフレーズを資料の裏にえがいた。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.