9:完敗したから乾杯だ
スニーカーの靴紐を結び直す時が好きだった。蝶結びしたそれを網目の中に押し込んで、踵が脱げないように整えるその瞬間、ライブに来たのだと胸が高鳴るから。
ここ最近は大きなアリーナや都内でも大きい系列のライブハウスを使うことが多かったけれど、今日は中規模のライブハウスということもあってか人口密度が高く感じる。キャンセル分の最後の直前抽選で手に入れた整理番号が良いわけもなくて、靴紐を直したはいいものの、前に行けないことは分かっていた。
そもそもなんで今日のライブハウスが少し狭いかと言われれば、明日も此処でライブが行われるからだった。そして私が何故抽選でチケットを取ったかといえば、本来なら今日来る予定ではなかったから。
元々、明日が今回の東名阪ライブツアーの最終日。そっちはジュダから絶対に来いとのお達しがあったし、ゲストパスを貰う運びになっていた。そして、今日は仕事が抜けられそうにないからとキャンセルさせてもらっていたのだけれど、突然アポがリスケになったのだ。
そのおかげで行けるよ、と本人にいつも通り伝えるのも良いだろう。ただ、たまにはジュダをビックリさせてみたい。そんな思いで期日的にはギリギリのチケット戦争に参加した。今更考えると落選していたらどうしたのかという話だ。まあ、そのときは大人しくお家に帰る予定だった。
(久々に後列で見るなあ。最近は私が先行に申し込む前にジュダが止めるし、その流れでパスを持ってたから
……)
サウンドと人々のざわめき、スタッフの立ち回る流れに、物販を求める人の列。ロッカーに荷物を預けている人や、前列に割り込もうと画策している人、そもそもはじめから動く気などないから最後列で腕をくみつつ見守る人
……、篝火のファンは女性のほうが若干多いけれど、男性も多いほうだ。沢山のファンを眺めつつ、私はどう見えているのかとふと気になった。
(
……ミーハーっぽいかな)
新作のTシャツを買って着替えたはいいものの、過去のリストバンドやバングルも持っていないし、タオルも首にかけていない。チケットを発券した時点で番号の悪さに前列を狙うことは諦めたからスカートだし、まるで新参者みたいだった。これならわりと自分だとバレないのではないだろうか。
開演まであと15分。後列もそろそろ余裕がなくなりそうだ。どうせならドリンクでも飲みながらゆっくり見ていよう。前列に居たら難しいことを、今日はしていよう。そう考えて、ホールと通路の手前にある小さめのドリンクコーナーへ足を運んだ。
ホールを出たほうが大きいコーナーがあるのは知っていたけれど、ビールを飲むだけならどちらでも変わらない。終演後は特に混雑してしまうし、なおさらはじめからドリンクを頼んでおけば楽なことは経験として知っている。特に後列は自由に踊りたいか、飲みながら見たいか、静かに聴きたいか、大体そういう人の集まりだ。
同じ考えを持っている人がまばらにコーナーに居るだけで、やっぱりドリンクを頼む人は少なかった。ドリンクコインを手渡して生ビールを頼めば、プラスチックカップに丁寧にビールが注がれていく。
(開演前だとたっぷり貰えるのも魅力だよね)
終演後はいかにさばくかが肝なせいで泡だらけだったり、ジュースにいたっては氷ばかり、炭酸の泡ばかりでボッタクリ感もあるけれど、落ち着いた時間だとそこまでのものはない。たまには後列もいいなあ、顔を綻ばせながら店員のお姉さんからビールを受け取って、泡が消える前にひと口。
ちびちびとアルコールに浸りながらホールの奥、逆最前のセンターで柵に背中を預けた。真後ろにはPAさん達が居て、なんの気なしに見ていると、ちょうどそこに控えていた篝火のマネージャーさんと目が合った。ヤバイ。確実に顔バレをしている相手にはさすがにバレちゃう。
案の定口パクでパスは?と聞かれたけれど、それには首を振り、口の前で人差し指を立てる。そこで意図を察したらしいマネージャーさんはその後私に話しかけてくることもなく、今度は控室へと向かったようだった。
(そろそろ時間だもんね)
今日は対バンライブではなくワンマンだからこそ、揃えているスタッフはジュダのお気に入りだったり、相方さんの懇意にしている人だったり、私も見知った顔がいくつか見受けられた。
普段より薄いメイクをしているし、格好も今日は随分とカジュアルだから気づかれないと良いなあ。どうせなら、明日ジュダに私から申告するまで気づかれたくない。ああでも、いつもライブの最中に見つけられちゃうんだよな。やっぱりセンターじゃなくて上手に行こうかな。
ちびちびと口につけていたカップを離し、両手で持つだけにして開演に備える。ステージでは楽器や機材のチェックが始まっていて、今はちょうどジュダの扱うギターがスタッフによって確認されている所だった。少し歪ませた、狂った音。
名古屋と大阪も同行しなかったので、このツアーのセットリストを聴くのは私にとって今日がはじめてだった。
あの音ならエスカレーションから始まるのかもしれない。
何度も聴いてきたライブでの彼の音を思い返しつつ、はるか遠くのステージを見つめた。
段々と人も溢れてきて、気づけばホール内はほとんど隙間が無くなっている。私の隣に並ぶ人も居て、やっぱり逆最前も人気だよなあ、なんてのんびりともう一口ビールを煽ろうとした、その時。
「アンタ、なんで居んの」
私の左隣、音響さん達の出入りする柵を塞ぐように立っていた男の人が私に話しかけてきた。もしかして、もしかしなくても。
驚きの悲鳴をあげなかっただけ褒めてほしい。ただ無言で斜め上に目線をずらせば、パーカーのフードとマスクでほとんど顔を隠しているジュダと目が合った。アンバーの瞳が薄い暗闇の中でもよく分かる。
「な、なんで」
「マネージャー」
「さっき内緒って言ったのに
……!」
「へー、内緒ねぇ
……?」
隠れている面積が多すぎて、ジュダがどんな表情をしているかは読めない。ただ、声だけは随分と弾んでいるようだった。
「モチベ微妙だったけど、ちょっとアガったわ。音もまあ良さそうだし?」
「開演まで10分切ってるよ、はやく戻ったほうがいいよ
……」
まだ自分達の並びまで満杯になっていないからバレないものの、もしここまで人が居たら確実にパニックだったろう。いくらサウンドが鳴っていても、オールスタンディングでの人との距離は近すぎて会話は囁いても聞こえてしまう。なるべく目線を合わせないように話していたら、手の中のビールが消えていた。
「な、」
「うめェ」
開演前から呑む人が居ますか!と言いたいところだけど、ジュダにそれは通用しない。ライブのアンコールで缶ビールを持ちこむことだって数知れずなのだ。始まる前に飲むことだって多々ある。ただ、今日のそれは私の払ったもので、いやまあそこは良いんだけど、貴重な残り二時間分の一滴だったりするのですが。
「来たならちゃんと最後まで聴いてけよ。つか、パスくらい直前でも言ってくれれば出した」
「だって、驚かせたかったんだもん」
「あっそ。来ねェ時でもアンタのこと探してるから、絶対見つけてたと思うけど」
「
……え、」
「行ってきます」
マスクを器用に下ろして飲み干されたビールの代わりに、開けてすらいないミネラルウォーターが両手に収まる。ひらひらとプラスチックカップを揺らしながら、ジュダは音響さんの出入り口からそのまま去っていってしまった。
気づけばジュダの使うスタンドマイクのチェックさえ終わっていて、辺りは人で埋め尽くされている。ああ、もう、なんて、ずるい。
逆最前から眺めるステージのセンター、多分きっと、あの位置から彼は私を射抜くのだ。もう身動きが出来ない私のことを、絶対に。今度は隠れもせず、堂々と。言葉なしに、ただ目線だけで貫かれるのだ。そのまま音で酔わせてくる、それが篝火としてステージに立つ私の恋人。
周囲が暗くて良かった。アルコールをほとんど入れていないのに熱い頬を見られないで済む。まだライブさえ始まっていないくせにこのザマなんてどうしようもない。はじめてじゃあるまいし。
「ずるい」
呟いた声を流し込むように、完敗した報酬の水を煽る。辺りが一気に暗くなった途端響く怒号にも似た歓声たちと合わせてペットボトルは潰れていく。私の喉はゴクリと何度も鳴って、それが歓声とクラップと指笛の代わり。
今か今かと待ち焦がれる視線と突如止んだファンの音さえ気にせず、私の喉はやまない。まだ、あと少し。あと、さん、に、いち。
始まりの合図も何もなく爆発的に鳴らされたギターの音や、同時に溢れた橙のライトで照らされたステージ、重いドラムとベース、息のあったダブルギター。割れんばかりの声と共に潰れきったペットボトルで乾杯した。
titled by:ホームシッカー(
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