らん
2016-02-07 23:04:01
1777文字
Public
 

桃→あん


『御曹司』『初恋』
姫宮桃李:ミルクは後で、ゆっくりと



「だーるーいー」
珍しく副会長さえもいない生徒会室で、溜息とと共にそんな一言が口をついてポロリとこぼれた。
何が楽しくてひとり寂しく書類の書き写し作業なんてしなくてはならないのだ。こんな仕事は弓弦にでもやらせておこう。そう思ったのだけれど、自分よりも周囲の人間の扱いが上手い弓弦に校内パトロールを任せた方が効率は良い。仕方なく、認めたくないけれど、ここは弓弦に譲って書き写し作業をしている。
元々、特技は速記だから特に苦はないのだ。甘やかして育てられたとはいえ、自分だって姫宮の端くれで、長男で、次期後継者。その為なら努力は惜しまないようにしてきた。だから、字も上手く書けるように練習したし、勉学だって怠らなかった。他人から貶められる部分を削ぎ落とすようにして生きてきた。どんな小さなことも、付け込まれる隙はないように。
それはやがてこうして特技として花咲いたのだ。地味な特技だと言われようとも、これが自分の特技だと胸を張れるのはこれくらいだ。
(他は弓弦のほうが上だからなあ。悔しいけど。認めたくないけど。でも、事実だし)
虚勢を張るのはいいけれど、自分の力量を見誤るのは馬鹿のすること。言ってはやらないけれど、弓弦の腕は尊敬すらする。だから拾ってやったのだ。アイツは自分で自分を認めないから、誰かが認めてやらなければ。
(……あんずも、そんな感じだもんなあ)
書き写し作業は去年の暮れから今年の春の業務内容に移っていて、そこに記された転入届はあんずのものだ。書く手はそのままに、思考はゆるやかに転校生として現れた1つ上のプロデューサーを描く。
とても無愛想で、ともすれば見向きすらしないような存在だった。それでも、trickstarの栄光を敗者として見届けて、その時には力量を見直すくらいだった。とても強く在るのに、あんずも自分を認めない。だからすぐに名前で呼ぶようになった。認めたものは絶対に名前で呼ぶ主義だ。
「最近のあんずは、もう認めたように見えるけど、」
今度は逆に透明になる術を覚えてしまったようで、生き急いでいるように見えるから危なっかしい。まるで少し前の弓弦と同じだ。修学旅行より前の弓弦そっくりなのだ。
もっとちゃんと自分を愛してあげなよ。そうじゃないと誰も愛せないよ。自分を愛さないで他人に渡す愛は、
「犠牲って言うのに」
コピーする右手は止まらない。それと同じに思考も止まらない。ああ一体ボクはなんて女を好きになったんだ!
それでもこのはじめての感情を消すことだけはしたくなくて、それでいてこの感情が自分ひとりのものでしかないことも理解していて。きっとボクがあんずを掬えないことだって分かっている。
全部、分かっている。知った上で虚勢を張っている。
(あんずの作ったクッキーが食べたいなあ。ついでに抱っこしてもらって、あーんってしてもらいたい)
たとえ犠牲の愛でも、この初恋が溶けるまで享受させてほしい。あんず、あんず、ねえ、あんず。
誰よりも沢山名前を呼んだよ。誰よりもはやくあんずを認めたよ。それが何もならないことだってちゃんと分かってるよ。これは特権でもなければ優越感にもならない。
だから、どうか、せめて初恋が終わったと言えるまで甘えさせてね。その立場に甘んじられることだけは特権と言わせてね。
(あんずに認めてもらえることも、ボクにとっての安心なんだから)
書き写しは夏に移行した。ぬくぬくとした暖房と、会長のために用意された加湿器に、柔らかいクッションの敷かれた椅子。その上でパタパタと軽く足を振りながら、ひたすら速記していく。これぐらいのスピードで初恋というものも溶けるならどれだけ幸せだったか、なんて、馬鹿な問いだ。
そんな問い、ボクの大事な恋心に聞く必要なんてない。間違いなくこの初恋はボクの愛。溶けても糧になる、魔法のミルク。
3回のノックの後、ボクひとりだった生徒会室は終わりを告げる。女っぽい泣きぼくろは見慣れたものだ。
「坊ちゃま、パトロールが終わりました」
「おそーい!弓弦、紅茶淹れて。あと5分くらいで終わるから」
「畏まりました」
ミルクは後入れで、優しく溶かして飲み干そう。猫舌だから、ゆっくり、時間をかけて。



END