シオンがアルバの家庭教師として牢まで出向いている時、クレアは宿で留守番のことが多い。今日もシオンはアルバの元で、クレアは特にすることもなく、宿のベッドで腹ばいになり、枕を机に雑誌を読んでいた。勇者についてまとめられた雑誌は勿論のこと、千年前とは変わった時代を生きるためにとファッション雑誌や生活ガイドなるものまで彼の枕に積み重なっている。
鼻で歌を歌い、足をぶらぶらと動かしながら雑誌をひたすら捲る。千年前には確実に存在していなかった沢山の料理達がとても美味しそうだ。
(シーたんが甘いものばっか食べちゃうのも分かるなあ)
昔――自分がクレアとして生きていたあの頃は質素で代わり映えのしないものばかりだった。今の時代はとても進化している。
服装や髪型など、流行に左右されるものは巡り巡って千年前にもあったようなものがあるけれど、やはり千年前とは何かが違う。
「シーたんってやっぱスゲー……オレ、まだ全然この時代に対応出来てないもんなあ。」
大きな独り言をこぼし、クレアは雑誌を閉じた。枕に溢れる雑誌を手で避けて、空いたスペースに顔を埋める。枕は柔らかい匂いがした。
肉体はそれこそ成人しているけれど、自分の精神はあの頃のまま、ずっと止まっていた。おかげで肉体と精神の年齢が吊り合わない。それはクレアも自覚している。はやく大人になりたい、なんて言わないけれど、はやくシオンのように落ち着きは欲しい。
(……まあ、元からシーたんはしっかり者だったし。オレは元からちょっとダメだったし。今更埋まる距離じゃないのも分かるんだけど)
シオンは今のクレアを見て、いつも笑ってくれている。呆れることもあるけれど、最後には許してくれる。肉体に変化はあれど、あの頃のままのクレアを受け入れてくれる。それだけで今は充分だった。時間はまだある。ゆっくり先に進めばいいのだ。
枕に埋めていた顔を上げて、その勢いで体も起こす。すると、何故かベッドの横に黒くて丸い空間が空いていた。この穴は、紛うことなき魔王一家のゲートだ。なんだ?と思っていると、ひょっこりとゲートから三代目魔王ルキメデスが顔を出した。
「ねえクレアさん、泣いたことってある?」
「……えっと……」
突然のルキの一言に、クレアはただ固まった。まず、ゲートでいきなりやってきて、そして挨拶も何も交わさずに言われた言葉が「泣いたことある?」だなんて予想外だ。さすがのクレアでも対処することは出来ず、とりあえずなんかスゲーな!と一応の感想を口に出す。
「なにがスゴいの?全然スゴくないよね?クレアさん頭大丈夫?」
「わぁ、ルキちゃんってちょっとシーたんに似てる」
見た目とは相まって毒舌なルキにも驚きつつ、クレアはカラカラと笑った。
軽やかな足取りで宿に下り立ったルキは、ゲートを閉じるとそのままクレアのベッドによじ登る。クレアも特に気にすることはなく、雑誌を地面に適当に落とすとルキが寝れるようにスペースを広くした。
ルキもその意図に気づき、そのままクレアの横で同じように腹ばいになり、二人で枕を共有する。
「いきなりどうしたの?シーたん達と一緒に居るかと思った」
「居たんだけど、アルバさん、今日から新しい魔法の練習でね?いつも始まったばっかの時は魔力暴走させて被害出るから逃げてきたの!」
「マジかーアルバくんもスゲーけど、付き合ってるシーたんもスゲーな」
またカラカラと笑うクレアを間近で見つつ、今はそんな話どうでもいいよ、とルキはもう一度問う。
「泣いたこと、ある?」
「んー?オレ結構泣いてない?痛いーとか遊びたいーとか」
「そうじゃなくて、」
理不尽さに涙は流したか、ってことだよ。
目の前の少女から囁かれたその一言で、どれだけこの子は敏いのかと舌を巻いた。そうだ、精神だけで言えば、目の前の少女の方がクレアよりも歳上だ。肉体はクレアが歳上でも、精神はルキの方が歳上という、ひどくちぐはぐな関係なのだ。
「……なんで?」
「ずっとおじいちゃ、……初代魔王に肉体だけ使われて、身体の成長を自分で出来なかったこと、悔しくないの?ずっと精神が止まったままだったこととか、魔王にされた恨みとか」
「んー、特にないよ。悩んだって仕方ねーもん」
「でも、」
「大丈夫だよ。だって、今こうじゃなかったらルキちゃんとも会ってないし」
それはクレアの本心だった。
確かに、シオンの父親に肉体を使われて魔王になってしまったことは心のどこかでしこりになっている。自分で成長できなかったこと、シオンに重荷を背負わせてしまったこと、沢山のことが悔しいというより、悲しい。けれど、それをあの時の自分は止められなかっただろうし、悔やんでも、泣いても、意味のないことは分かりきっていた。
そして、もし何事もなく生活していたとしたら、ルキやアルバに出会えなかったことも分かりきったことなのだ。
だから悲しくない。寂しくない。悔しくない。なにもかも、自分には必要ない。
そう思って、一歩を踏み出してきていた。
「……意地っ張り」
ぼそりと呟かれたその一言は、ルキの可愛らしい声で発せられた。まだ柔らかい頬をめいいっぱい膨らませている。怒りの炎を湛えた瞳でクレアを真っ直ぐに見つめる彼女は、少しつついただけで激昂するのは明らかだった。
「クレアさんの意地っ張り!」
「ええー?なんでそうなるんだか分かんないんだけど」
「どうしてロスさんもクレアさんも意地っ張りなの?そうやって勝手にストッパーかけて、泣きたいのに泣かないで!大人のくせに!」
「お、大人だから泣かないんじゃね?!」
「クレアさんは精神大人じゃないもん!」
「否定できない!」
「だから泣いていいんだよ!……理不尽だったって、誰かを理由にして、泣いたっていいんだよ?」
シオンにも同じことが言えるが、なぜか彼も、クレアも、心に触れる嫌なものをひたすらに隠そうとする癖がある。そうやって生きていくことが賢いと本能的に知っているせいなのか、彼らは絶対防御ラインとなる一線があるのだ。
自分を雁字搦めに縛って、自分すら偽るその精神が、ルキは憎い。
どうして頼ってくれないの、どうして言ってくれないの、どうして共有させてくれないの、
勿論、触れてはいけない想いがあることは知っている。それでも触れたい。見ていて痛々しいくらいの、その固くて脆い精神に寄り添いたい。支え合える存在になりたい。
シオンにとって、そんな存在となったのがアルバだった。シオンは千年も時を経て、やっと拠り所を見つけたのだ。じゃあ、クレアは?
――そんなの、ワタシしかなれないでしょう
「お姉ちゃんだもん、泣いていいよ」
「泣けないしなあ」
「じゃあ謝りたいことを聞いてあげよう」
「なにそれスゲーな!」
「懺悔室ってやつかな!」
「ザンゲシツ?」
「許してほしいことを話して、神様に謝るところのことだよ。さあ、今からルキメデスはシスターです!話してみなさい!」
ベッドに敷かれていた白のシーツを引っ張り、ルキはクレアをベッドの外へと突き飛ばした。転げ落ちるように床に投げ出されたクレアはルキに言われるまま、膝立ちをし、手を組む。そのまま額に組んだ手を当てると、先程引っ張ったシーツがクレアの頭から身体を覆った。
「なんだこれー!スゲー!」
「雰囲気出してみた!」
ベッドに座るルキはひとつ咳払いすると、少しトーンを落とした声で囁く。
「汝の罪をお話なさい」
「えーと、昨日シーたんの料理をつまみ食いしてしまいました!」
「他は?」
「シーたんが寝てる時に一人で外を探検しにいっちゃいました!」
「続けて」
他愛もない、可愛らしい罪がクレアの口から溢れる。ルキはただひたすら次を促して聞くだけだ。するとネタが尽きたらしい。その代わり、クレアは最近の自分について話すことにしたようだ。
「最近夢を見ます。なんつーのかな、こう、自分の身体なのに自分が操れない夢。
オレは止めたいのに、止められなくて。目の前で泣いてるのはシーたんなのに、オレは操れないから慰めることも出来ない。そんな夢。」
「感覚としては、魔王だった時みたいな。……実は、魔王だった時、ずっと眠っていたワケじゃないんだ。たまに覚醒してた。……すぐに眠っちゃうんだけど、でも、人の泣く声とか、シーたんの叫ぶ声とか、色々聞こえるんだ」
「……それが、罪?」
シーツを被って押し黙るクレアの身体が震えたように見えるのは、はたしてルキの目の錯覚なのだろうか。
分からないまま、ルキは先を促した。
「助けられなかったことが悔しいの?」
「……どうにも出来なかった」
「諦めていたことが悔しいの?」
「……分からない」
「じゃあ、悲しかったんだね。……どうにも出来ないことが悲しくて、諦めるしかなかったことが悲しくて、……シオンに何もかも背負わせたことが悲しくて、でも、泣けないんだね」
「オレは泣く資格がない」
「誰が決めたの?」
「…………」
「誰も見てないよ。ワタシも何にも知らない。神様しか見てないから、泣いていいんだよ」
「魔王だったのに、神様が居るなんて知らなかったや」
すっげー便利だね、神様って。
空気が震える。クレアが引き笑いのように空気を吐き出して、そのせいで彼の被っているシーツが揺れた。
(泣くの下手だなあ)
そういえば、いつぞやアルバもロスは泣くのが下手だと言っていたか。
大人ほど泣くのが下手だなんて、なんだか不思議だ。
「天にまします我らが神よ、かの者に祝福を与え給え」
願わくば、彼が上手く泣けますように。
彼が一人で泣きませんように。
シーツの下から聞こえる下手な泣き声につられるように、ルキの目頭も熱くなった。
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