aknzy
2024-09-16 00:37:47
16609文字
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いレ

読みにくいところがあるし、勢いで描写足りないところも甘いところもあるけど、こういうのが特に好きな時期だったな


 カタン、とポストに何か軽いものが投函された音が聞こえたのは、昼の一時を少し過ぎた頃のこと。こだわって何度も市場に足を運び、ものによってはコネを使って直送してもらうくらい厳選した素材で作ったスムージー。紙より薄くバターを塗って、今朝採りたての野菜をふんだんに挟んだサンドイッチを机に運んで、椅子について。さぁ昼ごはんを食べようか、と手を合わせたその瞬間だった。
 新聞の契約もしていないし、何か物を買った覚えがあるわけでもない。送りものがあると言われた記憶も無いし、何がしかの通知が届くような時期でもない。そんな我が家に届け物があることを変に感じて、玄関へと向かった。

 真っ白なポストの中に寝てたのは、一通の手紙だった。所々砂に汚れて、縒れていて、蔵にでも落ちてたの? ってくらいボロボロな紙質のもの。日に当たる場所にかなり長いあいだ置かれていたのか、トーストみたいににこんがり焼けてしまっているのも相まって、かなり胡散臭く見えた。捨ててしまおうかとも思ったけれど、今日という日付に俺の元に届くのも何か大切な理由があるような気がして、結局開けることにした。
 部屋に戻って改めてまじまじと観察しても、封筒には住所どころか名前すらも書いておらず、差出人のことなんて欠片も分からなかった。そんな風に俺に対してかなり適当な態度の割に、わざわざ水色の封蝋がご丁寧にしてある。ちぐはぐで不気味な手紙のためにわざわざ道具を買ってきてやるのも億劫だったから、行儀が悪いこと極まりないけれど……しっかり拭き取ってから、バターナイフを使って無理やりこじ開けた。

 中身を取り出すと、想像通り一枚しか手紙は入っていなかった。ただ二つ折りにしてあるだけのそれを取り出して広げる。

…………は、」

 真っ白な便箋の上で楽しそうに踊っている崩れた文字を目にした瞬間、きっと、俺の世界から、その手紙以外の全てが一度消えた。

 息が止まっているからかつむじのあたりがピリピリするし、否応無く手先は震えて止まってくれない。それでも、これ以上この手紙を乱雑に扱うことは、どうにか体が拒んでくれたようで、手紙を机の上に放す。手を離す直前に震えから少しずれてしまったけれど、今の俺にはそれを直せない。
 スムージーを一気に飲み干してから、とても恐ろしくて口に出せないような考えとため息を一緒に霧散させるように、グラスを強く、ダン、と叩きつける。

 一度大きく深呼吸をしてから、急いで家を出る支度を始めた。喉に詰まりかけたスムージーを水道水で流し込んで、サンドイッチにラップをかけて、スマホと財布を尻ポケットに突っ込んで。クローゼットの奥にあったコートを引っ張り出して、あと何か忘れ物、と部屋を見回す。
 あぁ、俺は、この部屋にはもう戻らないかもしれないねぇ──なんて、そうならないよう願うことしか俺にはできないけれど。

 髪を手櫛で整えながら、玄関にある特別製の大きな姿見で全身を眺める。……うん、今日も俺はとびきり綺麗。

「行ってくるねぇ」

 そう、震える声で、誰もいない部屋に向かって一人呟いた。



〜〜ー〜〜




お宝探し、そのいち!!(とちょっとおばかな前座)





「ったく、何も無いじゃん」

ざざ、ざん、ざざざざざっ。
高校生の頃からなにひとつ変わっていない暗い砂浜で俺はぼやいた。ここにはいい思い出もあれど、同じくらい苦い記憶も混ざり込んで、心の奥に引っかかって取れずにいる。だから、足を運ぶには少し……いや、かなり抵抗があった。それが何故、こんな今にも泣き出しそうな曇り空の下をのこのこやって来たかというと。
 ──手紙に書かれていた文字は、今までとこれからの俺の全ての人生の中で、自分のものの次に目にする回数の多い筆跡で書かれたものだった。

 『おれの家の……にきて!!!』
 開いた手紙の上には掠れながらも大きく、少し雑で、クセの強い文字が乗っていた。

 家を出る時に扉の隙間から覗いた空は灰色だった。雨を降らせそうに見えて身につけたチェスターコートの襟を、何とはなしに顎に引き寄せる。ずっとクローゼットに入りっぱなしだったからか、インクの匂いが鼻を掠めるのが不快で、ポケットに収まっている手紙を強引にひきずり出す。時間が経てば平気かと思っていたけど、やっぱり文字が掠れてよく読めなかった。かなり読みにくいそれをくるくる回しながら睨みつける。

「おれのいえの…………ん、なに?」

無いも同然の太陽光に縋って思い切り首を逸らす。家を飛び出す前に本当に砂浜なのか確認することを思いつかなかった自分に「ばかじゃないのぉ」なんて言葉を投げ捨ててから、紙が凹んだ跡があることに気がついた。手紙と反対側に入っていたスマホのライトを付け、後ろ側から照らしてみる。

「おれの、いえ、の………

あいつのよく使っていたシャーペンで書かれたであろう筆跡が透明な色を持って輝き出すさまを、俺はこの顔に乗っかっているあいつ曰く世界一美しい瞳に焼き付けた。生まれて初めて、ってくらい思い切り細めながら。

……ポス、ト?」





よくよく考えてみれば、例えあいつがどんなにバカで鈍感でどうしようもないような人間だったとしても、さすがに「砂浜」という言葉をカタカナで書かないことくらい、賢い俺ならあっという間に分かったはずだった。
けれども、それが出来てないことから考えてみると……今日の俺はどうやら本当にバカを拗らせてしまっているのかもしれない。今だって、真実がわかった途端にまたこうして走り出すし。朝っぱらから泣いて走っている俺とすれ違う人の怪訝な顔すら、ぼけて、歪んで、とてもこの世のものには見えなくなってしまっているのだから。


海からの一本道の突き当たりを左に曲がって、三軒目の脇道を抜けた正面の赤い屋根の家の、斜向かい。
結構長いこと足を運び続けたその普通の家のポストに息を切らしながら手を伸ばす。はたから見たら、一日の始まりに涙を流しながら人様の家に何かしようとしているただの変質者だ。まぁ、俺の顔を見て通報しようと思う人間なんてそうそういやしないだろうけどねぇ。
そんな言い訳ともつかない言葉を心にゴロゴロ並べていると、妙に冷えた指先に数時間前と同じ感覚が突然に戻って来た。隙間から音を立てないようにそっと差し込んでいた腕を蓋に邪魔されながら引き抜いて、青いハサミで封を開ける。

「痛っ……

先ほどの反省を活かして持ってきたそれは、想像以上の切れ味で少し深めに手のひらから薬指にかけて切ってしまった。
血を真っ白な紙につけないように持ち直して、かたかた震える手で四つ折りになったそれを開いていく。

まっさらな便箋の上に踊っていた薄い色の文字は、新たな俺の行先をバカっぽい文章で伝えていた。






お宝探し、そのに!!





十年にも満たない時間の間にすっかり記憶が抜け落ちていて、どこをどう通るのか分からない……なんてことになったらちょっと困るなぁと思って、念の為地図アプリを開いておいた。けれど、結局一度も使うことなく目的地まで無事に辿りつけた。
数十分前に走り抜けたあの暗い海岸よりかはいくらか見慣れた別の海岸に、俺はまた一人で立っていた。今日通って来た他の場所に比べてかなり息がしやすいこの海岸には、滅多に人がいることは無い。
目立ちたがりのあいつの事だから、きっと何か特別目を引くものがあるだろう、とふんで来たはいいものの。防波堤の上から見渡せる限りは、記憶の中の光景と何一つ変わっていない。なんなら、タイムスリップでもしてしまったのかという程、当時の記憶そっくりそのままだった。

「もっかい探せってことぉ?それとも、また俺がなにか見逃してるの……?」

若干の期待を打ち砕かれながら、ポケットに手を突っ込む。あっこれ、デジャヴを感じる。探し回るのってあんたが思ってるより100倍疲れるし、苦しいことなんだけど。
そう悪態をついても言い返してくる人間がいないことにため息を軽くついてから、今一度便箋を広げる。

『次は〜〜おれがよくいた海!!!!』

透かしても、回しても、表を撫ぜても、書いてあることが一つたりとも変わらない。俺がこの手紙の何かを変えることが、どう頑張っても出来そうにない。やっぱりさっきの勘違いは不意をつかれたせいだったのだ。

「なんなのさ、一体」

夢見心地で歩いていると、ざくざくさわさわした音の行進の中に突然不協和音が上ってきた。履きなれた鉛丹のスリッポンでその場の砂をよけると、コンクリートの中に一箇所だけ木枠が嵌め込んであった。なにこれ。
よくよく見ると嵌め込んであったのは木枠ではなく、コンクリートの板に腐りかけの木枠と錆びた鉄の取っ手がくっついた蓋のような何かだった。


『お宝探しの時はさぁ、なんかこう……えっそこに!?みたいな反応が帰ってくる場所に隠すのが楽しいよなぁ!!』


はるか昔の記憶をなぞりながら、屈んで指の背でさらさらの砂を丁寧に払う。身じろぐ度にコートの裾が砂に擦れてさりさり音がする。姦しいやつが一人居ないだけで今までは聞こえなかった音が聞こえてくるようになるのだから、人間なんてものは不思議で仕方がない。

ガコン、と音がして重い蓋が開いてくれたのは数分後のこと。鍵盤ハーモニカと同じくらいの大きさのそれの中には、案の定三通目の手紙が入っていた。コンクリートを切り抜いてそのままのように見える天然収納棚もどきは、どうやら耐水性だけはしっかりしていたようで。砂まみれになりながらも軽く叩けば、寧ろ一枚目よりも綺麗になった。瘡蓋をうっかり剥がしてしまわないように、ゆっくりと鋏をあてがってから引く。

日常生活の中で紙を触ることはあっても、自分に送られて来た手紙を読むことはあまり経験が無い。今の時代に生きている人間なら、大抵の人はきっとそうだろう。
それこそ高校卒業だとか特別な時に貰って、今も大事に保管してある手紙とか。厳しい検閲を逃れ且つ俺の時間が空いている時、目に止まったファンレターを読む__くらいのことはあれど、一日に何通も、しかもこんな特殊な状況で目にする人なんてそうそういないと思う。
そこまで考えて、ふと一つの現実を思い出した。まったくもう、さぁ。

「これ、手紙でもなんでもないじゃん」

手紙の形を模したよく分からない何かが綴ってあるであろうそれ。萎びた向日葵のような色の小さな傷が無数に広がっている封筒に比べて、中の紙切れはまあ随分と綺麗な白色だった。ヒリヒリする爪をコートで二、三回擦ってからそれを曲げ、開く。内側に鉛筆で書かれていたせいで若干薄くなってはいるものの、とてもはっきりとした筆跡で次の行先は記されていた。





お宝探し……そのさん!!!





ひんやりとした薄暗い渡り廊下を歩く。土足で歩いて良いかどうかギリギリの道だけど、先程まで隣を歩いていた人が何も咎めなかったから平気のはず。

遡ること数分前、俺が裏門から校内に入ろうと思い、手をかけたその瞬間。けたたましいアラームが辺り一帯に響き渡った。忘れかけていたけれど、この学院は信じられない程の金持ち一家のお坊ちゃんが在籍しているような場所だった。母が趣味で戦闘機を持っていたり、豪華客船を所持していながら貧乏だ!なんて言ってみたり……
果たして本当に住んでいる世界は同じなの?と疑ってしまうような環境の中で生きてきたお金持ち代表とも言える三人が、全員俺の周りにいた。それにも関わらず、こうなる可能性を失念していたことに舌打ちを漏らす。誤解されるのも面倒なので、早く手紙にあった場所に行きたい気持ちを抑えて突っ立っていた。
すると、足音を隠さずに息せき切って植え込みの影から現れたのは、かつての先輩であり、先生でもあるとても懐かしい人だった。

聞くと、アラームが鳴った時に職員室に居たのはたった二人だったらしい。椚先生と、あともう一人は、愛しい後輩の同ユニットの人間が怠慢教師と呼んでいるのをよく耳にした保健室の元スーパーアイドル。俺が高校生の頃に見た姿は、そいつと同じイメージを抱くものばかりだったけれど。同じクラスだったあの暑苦しいヒーローやこの先生の話を聞いていたり、とある企画のライブ映像を見たりしていると、そうでも無いのかもしれない、と卒業を目前に控えた頃には……やっと思えるようになっていた。
体調の悪いことが多いエセ吸血鬼だけでなく、あのアホも事ある毎にお世話にはなったことを段々と思い出してきて、挨拶だけでもしたい旨を伝えると「お誕生日、おめでとさん」という職員室からの伝言と先生からのお祝いの言葉を貰った。最後に追加で聞いた言葉曰く、別に構いやしないよ。とのことらしい。
分かれ道に突き当たって、職員室に戻ると言う先生に「会えて良かったです。それと、有難うございました。」と声をかけると、慈しむような瞳で頭を軽く撫でられた。
植木に溶けていく背筋のよく伸びた後ろ姿。それを見送る俺の視界に湧いて出てきたのは、やたら声が高くてくねくねしているくせに、とびきり美しい後輩の笑顔だった。



思えば、俺よりも常に高い位置にあった目線は、あの頃よりも随分と柔らかくなっていた。

「真顔がデフォルト、みたいなかんじだったのにね」

そう呟いた言葉は目の前の板に跳ね返ってよく聞こえた。何度も開いて何度も閉じた白い木の扉は、記憶より少しばかり傷が増えていた。どうやら鍵はかかっていなかったらしく、キィと小さい音を引き摺ってすんなり開いた。

とても懐かしい。大切で仕方がなくて、でもそれが恥ずかしくて伝えられなくて。取り零したと気がついた時にはもう遅くて、泣くことすらおいそれと出来やしなかった。もう二度と、会えるだなんて思っていなかった。そう考えることすら俺には憚られた。だって抜け殻を撫で回して喜ぶなんて、そんな趣味は俺には無いから。
でも。もう見向きなんてしてませんって顔をして、ゆうくんへの愛を今までの何倍も膨れ上がらせて表に出してみても、それでも俺の目は、心は常にあいつを探してしまって。それを止めることだけがどうしても出来なくて。
しばらくそんな生活を続けた後に待っていたのは、ぎこちない笑顔のバカだった。秋頃にはずっと戻ってきて欲しかったことをようやく実感して、それを伝えることが出来た。でも本人はそうじゃなかったらしく、二年で止まっていたあいつへの理解は返礼祭を経ることでやっと一段階深くなって。
そこから先は、どこか不安が消えていて。
多分だけど、これから先も永遠に人生の中で一番濃ゆい三年間だったと言える。そもそも一人の人間との出会いと別れと再会を一年毎に経験するなんて滅多に無いことだし、これから先にも本当にあったもんじゃない。

そんな、今なら惜しみなく宝物だったと言える時間の多くを過ごした部屋に一つ大きく深呼吸をしながら足を踏み入れる。

さすがに、あちこちに隠されているお菓子の気配や、ペンや五線紙から漂うインク独特の匂い、常備してあるお茶の微かな香りとかいい匂いのするコスメなんかの存在は感じられなかった。
けれど、何度も捨てる捨てると言っていたコタツやライト、ハンガーラックなんかは俺達が使っていた時でさえ結構古くなっていたにも関わらず、意外にもそのまま置いてあった。それどころか、俺達が学院に残しておいた楽譜専用棚には綺麗に整理整頓された素っ頓狂な題名のままファイルに入っている五線譜が、あいうえお順に並べてあった。
キッズモデル時代にゆうくんやなるくんなんかと一緒にやったお宝探しの記憶が蘇ってきた俺はコートを椅子にかけ、この奇っ怪な一日で初めてちゃんとした捜索を始めた。




「やっと見つけた……!!」

捜索を始めてから一時間。夕日が傾き始め、部屋の中が橙色に濡れ始めた時間になってやっと四枚目の手紙を見つけることが出来た。まさかそんな簡単なところにあるわけがないよねぇ、と手をつけていなかった個人ロッカーの中にあったもんだから、ガッツポーズをしながらも、右手で眉間を押さえてしまった。もし人が入って来たら、部屋が辛うじて明るいことと、俺の顔面がいいこと位しか免罪符にはなってくれないかもねぇ。なんて思いながらため息をつく。円卓に肩まで入り込んだくまくんが一人で震えを噛み殺して笑っている幻覚が見えたから、手紙の押さえとして置いてあった丸い消しゴムをぶん投げてやる。虚しい。

コートを取るついでに椅子に座って、封を切る。外側も、中身も、今日一綺麗な白色の紙に黒い万年筆の筆跡で、こう書いてあった。


「最後はおれとお前ふたりの、二人だけの時間を一番たくさん過ごした場所の!!!あの、あれをあーしたとこにあるから!!お前なら全部わかるだろ?他にもたくさん言いたいことがあるから!!早く来て?世界で一番愛してるよ!!セナ!!」






お宝探しの幸せな最期だ!!







数分前に閉じたばかりのものと同じはずが、矢鱈重そうに見える扉。真っ白なはずのそれは、向こう側から夕焼けを透かしてほんのりと橙色が焼き付いている。ドアノブに手を掛けようと首を折ると来客用のスリッパが見えた。ここ一年近く履き続けてきた、今のこの扉と同じような色の靴は渡り廊下の出口で脱いで来た。

「もうちょっとスリッパって歩きやすくならないわけ?」

変に緊張しているのが馬鹿馬鹿しくなって、そう口に出しながら力を込めてドアを押した。強い西日に視界を奪われ、反射的に目を閉じる。
掃除が行き届いているのか、清潔感があったスタジオ……もとい「セナハウス」とは違い、この空き教室はキラキラと橙色の光を反射しながら舞う、白い無数の埃が空気を満たしていた。
思わず顔を顰め、埃を横断して立て付けの悪い窓を開ける。その途端に生温い弱風が吹き込んできて、不潔ではあるものの幻想的だった空間が現実へと舞い戻ってきた。
ふぅ、と一息ついてから周りを見渡すと、思い出と一箇所だけ違うところがあった。

「ピアノ、こんな窓辺に置いてるんだ」

元々ここは使わなくなっただけの空き教室だった。それを俺達が見つけて、机をよけて使っていただけの場所。重厚に黒光りしているピアノの前へと移動し、鍵盤を覆う蓋を指先で撫でる。型番に目を向けてみるとなんの偶然か、はたまた誰かの差し金か。よくくまくんが音楽室で引いていたピアノだった。

「階層が違うのに、態々ここに運ぶだなんてそんな面倒な真似……一体全体誰がしたんだろうねぇ」

くまくんが我儘を言って、夏の暑い日に四人総出でピアノを教室の廊下側に移動させられた日のことをふと思い出していると、弱かった風が急に強まって薄手のカーテンがばしばし顔に当たった。痛くはないけどくそ邪魔なんですけどぉ!チョ〜うざい!とイライラしながら使いにくい備え付けの布で留めようとしている間に突風はおさまって、何だか悪戦苦闘しているのも馬鹿らしくなってカーテンを放る。こんなことをしている場合じゃないの、俺はさぁ。

鍵が壊れかけていてカコカコ変な音が鳴る窓枠の右側から、きっかり廊下側へと五個。そこからさらに黒板側にタイル十一個分。机が折り重なってその場に立つのも大変だった過去に比べて、今はピアノの下に潜れば辿り着けることが分かってほっとした。ここに置いてあるものは、その殆どが倉庫に入らなかっただけの不良品だ。どれも足が折れてとんがっていたり、錆が付いていたりして、触りたくないと思っていたから。

膝を折って屈み、手を着いてピアノの下に入り込む。数えたとおりの場所に、記憶と寸分違わない木のタイルがあった。一部が四角く削れているそれは、秘密の隠し場所として一時期頻繁に使っていたものだ。

そもそもの発端は、雑談の中で男ならみんなやる(らしい)スパイごっこを俺がしたことない、とあいつに言ったことだったと思う……確かだけど。
学校に習い事に仕事に、と忙殺されていた俺の子ども時代の中で、子どもらしい遊びができる時間はとても限られていた。保湿もマッサージもストレッチも終えた、寝る前の時間とか。朝起きて家を出るまでの暇な時間だとか。他にも移動時間だとかはわりと自由だったけれど、一番楽しかったのは撮影中の待ち時間だった。ゆうくんもいたし。
とはいえ、撮影スタジオの中で出来る遊びなんてたかが知れていた。メイクを終えた後に派手に動き回ることも出来なかったし、もし衣装を破ろうものなら怒られるなんてものじゃない。ゆうくんを守る、その気概だけで大人に意見を物申していたことも結構あったけど、俺がよく出ていた雑誌の編集長はかなり怖かった。

そう、確かそこまで話して、じゃあ秘密の場所作ろ!なんて耳元で叫ばれたんだった。最初はあいつが一人で木をくり抜こうと頑張っていた。けれど、お願いセナセナやってねぇお願い!って、あまりにも煩かったから、俺の微妙に残っていた罪悪感は喧しい好奇心に根負けしてしまった。次の日、彫刻刀が入った鞄と新緑の下を登校して、削り口がささくれ立たないように、後ろで飛び跳ねるバカに怒号を飛ばしながら切り取ってあげた。もともと不自然に隙間が空いて下は空洞になっていたから、

……タイムマシンみたい」

そう興奮しながら話すあいつに、それを言うならタイムカプセルでしょ、と言ったんだよねぇ。

いくら年数があったとはいえ、さすがにこんなところは誰も気が付かなかったのか、細い凹みが変形していることは無かった。指をつっこんで黄昏色に染まった茶色のタイルを引き上げる。

タイルを横によけると、態々同じ大きさの紙にしたのか、それとも切ったのか分からない、空洞にピッタリはまる大きさの真っ白な紙が中に置いてあった。いやまぁ、窓から差し込む夕焼けの色が紙色を蕩けさせているから、完全な白ではないけれど。昼間の自然光に当てたら白く見えるだろう、数え切れないほど見てきた白色によく似ている。

爪を差し込んで手に取って見ると、その上質さがとてもよく分かった。それこそ、楽譜をきちんと清書するくらいの。

まさか、と思って紙を裏返すと。そこには今日一日、散々俺を振り回してくれた字体で


『おれの大大大好きな騎士であり親友であり相棒でありこいびとに捧げるハッピーバースデーのうた!!!!!』


そう書いてあるのが見える。ぎりぎりなんとか見えている。見えてるよね、?
これは俺の、俺にとっての都合の良い幻覚でも夢でもなんでもないんだよね?

たった今、世界で二番目の宝物になった楽譜を、震える手がグシャグシャにしないように落ち着こうとするほど、言葉が溢れだしてくる。

なんで……?なんで、……なんでなんでなんで!?こんな大掛かりなことをしてさぁ!!これを読み終わった俺の後ろに、あんたは居て、笑顔で俺に抱きつきたかったんでしょ!?
分かるよ!!分かるに決まってるでしょずっと隣にいたんだから!それなのに、俺でさえ分かるってのに……!!

輪郭が滲み、肌色に紅が混ざる。
違う、俺が見たいのはこんな景色じゃない。

「あんたに、もう、っ会えないなんて!!」

「信じられるわけないでしょ、そんなこと!よりによって!この俺がっ……!あんたに出会う前になんて戻りたいとぜんっぜん思えやしないこの俺が!!」

本当だったら、俺の目に写っているのは眩しいほどの黄昏色だった。そのはずだったのに。

「信じたくなかったから、だからぁ!もしかしたらこの一年間は悪夢だったのかもしれないってぇ……笑顔でまた俺を呼んでくれるって!そう思いたかったのお!!あんたの、手紙をきっかけにっ……日常に戻れるかもしれないって思ったのに!!」


「信じたくなかった!信じたくなかった!信じたくなんてなかったのぉ!理解したくなかったの……!だってそうしたら本当にいなくなっちゃったみたいでしょお!?ずっとずっと一緒だよ、なんて自分から言っといてなんで勝手に居なくなるの、れ……ぉく、ん」

そう叫んでも誰も返事なんか返してくれやしない。だって俺がいま名前を呼んだ人間は、もうこの広い大宇宙のどこにも居ないから。


嗚咽と叫び声で溢れかえる俺の世界に、蓋を二度と開けたくなかった過去の記憶が蘇ってくる。

〜〜

昨年のクリスマス、夕方七時頃。場所は俺とれおくん二人の家。クリスマスくらいゆっくりしよう、と約束をしていた俺達は、まだ日が高いうちから夕飯の準備を二人でしていた。
一緒に住み始めた頃に比べてかなり料理が上達したれおくんの手際は、見ているだけで楽しかった。ちょっとだけ出てくる、すぐ戻るから待っててセナ。れおくんは笑顔でそう言って家を出た。

それを最後に、俺はれおくんの笑顔を見ていない。

病室で鉢合わせた、れおくんが命を呈して守ったという何も分かっていなさそうな妹ちゃん似の小さな女の子も、葬式で使われた実物より小さな遺影も、目に入れられなかった。見てしまったら最期、本当にれおくんが死んで消えてなくなってしまうような気がしたから。



少し時間が経って、マスコミの連日の追跡も、急に訪れた暇な時間もなくなって、仕事が出来るようになってきた頃、ようやく俺は家に帰った。それまではどうしても、帰る気になんてならなかった。

玄関のドアを開けても一切漂ってこない異臭に、あんな状況でも俺には理性があったらしいことを察して思わず口から笑いが出た。クリスマスから約一ヶ月後、年が明けてからの初笑いだった。

靴を脱いで廊下を抜けると、若干埃が積もっているだけで、他には何も変わりないリビングがそこにあった。
無言でれおくんの使っていたものや写っている写真、載っている雑誌を次々とれおくんの仕事部屋のクローゼットに押し込んでいく。去年の誕生日プレゼントで五線紙と一緒に貰ったチェスターコートも中に入れて、部屋の扉に鍵をかけた。
すっからかんになったペン差しに扉の鍵を入れて、リビングの端っこに置いてあるチェストの上でひっくり返す。家に帰ってからそれまで嫌という程流れていた涙は、その時一滴たりとも零れなかった。



それから数週間後には、メディアに露骨に露出する仕事も再開していた。自分でも自分が信じられないほど心は凪いでいたし、それが傍から見てもよくわかったのだと思う。元Knightsのメンバー達とは前に比べてよく会うようになった。同級生ともよく話すようになった。それに、ゆうくんの態度も何故か軟化した……ように思える。

でも、どんなに悲しい話をバラエティー番組で聞かされようが、身の回りで悲しいことが起きて、それを理解出来ようが涙は一切出なかった。
世界で一番悲しいことが降り掛かってしまった後の俺に自然に涙を流せ、という方が無理な話なの。


そう、そうだ。一番悲しくて苦しいことだから、できることなら一生こないで欲しかった。そう、ずっと願っていた。
だって高校の卒業式でずっと一緒にいようねって約束したから。れおくんが最初に顔を真っ赤にしながら言って、俺がそれに頷いたから。あれは紛れもない告白だった。そうだと思ったからOKしたんだよ、俺は。なのに。
なのになんで俺は今一人で泣いてるの。

「あは、はははっ、ぁ」

引きつった声が勝手に喉から転び出る。
忘れなきゃ。忘れなきゃ、俺は生きていけないから。れおくんが居ないくらいなら最初からいなかったことにでもしないと……二回目だなんて。そんなの。
俺にとって、今のこの世界で生きていくのはあまりにも容易い。そしてそれがとても辛い。


もういっその事何もかも投げ出して、ここで寝ちゃおっか。目を覚ましたら、そこはふかふかのベッドだったりして。もしかしたら、隣でれおくんが幸せそうな顔で寝ているかもしれないし。この一年間は、寝覚めの悪すぎる悪夢の可能性だって、無くはないし。
そんな考えが頭をよぎった瞬間、右側から勢いよく何かに抱きしめられた。

何が起こっているのか分からなくて、何かが飛びついてきた方向を見ようと首を回す。
すると、俺の目に飛び込んで来たのは黄昏色よりも幾分か赤い頭だった。
予想だにしなかった光景に驚いて身じろぐと、腰と首の辺りから三つ声が上がってきた。

「セッちゃんお願いだから死ぬなんて絶対絶対許さないから!!月ぴ〜にめちゃめちゃに怒られちゃうけどそれでもいいの!??」
「泉ちゃん!あなた一体何を考えてるのよ!いくらアタシでも怒るわよォ!?」
「瀬名先輩司は怒りますがよろしいですか!?よろしいですね!Thanks分かりました!!」

三人同時に叫ばれると、意味がわからなくなって、間抜けな声が出た。

……へ?」

「へじゃないよ!!セッちゃんのばか!ばかばかばか!!その手!!何してるの、こんな人が来ないようなところで!!」

そうくまくんが涙まじりに叫んだところで、ようやく俺は自分の手を血が伝っていることに気がついた。いつの間にか瘡蓋が剥がれ、左腕を血で濡らしていた。右腕にも擦り付けてしまっていたようで、両腕が赤茶色に汚れている。この状態じゃあ、流石に勘違いされても仕方ないねぇ。

「かさくん、俺は大丈夫だから、」
「何が大丈夫だとおっしゃるのですか?!この朱桜司、先輩方に比べれば付き合いは短いかもしれないですよ!?けれどそれも数年の誤差でしょうと言えるくらいには長い時間を過ごしたはずです!!それでもこんな状態の瀬名先輩は初めてです、信じられませんし信じません!!」

「いやほんと、ほんとだからさぁ……ポケットにティッシュ入ってるから取ってくれる?傷も小さいし。血、拭きたいだけだからぁ」
「アタシ/俺も拭く!」

「だめ。もし万が一くまくん達にまで血がついちゃったらどうするのぉ……OBが四人集まった場で血塗れ、なんてことになったら困るでしょ?」

そこまで言ってやっと理解したのか、三人ともすごすごと離れて手にティッシュが数枚置かれる。

「じゃあ何を、してたの。こんなところに一人で」

無言で拭っていると、くまくんが上目遣いで聞いてくる。顎で楽譜を置いた方向を指すと、子犬みたいにすすす、と固まって三人が移動する。

「ねぇ泉、ちゃん……っこれ!」

床に置かれたそれが一体何だったのかをいち早く理解したらしいなるくんが、目を涙で滲ませながら勢いよく振り向く。何も言わずに頷くと、顔をくしゃくしゃにして泣き出した。次いでかさくん、最後にくまくんが息を呑む音が、泣き声と涙の落ちる微かなアンサンブルに混じって聞こえてきた。
いつの間にか視界は晴れて、冷静な心が戻ってきていた。いや、まぁ……実際は、こいつらが部屋に入ってきたあたりからなんとなく落ち着けてはいたんだけど。自分よりも上の段階がいると冷静になるっていうのは、どうやら本当らしい。現に今こうして考えることが出来ているし。

俺に宛てられた恋文を泣きながら読んでいる三人を眺めていると、ふとあることに気がついた。

……ねぇ、なんでここにいるの?」

俺の言葉に何を思い出したのか、涙を拭ってから目を見合わせ、息を吸い込むと


「お誕生日おめでとう、セッちゃん/泉ちゃん/瀬名先輩!!」


と、とびきりの笑顔で声を揃えてそう言った。

…………あ、ぁ。ありがとうねぇ」

やっと言えたね、なんて小声で笑い合っている三人がやたらと楽しそうで、嬉しくて。また涙が出てきた。そうだった、二人だけの箱庭からは、とうに抜け出してたね。れおくん。

「確かに、こうしてあぁ居ないんだって。1年経ってから自覚するのも馬鹿らしいけどさ……俺からするとそれは死ぬほど辛いけど……っ。たぁいせつなことを、忘れちゃってたねぇ、俺は」

俺につられて泣きそうな二人に反して、驚いた顔をしたくまくんが、俺の手に何かを握りこませる。

「セッちゃんがなんで泣いていたのか、それは……ま、なんとなくわかるけど。ここ一年近くどこか上の空だったし〜?
でも、今はまだ聞かないでおくよ。色々混乱してるところも、まだあるかもしれないから。だから、話す気分になった時に話してよ……セッちゃんのいっちばん大切な人とはしばらく会えないよ。けどさ?でも、なんかうまく言えないけど。たぶん俺たちが一緒ならきっと大丈夫だから、ね」

震える手を開くと、そこには世界で一番愛おしい筆跡で、

『セナの誕生日サプライズするから、夢ノ咲に来て!!』

そう、書いてあった。俄に前を向くと、なるくんとかさくんも涙目で同じ内容の手紙を、俺に見えるように胸の前で持っていた。

「切手もハンコも何も無いのに、ポストに入ってたのよォ」

「セキュリティは万全なはずの我が家にあったので、変に胸騒ぎがして駆けつけたところ……先輩方と運良く合流出来たのです」

そうしたら瀬名先輩が大変物騒なことになっていたので!!と怒り始めるかさくんと、それを宥める二人の声は、まるでプールの底にいるみたいに遠くからふやけて聞こえていた。

そう、れおくん、俺の誕生日が終わってすぐ、俺の誕生日祝うための準備してたの?
それとも、お化けになってまで俺のこと祝いに来てくれたってことぉ?

……まぁ、どっちでもいいか。


「ありがとうねぇ、れおくん。最高の誕生日プレゼント、たぁくさん貰っちゃった」

三人に抱きつきながら、小さな声で俺はそう呟いた。








お宝探しのそのちょ〜っと後!!




「ほらほらさっさと準備する!!サボるな!!」

「え〜〜セッちゃんの、お〜に〜」

「馬鹿なこと言ってないで早くしなぁ!!」

新緑が窓から覗く夢ノ咲学院の一室。木の葉のさわさわと擦れる音が、眠気を誘う陽気の中。ピアノの椅子にもたれ掛かるくまくんに、俺は怒号を投げている。こんなことしてる場合じゃないんだけど?!



俺の誕生日(『勘違いの血と涙まみれ事件』なんて、その話が出る度にくまくんは茶化す)から一ヶ月とちょっと経った頃。れおくんの一周忌で集まった、クリスマスの夜。
いなくなったあとも、理屈はさっぱり分からないけれど、ああして祝ってくれた。その事実があるから、もうそれだけで十分だ。だから、今度はKnightsの四人でれおくんの誕生日パーティをしようか……という話になった。

それでも、気になるものは気になって、流すことの出来ないのが人間だ。結局あの手紙はなんだったのか。どうして届けられていたのか。俺たちは色々調べたり、蓮巳や三毛縞、日々樹に深海などなど根回しを出来そうなやつや、そっち系に詳しそうな顔馴染みに話を聞いてみた。けれどその結果は、全員口を揃えて「分からない」と報告し合うものだった。
正直なところ、落ち着いて考えた時に少し悪寒がしなくもなかったけれど……れおくんが遺してくれたものだと思うと、蔑ろにすることはとても出来なかった。

だから、俺たちの誕生日の時はあの空き教室の秘密の隠し場所にあった曲を、少しずつアレンジして歌い合うことにした。
何らかの形でずうっと歌い続けていたいという全員の思いと、俺に、瀬名泉に送られたものだ、という独占欲がお互いに譲歩し合った結果のこと。だから、欲を言えば俺だけで愛でていたかった、なんて思ってはいない。決して。……絶対。
だって、れおくんの行動も、それによって引き起こされる結果も、俺の思い通りになんていくわけないの。これから先も、一生ねぇ。

「お待たせしました!先輩方!」

「ごめんなさいねぇ。思っていたより渋滞が酷くって」

机を教室の端に寄せながらそんな物思いに耽けっていると、素はやかましい後輩がこれまた存在感の強い後輩と一緒に入ってきた。
二人ともその両手に荷物を沢山抱えており、無事に買い出しが終わったことにほっとした。だって時間が無い。貸切の期限はあと一時間先まで迫っていた。


俺たちがまだ学生だった頃に起きた、新進気鋭の革命児達が大衆の意識を改革するお話。それは意外にも地を現在と続けている。退学も停学もうんと減り、休日にレッスンルームを借りる意欲的な生徒も沢山増えた。
そう、今の夢ノ咲学院には休日だろうがお構いなしに、生徒が校舎中に溢れかえっている。
いや、全然いいことなんだけどさぁ。

今年までは誰かの家だったりしたけど、来年からはOB権限で学院の一室を借りて誕生日会しよう!なんて子どもじみた約束はどこへやら。
本来なら、れおくんの誕生日である五月五日はこどもの日であり、休日なので校舎内はすっからかんとは言わずとも、ある程度は空いているはず……そう考えた俺たちの怠慢のおかげで、なるくんとかさくん、どちらの誕生日も夢ノ咲学院で祝うことは出来なかった。

あの空き教室はやはりレッスンルームにする予定だったらしい。それなら、あの教室に関しては仕方がない。ならばそんなに頻繁に使いやしないセナハウス、もといスタジオなら空いているだろう……そう思っていたけれど。そこまでも予約はまるっと一日埋まっていた。
しかもかさくんのときはなるくんの時よりも数日早めに連絡したにも関わらず、だ。
さすがに三回も同じことを繰り返すのは嫌だと思った俺は、くまくんの手からスマホをぶん取りその場で五月五日の予約をとった。

とはいえ、基本的に学生が夢に向かって突き進むための場所だから、時間を控えめにとったんだけど。それが間違いだった。
そのおかげで今、かつてのライブ前のKnightsを彷彿とさせる状況に陥っている。


時間が、無い。


「ほらほらくまくんその椅子!邪魔だからどかしてってば!!」

「え〜。せっかく体温が馴染んでいーい感じになってきた所なのに?セッちゃんは、俺と椅子の関係を引き裂くって言うの?」

「うるっっっさ!!れおくんの誕生日祝わなくて良いわけぇ!?」

「そうですよ凛月先輩!例え瀬名先輩の方が声量的にはうるさくて顔がdemonに見えたとて」「か〜さくん?」

今保てる精一杯の笑顔でかさくんの顔を覗き込んでやると、何を察したのか若干顔を青くしながら、くまくんの剥がし作業に腰を下げた。

……さあさあ凛月先輩!立ってください!」
「あうあぅ、首のところは引っ張んないでよ、スーちゃん……でも確かに、月ぴ〜の誕生日はちゃんと祝いたいかな」

「あら、じゃあ凛月ちゃん。料理をお皿に並べるのを手伝ってくれないかしら?レオくんの好きなものを〜って買っていたら、すごい量になっちゃったのよォ」

「いいよ〜。それくらいならおやすい御用〜」

そう言って椅子からやっと身を剥がそうとしたくまくんが、何かにつまづいたようにその場に倒れ込んだ。

「ちょっとぉ!?何してるの!!」
「うわ、びっくりした」
「んもう!それはこっちの台詞よォ!」

心配そうな顔のかさくんが、抱え起こそうとしゃがんだその時。くまくんの足元のタイルが一つ不自然にズレていることに気がついた。

「どうされたのですか、瀬名先輩」

「んん、ちょっとねぇ……二人とも足退けてくれる?」

近くで見るとそれがなんなのかハッキリと分かった。とはいえ、直ぐに開いてもし汚物なんかが目に入ったら嫌だと思い記憶を引っ張り出す。そう言えば……確か他にも「秘密の隠し場所」はあった気がする。

「でもこんな、教室のド真ん中だったっけぇ?」

俺の頭に顎を乗せて覗き込んでいたくまくんが、右側から不思議そうに眺めているなるくんとの間に割り込んで、手を伸ばす。

「い〜じゃん、開けちゃえば?」

ギコ、くまくんが持った方と反対側の縁が引っかかって軽く音を鳴らす。

中に入っていたのは見覚えのある紙。左側からかさくんがそれを拾い上げると、出てきたのはやはり楽譜だった。こたつの枠組みに乗せようと準備していたクロスを床に敷いて、全員が見えるように三組の五線紙を並べる。

『優しくてお月様みたいな愛する策士であり友だちに捧げるハッピーバースデーー!!!のうた!!』

『いつも綺麗でかわいいみんなのお姉ちゃんかつおれたちの後輩な大好きな姫騎士に捧げるハッピーバースデーのうた!!!』

『真っ直ぐでまじめで一生懸命な目がきらきらの愛しい後輩に捧げるハッピーバースデーのうた!!!!!』


真っ白な紙に踊る音符と筆跡を認識できたその時。懐かしい香りのする優しい風が俺たちを通り抜けて陽だまりの元へと消えて行った。

あの日からずっと待ち望んでいた、世界で一番愛しい歌声が光の中で響いていた。