それは、初めて仕事を共にするクライアントとの会議の帰りだったり、あまり良い印象を持たなかったミュージシャンと同じコンサートの後だったり、ばらばらに起きる。
フィレンツェの人々の幸せな灯りで照らされる道から、三本ほど外れて、ハサミの音が聞こえそうな青白くも暖かい月光の中をまたちょっと歩く。突き当たりを左に曲がって三軒目、階段を登ったところを左に五部屋。こっちで暮らすうちに無くさなくなった鍵を、左ポケットの奥から引っ張り出して勢いよく開ける。
「ただいま〜!! セナ!!」
かなり大きな声で言ったのに返事が返ってこない。でもセナがいつも寝る時間にはまだ早すぎるし、今朝体調が悪そうな素振りも特になかったから、いないのかな? と思ったけど……靴紐を解いて顔を上げると、ドアの隙間から光の糸が見えるから、きっとそんなこともない。音を立てないように力を込めて鍵を閉めて、忍者に教えてもらった忍び足を思い出しながらそろそろとドアを開ける。
おれがいない間に買ったらしい橙色の照明が、モノトーン調の部屋の中を淡く染めている。くるりとあたりを見回すと、窓際のソファの上にちょこんと乗っている鈍い白銀が、窓の隙間から流れ込む夜風にあたってふわふわ揺れている。鞄を下ろしてゆっくりと回り込む。ゆっくりと瞼が上がって、あ、目があったと思った瞬間、セナのふわふわな髪の感触が頭の横にあった。……びっくりした。鞄を下ろしておいて良かった。風下側に抱き込まれたことで一瞬でセナの匂いに包まれる。同じ香水をつけて同じご飯を食べて同じ布団で寝ているはずなのに、すぐそばからする匂いは、まだおれと同じにはならない。
「……まだ俺と同じじゃないのぉ」
びっくりした。短い時間にこんなびっくりしたの、すごく久しぶりだ。
「匂いなんてものまですっかり同じになったりしないし寧ろなって欲しくないけど、でも最近よく似てきたよね」
リッツにそんなことを言われたばっかりなのを思い出した。え〜、そう見えるか? って濁してその場を後にしたけど。世界中の真っ赤なフルーツを集めて、たくさん時間をかけて煮詰めたみたいな目をゆったり狭めて笑ってたから、多分本当は少し嬉しかったのバレてるよなぁ。
なんてぼ〜っと考えていると、ふとセナが身じろいだ。れおくんをどこにも行かせたくない、聞いたことがないくらい小さい声で言って、かすかに震える腕で抱き締められる。セナがそうしたいならいいよ、と背に手を回しながら言うと、真冬の海と夏の青空を透明な氷に流し込んだような、ぐちゃぐちゃな瞳で睨みつけられてしまう。
分かってる。セナがなんで今こんなふうになっちゃってるのかなんて、おれが一番分かっている。おれ自身は結構、前を向いて進めるようになったけれど、セナはまだきっとあの頃のことがとてもつよく残っちゃってる。それが悪いことなのかどうかは、まだちょっとおれにはよくわかんない。でも、きっとこのままでい続けていいことが起きる気は、そんなにしないから。ちょっとずつ前に、一緒に進んで行けたらいい。
「そんな悲しそうな顔するなよなぁ、セナぁ」
愛しているよ、おれだけの臆病者。
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