たぶん、とてもよく眠っている。お昼寝なんて子供の頃に卒業したつもりだったんだけどな、なんて言い訳はどこにも届かない。窓も時計もないからどれだけ眠っているかはわからないけれども、起きた時の体の重さが、長く長く眠った時のそれだった。
目が覚めた時、エメトセルクはいなかった。ということは、多分彼は今座にあるものとしての職務を全うしているところということだ。
何の変哲もない、見慣れてしまった天井をぼんやりと眺めて、そろそろ起きようかな、と一度瞬きをした。くぁ、と欠伸をしながら体を起こし、伸びとストレッチをして筋肉をほぐしてく。手足、背中、お腹、足、腰、首周り、と丁寧に丁寧にほぐして、外での鍛錬ができない分を補っているつもりだが、効果があるのかはわからない。けれども、何かあった時に体が動かないのでは話にならない。アゼムはいつまでもこの部屋にいるつもりはないのだ。きっと、いられなくなる。たぶん、それはそんなに遠くない話だ。
ベッドから立ち上がり、スリッパに足を差し込む。エメトセルクが来るまで、時間を潰さなくてはいけない。外だったら御用聞きをして回ったり、気になるものを見つけに走ったりすることもあるが、アゼムとて一人でのんびりと部屋で過ごすことだってあるのだ。今、それを強いられている状態ではあるが、とてつもない苦という訳ではない。
ぺたぺたと歩いてすぐの棚から、いつの間にか新しく入れ替わっている本を手に取って、ソファーに腰を下ろして開いてみる。うん、私が好きそうな内容だ。彼は、アゼムのことをどこまでもよく知っている。だからやっぱり、この時間は苦にはならない。
しばらく紙を捲る乾いた音だけが響いていた。新しい魔法構成について考えを巡らせながら読み込んで、しばらく。ふとエーテルの流れを感じて顔を上げれば、ちょうど形になったエメトセルクと目が合う。少し驚いた顔をして、アゼム、とエメトセルクが呼んだ。
「おはよう。おかえり」
「ただいま」
少し、エメトセルクが何かを言い淀む。私はお利口な君の親友のアゼムですよ、という顔を作り、アゼムは首を傾げて言葉を待った。
「…………体調は」
「えー、普通かな。お腹はちょっと空いてる」
「ちょうど食事を買ってきたんだ。お前と食べられたら、と」
これは多分何度か食事の機会をふいにしてるな、と思いながらもありがとう、と笑う。エメトセルクはアゼムの横に座ると、気遣わしげにアゼムの顔を覗き込んだ。その目の焦点が僅かにずれて、エーテルを視られる。アゼムの予想通りならば、きっとエメトセルクにとって好ましくないものが見られるだろう。
それを知らんぷりして、今日のご飯は何、とエメトセルクの方に少し身を乗り出す。瞬きをしてアゼムと目を合わせ、エメトセルクは少し目を細めながら口を開いた。
「グラタンスープを買ってきた。好きだろう?」
「最高〜! さすがエメトセルク!」
明るく笑って見せれば、エメトセルクは少しだけ安堵を滲ませる。エメトセルクはテーブルに食事を用意すると、いつものようにアゼムを引き寄せて抱え込む。スプーンで掬って、ふう、と少し冷まして。あー、と口を開けて大人しく待つアゼムにそれを運び、ゆっくり咀嚼して飲み込むのをじぃ、と見つめている。
食事にエメトセルクのエーテルが込められているのは、エーテル視できなくてもわかる。それが活性のエーテルであることも理解している。体の奥にじんわりと広がっていくのを感じながら、おいしい、とアゼムは笑った。エメトセルクの焦点が一瞬揺らいで、すぐにアゼムを見つめてそうか、とほんのりと口元を緩める。
アゼムが自身で自覚しているのだから、きっとエメトセルクは尚のことよく見えているのだろう。アゼムを構成するエーテルが、じわじわとその活動を穏やかに、緩やかに、休止しようとしているのを。それはまるで、冬眠する生き物のように、穏やかに穏やかに、凪ぎつつあった。
エメトセルクとは愛情深い生き物だ。照れ屋だから普段それを表に出さなくても、一番近しい友人であるアゼムは、それをたっぷりと享受してきた。溜息に嫌味に憎まれ口で包み込まれた、甘い甘いシロップのような友愛をたくさん味わって、それでも、それはどこまでも友愛の延長でしかないのだと、何度だって思い知らされる。
ほら、今だって。アゼムと同じスプーンを使って一つの食事を分け合っても、エメトセルクは表情一つ変えない。こんなふうに熱が混じり合うほど触れ合ってそばにいるのに、そこに性愛やら欲やらが混じることはなく、ただ美しく甘く、友人への底なしの愛情漬けにされ、アゼムだけが心の奥底にいまだに捨てきれない愚かな感情を抱えている。
この突然やってきた甘い甘い檻の中で、この感情はどう転がってしまうのだろうか。アゼムの願いは、結局たった一つだ。側にいたい。それだけだ。
それだけを、願っている。
グラタンを食べ終え、瑞々しいクランベリーを口に運ばれる。時々エメトセルクの指先がアゼムの唇に触れて、その指先でそのままエメトセルクは自分の口へもクランベリーを運ぶ。そんな仕草にこんなにドキドキしているのに、この人はどう足掻いたってそこに感情を生むことがない。
「うまいか?」
「ん、おいしい。酸味のある果物、好きなんだよなぁ」
「知っている」
「さっすが私の親友!」
にこぉ、と笑うアゼムにエメトセルクは緩んでいた口元をほんの少し歪める。眉間の皺が少し深くなった。なんだ、その顔は。褒めてるのに。
「お前は、」
「なに」
「…………いや」
なんだよぉ、と開いた口に、またクランベリーを入れられる。硬い指先が唇に触れて、離れて。ぷつり、と口の中で甘酸っぱさが弾けた。きっと、次からクランベリーを食べるたびに、アゼムはこの指先を思い出してしまう。そう言ったものがたくさんあって、だからきっとこの恋を捨てられないんだろうな、と思う。
きっとこの恋をすっかり綺麗に消し去るには、出会いからやり直すしか無いのだろう。全部全部無かったことにして、恋を期待ように気をつけて。
そんなことを考え込んでいると、じわりと思考が鈍くぼやけていくのを感じる。ありゃ、もう、か。口にしているのは目が覚めるようなさっぱりとした物なのだけれども、満腹感と好きな人の体温はどうしてもふつらふつらと安心感と眠気を誘う。
「まだ寝るのか」
ほんの少し瞬きが多くなったぐらいだというのに、エメトセルクは目敏く気付いてしまう。よく見てるな。この人、本当に友人が好きである。
「んー……大丈夫。まだ君の話をあまり聞けてないし」
もう少し起きていたい、と呟いたというのに、エメトセルクはアゼムの体温を確かめるように頸に少し触れる。そのくすぐったさに少し首をすくめる。彼の手が温かい。アゼムの体温が、少し下がってる証拠だ。
エメトセルクの表情が揺れている。迷っているなあ、と思いながら、アゼムは少しだけエメトセルクに擦り寄った。彼はくっつくのが好きだから、これぐらいは多分、友情の範囲である。
「ほら、あったかくしてくれたらきっと目が覚めるかも」
「……無理に、起きる必要はないだろう」
「えー」
そう言いながらも、エメトセルクはアゼムの体に腕を回してくれる。控えめに抱き寄せられて、自分より高い体温に包まれる感覚に、アゼムは楽しそうに笑った。
「ねえ、何か話してよ。君の声を聞きながら寝たい」
「寝るならベッドに行け」
「眠いけど、少しでも起きていたいからベッドは嫌だ」
「我儘な奴め」
「ふふーん、でも君は親友が大好きだからね、甘やかしてくれるってちゃんと知ってるよ!」
ほんの少し、抱き締めてくれる腕の力が強くなった。ほらね。やっぱり。彼は親友が大好きなのだ。大丈夫、私はちゃんとわかってる。目を閉じて体温を全部で感じながら、アゼムは小さく息を吐いた。とくり、とくり、と鼓動が聞こえる。エメトセルクの心音と、それよりもずっとゆっくりなアゼム心の心音が混ざって、案外そのアンバランスさが嫌いじゃない。
「……お前こそ、随分と親友のことを愛しているようだな」
どこか苦さすら滲む声に、あれ、とアゼムは目を開ける。顔を上げようとして、抱き込む手がアゼムの後頭部をゆるりと押さえ込んだ。
「ここに、閉じ込められて、受け入れて。お前は今、私に何をされても助けを呼べないんだぞ」
ぱちん、と瞬きをする。エメトセルクがアゼムを緩やかに閉じ込めている事について言及するのは、初めてだった。これはもしかして、いつもより仄暗さが解けているのかもしれない。
「まあ、迂闊なことを言っちゃった自覚はあるからね。それに、頑張れば召喚術ぐらいは使えるんじゃないかなあって思ってるよ」
「……けれど、お前は使わなかった」
もう一段階、抱え込む力が強くなった。エメトセルクの顔が見たい。その、星の瞳に浮かぶ色が見たかった。けれども後頭部に回った手のひらの力は強く、指先がすりすりと地肌を撫でた。
「その、信頼が憎い」
「え?」
憎い。憎い?
そんな感情を抱かれているなんて考えたこともなかった。けれども、言葉と裏腹に、アゼムを抱え込む体温はけしてアゼムを逃さない、とばかりにまた少し強くなる。
その、ほんの少し重たい腕が。どうしてだが、泣きそうなぐらい優しいと思ってしまう。
「…………お前は、私がいなくても、生きていける」
「そんなことないよ。いつだってどうしようもなくなって君を喚んでるじゃないか」
「どうしようもなくなる前に喚べ。……だが、出会わなくたって良かったと思える程度には、お前は私から離れても生きていけるのだろう」
その言葉の意味合いを測りかねて、アゼムは口を噤んだ。アゼムの鼓動が、ゆっくり薙いでいく。上から降り注ぐ声が、どうしようもなく心地よくて、ちゃんと話していたいのに、聴いていたいのに。思考がじんわりと滲んでいく。
「私は、お前無しでは生きていけないというのに」
エメトセルク。君ってば、本当に親友が大好きなんだなあ。
そう、言ってあげたいのに。肯定してあげたいのに。
酷く、眠たい。
「…………———」
名前を、呼ばれている。
「はー、です」
もっと呼んでほしいな。できれば、夢にまで会いに来て欲しい。
でも、きっと。
夢も見ないほど、深く深く、眠ってしまうのだろう。
「ごめ、ん……おやすみ…………」
瞼が重く、持ち上がらない。エメトセルクの体温が心地よくて、きつく抱き締めてくれる腕が嬉しくて、後頭部を撫でる指先が愛おしくて。
「———、私は、」
ねえ、ハーデス。
君はおやすみの代わりに、何を言ったの?
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