日が沈みかけてきたせいか、五月とはいえ気温が下がれば少し肌寒い。隣でくしゃみをした人の肩に上着をかければ嬉しそうに袖を通した。繋ぎなおした手の間を上着が邪魔をする。炎上するとかなんとか言っていたのがずいぶんと懐かしくもあり、少し寂しい。安室透がポアロに店員として戻ればまた見られるのだろうが、そんな日はもう来ない。
「楽しい時間はあっという間ですね。まだまだ乗り倒したいのに」
平日のせいか空いている遊園地を楽しんだ梓さんは、まだまだ遊び足りないらしい。この絶妙な疲労感は以前こういった場所に来たときは大違いだ。ジェットコースターに始まりバイキング、メリーゴーランド、コーヒーカップ、それからまた別のジェットコースター。連れられるまま並び乗った一日だったはずだが。
「え、梓さんまだ乗るんですか」
「まだまだ行きますよ! と言いたいんですが、そろそろ暗くなってきたので次が最後です」
あからさまに肩を落とす様子が子供のようなのに、次が最後だと言い切れる相反した理性に、庇護すべき少女の歳ではないと思わされた。六年前のあいつらなら、暗くなるどころか閉園まで遊び倒しただろう。男五人で来て何が楽しいんだよ、とか言いながら。
観覧車の周囲で大乱闘を繰り広げたときからは想像できないほどの暢気さに、笑いそうになる口元を手で隠した。
「最後、どれがいいですか?」
「うーん……ジェットコースターもいいし、コーヒーカップも捨てがたい」
人差し指を揺らしながら歩く梓さんの髪が腕に当たって擽ったい。アトラクションに乗るときは髪をまとめるのが榎本流です、とか言って結んでいた痕が耳の高さあたりにくっきりと残っている。項はもう見えない。
宛てもなく歩いているようで、一向に立ち止まる気配はない。時折ちらりと梓さんの方を、そして僕を見てそっと視線を逸らす人がいる。梓さんを先に見るあたり黒の組織などの犯罪者ではなく、単に目移りのしやすい男だろう。妙齢の女性がワンピースの上に男性物のジャケットを着て、持ち主らしき男の隣を歩いている。ごく普通のカップルがデートしているように見えるはずだが、それだけじゃ牽制にならないのだろうか。
「元気ですねえ」
「あ、透さんが乗りたいやつとかないですか? ずっと付き合わせちゃったから」
「僕ですか?」
つないだ手の甲が指先で遊ばれている。名案と言いたげな顔をしながら順番に力を入れられたり、流れるBGMのリズムが刻まれたりと楽しそうだ。困っているのは僕だけで、残念ながらどこかの高校生探偵のように見せたいものもなければ、梓さんのように乗りたいものがあるわけでもない。そもそもここだって梓さんが興味を持っていたから来ただけで、僕の意思は梓さんに喜んでもらいたいの一つだけ。
潜入捜査の一環というには到底無理のある関係性、それだけが僕の感情の全て。
「特にこれ、っていうのは」
「えー」
譲られたように感じたのか、マップを見ながらああでもないこうでもないと一人呟いている。肩を抱き寄せて外灯の下に誘導する間も広げたマップに釘付けで、ふらふらと危なっかしい。公道で道案内を任せないようにしようと心に誓った。
どれなら透さんも楽しめるかな、などと言いながらも視線の動きから三か所、いや、二か所までには絞れたらしい。そんなに悩むなら両方行けばよいと提案したくなるが、真剣に悩む梓さんには言えなかった。カフェのメニューで決められない時と違って、半分ずつアトラクションに乗るわけにもいかないので。それに、もし仮に採用されて、あとで感想言い合いましょうね、とか言われた日には目も当てられない。
「じゃあ、透さんが勝ったら観覧車、私が勝ったらジェットコースターにしましょ」
僕の心配など知るわけもない梓さんは最初はグー、などと子供のような掛け声を続ける。平等に運に任せようとする梓さんの意図を邪魔するように、梓さんはじゃんけんでパーを出す癖があったはずだと記憶野が主張する。どちらが勝とうと正直どうでもいい。梓さんが隣で笑ってくれるのならば。
じゃんけんぽん、梓さんの放った七文字であっという間に行き先が決まった。梓さんはグーで僕がパー。
「僕の勝ち……ということは」
「観覧車に決まり! デートで夕暮れの観覧車かあ」
嬉しそうな声に、観覧車はちょっと、なんて今更水は差せなかった。膨大な損害を出したこと、赤井とやり合ったこと、そもそもキュラソーの意図が不明なまま死なせたこと。どれも梓さんとは関係ない出来事とはいえ、もし万が一乗車中に事件でも起きたら。僕は、梓さんを守ることだけを優先出来るだろうか。
わからなかった。思い出を抱えるだけでは生きていけないからと言って無理やり手を取ったのに。
「透さん?」
サイズの合わないジャケットを羽織って、首をかしげている。心配はしても僕がひいた線を無理やり超えては来ないこの人は、距離を取りながらも心配するだけ。ポアロにいた時からそれだけは変わらない。それが都合よくもあり、寂しくもあった。全てこちらの都合だというのにわがままな話だ。
誤魔化すようにマップを覗き込む。 観覧車の写真の下には、相席を行っておりませんのでカップルやご家族でお楽しみいただけます、などという説明がついていた。デートで夕暮れの観覧車、梓さんの嬉しそうな声が今更脳内を支配する。遊園地デートは観覧車でキスするのはベタだとか、それがいいんだとか学生の時に言っていたヤツらを思い出した。喜んでいたのはそういうことか。最近は炎上と言わずに大人しく、照れながら聞いている梓さんもロマンチストなところはあったらしい。
「やっぱり憧れますか?」
「うーん、どうだろ。私は透さんといられればいいから」
からかったはずが、あまりにも純真な笑顔に目を奪われた。依頼だ何だと理由を付けて度々家を空ける人に愛想を尽かさず、一緒にいられればいいと言う。日本中の誰に聞いても出来た人だというだろう。
思い出してみれば、僕がポアロに、梓さんのもとに走って行ったのだって同じ理由だったはずだ。共に時を刻んでいきたい、と。
梓さんとの思い出だけでは生きていけなかった僕の弱さを隠して。
「ええ、僕もです。梓さんといるだけで」
「……恥ずかしくなってきました」
「そうですか?」
覗き込むとすっかり真っ赤で、ポアロでからかっていた時には絶対に見られなかった表情。梓さんの中でも厄介ごとを持ち込む同僚から、気を許した恋人に変わっていると改めて感じさせられた。心なしか先ほどより繋いだ手に力がこめられている。梓さんなりの些細な抗議。
これを可愛らしいと言わずしてなんと表すのか。
「い、行きますよ!」
「梓さんは可愛いなあ」
走るように歩き始めた手に引っ張られる。照れ隠しなのはわかっていても、楽しくて仕方がないようにしか見えない。
「だから外でそういうことは」
「炎上するって?」
「知ってるくせに」
わざとらしくそっぽを向かれても、以前のような心の底から嫌そうな顔をしていないのはわかっていた。ポアロで働いていた時のような薄っぺらいからかう言葉ではないと、思わず零れ落ちた感情だと通い詰めるうちに理解を得られている。
正しくは安室透ではなく降谷零なのだが、それはまた別の話だ。
「いいじゃないですか、僕はもうポアロの店員じゃないんですし」
たどり着いた観覧車の前には二組のカップルがゴンドラを待っていた。平日のせいか、夕暮れ時の観覧車はロマンチックだなんだいう割に人は少ない。係り員以外の四人がそれぞれの世界に浸っているのをいいことに、梓さんの耳元でささやく。
「それに、僕たち来月結婚するんですよ」
「それ、絶対にポアロで言わないでください」
僕と梓さんが、という言葉は梓さんのそれはもう低い声に打ち消された。安室が存在しないことに気がつかれたような錯覚すら覚える声。だって安室さんは本当はいないんだから、などと続けられそうで。
気を付けます、などと反省の色が見えない笑顔で言う。こういう時安室なら笑うだろうから。
「まだ刺されたくない……。透さんのオムライス、ミートボールに」
「次の方どうぞ」
梓さんが人生への未練を指折り数えている中、事情を知るわけもない係員が早く乗れと急かす。安室が作った食べ物ばかり上がるのは、食い意地を張っているだけなのか照れ隠しなのかよくわからない。せめて何か、結婚式でも僕のことをあげてくれないかと思ってしまうあたりがおかしい。
例え言ってくれたとしても、それは降谷零のことではないのに。
「お客様?」
「あ、はーい!」
先ほどまでのことなど忘れたかのように、また手をひかれる。公安としての捜査や黒の組織の任務に疲れ果てて帰宅した時も何一つ変わらずに、なんてことのない日常へと引っ張ってくれるこの手が、どうしようもなく愛おしい。いつかこの手から失われる日が来るとわかっていても、手離し難く縋りついてしまいそうだと想像できるほど。
向かい合わせに座るなり、大きな音と共に観覧車の扉が閉じられた。手が繋がれたまま、ゆっくりとゴンドラは地上から離れていく。
「ふふ」
たいして広くもないゴンドラに二人きり、何がおかしいのかさっぱりわからない。首をかしげると、梓さんは続けた。
「独り占め」
子供のような言葉が、ポアロでは絶対に聞かなかったような声音で。たった五文字が甘く溶けるように鼓膜を揺らした。酔っぱらっているように笑う人の方に身を乗り出す。もはやどちらがこの空間に酔っているのかもうわからない。ゼロ距離の中、空いた手で梓さんの視界を覆う。上手く安室のふりをできない顔を見られたくはなかった。徐々に力の抜けていく指先に、離れるのが惜しいと言わんばかりの吐息。ゴンドラのガラス越しのオレンジ色の光が目に刺さる。右手をどけると、全身に浴びて目を瞑る人が酷く眩しく見えた。
「……透さん?」
ゆっくりと梓さんの目が開く。他の何でもない安室透を見つめる瞳は、決して僕を視界にすら入れてくれない。こんなにも近くにいるのに手が届かないほど遠い。
「夕焼け、きれいですよ」
泣きそうな自我をポーカーフェイスの裏に隠す。梓さんが僕の名前を呼ぶ日も、愛してくれる日も来ない。そう理解してここまで来たはずなのに、時折耐えられず言葉に出てしまいそうになる。隣にいられること自体が無理に無理を重ねた歪な状態だというのに。
「わあ、本当だ」
向き合っていたはずが、くるりと背を向けられた。手を繋いだままの人は、一人嬉しそうに外の景色を楽しんでいる。つられるように隣へ座りこむと、いつか見下ろした東都がオレンジ一色に染まっていた。
「きれい。写真撮っちゃおう」
「あとで送ってください」
「もちろん!」
言うなり繋がれていた手が離されて、真剣な面持ちでシャッターを切り始めた。聞き慣れたスマホの音が不定期に鳴る。どうやら熟考しながら撮っているらしい。写真に写れないなら風景写真だけでも、と言って梓さんが共有フォルダを作ったのはいつだったっけ。たしかポアロに足しげく通って、一緒に出掛けてくれるようになったあたりだ。思い出の写真は絶対人が写っていなきゃいけないってルールはないんですよ、なんて言っていたっけ。
今じゃすっかり目的はどこかへ行って、写真を撮るのが楽しくなったらしいけど。その様子を写真に収めようとして、手が止まった。万が一安室透のスマホに女性の写真が保存されているなど露見したら最後、どうなるかぐらい容易く想像がついた。仕事柄最悪の想定をしてしまうのは悪い癖だが役にはたつ。梓さんの隣にいると、潜入捜査中であることを忘れてただの男になってしまいそうだから。
梓さんの画角に入り込まないよう浅く座りなおした。一度手が映り込んでしまって、消すか二人で悩んだりもしたっけ。肖像権がとか言い始める梓さんに、手なら、と条件を緩めたはずだ。今のところそれ以降梓さんの写真に僕は登場していないけど。
手で視界を四角く切り取った中にいるこの姿を、表情を脳裏に焼き付けようと見つめる。いつだって思い出せるように。
「えへへ」
満足のいく写真が撮れたのか、気前よくポーズをとってくれた。真剣な横顔もいいけれど、楽しげに笑っている方が梓さんらしい。シャッター音を口で言う度に表情が変わる。ピースサインに指ハート、スマホで顔を隠してみたり、何とも言えないウィンクだったり。五回目でついにネタが尽きたのか、降参と両手をあげられた。
「撮りすぎです」
「梓さんが可愛かったので」
もう、と頬を膨らませながらも嬉しそうなのは目元からよくわかった。
「私が撮ったのはあとで見せますね。……もう降りちゃうのが残念なぐらい綺麗でした」
「もう一周しますか?」
頂上をとうに過ぎて随分と地上が近くなっていた。この時間が終わるのが惜しいのは僕だけではないらしい。暗くなるから乗れるのはどれか一つ、と言っていたのを忘れていてくれと心の中で祈る。梓さんにとってはこれからも続く人生の中の一ページに過ぎないとしても、安室透にとってはきっと人生に一度きり。
あの事件とはまた別の意味で忘れられそうにないこの日を、少しでも長く味わっていたかった。
「うーん。暗くなっちゃうし、やめておきます。この寂しさも、思い出の一つだから」
「そうですね。また来ましょう」
嘘でも来月とか来年とか言えばよかったのに、いつかは言えなかった。都合よく女を誑かして情報を得ているバーボンと同一人物なのか自分でも疑いたくなるほど、梓さんの前ではうまく立ちまわれない。ただ、安室透にとっての観覧車はこれだけを思い出にしたかった。いつか、降谷零として。
考えを知るわけもなく梓さんが頷いていると、閉まった時と同じように大きな音をたてて突然扉が開いた。
「お疲れさまでした。お忘れ物にご注意ください」
係員の指示に従ってテンポよく降りると、あたりはすっかり暗くなり始めていた。乗る前よりも若干気温も下がっている。花火が上がったりパレードがあるわけでもないここにこれ以上留まる理由はもう見当たらない。梓さんも察しているのか、四本の足は揃って駐車場の方へ向かっていた。
「楽しかったあ」
「本日の一位はどれでした?」
「えー、どれだろう。ゴーカートもフリーフォールも楽しかったし……」
楽しかった一日を思い出しながら、選べないでいる梓さんを眺めながら歩く。なんと贅沢な時間だろうか。これが安室でなければ、という感情は見ぬふりをした。少なくとも安室透は梓さんと同じように楽しめたのだから。幸せだというのに、こんなにも物足りないのは僕の都合でしかない。
外灯を四個通り過ぎ、立体駐車場が見えたところで梓さんが立ち止まった。
「コーヒーカップかなあ、思いっきり回しても平気そうなんだもん。今度こそストップって言わせるんだから」
「あはは、それは怖いですねえ」
「透さんは?」
「僕は……そうですね。観覧車?」
「案外ロマンチストなところありますよねえ」
候補に挙げたのは梓さんだというのに、すっかり忘れられていた。ポアロに花束を持ってきたり、跪いてプロポーズしてきたり、と安室の所業を楽し気に続ける。バーボンのしてこたことは、梓さんからするとロマンチックらしい。
「探偵は得てしてロマンチストですよ」
「園子ちゃんもなんかそんなこと言ってたかも。新一くんはロマンチストだって。実は毛利さんも?」
「かもしれません」
女子高生とどんな会話をしているのだか。二人……三人に筒抜けな探偵の彼に少し同情した。おそらく僕も同じ立場なのだろうし。
「気になるなあ。緑さんに今度聞いてもらおうかな」
妃英理に毛利小五郎のことを聞くよう頼むなど命知らずか、と脳内で高校生だった探偵が騒ぐが知ったことではない。彼が尋ねるよりずいぶんとマシな対応はしてくれるだろう。梓さんにちょっとしたお小言は届くかもしれないが。
風でなびいた髪が外灯に照らされた。夕暮れの赤さとは違う表情に、つい見とれる。妹のような傷のない愛らしさではなく、ベッドの中で見せるような傷のついた美しさ。少ないとはいえ人通りのあるここでは抱きしめるわけにもいかず、わざと繋いだ手に力を入れた。僅かでもこの感情が伝わればいいと思いながら。
そんなことをしている間に駐車場の奥にたどり着いた。周囲に止めていた車は家に帰ったのか、すっかり空に近い。扉を開ければ、梓さんはすっかり慣れた様子で席に着いた。車種に絶句していた時もあったっけ、随分と前の話だ。
「帰りはどこか寄ります?」
「夕飯、の材料を買いにスーパーとか?」
シートベルトを締めながら、冷蔵庫に何あったっけ、と助手席で指折り数えている。どう考えても何かを作るには中途半端で、何かを買い足さないと夕飯にはならない。今からスーパーに寄って買い物、それから作るとなると、道路の混雑状況にもよるが二時間近くかかる。梓さんは明日朝からシフト、僕も朝から庁舎に呼び出されているとなると、夕食の時間が遅くなるのは適切ではない。
「もう遅いですし、食べて帰るのはどうでしょう。楽しい気分のまま」
「えっ、じゃあ行きたいお店が……でもやってるかなあ」
スマホの上を細い指が自在に動く。少し見えた画面にはグラタンの名店、と書かれていた。少し冷えた体に温かいグラタンはちょうどいい。敵情視察のリストからさっと思いつくあたりが梓さんらしさに溢れている。
「どのあたりですか?」
「――駅の方なんですけど」
カチカチと爪がガラスを叩く音がする中、視界の端の水温計はいい具合にエンジンが暖まったことを示していた。運転中画面を見ても酔わないタイプとはいえ、何も言わずに動かすのもどうかと思い、クラッチを踏めない。
アクセルに片足を触れさせながら隣を確認するように見ると、親指を立てて返された。こういう時の梓さんは非常に頼もしい。
「あ、調べておきますね」
「じゃあお願いします、先輩」
「ふふ、任せてください!」
駐車場の中を、敷地の中をゆっくりと走る。駐車場からも想像できた通り、公道に出るまで一度も車とすれ違わなかった。この調子で梓さんの目的地まで空いていればいいが、さすがに平日のこの時間は難しいだろう。
『ではこの時間のニュース、――さんに伝えていただきましょう』
ラジオ局の定型音の後に、ニュースが始まった。どうやらもう十八時になるらしい。梓さんが言っていた店の最寄り駅までここから一時間程度、家で作るよりは早めに食べて帰られそうだ。
『先週、東都の――区のアパートで三十代の男性が下腹部を切られて死亡した事件で、警視庁はXX日、容疑者と思われる男が現場から逃走す様子をとらえた新たな映像を公開しました。警察は、四月XX日に発生した殺人事件との関与や、これまでに寄せられた情報について調べを進めるとともに、さらに情報提供を呼びかけています。情報の提供先は警視庁で、電話番号はXXーXXXXーXXXXです』
静かな車内で殺人事件のニュースを聞くと、隣に梓さんがいることを忘れてつい風見に確認を取りたくなるのは悪い癖だ。ドアポケットに伸ばした手をハンドルに戻した。
それにしても、連続殺人事件だというのに監視カメラに映るとは随分とうかつな犯人もいたものだ。バーボンなら監視カメラの位置を事前に確認してから、ピンガなら映像を加工してから犯行に及ぶだろうに。……ジンとウォッカなら監視カメラを破壊してから立ち去るだろう。組織の人間の動きが容易く想像できてしまい気分はあまり良くない。
「やったあ! 夜遅く……日付が変わる頃までやってるみたいです。駅前の本屋さん、わかります?」
殺人事件のニュースを打ち消すように、元気な梓さんの声が響いた。脳内で地図を辿ると、たしかに駅前に書店がある。しかも二階がカフェの。恐らくそこで間違いない。
「ええ、二階がカフェの」
「そこです」
「……たしか駐車場が離れたところに」
「裏?」
ウィンカーの音がリズムよく鳴る中、梓さんの頭が傾いた。どうやら梓さんも記憶が怪しいらしい。あまり降りない駅ではあるし、書店の情報がお互いにわかった時点で及第点ともいえるか。
「たぶん?」
「透さんもあやふや」
「僕だって覚えてないことぐらいありますよ」
「ふふ」
ちっとも右折レーンは進まない。事件現場に向かっているわけでも、ベルモットから呼び出されているわけでもない今日は精神的に余裕があった。もちろん、隣に梓さんがいて、楽しげに笑っているのが大きい。……記憶が怪しいことの何がおかしいのかはよくわからないが。
「……なんですか」
「透さんが覚えていないことを私が覚えたら二人で合わせて思い出になるな、って」
一足す一は二でしょ、と得意げに言うがそれはなんだか違う気がする。どちらかと言うと、二分の一を二回足して一になっているような。人の記憶の不完全さを補うような関係、いつか聞いた結婚式の。
「僕としては同じ思い出も共有したいですけど」
「そ、それはもちろん! 思い出話が尽きないぐらい」
「ええ」
「次お休みがあったら、今度こそ透さんの行きたいところですからね」
「梓さんの行きたいところでいいですよ。僕、あまりないので」
何かを言っていたはずが、欠伸に負けて消えた。それでも寝ないようにと、抗うように何やら言葉を続けている。
「敵情視察、はもう引退ですし」
「じゃあ視察先の調査を依頼しようかなあ」
ほとんど揺れない車の中で、梓さんは少しずつ船を漕いでいる。普段トレーニングをしているわけでもない梓さんがあれだけ歩いてはしゃいだのだから、疲れて当然だろう。眠くて思考回路がまともに機能をしていないらしく、話が噛み合っていない。随分と眠いらしい。敵情視察を引退したのに視察先の調査を依頼ってどういうことだろうか。もしかして視察先の選定か、などとまともに考えようとしてしまうあたり、僕も少し疲れたらしい。
「梓さん、寝ていていいですよ」
「そんなに眠くは」
虚勢を張りながらもゆっくりと、確実に瞼が落ちていく。怖くて寝れたものじゃないと言い切ったどこかの探偵とは大違いなほど、安心しきっている。彼は悉く事件中に乗るからそう思うだけだという証拠がまた一つ集まる。
梓さんだからじゃないですか、という言葉は見なかったフリをして。
「えてして酔っ払いと眠い人間はそう言うんです」
「もうちょっと起きていたいんですけど……ふぁーあ」
「おやすみ、梓さん」
今日一番の欠伸に笑いそうになりながら、視線を正面に戻す。
「寝ませんってば」
「はいはい」
眠るなら急ブレーキは厳禁と言い聞かせながら、車の多い道を走り抜ける。左右確認、ブレーキ、アクセルにハンドルさばき、どれも一つ一つ丁寧に。高速道路を飛ばした時と違って隣に人を乗せているというのは心理的ストッパーになるらしい。特に、愛する人を乗せるときは。ようやく赤信号で止まると、隣の人はぐっすり眠っていた。
眠っている人を守るために、と言い訳をしながらヘッドセットを右耳に付けた。梓さんの前ではただの安室透でいたいと思いながらも、染みついた執念がそれを許さない。
空いた左手で頭を撫でていると、ヘッドセットから付近で逃走車両を追跡しているらしい警察無線が流れた。恐らく次の十字路を三時方向からやってくる。ダッシュボードの赤色灯に手を伸ばしかけて、やめた。どうせその十字路の先は混雑していて四輪車が逃げ切れるような道じゃない。
それに、梓さんに何の心づもりもなく正体を明かすハードルの高さが勝った。
警察官として動けないのであればこれを聞いている必要もない。ただの探偵の安室透には邪魔な情報。電源を切って、再びドアポケットに放り込んだ。隣に梓さんがいるというだけで一瞬にして安室透に引き戻される。
ごく平和……恐らく平和な日常を送る一般市民の一人に。
『今日夕方ごろ、東都の――区のアパートで三十代の女性が遺体で見つかりました。警視庁によりますと、首が絞められたような痕があったとのことで事件として捜査しています。警察は、遺体を解剖して死因を調べるとともに、交際相手で同居中の三十代男性から事情を聴くなどして事件として捜査しています。次のニュースです』
音量を下げたラジオから定時のニュースが流れた。今度は夕方ということは警視庁は今日とて夜通し捜査か。所属が違うだけで昼も夜も関係ないのは変わらないらしい。犯罪者がカレンダーや時計を気にして事件を起こしてくれるわけがないので仕方はないが、こうも続くとさすがに彼らも参るだろう。この二か月で少なくとも四件は起きていると聞いているのだから。
梓さんはこんな凄惨な事件に巻き込まれませんように。そう願うしかなかった。僕が隣にいられなくなったその後も、ずっと。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.