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いしえ
2024-09-14 18:38:04
13644文字
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封神一般向け
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封神演義考察ログ集1(大半CP無、一部趙呂等含む)
※便宜上一般向けカテゴリですが、一部趙呂か師弟かお好みでのところなどあり。
▼三強ベルばら論
▼趙公明の"独演・ベルサイユのばら"論 ――三強ベルばら論Ⅱとしての加筆事項
▼呂岳考 ――呂岳とその周辺に関する一つの説
▼飛刀について・余化や飛虎について
▼WJ封神読み返し時の考察&推測とメモ
そのほかCP色強めのもの(+ミュの話)を別投稿にて。
▼三強ベルばら論▼
趙公明の立ち居振る舞いオスカルっぽいという話めちゃめちゃわかる~~と思ったあと、というか趙公明ってベルばらの三主人公の要素全部混ぜ混ぜだな!?と思ったり、三強もベルばら三主人公の要素割り振られ受け持ってるな~と思った、という話。
ベルばらは主人公が三人(マリー・アントワネット、マリーと惹かれ合うフェルゼン、そしてオスカル)でマリーとフェルゼンの禁断の恋が王権を破滅に導く。
妲己がマリーはセリフ引用+役どころで自明。趙公明の「バラのさだめに生まれた」はベルばらOP引用で、歌詞めちゃめちゃ趙公明すぎる曲よね
…
アニメはオスカルメインゆえ、趙公明がアニメベルばらOPモチーフ+仏王家紋章のユリ(厳密にはアイリスの仲間)の意匠に金と青の配色+髪型もオスカル意識のふわふわ金髪、かな?と。ただ、趙公明と妲己に共通するのが、マリーが取り巻きのそそのかしや恋により悪政へと向かった、外因により造られたれ"マリー"であるのを踏まえると、二人とも見せかけの言動は"マリー"な点。一方、素朴だった頃のかつてのマリーが蘇妲己。
また趙公明は、周囲を巻き込み破滅に導くタイプで、一種の無邪気さで恋したマリーとフェルゼン両名との関係、その破滅の恋の要素を一人で全部持ってると思うのですよ。オスカルは作中で軍神マルスになぞらえられてるけど、趙公明めっちゃ軍神て感じだし、マルスが武勇や男性の象徴であるのと対になるようヴィーナスが美と女性の象徴だそうで、ビーナスの名前そこからなのかな?!とも思う。容貌オーラのオスカルみと言い、一人ベルばらじゃん趙公明
…
一人で完結できてるのわかる
…
独演・ベルばら。QJⅡは小トリアノン宮殿なのかもしれないな
…
また、三強の残る一人聞仲くんも、愛した対象がマリーじゃなかっただけで、愛ゆえに周りを破滅に導いたので完全にフェルゼンとマリーとの恋なんだけど、彼は愛ゆえの忠誠と献身から、特にフェルゼンだなと。
三強、マジベルばらの三主人公
……
傾国の王妃という背景状況の近さから妲己をマリーに意図的に被せたあと、ならば、と、趙公明のキャラ付けにベルばらを援用したのではないかと推測する。聞仲に関しては意図的か否か不明だが
…
ちなみにオスカルはフェルゼンに叶わぬ淡い恋心を持ち、それまで着なかったドレスをただの一度だけ身につけ、正体を隠して舞踏会に出てマリー一途のフェルゼンとのダンスをして吹っ切ったことがあるのだが、それはそれとして舞踏会したがるお兄様カワイイし(舞踏会については彼の場合"マリー"ではあるが)職務一途の聞仲くんとのコントめちゃ好き三強のわちゃわちゃ非常にカワイイ
………
オスカルは結局、アンドレと真に愛し合い、女性として愛される喜びを知りながらも軍人として生きることを選び戦場のなか軍服で、軍神マルスとして非業にも散ったけれど、お兄様の場合本望的にそうで、お兄様についてはビーナスがそれについて本望だろうと言及しているのがマジでマルスとビーナスのセット感を意図してる
…
?と思ったり。
あとオスカルが男装&男名な理由は上に姉(親から見て娘)ばかり続き跡継ぎの欲しい父親がオスカルの元気の良い産声をきいて男の名で名付け、男として育てたからなのだが、趙公明の妹持ちはここから?
ちなみにアンドレについては、ブラック趙公明と楊任はアンドレからかなーと思う。
アンドレは、"黒い騎士"という正体不明の義賊を捕まえるために偽物として動くようバッサリ髪を切られ、そのあたりからメインキャラ感を強めたのだが(当初はいかにも脇役な容貌で私はそのころのアンドレが好きでした
…
)目を傷つけられ、徐々に失明していき、そのなかでそれでもオスカルへの愛ゆえに献身し、連れ添い、昔から好きだったオスカルとの恋の成就の歓びを得て、献身のなか散る。結ばれたとき、オスカルとアンドレは光と影のように寄り添い合った対の存在であることを自認している。
ベルばらアニメのEDがアンドレ視点でオスカルへの愛を語った『愛の光と影』という曲らしいのだが、これもめっちゃお兄様の生き様これ!って思える。
金髪のオスカルと、対の黒髪のアンドレ。この不可分のふたりをモチーフにする上で、ブラック趙公明が不可欠だったのではないかと思う。
そして、封神のオリジナルで元々目玉をえぐられる失明要素のある楊任を趙公明と深く関連付けたのもアンドレの示唆だろうなと。オリジナルの楊任は道徳に引き取られ周サイドに回ったけど、それをあえて趙公明の配下にしたのは、オスカルがアンドレの失明を救いたかった気持ちを成就させてくれたのではないかと思うとめちゃめちゃ泣けてくるんですけど
………
おにいさまずるいわよそれは
………
そんなかんじで、王朝の状況に共通点を持つベルばらをフジリュー版封神の三強、ことさらに趙公明がモチーフにされているのめちゃめちゃ尊いな!と思った。
---
▼趙公明の"独演・ベルサイユのばら"論
――
三強ベルばら論Ⅱとしての加筆事項▼
昨日の『三強ベルばら論』の投稿後、あれもこれもと加筆したいことが浮かんだので、趙公明とオスカルやベルばらの共通性、使われているのだろうなというエッセンス、キーワード等について更に、加筆事項です。先の投稿を踏まえた内容なので、そちらをご拝読の上でどうぞ。
①封神という漫画を終わらせる"革命(クーデター)"を起こしたのもフランス革命が題材のベルばらを趙公明のモチーフにしたからではないか。
②オスカルは近衛連隊長としての王妃マリーの護衛から、自分の意志で衛兵隊に異動し、衛兵隊で部下から信頼されるまでは色々あったものの心を開かれ、良い部下達と出会え、王宮の外の暮らしを実感しながら、革命の際市民のために市民とともに散る。その過程で酒場でケンカ騒ぎを起こしたり他の貴族とモメたりもする。
流れの子細こそ異なるが、趙公明が崑崙乗り込みというトラブルを起こしたり、その責によって長たる通天教主の片腕から降格となり弟子をとって暮らしているのは、オスカルの人生を踏まえた上でアレンジしているのでは。
③オスカルにとっての真の愛=アンドレが趙公明の場合は自身の併せ持つ内在なので、趙公明の場合自己愛が強めになるのは必然である。
その上で、オスカルとアンドレは兄弟のように育ったので、兄弟愛という意味でのオスカルとアンドレの要素がビーナスたち妹への一定の家族愛として保たれたのではないか。(妹であることは原典通り)
④軍神マルスとヴィーナスとは愛人関係にあるので、趙公明にビーナス呼びをさせなかったのは、マルスたる彼と妹雲霄との関係においてその語弊を生じさせないためでは。
"マルスとヴィーナス"への置換をこの兄妹から防ぐために、更に念入りに、とともに、ヴィーナスに夫がいることもオマージュとして踏襲を強化するために、ビーナスの気持ちをわざわざ、太公望にはっきり向けさせたと思われる。
これにより、趙公明と雲霄とをマルスと"ビーナス"に留めることが出来た。フジリューの采配すごすぎる
……
⑤趙公明の、要約すると「(人質を取られたことに)文句があるなら、豪華客船クイーン・ジョーカーⅡ世号最上階までおいで。ーーまあ、途中には僕の召し使い達を用意してあるけどね!」的行動は、ベルばらの「文句があるならベルサイユへいらっしゃい!」のオマージュではないか。
これは、母親を轢き殺された少女ロザリーに対し、貴族であり"マリー"の取り巻きでもあるポリニャック夫人が放ったもの。宮殿にも来られない市民は貴族に文句なんて言える立場じゃないわ、の意と考えられるが、このロザリーがのちにオスカルに引き取られ、オスカルに恋し、なんとか辿り着いた母の仇ポリニャックに関して色々苦悩し、義賊"黒い騎士"と結婚し、オスカルの最期を看取り、牢獄でマリーの処刑までのお世話係さえ務める重要な役どころ。
当時の貴族の価値観、市民への横暴さを象徴する印象的なセリフを、ベルばらのキーパーソンを激動に投じたそれを、貴公子としての趙公明に担わせたと考える。ロザリーがオスカルやマリー、そして貴族と縁深い存在である点もその流れを後押ししたのではないか。
以上をまとめると、要するに、趙公明は独りで『ベルサイユのばら』という大作の実に様々な要素を担い演じているのだ。趙公明の独演・ベルサイユのばら。それが、フジリュー版封神の趙公明を要約する言葉になるのではないか。
---
▼呂岳考
――
呂岳とその周辺に関する一つの説▼
(馬元への言及多め。趙呂要素少し。単に師弟ととって頂いても可)
封神において、一貫して描かれている題材のうち、下記三つが呂岳周辺に関係してくる。
一. 子ども(大人から見ての全般)は守るべき存在である。
二. 親子(ことさらに父子)でいがみあうのは好ましくない。
三. しかし、時が来たら自立はすべきである。
これらで言う“親子”とは、始まりの人から見ての人類や地球存在全般であったり、王からみての民、あるいは太師聞仲から見ての殷、等々、単純に血縁の有無に限らない広義なものである。そしてこの文脈に、呂岳も在るのだった。
呂岳の教育もこれらをベースにし、けれどいびつにカスタマイズされていたと考えられる。呂岳流の教育方針はこうだ。子は親の所有物で、都合良く扱われるもの。子が親を憎んではいけない。子は、逆らってはいけない
…
そんな刷り込みをしてきたという解釈も、李靖相手の発言において可能である。あの“教育”とは実のところ調教である、と。(当方は親子の一般的な情を説いた解釈も併せ持っているが、今回はこの解釈で論じようと思う。)そして馬元において、そんな“親”から自立すべき時はとうに来たっていたのだった。
そのベースに趙呂(師弟でもカップリングでも)の上下関係があったらイイナ。絶対的に従うべき存在が居て、自身はその所有物である、と
…
その関係性は、刃向かおうとしたこともないくらい圧倒的だったと思うし、同時に呂岳に、自身にはそのカリスマ性はないと理解させていた。だから自身と趙公明との間と異なり、自身の場合“子”馬元の目が覚めるときが来ることも予測の範疇だったのではないか。でも、あの公明さまに刃向かおうとしたことがある呂岳も若気の至りでいいですね。
“小生”は呂岳“様”。この一見アンバランスなのに絶妙に至上の調和を奏でるバランス加減が物語るのは、呂岳の自己否定的自認、即ち工夫して開発や知略で武装しなければ自身は戦いにおいて弱いという自覚と、師・趙公明の絶対性へのひれ伏しぶりである。趙公明の所有物たる弟“子”である誇りと、主を上げて自身を下げ、なおかつ対他者時において自身を上げる、自然な刷り込み
――
呂岳が自身を上げられる理由は絶対者趙公明の所有物であるというただ一点で、即ちこれは主を上げることなのである。
ここで、弟子の改造描写がある雲中子、太乙、呂岳の三者三様のスタンスを確認しておきたい。
・雲中子: 弟子は師の所有物(オモチャかつ実験体)だけれど、嫌われたり刃向かわれたりは当然である。何故ならば、別の個体だから。
・太乙: 弟子や開発物は共有の財産(たからもの)。自身は崑崙に貢献する役割を担う。ただし、開発は楽しいので利害の一致がある。
・呂岳: 弟子(自身)は師(趙公明)の所有物であり、自身は師に貢献すべき存在として在る。ただし、開発は楽しいので利害の一致がある。
開発物(実験体)馬元は自身≒趙公明の所有物であり、即ち逆らうことは許されない。ただし、自身にそれを強いきるだけの力、パワーがないのは分かっているので、自身の限られた武器たる開発物の強化薬で補う。これでカンペキ!(なわけがないと深奥で分かっている。)
自身≒師≒馬元になるよう必死でつじつまを合わせようとしてひずみが生じ、それを矯正しようとして結局当然のように破綻した。自身は趙公明さま(≒完璧)には成れない。わかっていたはずなのに、つかの間おごった?
ここからは、上記の呂岳観をベースに、馬元に焦点を当てて論じる。
馬元が“父”呂岳に求めた愛とは、ひとなみに、真に“子”としてのまなざしを向けられることだった。それが所有物に徹することでないのは、直観的に分かっていた。けれどそうするしか(お互い)知らなかったのだ。何故ならば、自分たちは本物の親子ではないから。哪吒の発した“同じ”の語への強い拒絶反応は、そこにあると思う。『本物の親子でなく愛されないくるしみがおまえにわかるのか?』、と、そう訴えかけたのではないか。そして一転、安心感は、“そんななかで母を愛し守ろうとする子の立場への共感”と、わずかかつ絶大なる憧れ。愛されたい、子としての本能。本物ではない親をあいする気持ちを肯定づけてくれるなにかを馬元は欲していたのであり、それが、改造されても通り一遍の愛すら向けられず、わかった絶望とそれでも憎みきれない情を思わせる。哪吒親子への感情は、あこがれ=ああ在りたかった、という気持ちである。
また、哪吒と異なり(もちろん異なることは馬元は完全には知らないが)馬元の場合、生みの親に捨てられているため、余計に、親という存在から愛されたい気持ちが強いのではないか。
『宝貝人間にも魂が宿る』。この哪吒の発言から、私は当初、馬元も生まれながらに宝貝人間であるととり、呂岳は捨てられた“不出来”なそれを拾ったに過ぎないと認識していたが、封神関連書籍(大全、導書)を公式解とするならば、馬元少年は呂岳に拾われ宝貝人間に改造されたらしい。すると、馬元が後天性の宝貝人間であるということになる。この場合、馬元が一度死んでいないと、『魂が宿る』にはならないため、オリジナルの拾い子馬元は死に、魂は一度そこで途絶えていることになる。その後、宝貝人間として再生され、魂が宿った、と
――
これを哪吒が瞬時に理解したことは彼の生い立ち、実体験からすれば大いにスムーズである。なるほど、伏線や複雑に織り込まれた糸がしみじみ巧みすぎる、封神
…
馬元は、望んだ父からの愛を得られなかった以上、“死してなお生きる意味”を見失っていたのであり、それは死んで宝貝人間になれば父からのまことのあいを得られるのでは、という期待が外れたことを意味する。“一人じゃなかった”に込められているのはそれである。哪吒も同様の悩みを抱いており、“宝貝人間とは人間なのか?(=生まれながらに愛を知るのか?)”という疑問の“証明”が皮肉にもまことの死による魂魄の実在証明だったのだ。馬元は、期待が外れてもなお、父を憎めず、所有物として、自身の手で勝手に死ぬこともできなかった。何故いきているのか? 所有物だから。何故、しんだのか? ヒトとして愛されたかったから。その入り込んだ事情が、2Fのロマンをかたちづくり、あの趙公明に実に美しい戦いだったと言わしめた。趙公明は、すべて、しっていたのだ。
ここで話を趙公明に移すが、彼は恐らく、呂岳を最初に仕向けたとき、ウイルス攻撃を太公望たちが切り抜けることを想定していたのではないか。厳密には、太公望たちを試す一環でもあったのだ。彼はともすれば、楊戩が通天教主の子とも知っていた可能性がある。
趙公明は、楊戩たちが呂岳に憎悪の感情を抱いていると恐らく知っていた。それをことさらに宝貝人間対決に研ぎ澄ますべくして、1Fで楊戩を指名し、姫発を運ぶために“退場”させたのではないか? 楊戩までもが哪吒とともに2Fに来ては、美のノイズになる。ただのドンパチした戦いではだめなのだ。プロデュースした、うつくしいたたかいでなければ。そういったことも見透かして、1Fで楊戩を指名したとも考えられないだろうか。もちろん、楊任の宝貝との手合わせを見たかったことが純粋にあるだろうけれど、複数の目的意識でもって、指名は成されたと私は考える。
以上をまとめると、呂岳は自身の実体験でもって“子”を調教したけれど、自身は絶対者たる主と異なるため破綻した(そして恐らく呂岳はそれを予感していた)。そもそもが、そうなるべくして永い間師により演出されてきたとも考えられる。たびたびの派手な戦いのどこかで使うコマとすべくして。そしてその“子”馬元の自立は、実体験でもって同じ悩みを抱える哪吒により成され、同時に、その哪吒の葛藤を、互いに救いあったのだった。
封神において、弟子の改造を行なう者は複数おれど、めいめいに持ち味があり興味深い。馬元は宝貝人間であり、改造人間でもある。雷震子と馬元の弟子サミットも見てみたいものである。
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▼飛刀について・余化や飛虎について▼
飛刀の能力は、宝貝の分類を借用すれば“神経攪乱系”に近いものだと考える。
私は、飛刀は決して相手の脳や精神をスキャンできるわけではないと取っている。というのも、それほどの能力を持つ者が、趙公明のとは言え誰かの弟子の、コレクションの枠に収まっているだろうか? 仮に飛刀が余化の指示スタイルを気に入ってあえてその場に居るのでなければ、彼は余化の心に働きかけて持ち主を選ぶことの出来る武器である。もしくは、能力を知っている余化には幻覚だとバレバレなので効果が無いか。飛刀は、その能力の使い道を、たまたま飛刀を手にした余化の戦闘スタイルに応じて仕立て上げられたと私は解釈する。
ここで興味深いのが、楊任の宝貝である。彼は能力を錯覚させることで天才道士すらをも上回りかけた。同時にそれは種明かしに弱かった。この宝貝は趙公明から直接贈られたものである。呂岳や劉環も、メタ的には相手の弱点を突くかたちで各フロアに配されていた。彼らは実際の宝貝性能よりも強力で、手強く、だからこそ意義があった。これは、作品における“効果的な”強化キャンプとして用意されたクイーン・ジョーカーⅡ世号の性質を語っている。では飛刀はどうか?
飛刀は、真(メタ)の意味では、飛虎の揺らぎを取り払い視界を晴らす役割を振られた存在である。だが余化の意図としては、相手が誰であれその揺らぎ=迷いにつけ込み、作った隙のあいだに物理的にとどめを刺すという戦術があった。余化自身は本来は天化ないしは太公望を相手にする予定だったのかもしれないが、飛虎と対峙する可能性もある程度想定内だったかもしれない。いずれにせよ飛刀は、相手を揺らぎから心変わりさせるほど深層につけ込めるわけではないか、あるいはその必要がこの場面においてはなかった。また、その能力よりも刺突性が決定打に設けられている。
飛刀が真に深層まで探れるのであれば、自身の見せる幻が飛虎をかえって決心させてしまうと想定がつくのではないか? あるいは彼は、単純に隙さえ作れればよかったのであり、幻覚を見せたさきに相手がどうするか想像する必要がなかった。武器として、とどめを確実に刺せるのだから。これを彼の未熟とするか、余化の未熟とするか。飛刀が深層まで探れるのなら、その上で人心を解しきれなかったとも取れる。飛刀はまだ妖精であり、武器として使われることに恐らく慣れておらず、使われたことがあったとしても、幻覚で作った隙で事足りた。もしくは単純に飛虎との相性があらゆる意味で悪い戦略だっただけなのか?
余化が殷の将軍であったという情報は、彼が人間界で過ごす修行をした、という説明として解釈する。ここにおいて私は、彼が飛虎をどの程度知るか否かの情報は排除され、余化が人心に働きかける妖精飛刀に指示を出す上で役立つ研究の場でもあったに過ぎないのではないか、と思うのである。飛刀入手と人間界での修行、どちらが先かは難しいが、三つの可能性を考える。一つ目、人心を学んだ余化に師が飛刀を贈った。二つ目、飛刀を入手した弟子に師が特別な修行プログラムを設けた。三つ目、この両者に因果関係はなく、たまたま余化が飛刀を持っていて、たまたま人間界で修行をしていた。一つ目であればそう説明があるはずだ。三つ目ないしは二つ目に、私はロマンを感じる。そしてそのロマンこそが、美学にこだわる趙公明が弟子に課した修行の意義ではないのか? 偶然、あるいは必然により、余化は飛刀に指示する立場をキープし得る一定の人間理解を獲得した。
飛刀は、自らの意志でも幻覚を見せることが出来るようである。(派生ゲームでの情報からの推測も含むことを容赦されたい。)ただし、その条件として物理的な接触があるのではないか? ゲームにおいては暴走した紂王に幻覚を見せるため自身を突き立てるよう、飛刀が自ら指示する。漫画本編においては飛刀は、飛虎に持たれてから幻覚を発動させた。ならば余化の持ち物に収まっているのも、余化が持とうとしないで幻覚を見せられないからという可能性はある。だが飛虎と出会い脅されるまで飛刀は余化の戦術に異存が無かったように思うので、それなりに満足していたか、単純に刷り込みを受けた雛鳥だったのかもしれない。
飛刀がその物理的な柔軟性と伸展性、強度のわりに被ダメージに打たれ弱いのは、純粋に、攻撃を受ける側の経験が無かったのだと思う。そうすると、攻撃する側の経験もあまりないか、戦略が必中だったかのいずれかになるが、率直に思うのは、敵が用意した武器を素直に手に取る相手がどの程度居るのだろう、ということである。そういったタイプを相手にするとき、人間であれば、宝貝を持たせて干乾しにしてしまうほうが楽だと思うのだ。それは余化の趣味に合わないだけかもしれないが。だが、確実ではないか? 武器を手に取らないとしても、たとえばボールを拾わせることは出来るかもしれない。それならば万刃車で事足りる。結局のところ、飛刀の能力発動に接触がマストだと仮定するのであれば、飛刀の出番は今までなかったのではないか。
飛刀は、余化の元に来て、壁に飾られていた以上、サイズを変えたときに重さも変えられるのではないかと考える。でなければ何人かがかりで運んだかだが、そんな重さの武器、壁からそうそう動かせない。ただのコレクションの面が強くなってしまう。これを余化がどう取っていたか。飛虎相手となったのであれば、という機転で飛刀という手札を出した(あるいは初出した)可能性もあるが、天化や太公望相手でも何かしら理由を付けて飛刀を持たせた可能性は否定しきれない。その場合、飛刀の大きさは相手の持てるサイズに変えていただろう。だが、余化が必ずしも飛刀を決め手に出してくる必然性はそれほどない。隙さえ作れれば何でもよいのではないか。そこに麻痺性の毒を用いることで事足りただろう。これは、飛刀がそれがやばいものであると解していたところからも、余化の切り札であったと推測することができる。余化の番する四階に来たのは“この数百年でたった四人”であり、その四人全員が確実に奥の余化のもとまで来たかは不明だ。飛刀の実戦経験が乏しいかゼロに近いことをここから推測できる。余化が手入れをしていたとして、そのとき以外、壁に飾られていた可能性は高い。彼はコレクターであり、幾つもの戦術を用いることができた。飛刀である必要のないこともあっただろう。飛刀は、コレクションで充分だったのである。本人もそれに満足していたことが、飛虎たちの扱いに痛いと文句を言うさまからもうかがえる。黄一家と行動をともにするうちに、慣れていくのだが。
ここで、飛刀の幻覚≒余化の指示のミスを二点挙げて締めへと向かう。一つ目。飛虎の仙道慣れぶりと大らかさの発揮どころを読み誤ったこと。これは余化の正体がバレて人質取りまでしている上で飛虎にとって『余化様は祖国の将軍』が戒めとなるとあなどった点である。また、ここでの様付けも飛虎の心情とズレがあると感じる。ただ、内心で様付けが保たれているのであれば、ここは余化への直接の言動を含めて飛虎をたしなめたと解せるが、飛虎の知る賈氏はそうするだろうか? 飛虎が深層心理で賈氏をそう解しているか? 二つ目。紂王の『どんな償いでもしよう』が甘言となると想定したこと。これがもし飛虎の深層心理なら、紂王のせいではないことを理解した上でそれでもけじめをつけなければならなかったシーンでどこか紂王を責めていたことになる。だが私は、彼は本心から、紂王を責めてはいないと解釈している。飛虎は造反してすら妲己を皇后と呼び、そして殷自体のためにではなく、そこに住まう民のために、新たな国を作るサポートをすることを決めた男だ。妲己が全て悪いと仮に思っているとしても、その上で自身の立場と振る舞うべきありかたを考えていた。頭脳派だ。これを考慮すると余化への様付けもあの状況下であり得るのだが、そうすると今度は紂王の償い発言にますます違和感がある。紂王と飛虎とが親しいゆえの異例としても、だ。この二点から導かれるのが、飛刀の幻覚のシーンは、余化が飛刀を使用して飛虎に幻覚を見せさせ、そしてそれは、決して飛虎の深層心理をスキャンしたものではなく、余化や飛刀が大まかにプログラムしたものを、神経信号の刺激により実際に見聞きしていると錯覚させる能力である、ということなのだ。
最後に、飛刀の柔軟性と強度について特記事項をまとめる。十天君の陣において、突き立てられたあと、タコやイカの足のようにぐにゃっと切っ先を丸めて網にしがみついている。恐らく痛くないよう注意深く。この時特筆すべきは、しがみついているコマと突き立てられ切っ先が割けたコマとでは、飛刀と網の糸との配置が違うことである。糸で割けた後、網の目の間にスライドするように糸と糸とにつかまっている。飛刀はそもそも切っ先を自分の意志で割くことができることも加味すると、飛刀はこの伸展とスライドを応用すればカニのようにシャカシャカと歩くことすら可能なのではないか? また、飛刀は、天化が重いと愚痴る飛虎に加えて天化本人に天祥まで含めてすら、その柄で支えて伸展することができる。この強度は恐るべきものである。というよりも、あのときは飛刀が重かったのではないか
…
? 飛刀が自分の意志で軽くなっていたのでなければ、飛虎の背負った飛刀が重かった可能性もじゅうぶんに考えられる。これらを検討すると、飛刀は、余化のコレクションに収まることに異存がなく、それは依存ですらあった、という論に達する。彼は、“コレクションの中でもとっておき”という評価を恐らく聞かされながら手入れを受けていたのではないか? 鑑賞されていたのではないか? そこに、自尊心を抱いていたのではないか? 彼は逃げようと思えば幾らでもあの壁から逃げられたはずだ。だというのに、彼はそんな発想すらしなかったことだろう。それは、満足していたから。余化のコレクションとして扱われることに。そしてその能力は実際に、人心を解する者が指示を出すことでより効果的になるはずだ。それがうまくいかなかったのは、飛虎の体の強度だけでなく、心を、読み誤ったためである。余化への様付けが保たれると錯覚するほど彼は確かに仙道慣れしていておおらかで、立場に篤く、けれども実際には雑ではないし、人道について独自の立場を持った。これらが雑感である。
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▼WJ封神読み返し時の考察&推測とメモ▼
・哮天犬は楊戩が作った宝貝ではないか
元始天尊の「楊戩は宝貝作りも天才」が彼の使用する二つの宝貝いずれかを指すのか、それとも変化時の宝貝再現能力を指すのか。後者とも取れるが、太公望が崑崙側の宝貝についてある程度知識がある(哪吒の時などはどれが何かわかる)上で楊戩が太公望相手に自身の宝貝哮天犬の性能を得意げに紹介するところが、彼が自分の宝貝作りの才能を自負しているのではないか、と思わせる(もしくは師にもらった宝貝を超自慢してる弟子)。また、哮天犬の性能言及はのちのちにも追加されるので、作成まではしていなくとも、彼がバージョンアップしていると考えることもできる。
・太乙は九竜神火罩である程度移動できるのではないか
短距離かもしれないが。高い所にのぼったのはこれの中に入って移動してぱかっと開けて出た形式でではないか、と思うのである。
・“十数年=長い”の反復は小学生にとっての自分以上、思春期には等身大である
十数年“もの”時を要した封神計画。そのほか繰り返し出てくるこの単位は、少年漫画として、掲載誌メインターゲットのだいたい小学校高学年くらいから中高生くらいにとって、自分の人生より長いほどの長期間であるか、自分の人生と同じくらいの期間である。その年頃の者にとってはこの数字が大きく、大人から見ればなんだ短いじゃん、と感じる、この、思春期に置いてきてしまったあのころの気持ちのまばゆさがここに象徴され、そしてどの年代が読んでも人生になり得る。
なお、作中では大人キャラの飛虎(推定45歳くらい)ですら、“自分が生まれる十数年も前”として六十年前の四聖聞仲共闘を語る。これには、大人から見てもきみたちの人生って長いんだよ、と、ターゲット層の子どもに肯定するまなざしを込めているのではないか?
・宮廷音楽家に世界という概念がある
余談だがこの頃のエジプトもちょうど王朝時代の終わりを迎えつつある過渡期であるので、個人的にはすごくウワアアアアアと熱くなる。
・オーバーテクノロジーやメタ要素を多数散りばめながらも、後世の学説を「と、仙人界で習った」とすることもある
万能すぎないメタがすげぇ。
・仙道の気配(仙気)は一定以上の力量にならないと自然とにじみ出ない(もちろん一定以上で隠せる)ものか? それとも雷震子の場合、意識的に隠していたのか?
太公望が雷震子を仙道と確信するまでプロセスが多いので、ここは想像の余地でオイシイ。
・飛虎が妲己を仙女と確信するために太公望に念のため確認する必要があったのは、彼が聞仲から聞いていた昔の皇后とは名前と生い立ちが異なるため
四聖と聞仲との追い出し作戦の話を飛虎が知った時系列を考えると、悪い皇后(仙女)がかつて王宮に居た、それを追い出した、そこまでは聞仲から聞いていて、そののちに妲己が聞仲不在の禁城に再来し、聞仲が帰ってきたときには飛虎は既にくだんの悪仙女が現在の妲己であると了解していたという流れと考える。
別の可能性として、太公望から妲己が仙女と確認できたのちに聞仲帰還の折四聖との共闘を聞いた、とも考えられるが、再び聞仲が禁城を離れるまでの間が結構短いので、前述の解釈のほうを自分はとる。
・公主が浮かんでいるのは水を使って浮力を生じさせているのか、高位仙人の能力か
飛行宝貝があまりたくさんないこと、霊獣が重宝され憧れの的であること、等、考慮すると、公主のふよふよ浮かんでいるのは高位仙人の限られた能力というより水を使っている可能性のほうが高い? あるいは、頭の後ろのあれが飛行を司る(元始天尊が盤古幡のコピーとして作った宝貝、等の可能性が考えられる)。
・太公望の楊任認知伏線がほんとすごい
太公望が楊戩との初対面時名を思い出すときに楊任
…
いや楊戩、って言うのマジでマジですごい。すごすぎる。太公望が宮廷音楽家時代に楊任をなんとなく知ったことがこの時点で提示されてるのまじですごい。
・申公豹の時間感覚がかなりしっかりしている(五千年前に生まれた自認がある)のは、影での調査や太上老君との縁によるものか
・鬼に金棒、飛虎に聞仲
飛虎が鬼に金棒って言うところ、反射的に飛虎に聞仲!って重ねたくなる。
・聞仲を慕う仙道が殷の要所についていても子細に頓着のない飛虎のおおらかさ
余化が将軍だったのは飛虎が若い頃なのかな? 結構本編時点近くまでなのかな? いずれにせよ、余化に飛虎が仙道(特に妖怪仙人)への区別意識が良い意味であまりないと思わせたところがこの状況によるのかなぁと思った。(余化は、妖怪仙人という正体がバレても、飛刀を使って幻覚を見せる際に『余化様は祖国の将軍』というフレーズが飛虎を諫めるに足ると奢っていた)
・メモ:飛虎「哪吒くん」呼び、南宮括「雷震子サマ」呼び
・“武成王”呼びで飛虎と対峙した聞仲の胸中、それが崩れた一打のシーン
聞仲の呼ぶ武成王は鎮国か開国か? 嫌みですら反逆者を地位で呼ぶ気質ではないように思うが、両方の意味を込めていてもいいのではないか、と思いつつ、無意識に殷に居たころの飛虎の地位を聞仲は自らの胸中に保持していたのではないか、と思う。飛虎が殷の武成王であることは聞仲にとって当然と化していた。長い時、殷を見てきたというのに。その彼がただのひとりの人間飛虎として聞仲の友であることを思い出す、そのひと殴りのシーンが非情に趣深い。飛虎個人をようやく見た、その瞬間
…
・飛虎と聞仲の封神からの桃源郷で太公望に見える二人まで大して間がないにもかかわらずハハハハ、だっはっは、と、非常に和やかなヴィジョンを描かれているのが、太公望が彼らの封神時の胸中への理解が深いか、あるいは祈りを込めているまなざしである
いずれにせよ尊い。
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