この部屋で目が覚めた時、ベッドとソファーとテーブルと空っぽの棚、それしかなかった。扉も窓もない、滑らかに全てが繋がった部屋である。身体を起こしつつ簡素な部屋着を着ているのを見下ろして。うん、着慣れた部屋着だ。でもちょっと心許ない。いつも通りエーテルに働きかけて、ローブと使い慣れた短剣を用意しようとして、できなかった。ぱちん、と瞬きを一つ。魔法が使えない。空間に制限をかけるタイプのやつ。何度かそういうギミックを持つ遺跡と遭遇したことがあった。でもこれ、外に出るぐらいしか解除方法ないんだよなあ。面倒なことになったな、なんて。最初はその程度しか思っていなかったのに。
アゼムは息を吐きながらベッドから起きようと腰掛けたところで、不意にぐるりと渦巻くエーテルを感じて顔を上げる。危機感やらそういうのはない。それが形作る前から、その気配が何なのかようく知っている。誰よりも、理解している。
「エメトセルク」
アゼムが呼び終えるよりも少し早く、人の形を持って部屋に降り立った彼は、一瞬目を丸くしてアゼムを見て、そして少し柔らかい顔をした。
「目が覚めたのか。おはよう」
寝癖がついている、とエメトセルクが指を鳴らした。一瞬だけ髪が舞い上がって、丁寧にいつも通りの形にされる。それはとても簡単な子供でもできる魔法で、今のアゼムにはできないものだ。そこで何となく理解した。この部屋の主は、エメトセルクだ。
「おはよう」
言葉を返せば、じわりとエメトセルクの目尻が滲む。この人、こんなに柔らかい顔をするんだなぁ、なんて思っていると、不意にエメトセルクがアゼムに近付くと、そのまま横抱きに持ち上げる。驚きのあまり咄嗟にバランスを崩しかけてエメトセルクにしがみつくと、そのままアゼムはソファーに運ばれた。
「しばらく眠っていたが、腹は減っているか? 食事は買ってきてある」
「……エメトセルク?」
様子が、おかしい。こんなに甘やかすような人では無かった、はず。わからない。アゼムはいつも困らせてばかりいたから。
エメトセルクがアゼムの頬に触れて、そのまま手を滑らせて髪を撫でる。指先で掬った髪がさらりと落とされて、こんな触れ方をする人だったのだろうか、とアゼムはじぃ、とエメトセルクを見つめた。
「…………そうだね、ちょっとお腹、空いたかも」
結局、いつも通りの会話を選んだ。けれどもそれはきっと正解だったのだろう。少し緩んだ口元のまま、エメトセルクがイデアを取り出して食べ物を用意していく。
「サンドイッチでいいか? いくつか買ったから好きなのを選ぶといい」
その横顔を、アゼムは静かに見つめた。溶けた瞳の奥に宿る仄かさを何度か見たことがあった。酷く耐えられない、辛いこと、苦しいこと。そう言ったものに直面した人は時折、それから逃げるように心を閉ざし、人が起こすべきではない行動を取ったりすることがある。そういった人と、よく似た目をエメトセルクがしていた。
彼に取って、酷く耐えられない、辛く、苦しいこと。
それはきっと、アゼムの言葉だった。
エメトセルクが優しい人であることも、友人に対して愛情深いことも、よく分かっていた。そんなところも好きだからなおさらだ。
エメトセルクはまるでどろどろのシロップのようにアゼムを囲い、甘やかした。
まるで離れることを拒むように閉じ込めて、後悔一つさせぬように甘やかして。手ずから食事をアゼムへ運び、彼女が動く前にほんの一歩の距離でも抱き上げで、眠るときは抱きしめて熱を分け合って。彼らしくない、なんて思うよりもそういう一面もあったんだな、と思ってしまった。きっとそれはエメトセルクにとって善い人らしくない、隠されていた部分なのだろう。アゼムが吐いた拒絶のような言葉が、きっとエメトセルクの心を少しだけ壊してしまった。それほどまでに思われているのが嬉しくて、けれどもそれはどこまでも親しい友人としてであって。
抱き寄せられて、そっと触れられる。けれどもそこに恋や欲が絡まることはない。彼はどこまでも、純粋に友人としてアゼムを甘やかす。
欲の一つでも見せてくれたのならば、そこから転がるものもあったかもしれないのに。どこまで行ってもエメトセルクは友人としてアゼムに触れるから、アゼムは友人らしくそれを受け止めた。
食事を終えると、エメトセルクはアゼムを抱え込む。彼の足の間に座って遠慮なく寄りかかりながら、アゼムは静かにエメトセルクの話を聞いていた。議会で上げられた意見について討論して、時折逸れてエメトセルクが最近携わっている冥界の研究の話をして、時折愚痴のようなものが混じって、笑って。
それは外で過ごす時と、ほとんど変わらないように思えた。強いていうのならば、外であればここにもう一人の親友が混ざったり、他の友人が混ざった人する。それに、よく話すのはアゼムの方だった。けれどもここではアゼムは聞き手になるばかりで、けれどもそれが存外、悪いものではない。エメトセルクの声はほんの少し甘さが滲んでいて、聞いていて心地の良いものだったから。
「アゼム」
欠伸を噛み殺したのに気付かれたらしい。退屈なわけではない。ただ、酷く眠たい。もっと、彼の話を聞いていたいのに。それでもアゼムの体は睡眠を訴える。それにエメトセルクはすぐに気付いてしまった。
「もう寝ようか」
「もう少し君の話聞きたい」
「起きたらまた続きをしよう」
少しだけぎゅ、と抱き締められて、そのまま抱き上げられる。ベッドに下ろす動作はどこまでも優しくて、そんなんだから親友に恋されるんだよ、なんて心の中で呟いてみる。
ほんの少しひんやりしたブランケットを広げて、隣にエメトセルクが潜り込んだ。それだけで少し冷たかったシーツがふわりと温かくなるようで、ついアゼムはエメトセルクの方に擦り寄ってしまう。
体が、酷く重い。ゆっくりと瞼が落ちていく。とろとろと思考が溶けていく。
「アゼム」
抱き寄せられている。その腕の重さと、熱を、知りたくなかった。この先ここから出て、今まで通りの友人に戻って。一人の夜を、どうやって眠ればいいのだろう。
結局、アゼムは苦い後悔を心の奥に潜めたまま、どうしようもなく眠りにつくのだ。
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