삐약さん翻訳
2024-09-13 16:00:01
9023文字
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コーヒー





 ジェイムスは目を覚ます。ベッドは自身の体温で温かかったが、それは一人分の温度だった。ああ、もう少しだけ目を閉じて眠りに沈んでいようか。気怠い頭ですぐ起きるのは困難だった。二度寝しようか、それとも起き出そうか。朝に弱い自分をいつも隣で起こしてくれた人がいたものだが、ふたたび一人で生きることになって怠け癖が増大した。昨日洗濯しようと集めておいた衣類は相変わらずそのままカゴに突っ込まれている。まともに食事もとらないので体重が落ち、ジーンズの布が余っている。酒瓶も捨てなければならないところを、衣類と一緒に部屋に散乱している。とても人が住んでいるとは思えないな。私はこんなにも居心地がいいのに。忍び笑ったジェイムスは重い瞼を持ち上げ、体を起こす努力をした。掃除をすればこのじめじめした気分が晴れるだろう。朝の暖かな日差しを隙なく遮断していたカーテンを引いて窓を開ける。日差しに暖められた空気が、埃が山と積もった肺を洗い流していく。ぐうっと伸びをすると気分がよくなった。温められた小石のような気分。

 カゴを抱えて洗濯機に向かい、洗剤を投入する。明るい日差しに乾かせば柔らかな匂いがするだろう。衣類を仕分けていたところで自分のものでない服を見つけた。彼女の服はチェストへ大切にしまってあるから、自分で買ったまま忘れた服というはずがない。彼の服だった。しまったな、間違えて持ってきてしまったらしい。捨てようか、と思いかけ。人の服をむやみに捨てるのは礼儀に反すると別の場所へしまっておくことにした。何かのはずみに彼に会うようなことがあれば、渡してやることを記憶にとどめて。

 なぜかほんの少し解放感があった。憂鬱にさせていた原因がなくなったからだろうか。人の雰囲気作りに環境が大きな影響を及ぼすと言うけれど。



「だけど、やっぱり夜がいいな」



 目もろくに開けられない日差しを、顔をしかめつつ眺めたジェイムスが独り言ちた。星々の間に埋もれて溜め息さえも冷え冷えとした風に消えていく夜が、ジェイムスはもっと好きだった。ゴッホの作品のように空の星が人魚のごとく舞う様を鑑賞し、昼のあいだ熱く働いていた頭がひんやりと冷まされていく感覚は、現実に存在しているという実感を与えてくれる。息を整えたジェイムスはふたたび室内へと戻った。やることがまだたくさん残っていたからだ。

 ごみを捨て、埃を掃き出す。掃除していたはずが脇道に逸れるというのは日常茶飯事だ。昔の自分が撮った写真がいっぱいに詰まった冊子を、ジェイムスは丁寧にめくりながら思い出を噛みしめた。心が満たされていく。もちろん、まだ悲しみが多くて長いことは見ていられず、感情を静めなければならなかった。いったいいつになったら感情が波立たなくなるのだろう。目尻に露のように宿った涙を拭いて立ち上がった。あっ、ふいに貧血に襲われる。どうも、ここ数日間一食だけで乗り切っていたのがたたったらしい。買い置きがなくて冷蔵庫は空っぽだ。こうなったついでに久しぶりに散歩するのがいいだろう。足を動かしてゆっくり歩けばいつしか目的地に着いているだろうし、答えもきっと見つかるだろうから。



 別れたほうがいいと思う。そう言ったのはジェイムスだった。理由は様々だったが、ジェイムスはあえて語らなかった。別れようという言葉のほかに詳しい説明もなく、ただ視線を落とすジェイムスを見た彼はしばらくのあいだ固まっていたが、よく浮かべていた優しい笑みを湛えてわかったと返答した。意外にも、とても簡潔な別れだった。彼と別れたジェイムスは引っ越しを決めた。一人暮らしのため家は前より手狭になったが、こじんまりとして落ち着いていた。少なくとも、寂しさを感じる空間が減ったので幸いだった。

 別れを告げたのは、あるいは衝動的なものだったかもしれない。自分に比べて彼はとてもいい人で、どうにも前途を阻んでいる気がしてならなかった。その思いは彼に助けられた人たちから手紙が来るごとに強くなっていった。そして任務を終えてくるたび、体にまた一つ傷を増やし、言葉も交わせずベッドに倒れ込んで気絶するように眠る彼を見ながら、ジェイムスは不安に陥った。もう誰かを目の前で失いたくなかった。それがいちばん大きかった。もしかしたらこれは罰かもしれないと思った。お前が何より大切にする者を目の前で奪い去る。お前が苦しもうが苦しむまいが関係ない。黙って罪を受け入れろ。そんな考えが確固たるものになった日、ジェイムスは別れという言葉を口に出し、結局そうして終わりとなった。実に矛盾した感情だ。あんなにも安らぎを与えてくれた人が、あんなにも不安を呼び起こすなんて。時にはあの言葉を後悔して話しなおそうかと思ったものの、実行には移さなかった。いっそ申し訳なくなるぐらい晴れ晴れとしていたからだ。神経をすり減らすほど執着していたものが存在しないという事実は驚くほどその荷を減らしてくれた。彼と別れて2週間、ジェイムスは軽くなった心身を体感できたが、生活環境は酷いものだった。先天的な怠惰はどうすることもできなかったらしい。

 久しぶりに家から出たジェイムスは横断歩道の向かいにある、以前よく通っていたカフェを眺めた。あまり客の多いカフェではなかったが、それでもちらほらと客がいたものだ。最近は一度も行っていないがそのうち行ってみようと記憶に留めつつ、片手にささやかな買い物袋を提げて家へと向かう。引っ越し先の帰り道にあるそのカフェを通り過ぎざま、ジェイムスの目にコーヒーを飲む彼の姿が飛び込んできた。対面にはきちんと一筋の乱れもなく髪を結いあげた女性がいる。相変わらず忙しいことだな。意味のないことを考えつつずいぶん長く彼を見つめてしまう。目が合った瞬間、ジェイムスの体が一瞬凍りついた。このところ平穏に過ごせていたのに、以前の息詰まる感情が一気に蘇ってくるようで酸素不足に陥ってよろめいてしまう。彼が腰を浮かせたものの、すぐさま顔を逸らして視線を避けた。ジェイムスもすぐ正気に返って足を動かしはじめた。気持ちを立て直すためにも、早く帰って何か食べなければならない。



 家に着いて先ほどの出来事を整理するに、彼も元気でやっているようだった。ゆったりとコーヒーを飲んでいたのがその証拠ではないか。焼いただけのソーセージと7分間煮込んだスープを一口ずつ食べながら出した結論だった。それならもう心配することはない。冷たい水を飲み、夕陽が少しずつ沈んでいく様を見つめる。夜が徐々に近付いていた。あらゆる心配事を天の川に流してやろうというように。無責任で自分勝手な考えかもしれない。だが、彼がもはや自分の視界にいないのなら、たとえこの世からいなくなったとしても悲しみを覚えることはないだろう。コーヒーの香りが家の中を漂っている。ジェイムスは緑色の瞳いっぱいに星を映した。月が暗い深海から浮かび上がってくるように見える。夕暮れはすぐに過ぎていく。涼しい風が髪を乱して通り過ぎる。考えは落ち着いていくはずが、いっそう複雑になっていった。カフェで見た彼の表情が気にかかって頭の中を渦巻いていた。コーヒーが得意ではないのにカフェにいたということは。実際、それだけ過労状態なのではないか? 本当に一瞬だったが、彼の目には疲労が色濃く表れていた。もしかしたら私はまた誰かを苦しめているのかもしれない、という不吉な考えが浮かんだ瞬間、ジェイムスは窓を閉ざしてしまった。そんなはずがない。彼にとってそんなにも大きな存在になったはずがなかった。明かりをつけて本を読むことにする。こんな高尚な趣味とは果てしなく無縁だったが、最近になって手持ち無沙汰に始めたことだった。何を読むのがいいだろう? 月明かりが床に降り注ぐ。童話でも読んでくれとせがむように。



 数日が過ぎ、ベランダで風に当たっていたジェイムスは彼が近くを歩いているのを見た。何か待っているように辺りをうろうろし、頭には包帯が巻かれている。怪我したのか、また。もう関わることはないのに、彼が傷を負っているのを見ると到底いい気分にはなれなかった。怪我をしているのを見るのが嫌で、死ぬのを目にしてしまうのが嫌で別れたのに。こうしてまた現れてくるなんて。どうやら彼は自分のことがよほど嫌いらしい。黙って引っ越したのに結局住所を突き止めているところを見ると、政府に所属する人間の情報力は甘く見るものではないようだ。そうでなければ、彼は勘がいいからどうにかして探し出した可能性もある。ジェイムスはカーテンをぴしゃりと引いて外に目を向けなかった。もう大切な存在ができないよう願った。いっそ目が潰れてしまえばいいものを。溜め息をついてソファーに腰かける。それから数日間、ジェイムスはカーテンを開けられず、窓までぴっちりと閉ざしたまま一日を過ごした。誰かがこちらを見ているのは明らかだったが、ジェイムスは視線もくれなかった。一日も早く諦めてくれることを祈りながら。彼のことは心配だったが以前のように気を揉みたくなかった。人はそう簡単に変わらない。ジェイムスは直感的に、彼がいつかはここを訪ねてくるだろうという予感を抱いた。







「──やっぱり無理です」



 はっ。熟睡から覚めたジェイムスは思わず乾いた笑いをこぼした。それが嘲笑と聞こえたのか、彼の顔がますます仏頂面になる。玄関口で騒げば他の人たちが出てきて視線を寄越すだろう。注目を浴びるなどまっぴらなジェイムスは彼を中に招き入れた。何が無理だというのか、ジェイムスはわかる気がした。ひょっとしたらとんでもないことをしてしまったのかもしれない。中に入るなり彼が自分に抱きついてくる。服の下で何か硬いものが体を巻いているのがわかった。間違いなく包帯だろう。目につかなかったとしても、君を心配することなどもうなかったはずなのに。ジェイムスは心の中で彼を恨んだ。ジェイムスのほうは彼を完全に切り離すことに成功したが、彼は違った。普通の人なら当たり前なのだろうか。非常にいいというわけではなくても、それなりに上手く暮らせていた。このまま人々の記憶から忘れ去られるにも最適な位置だった。ジェイムスは、あるいは死を望んでいたのかもしれない。

 手を伸ばして不慣れながらに慰める。恋しくて狂いそうだったというように匂いを思いきり吸い込みながら、自分が幻ではないかと疑って彼が体を撫でさする。なぜか、声を上げて泣きたくなった。











* * *











 別れは衝動的ではなかったと、レオンはそう語る。それなら自分の爪はなぜこうも荒れているのか。噛んでいた爪の欠片が口に残って、吐き捨てる。水もろくに飲まないので唇がひび割れて血が滲む。唾で唇を湿しながら、床に投げ出されていた上着を拾って体に引っかけた。もう他人に気を使うことなく、任務に集中できるというのは、おそらくいいことだろう。

 世間は相変わらず急を要する出来事だらけだが、それでも上手く回っている。業務がようやく終わって一週間ぶりに訪れた1時間の休息のあとにはまた別の任務が与えられるだろう。疲れていたが止まれなかった。あまり好きではなかったコーヒーを飲まねばならなかった。素面ではとても耐えられず、覚醒剤が必要だったからだ。自身の担当者はレオンを案じた。仕事に熱心なのもいいことだし、あなたが救った命は数え切れないのだから私が何か言う立場ではない。けれど、やっぱりあなたには何週間か休みが必要だと。レオンは柔らかく笑って辞退した。必要ないよ、ハニガン。彼女は答えを予想していたものの聞きたくなかったという不快な顔を隠さなかった。



「──あなたがそう言うなら何も言わないけど、はぁ。それでも担当オペレーターとしては心配になるわよ。あ、言い忘れるところだったわ。あなたが前に助けた大統領令嬢がお礼を送ってくれたの。たぶん、あなたの好みを知らないから彼女の好みでスイーツを送ってきたんでしょうね。マカロンだとか、ショートケーキだとか。それから、えーと。コーヒー牛乳?」

「ふむ」

「これだったらあなたの好みに合うかもしれないわ。この香水。あなたからしたのと似た香りだって手紙に書かれていたの。ところで、香水を変えたのかしら? 最近はそんな香りがしないのだけど」

 ここだけの話、レオンは香水をつけたことがなかった。ただ彼の匂いが自分にまで染み込み、香水のように香っていただけだった。彼女の言葉にレオンは寂しく微笑み、彼女もようやく察したように言葉を引っ込めた。そして急いで任務を下す。*「今回の任務は──」*。レオンはまともに集中できず、結局その任務でまた別の傷を負った。ターゲットがあれほど血の気の多い奴だとは。包帯で体を覆ったレオンが笑うや、彼女が咎めた。頼むからしっかりしてちょうだいと。レオンは笑った。笑うことしかできなかった。



 別れを告げたのは彼のほうだった。落ち着いた声音がこういう関係は終わりにしたほうがいいと言ったとき、一瞬、レオンは自分がまだ朝寝から覚めていないのかと錯覚しさえした。夢ならこれは悪夢だ。口内のやわい肉を硬い奥歯で噛みしめる。痛みはレオンを突然の真実へと引きずり出した。目の前がしばらくちかちかした。頭痛に襲われる。長らく微動だにせず座っていたレオンは最善を尽くして優しい微笑を浮かべ、わかったと返事をした。理由を訊きたかったが、彼ならきっと長いこと悩んだ末なのだろう。彼はどこか解放されたような表情で頷くと、先にカフェから出て行った。彼がまだ手をつけてもいなかったコーヒーが刻一刻と冷めていく。自分の前に置かれたアイスティーも氷が溶けだしていた。コップの表面に生まれては流れる水滴が、まるで自分の代わりに泣いてくれているようだった。

 別れてから丸3日間、レオンは休暇を取った。考える必要があったからだ。どこか抜けていて緊張感なんてものとは無縁に見える人だったが、変なところで非常に断固とした面があった。これまでの関係をやめると宣言したあの日、彼は自身の荷物を残らず持って住まいさえも移してしまった。服が一つ減っていたが、レオンは気にしなかった。むしろ喜ぶべきかもしれなかった。自分のものを見れば彼が俺を思い出すだろう。もちろん、単なる願望に過ぎない。3日のあいだ、レオンは彼がなぜ自分と別れなければならなかったかを頭に書き出していった。自分が嫌いで、自己肯定感が低くて、関係に飽きて。ありきたりな理由しか思いつかなかった。彼が自分を嫌って別れようと言ったのなら、黙って受け入れるよりない。だがもし、彼が自分にふさわしくないと勝手に結論づけて言い出したことなら、悩む必要もなく捉まえなければならなかった。しかし、レオンにはそれができなかった。先日カフェで話したとき、彼の顔は飛び立つように軽かったからだ。無意識に彼を見くびっていたのかもしれない。それほどの度胸もないだろうと、知らないうちに甘く見ていた。ここ数年見られなかった『自由』をその顔に見たからこそ、レオンはとても彼を引き止められずに見送ってしまった。それであなたが幸せになれるなら俺は受け入れよう、と。あなたを愛しているから見送ったのだ。

 それが正しい判断だったかと問われればレオンは首を振るだろう。個人的には、ともかく正しい判断ではなかった。彼に出会う前の人生を考えてみろと言われたら簡単には想像がつかないほど。しかし日常はレオンを必要とし、レオンも私的な感情に振り回されるわけにいかなかった。だからこそ選んだのは過労だった。そう悪い話でもない。与えられた任務を着実にこなせば地獄から救い出された人々は感謝を示すだろうし、もともとが人を救うために始めたことではないか。眠れず疲れた目で、彼がくれた小さな手帳を撫でてポケットにしまう。こんなことぐらいで座り込んではいけないと自らを奮い立たせた。

 カフェに座ってコーヒーを飲む。苦味は美味しいどころか吐き気すら覚えた。コーヒーはどうにも合わないが、飲まない手はなかった。一口をようやく食道に流し込んだあと、担当オペレーターの話を聞いている途中でカフェの窓越しに自分を見つめる彼の視線に気付く。ここは、そうだ、彼と一緒によく来た場所だった。彼はほどよく苦いアメリカーノを注文し、自分は甘い飲み物を頼んでいた、あの。ここに来たのはまったくの偶然だった。忙しすぎるあまりそんな出来事があったことすら忘れていたらしい。まったく、どうして忘れていられたのだろう。何日も死ぬほど苦しんだのに。自分を責めたレオンは彼が一瞬よろめいたのを見て、すぐにでも駆けだそうとするそぶりを見せた。レオン。



……いまはダメよ」

「あ」

「そうやって衝動的に出て行ってもいいことはないわ。もう少し考えを固めることね」



 そうして彼女はレオンに無期限の休暇を言い渡した。解雇か? レオンが困惑するや、彼女は眼鏡を外して笑いながらまさか、と答えた。女ってやつは。何も手に付かずに思考がまとまらないのに、休暇だなんて。仕事でもしていなければ落ち着かないものを。ハニガンに与えられた任務のうち一つを最後に、レオンは無期限の休暇へ入ることになった。ただ、そこで油断したせいで頭を一発殴られ、軽い脳震盪を起こしたものの。



 レオンは直感で、彼が住んでいるだろうアパートの周辺を歩き回った。無期限の休暇で特にすることもないうえ、できることといえば心の整理よりほかになかった。頭に巻かれた包帯が鬱陶しい。もう何週間かすればほどけるだろうが。そういえば、彼は自分が怪我してくることをこの上なく嫌っていた。表には出さずとも彼の行動と表情とがすべて物語っていた。疲れていた日、眠りにつく前のベッドの上で、体の傷に触れながら溜め息をついていた彼のことが思い浮かぶ。彼はレオンが寝たと思っていただろうが、意識はまだあったため類推することができた。彼は自分が怪我してくることを嫌い、恐れていたようだった。彼は一度、苦いを通り越して絶望的な別れを経験したことのある人だった。失えば、永遠に失うことになる。彼はいまもそう思っているのだろうか? 自分との縁を切ると言ったあの日にも、そう考えていたのだろうか? 俺が死ぬのではないか。俺が彼の前から永遠に消えるのではないかと。確信が持てぬまま積もり積もった複雑な感情が爆発したのだと、レオンはあえてそう断定してみる。彼の不安は自分に起因していた。だからこそ去る直前に晴れ晴れとした顔をしていたのだし、初めから知らなかったように暮らせば自分が不慮の死を遂げようと犬死にしようと、もう感情の結びつきがないのだから清々することだろう。あなたを忘れようと努力しても、かえってさらに思い出してしまう俺のことはどうしろと? 道端に転がっていた小石を蹴とばす。レオンは彼を罵った。自分勝手で、馬鹿な人。そんなあなたを愛してしまった俺にどうしろとそんな決断を下したのか。まったく理解ができない。彼の立場からすれば、いつ死んでしまうとも知れない自分から離れるのが正解だったのだろうけれど。それなら俺のわだかまりはどうやって解消すればいい。数日のあいだ悩んでいたレオンは、彼にすべてぶつけてやりたくなって仕方なかった。彼にとってはむしろこちらが身勝手で愚かな人間だろうが、それでも隣を去ってほしくなかった。愛憎と呼ぶにはあまりにやるせなく、己の身で彼を憎悪するはずがない。ただ、彼が必要だった。レオンはカーテンが固く閉ざされた家を見上げた。







「──やっぱり無理です」



 はっ。彼の冷たい笑いに、レオンはここに来てはいけなかっただろうか、とわずかに後ずさりをした。それでもさらに一歩踏み出してみせる。あなたに近付きたかったから。彼は上がれと手振りで示し、レオンはもうどうにも耐えきれなくなって彼を抱きしめた。彼が不慣れな手つきで背中を撫でつつ『慰め』の仕草をとる。怪我を負ったときよりも強い胸の痛みに涙が流れた。



「ほとんど成功したと思ってた」

「何が?」

「縁を全部切ってしまえば楽になるだろうって。そう思って別れようと言ったのに、こうして訪ねてくるなんて」

「俺に対する理解がまだまだです。ずいぶん長く一緒にいたのに、まだ知らない部分が多いんですね」

「私が好き?」



 レオンは答える代わりにいっそう強く抱きしめた。ジェイムスは以前聞いたような溜め息をつきながら背中を叩いた。染まりたくないとあがくほど、さらに激しく染まっていく。彼のほうは自分を切り離したかっただろうが、そんなことできるはずがなかった。俺がいなければあなたは消えてしまうだろうから。

 ジェイムスはレオンに約束させた。任務のとき、怪我をしてこないでくれと。彼は努力すると言ったがジェイムスにはわかっていた。彼が負傷しないなど不可能だ。だから、約束という言葉を借りて怪我が減ることを祈るばかりだった。頭のいい彼ならジェイムスの心がわからないはずがない。頬を慈しむように撫でながら、あなたを不安にさせないようにすると囁く。自分の身を大切にしてほしかった。ジェイムスは包帯で乱れた彼の髪を整えてやりつつ、きまり悪そうに笑った。こんなにも思いつめる必要はなかったのに。



「また一緒に暮らしましょう。ここで」

「かなり狭いと思うけど」

「前よりそばにいられるからいいじゃないですか」



 彼の髪を櫛で梳いていた手を止め、謝罪をする。私が君の心を察せなかったと。君が泣くところは初めて見たと、無責任だった己の行動を省みて口にする。レオンは彼の手を取り、もうすべて忘れたことだと言って笑った。息詰まるほどの純粋な愛情。まもなく夜が訪れる。今日はとても長い夜になりそうだと、手を握り合わせてくるレオンを見ながら思う。朝がた半分ほど飲んで残ったコーヒーの香りが、リビングから寝室まで濃く広がった。