mishiadd
2024-09-13 15:59:45
5098文字
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宮本伊織は生きにくい:禁欲

生まれる時代を間違えてすら誰も恨まなかった宮本伊織が可惜夜してくれなかったセイバーを最悪な感じに引き摺り続けてやっぱり周囲の人間の人生をめちゃめちゃにする小噺【アレルギー表記】モブ伊、成立しなかった剣伊のドロドロ泥沼時差剣伊

師匠の友人が遊びに来たときなどに「何か買ってあげるよ」と言われるのが一番困ったものだった。伊織は、自分が何が欲しいのかがよくわからない
一番欲しいものは「ダメだ」と言われて育った。であれば、その他のものはすべて同じだった。カヤがべっこう飴などをねだる横で、伊織はいつまでも考え込んでいた。何かが欲しい、という感覚がよくわからない。特に何も欲しくない。
「無欲だね」と言われたがきっと違う。二番目以降を思いつくのが難しいだけだった。だが、何かを欲しがることがその場の礼儀だった。だから一生懸命考えて、きっとこれが正解なのだろうとあたりをつけながら、木彫りのおもちゃを頼んだり、筆を頼んだり、カヤが欲しいと言っていた別のものを頼んだりした。

別に欲しくもない図鑑などをクリスマスプレゼントにねだるようなものだ。自分の欲はとっくに伊織の中で行方不明になってしまっていたので、他の誰かを真似て模範解答を模倣した。そんなだから、万能の願望機を前にして――『江戸の平穏』、などと言ってしまう。



――行方不明になってしまっていたのなら、ずっとそのままでよかったのだ。そうすれば、伊織はこのまま、まるで鎮静剤を打たれているようにぼんやりとしたまま生きて、ぼんやりとしたまま生涯を終えられていたかもしれないのに。自分が本当は何が欲しいのかを知らぬまま、まるでふわふわとした夢の中で生きて死ぬように。



寝た子を起こす者がいたのだ。そうやって、伊織の前で舞って見せて、彼の目を開かせて、肩を掴んで揺さぶって、彼が本当は何が欲しいのかを散々痛い程に自覚させたあと――



――「でも、あげない」。って。



そう言って、永久に消えていった者がいたのだ。







いつの頃からか、幽霊長屋の前を夫婦に歩かせてはならない、という話が浅草で定着した。

というのも、あるときを境に幽霊長屋に棲みついていた若い浪人の素行が急激に悪くなり、誰彼構わず――男でも女でも――引っ掛けては褥を共にし、独り者を虜にするだけならまだしも家庭のある者まで狂わせて、いくつもの所帯を破局させたとのことだった。
その話がすっかり伝播する頃には、表向きには浅草中の誰もが眉をひそめて彼を疎んじているということになっていたが、その割には幽霊長屋から情事の声が漏れ聞こえない夜はなかった。

元々見目がよく美しいと評判の男だった。暮らしぶりは清貧で、人のためによく働き、無欲で、剣の稽古に精を出し過ぎるきらいはあるものの清潔な生活を送る、一介の好青年だったと皆に記憶されていた。
それが、ある夜を境に――本当に、とある夜を境に―― 一気に彼の生活が荒れた。荒れ果てた。綺麗な女子おなごを何人も連れ込んでいる、などという噂は以前からあったものの、そのときですら不思議と淫蕩な気配のしなかった青年であった。
それが、今となっては「長屋の前で目が合ったら最後、骨の髄まで魅入られて精根果てるまで吸い尽くされる」などと、西洋の淫魔のような扱いを受けている。

義妹や古くからの友人は青年の変化をひどく気に病んでいたが、青年は彼らの話も碌に聞かなくなっていた。その義妹や友人を心配し、ひとつ彼に説教を喰らわせてやろうと息巻いて幽霊長屋に赴いた者もあったが、結局ミイラ取りがミイラになって終わった。――なんなら、元々そのつもりでなかった分予後が悪く、すっかり青年にのぼせ上って全財産を貢いだ上に仕事も辞めて入れ込んでしまい、破滅してしまったとのことだった。



が終わったあとは、壁にしなだれかかるようにしてきせるで一服するのが青年の――伊織の常だった。たばこの香が長屋の中にうっすらと漂い、ふう、と伊織が細く長く煙を吐く。終わった後の相手には碌に目もくれない。それで余計皆この青年に狂うのだと、幾度目かの夜を過ごした男は知っていた。

「おまえさんは――なぜこんなことを繰り返すんだい」

尋ねる。今日はたまたま機嫌がよかったのか、いつもなら黙殺されていただろう問いに、平坦な口調で答えが返ってきた。

欲しいからだ。――欲しいものを欲しがり、手に入れる。人として当然の営みだろう」
「それで満たされるかい」

伊織が男をねめつける。「知ったふうな口を利くな」と、その鋭い目線が雄弁に語っている。きせるの灰を土間の地面に落とし、刻みたばこを詰めながら伊織が言った。

「満たされるまで喰らうまで」

伊織がたばこに火をつける。ふう、と細く、長い煙がたゆたう。――その煙の行き先を、伊織の瞳が追う。ひどく傷ついたような――絶望に沈んだ、新月のような瞳。

「なぜ、『こんなこと』――なぜ、こんなこと

ふふ、と伊織が含み笑いをするように嗤う。男を見た。――見たようで、見ていない。伊織は、何も見ていなかった

「なぜだろうな。――きっと、生涯で初めて俺がきちんと欲しがったとき、与えて貰えなかったからだろう。――ちゃんと最後まで、貫いてもらえなかった」

きせるに指を絡めながら、伊織がその場にしどけない仕草で横たわる。立てた肘に頬杖をついて、片膝を立てる。襦袢の裾の合わせ目が乱れた。

「あの――あの、男。
美しい満月の夜だった。あの男は、俺を「止める」と言って、俺と刀を交えた。――ああ、まるで夢のようだった。きっと、俺のそれまでの生涯のすべては、ここで目覚めるための夢だったのだとすら思った。
そう、すべてはあの夜のために――あの男の剣に挑むために、あの男の本気の剣を受けるために、俺はきっと生まれてきたのだと――生まれて初めて、俺は『生きている』のだと――そう信じた。
――そして、その最後の一撃のことだった。俺は、あの男が、あの男最大の奥義を――あの男の剣の集大成を――あの男の本気を、あの男のすべてを、俺に叩き込んでくれるのだと――そう思って――

コン、と伊織がきせるを鳴らした。男が伊織の横顔を見る。ひどく端正な顔からすべての表情が消え失せていた。怒りも、嘲笑も、絶望すらも。それは、まったき『無』であった。

――あの男、俺を峰打ちにしたのだ。峰打ち。――ハッ! 峰打ちだと! あの男、よりにもよって俺に手加減したのだ! ――あの男の『本気』であるものかよ!
ああ、信じていたのに。――信じていたのに!」

伊織がきせるを壁に投げつける。畳から身を起こし、両手で顔を覆った。

生まれて初めて欲しがったのに! あの男は俺にくれなかった。――手加減をして、まるで俺の頭を撫でるように、まるで対等ではなく――俺の剣をあやして、そして消えていった。
――あのときあの男に貫いてもらえなかったから、今俺はあの男の代わりに俺を貫いてくれるものを欲し続けているのかもしれないな。――ああ、そうだ」

指の間から伊織の瞳が覗く。月光の輝きを失った、闇夜の瞳が畳を見下ろしている。

「俺は知っていたよ。あの男は、本当は俺とこういう関係になりたかったんだ。――あの男は、俺のではなくが好きだったんだ。――ははは。ははははは!
なんだろうな? それは。――俺にとっては、あいつもあいつの剣も同じことだったよ。あいつの剣こそがあいつだった。あいつは美しかった

「ああ、なあ。――だから」、と伊織が微笑む。
ひどく――壮絶に妖艶な表情のように男の目に映ったのは、伊織がその顔を向けたのは男ではなく、彼の『あの男』であるからかもしれなかった。

いい気味、だな。――ははは! これであいこか? あいつが俺にくれなかったのだから、俺だってあいつにはくれてやらない。俺がおまえ以外の誰も彼もに与えるのを、『座』とやらから指を咥えて見ているがいい。
ははは。――はははははは!」

自暴自棄の、自傷行為のように――伊織が男に覆いかぶさる。
男でなくとも、伊織の破滅願望に付き合ってやる人間がこの町にはたくさんいる。――そういうことだった。







伊織の素行は悪化する一方だった。――が、ごくたまに、ふと正気に戻るときがある。あるいは、その逆か



カヤに頼まれた助之進が幽霊長屋に様子を見に行くと、伊織が畳の上で彫仏をしているところだった。今となってはすっかり珍しくなってしまったその姿に、助之進が内心で喜ぶ。

「おっ伊織さん。今日はご機嫌がよろしいようで」

おどけて言うと、かつてのように穏やかな笑みを伊織が浮かべる。助之進がなにか懐かしさのようなものを胸に覚えたのも束の間、伊織が言った。

「セイバーが戻ってきたときにやろうと思ってな。そういえば、欲しがっていたから」

助之進が言葉に詰まる。――『セイバー』がもう二度と戻ることはない、と語っていたのは伊織自身だった。

伊織が木材を彫る音だけが長屋に響く。土間に佇んでしばらくその様子を見守っていた助之進の目の前で、急に伊織が立ち上がった。――今の今まで彫っていた小さな木彫りの仏像を、やおら乱暴に土間の地面に叩きつける。岩に当たって仏像の肩が欠け、破片がその場に転がった。

「伊織さん!?」

助之進には目もくれず、伊織が長屋から出ていってしまう。呆然と立ち尽くしたまま時を過ごし、そろそろ諦めて去ろうかと思った時だった。

――伊織が、助之進の知らぬ男を連れて戻ってきた。

初めての男ではないようで、慣れた様子で長屋に入ってきた男はしかし、土間に助之進の姿を見つけて狼狽する。男の反応ですべてを察した助之進が、「伊織さん」と叱責する。伊織は助之進を見なかった。ただ目を逸らしたまま、「帰れ」とだけ短く言った。

「これで帰れるもんかい。―― 一体どうしちまったんだ、伊織さん」
「ここに残るならおまえも交ざるんだな。俺は三人でも構わない。――むしろおまえなら、あいつへの当てつけにちょうどいい」
――伊織さん!」

短く叱咤し、助之進が土間の隅で小さくなっていた男を睨みつける。顎で出ていくように示すと、こそこそと男が去っていった。それを横目に見ながら、伊織が不機嫌を隠さずに助之進を見る。その目に負けじと助之進が睨み返した。

「伊織さん、もうダメだ。――カヤちゃんの言う通り、アンタは小笠原の家に入った方がいい」
「はは。――そうか」

意外にも、伊織が笑んだ。

それもいいかもな――ああ、そうしよう。どうせ欲しいものは与えられない。どこにいても、何をしていても一緒だ。なにも変わらない――いいだろう、おまえとカヤの言う通りにしよう。――あの夜、あの剣に貫かれなかったのなら、この生活にも、この生にも、もはやなんの意味もないのだから」






そうして、宮本伊織は小笠原家に仕官した。やがて家老となり、妻を迎えて子を儲け――まるでまっとうな真人間の模範のような生涯を送り、そしてこの世を去ったという。







――ある、亜種聖杯戦争の折だった。

『聖杯戦争』を模倣した『盈月の儀』を更に模倣した、ほとんど形を成していないようなぼろぼろの儀で――そこにヤマトタケルがセイバーとして召喚されたのは、ひとえに土地の力であるのかもしれなかった。

マスターとなった人間にあたりを案内してもらっていた際に、たまたま彼の目についた立て札だった。書かれている文章を読む前に、『マスター』がセイバーに説明する。

「これ、江戸時代の――地元の名士の、偉いお侍さんが残したって言われてる石碑です。っていっても、屋敷の庭の岩に手書きで刻まれてたらしいんですけど、本人の辞世の句なんじゃないかって」

立て看板の奥に鎮座している岩にセイバーが目を遣る。確かに、何か文字のようなものが、岩肌に刻まれている。――引っ掻き傷のような、その文字。

「言い伝えだと、すごく立派な人だったらしいんですけどね。――でもこの『辞世の句』、私は昔からあまり好きじゃなくて。……なんだか、特定の誰かへの恨み言みたいじゃないですか? 家族のことも、仕えた御家のことも、なんにも書いてなくて――昔、何かをくれなかった人への恨み言。ただそれだけ。……お金でも借りたかったのかな?」
――この、『サムライ』の――名は?」

岩肌を見つめながら、セイバーが尋ねる。『マスター』がこともなげに言った。

「『宮本伊織』ですよ。聞いたことあります?」

その、懐かしい響きと共に――セイバーの口許に、深い、深い笑みが刻まれた。






禁欲・了