inte9rer
2024-09-13 11:57:19
3119文字
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『亜空間より一目』エピローグ

 物語は終わり、日常が戻り……。


「八幡、そろそろ休憩しませんか」
 部屋の奥、デスクに向かい書類の束に囲まれていた青年が、顔を上げた。
 見ると、机の横に一人の、同じくらいの青年がやって来ていて、銀色の小さな盆にカップや菓子をのせて立っていた。
「あぁっ……えぇ、そうですね」
 デスクに向かっていた青年は苦笑して立ち上がると、その机の上を片付けはじめた。インク瓶や朱肉は、辺りが汚れないように、自分の背に置かれている背の低いチェストへと、慎重に避難させる。
 そして、盆を持っている青年の方へ、笑顔で振り返った。
「ありがとうございます。貴方のお誘いの通り、おやつの時間にしましょう、二瀬」
 彼こそは、官営二瀬炭坑のよく知る兄、官営八幡製鉄所だ。

 汽車に乗っていた、別の世界からやって来た八幡たちは、神戸駅で汽車から降りようとした瞬間に、強烈な光に包まれてすっかり消え去ってしまっていた。代わりに、その場に立っていたのは、自分たちのよく知る元の八幡だった。釜石の方は一緒にいなかったが、後から聞くところによると、同じ頃に三井鉱山たちの眼の前に帰ってきていたらしい。
 一時期は周りの人々を騒然として、彼ら二人を問い詰めていたが、月日が去るうちに人々の心も落ち着いて、一月も立たぬ内に普段の生活へと戻っていた。


 
 9月の中旬、季節はすっかり秋の模様へと移り変わり、窓の外から見える皿倉山では、青々とした緑の中に鮮やかな紅葉が現れ始めている。
 八幡は、二瀬が持ってきてくれた、丸い薄型の煎餅を二枚張り合わせたような姿のクッキーを珍しそうに眺めた。
「これは……風月堂のゴーフルですか」
「えぇ、そうです。長官が今朝方の訪問客から頂いたらしく、余っているから良ければ貴方へも持っていってくれと」
 紅茶の入ったカップを傾けながら、二瀬は頷いて答える。
 神戸に暖簾分けされた風月堂が、数年前から売り出している「ゴーフル」は、カルルス煎餅でクリームを挟んだ姿をしていて、フランスでよく知られるゴーフルから若干ずれた形をしている。八幡は、その神戸風月堂をこよなく愛する甘党の川崎造船所から、熱心にこの菓子を推められて食べたことがあったので、見知っていた。
 なるほど、と八幡は呟いてそのゴーフルを口で割って含んだ。風味がすっきりしているアッサムのミルクティーは、ゴーフルの持つ柔らかな甘味とうまく調和し、口の中で溶け合っていく。
 
 菓子を堪能しながら、窓辺の紅葉を眺めている八幡の前で、二瀬はなんと切り出そうか、唇を噛んで落ち着かない気分でいた。
 別の世界から来た八幡との約束を如何にして果たすか、二瀬はこの一ヶ月の間、悩みに悩んだものである。甘えると言っても、そのやり方のわからない二瀬には、まずその方法から考える必要があったのである。そして、ようやく二瀬が考えだした作戦を決行する日が、今日であった。
 
「八幡……二つ、聞きたいことがあるんですが」
 二瀬は自身の動揺を隠そうと、できるだけ平然を装いながら、八幡へ話しかけた。彼がこちらの方へ振り返る。
 落ち着いて、二瀬はまず一つ目の疑問を口にした。
「来週は、何かご予定などありますか?」
 突然の話題に少し驚いたような顔をしつつも、八幡は穏やかに返事をする。
「いえ、特に……来週は珍しく来客の予定もありませんし、戸畑も鮎川さんの方のご家族の方と満州へ旅行するそうですし……我々はちょっと暇ですね」
 その答えに、二瀬ははやる気持ちを押さえて頷いた。実のところ、二瀬は八幡に予定の無い、加えて、ほとんど二人きりになる週間を狙って作戦を決行するつもりであったから、八幡に聞く前からその答えを予想していた。あくまでこれは、最終確認のようなものだ。

 二瀬はそこで深呼吸をして、まっすぐ八幡の目を見た。八幡は、その切羽詰まったような彼の様子に驚く。
「実は、私、来週いっぱいはお休みを頂いて、どこかへ旅行しようと思っているんですが」
 びっくりしたような、不思議そうな顔で、八幡はだまって二瀬の顔を見ていた。
 その視線に耳を赤くしながらも、二瀬は八幡の方へ身を乗り出して、そのまま二つ目の疑問を口にした。
「そして──そして、貴方も!その旅行について来てくれませんか!?」
 突然の申し出に、八幡は言葉を失った。口を開いたまま、黙って目を丸くしていた。

 沈黙が流れる……二瀬の顔は、耳どころか頬まで赤くなり始めていた。思わず、戸畑の方の予定を把握するのが遅れて、一週間前という急な申し出になってしまったことを、心中で悔みはじめた。やはり、いきなりでは、駄目だろうか……
 
 しばらく固まっていた八幡は、一瞬思案するように顎を撫でた。
 だが八幡は、すぐに二瀬の方へ顔をむけた。眉根をさげて、微笑むように答える。
「珍しいですね、二瀬……うん、でも、いいですよ。一緒に行きましょう」
「本当ですか!?」
 その答えに、今度は二瀬が固まり──かけるも、すんでのところで、彼は首を振った。まだ作戦は終わっていない!
 そして、最初に断らなかった、最後の三つ目の疑問を口にする。
「あぁ、えっと……じゃあ、その!……旅行の計画を、考えてくれませんか?」
「えぇっ……
 これには八幡が驚愕の声を上げた。二瀬も申し訳無さそうに目線を下にやる。
「すみません、その……昨日旅行に行こうと思ったばかりで、何も決めていなくて……
 昨日思ったというのは、当然無計画ぶりを誤魔化すための嘘だ。しかし、この無計画ぶりも、二瀬の作戦のうちの一つだった。
 八幡は、個人的な旅行に行ったことなどほとんど無い。出張のために旅行することはあっても、自分の行きたい場所へ気の向くままに旅行をするという経験が、八幡には欠落していた。自分の願望をあまり話さない八幡は、滅多に旅行へ行きたいなどと言うことはない。けれども、贔屓である鉄道局から温泉街や景勝地へのパンフレットが届くと、八幡はそれを捨てず自分の書斎の戸棚に溜め込んでいるのを、二瀬は知っていた。彼は夜や朝方の一人の時間の時、密かにそれらを読んでいるのだろう。
 だから二瀬は、自分が旅行に行く予定を半ば無理やりにでも彼を誘うことを考えたのだ。八幡は身内の年下からの個人的な頼みごとは、基本断らない性分だから。そして、その計画は八幡に丸投げすることで、彼を彼自身の行きたい場所へ旅行させてやろうと思ったのである。
 これが、二瀬の考えた八幡への甘え方、そして、彼の甘やかし方であった。

「そうですね……ううん、ふふ!」
 普段の冷淡な態度が打って変わって、グイグイと来る二瀬に、八幡は困惑しながらも笑ってしまった。
 唐突な話で、当然八幡にも心構えはできていなかったが、旅行へ行くと決めた途端、急に自分の頭の中に様々な案が浮かんできたような気がする。うーん、と考え込んで、八幡は顎を撫でた。
「なら、中国地方の辺りに行きませんか?一緒に出雲へ行ってあの太いしめ縄を見たり、道後温泉へ行ったりしましょう。それにできれば、たたら場で和鉄製法を見てみたいな」
 ニコニコと楽しそうに語る兄の姿に、二瀬はようやく自分の作戦が上手くいったのを実感して、肩を下ろした。
 それと同時に、抑えていた気恥ずかしさが溢れ出てきて、今更心臓がバクバクとしてきた。なんと言えばいいか、嬉しいのだが、嬉しすぎて言葉が出てこない……
 
「仕事が終わったら、早速切符と宿の手配しましょうか」
 楽しげに紅茶を飲み干す八幡の声に、二瀬は自分の右手を見て、なんとか、頷いた。