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2024-09-13 11:56:29
12374文字
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『亜空間より、君に一目』第十話
ついに釜石をめぐる勝負にケリをつけた八幡だったが……。
「へへ、へ
……
参っちまうよなぁ、おいおい
……
」
「うぅーん
……
三池〜
……
」
鉱山はなんとか机から身体を起こし、力なく笑った。戸畑も涙目で鼻を鳴らす。
そしてポケットから、金庫のものと思わしき鍵を取り出す。
「お前の勝ちだ、お前の勝ちだな、八幡」
なんと素直な対応だろうか?二瀬はいよいよ心中の不気味な不安が収まらなくなる。
一方の八幡は毅然とした顔が手を差し出す。そして鉱山は八幡の方へ鍵を投げようと──
「でも、これを受け取っていいかは、お前だけの一存で決められることじゃないだろ?」
鉱山は舌を突き出して、鍵を引っ込めた、瞬間、部屋の扉の開け放たれた。
「その通りだぞ君たち!」
「!」
聞き覚えの声だ──八幡たちが振り返ると、そこに立っていたのは、釜石などではなかった。
八幡製鉄所長官の中井と、八幡の技術者、黒田化工部長だった。後ろで扉を押さえているのは、彼ら二人を連れてきたらしい三井物産である。
二瀬はこれまでの鉱山の素直な態度の意味を知って、眉間を押さえた。
「八幡、と呼んで良いのか?まぁいい、ともかく──」
中井は険しい顔で八幡達に向かう。その表情は怒りに燃えているようだった。
「何が起きたかは、この事態の前ではもはやどうでもいい!君が誰であろうと、八幡製鉄所の人間として、勝手な行動は断じて許さないぞ!」
突然迫ってきたその剣幕には、八幡もなんと答えればいいか、言葉が支えているようだった。
黒田は後ろで眉を上げて、ため息をついている
……
二瀬が思わず疑問を口にする。
「お二人共
……
八幡のことは、三井の人間から聞いたのですか」
二瀬の言葉に答えたのは三井物産だ。
「その通り。いきなり荒唐無稽な連絡をしてこられて、こっちもビックリしたんでね。それで確認取らせてもらったら、どうやら随分身勝手な暴走してたらしいなぁ、お前ら
……
」
彼の口元は口角を上げているが、目は何処までも冷徹だ。
そこで八幡は鉱山の方を振り返った。彼も鉱山の態度の変わりようの理由を理解したらしい。
「なるほど
……
最初からあのゲームも、彼らのための時間稼ぎだったわけですか?」
苦々しく言う八幡へ、鉱山はあっけらかんと答える。
「おう!台風のせいで汽車は動かないし、車で先生方をホテルから呼ぶのに手間取るのは分かってたからなぁ」
どうりで鉱山が小細工などする必要が無いと重ねて言ったわけだ。最初からこれが本命で無かったのだから。そして、釜石の姿が一切ない理由も
……
最初から、彼に引き合わせる必要もなく、すべて終わらせるつもりだったのか。二瀬は首を振った。
「でも
……
思いつきにしちゃあ、楽しかっただろ?」
人を本気にさせておいて
……
と八幡は怒りの籠もった目で笑う鉱山を睨んだが、どうしようもない。
「残念だぜ!八幡君
……
おじさんは釜石をやっても良いんだけどなぁ!でも、八幡君のお偉いさんが駄目っていうんだもんなぁ」
「や〜は〜た〜!だから言ったでしょ、どうせ無理だって!」
戸畑もこの事態を分かっていたらしい、腰に手を当てて嬉しそうな声だ。
だがそこで、中井が彼ら二人へ釘を刺すように怒号を飛ばした。
「誂うのは辞めろ!──いやいい、ともかく」
中井が改めて八幡の方を向いた。
「話はそこの物産君と戸畑から聞いた。君が随分"遠い"ところから来た八幡だと言うことも、そして君が何故釜石を合併したいと勝手に行動しだしたかも」
先程の怒りを抑え込むように、中井は慎重に言葉を選んで喋っているようだった。
八幡とて、当然中井のことを忘れたわけではない。なぜなら彼は忘れもしない、関東大震災の年にこの八幡へ長官としてやって来て、そして──
「だが、私だって、民営と合併できるなら、とっくにそうしている!そのために、会計法を改定して、委員会や諮問のための調査に奔走して、どれだけ多くの人間と協力したか──それなのに!」
そうだ!中井は、八幡の念願であった釜石との合併──製鉄合同を叶えてくれた張本人だった。八幡はバツが悪くなって、思わず黙って目線をそらしてしまう。
「君がこんな一人で暴走して、それだけで釜石と合併できるだなんて──そんな軽薄な言動は、我々と、そして合併のために協力してくれた民営の人々への冒涜だ!」
激昂する中井をなだめるように、黒田が彼の肩に手を置いた。そして、黙って唇を噛む二瀬の方に目線をやる。
「二瀬
……
どうして彼を止めなかったんだ。まさか君が
……
我々を騙してまで彼の荒唐無稽な行動に協力するだなんて」
心底、その理由がわからないという顔だ。黒田は長年コークスの研究をしてきた所以で、その原料の管理を行っていた二瀬のことを最もよく知る技師の一人であった。だから、彼の平素の冷淡で現実主義的な性格をよく知っている分、今回の彼の無茶な行動は信じられないのだろう。
二瀬は
……
顔を歪ませて答えた。
「私は
……
ただ、こういう結果になるのは、分かっていたからです」
「なんだそれじゃあ
……
答えに」
「こういう結果になると、私もよく理解していました。だから──"八幡"のためにベストを尽くしたかった、それだけです」
そう言い切ると、二瀬は顔を逸らした。黒田はその強情な態度に益々困惑したような表情をする他ない。
重苦しい空気の八幡と長官達に対して、鉱山と戸畑は笑顔で両手を手で握っていた。
「あぁ良い気分!おじさん、狡い手を使ってる時が一番興奮するからなぁ!」
「うーわッ八幡!三池って本当、性悪ですね!さぁ観念したら早く元に戻って、僕と一緒に東京でハネムーン!」
八幡は頭を押さえて目を瞑った。ここで帰ってしまったら、自分はどうやって釜石に出会えるのだろうか?それに、元の世界に帰る方法だって何の進展も──
「いやぁ、台風が上がって良かった!お帰りの車は、きっちり手配してありますから──八幡行きへの切符まで、ね」
物産が不敵な笑顔で扉を叩く。二瀬も観念してそちらの方を向いた。
だが、その後ろに──部屋の中の人々とは別の、新しい人影を見つけて目を見開いた。
「待ちたまえ。ゲームに勝った者には、その分の褒美が与えられえるべきだ」
人影の方から、流麗な声が響く。
物産が驚いてその声の主に振り返った。長官たちも、突然の事態に思わず扉の方へ身体を向ける。鉱山ですらも、愕然とした顔でその姿を見ていた。
「第一、八幡君
……
君が本当に望んでいるものは、そんな小さな金庫に収まる紙切れの束なんかじゃないだろう」
自分の名を呼ばれて、八幡も顔を上げる。釜石ではない、知らない人間の声だが
……
。
「その声ッ銀行の義兄貴か!?」
鉱山は半ば焦ったような声を上げる。脳裏では釜石は自分が連れてくるといった銀行の言葉を思い出していた。しかし
……
褒美云々とは一体何のことを言っているのか!?
人々の視線の先には、頭からずぶ濡れの姿の三井銀行と──
同じくずぶ濡れの姿の、見知らぬ壮年の男が立っていた。
「いや誰だよォッ!?」
鉱山が素っ頓狂な声を上げた。戸畑たちも大困惑で目を白黒させている。
「え?何?何?何?誰ですかこのおじさん!?」
「ていうか、銀行
……
なんでお前そんなずぶ濡れになって──」
長官たちに至っては茫然としてただ口を開くばかりだ。
ただ一人──八幡だけが、目を輝かせてその男性を見ていた。
「──ッ釜石!」
そして、次の瞬間、その男へと飛びついていた。
人々が沈黙する
……
。
「はぁあああぁ〜!?」
鉱山や戸畑が、絶叫の声を上げた。
「どうしてここに!? まさか釜石も
……
この世界に来ていただなんて!」
壮年の男に──釜石製鉄に駆け寄った八幡は、彼が前身ずぶ濡れなことにも構わずに、八幡は彼を抱きしめた。
一瞬面食らった釜石はだが、すぐに苦笑して彼を抱きしめかえしてやった。三井銀行も、眼前の二人の様子に、肩をすくめて微笑む。
「すまん
……
まぁ、色々あってな、ワシのせいで、お前さんにも随分面倒かけた
……
」
釜石の言葉に、八幡は不思議そうに顔を上げた。三井銀行がそんな八幡の肩を叩く。
「だが、君がわざわざ東京まで来てくれたお陰で、二人で一緒に帰れそうだな」
「あぁ、そうじゃな!八幡
……
ありがとう、ここまで来てくれて」
穏やかな、それでいて晴れやかな笑顔で、釜石は八幡の目を見た。
八幡は、ようやく自分の想い人に会えた喜びで胸いっぱいな反面、うまく事態が飲み込めずに眉をあげた。
が、事態を飲み込めていないのは鉱山達も同じだ。
「あ、義兄貴
……
その男が釜石って
……
どういう」
動揺で顔を引きつらせながらも、鉱山が声をかけた。眼の前の壮年の男は、自分たちの知る釜石とは似ても似つかない。大柄で目力が強く一見威圧感のある彼とは違って、眼の前の男は中肉中背で人の良さそうな、穏やかな顔つきをしている。
「そこの八幡君と同じように、釜石もどうやら別の世界から入れ替わっていたらしい
……
だが、この事態もおそらく今日で終わりだ」
「えぇ
……
」
銀行の答えは端的なものだったが、鉱山達の困惑を解くには至らない。
固まる周囲を他所に、釜石は八幡に笑いかける。
「しっかし、お前も大分無茶なことしたなぁ、こっちに来て早々やることがワシの買収か!」
そう言って労うように、彼は自身と比べると一段背の高い八幡の頭を、緩やかに撫でた。八幡は久しぶりに感じたそのぬくもりに、思わず耳を赤くする。戦後の長い時代を経てから、釜石の方から甘やかしてもらえたのは、久しぶりだ。
「あぁ、そうなんですよ釜石!本当に大変で
……
だから早く私に買収されて下さい!」
その答えに、釜石は眉を上げて首を捻った。困惑した顔で笑う。
「どうせもう数年後には日本製鉄で一緒になるだろう
……
別に今暴れなくたって」
「嫌です!待てません!私は一年一日一秒でも、貴方のすぐ傍に行きたいのに!」
呆れるような釜石の言葉に、八幡は食い気味に叫んだ。その姿に、茫然としていた戸畑が思わず叫んだ。
「はぁあああぁ〜!? ちょっと、貴方、八幡の名前を背負っておいて、そんな甘えた台詞を言うのは辞めて下さい!」
いや戸畑、貴方も元の八幡に対しては大概あんな感じでは
……
戸畑を前に、二瀬はため息をついた。もしかしたら、戸畑が今この目の前にいる八幡へ抱いている反感は、同族嫌悪だったのかもしれない
……
。
「人に尽くしたがるのは美徳だが、それに大勢を巻き込んで不幸にするのは悪徳だ。社会に生かされている存在ならば、なおさらね」
三井銀行がたしなめるように八幡へ声をかける、が、八幡にとって彼は初対面のよく知らない男の忠告だ。ムスッとした顔で彼を睨む。銀行は手が付けられないといったように、苦笑して肩をすくめた。
しかし、駄々をこねかねない八幡の態度に、釜石が一喝する。
「その通りじゃ八幡
……
今お前がワシを抱え込んで、経営不振にでもなってみろ。それでリストラが始まったら、どれだけ多くの家族が路頭に迷うと思っとる!?」
「うッ
……
それは、そう、です
……
」
思わず八幡も上目遣いで口どもる。
だが、八幡はそこでハッとして三井銀行の方に食いかかった。
「ていうか!ちょ、貴方誰なんですか!? なんで貴方が、私の釜石を連れてきてるんです!?」
これはまた八幡の変なスイッチが入ってしまったな
……
釜石が彼をなだめようと声をかける。
「この人は三井銀行さんだ。この一週間、世話になってな、色々面倒を見てくれて」
その言葉を言い切る前に、八幡が愕然とした顔で釜石を見た。
「世話になってッて
……
はぁッ!? 面倒を見てくれて〜ッ!?」
釜石は息を飲んだ。これはまずい。言葉選びを間違えたかも知れない。八幡は信じられないとばかりに釜石の肩をがっしり掴む。
「え
……
あのちょッ、じゃあそれ
……
ま、さ、か、それ、その男と、一週間一緒だった、とか」
震える声には今にも何かが爆発させそうな気配があった。釜石はなんと答えればいいか、言い淀む。
「あぁ、ま、まぁな?いや、この人の所の経営者の方の家で、世話になって
……
」
「一緒にいたのも食事の時くらいだ。彼が大食いでなくて、助かったよ
……
私の財布が必要以上萎まずに済んだからね」
三井銀行が焦って固まる釜石の背中を叩いた。急にこわばりはじめた自分を気遣っているのか、彼の冗談めいた皮肉に、釜石も仕方無さそうに微笑む。
だが、その年来の友人のような二人の距離感に、八幡は絶句した。
自分でさえも、釜石と一緒にいられるのは本当に限られた時間しかないのに
……
!? その見ず知らずの男と、一週間も!?
意中の男の知らない一面を見せられた気分だ。思わず足がよろける。
「おぉっと!し、しっかりせぇ、八幡!」
「だ、大丈夫ですか?」
釜石が力の抜けた八幡の腕を掴み、二瀬が崩れかけたその背中を支える。
銀行は八幡のその反応を見て、困ったように眉を上げた。だが、すぐに何かに気がついたようで、あぁ、と声をあげた。
「まさか君は
……
この私を横恋慕だとでも思っているのか?」
「あぁ〜
……
」
その言葉に、釜石は数多の思い当たる節の重みによって項垂れる。八幡の嫉妬心が強いのは、釜石もこの百年以上の付き合いの中で重々承知済みだ。なんと言ってその誇大な嫉妬を解いてやれば言いのか
……
。
「その心配はいらないよ!」
一方の銀行は、肩を揺らして一笑していた。八幡は困惑の顔で彼を見上げた。
「私は釜石君のことが嫌いだし、釜石君も私のことが大嫌い、相反相嫌悪だからね。到底、恋慕にはなり得ない」
銀行はどこか意地の悪いような笑顔で、そう言い切る。
「ははは
……
そ、そうかもな」
キッパリとしたそのもの言いに、釜石は再び苦笑した。ここまで快活で強烈な断り文句は早々ないだろう。
が、八幡は考え込みながら不満げな声で小さく呟く。
「はぁ? 釜石のことが嫌いとか
……
。ありえない
……
性格が歪んでいる方
……
?」
八幡の不満は解消されるどころか、変な方向へ向い始めているようだ。
釜石は八幡をしっかりさせようと、その肩をがっしり掴んで自分の方を向かせる。
「ほら、ワシらはもう帰る時間なんじゃから、すべてのことは水に流す!
……
それに」
そして、彼の肩を反対にして、部屋の人々の方へ押し出した。
「お前さんも、この一週間、世話になった人の一人二人はいるだろう。彼らには、きちんと礼をしてから帰りなさい」
「それで、この私のロイヤルストレートフラッシュですよ!」
拳を握りしめながら、目を輝かせて熱弁する八幡を、釜石は穏やかな眼差しで見つめつつ、うんうんと相槌を打った。
温かな夕日が客車の中を照らす。窓の外では、雄大な山々に囲まれた村々の姿がなだらかに続く。みずみずしい田園風景が流れていく。
八幡たちは、北九州へ帰るため、まずは神戸へと向かう東海道線の客車の中にいた。客車のコンパートメントの中にいるのは、八幡と釜石と、そして二瀬の三人だった。
三井本館の迎賓室から北九州へ向かう汽車で帰ることになった八幡たちだったが、長官たちは三井の人々に事情の詳細を聞くため本館へ残った。そして肝心の戸畑は、八幡が元に戻らないのにへそを曲げ、彼が元に戻ったら自分を呼ぶように二瀬へ頼んで、父親の一人である郷誠之助の家へ帰ってしまっている。
一方、ずぶ濡れすぎてもはや汽車に乗るのもためらわれる姿だった釜石は、三井銀行が車夫に頼んで三井本館隣の三越から買ってきたシャツに着替えて、すっかり綺麗になっていた。元の服は、三井銀行が自身のデスクから引っ張ってきたらしい漆塗りのつづらに収め、風呂敷で包んでおいた。そして今は、彼の膝の上である。
ようやく、久方ぶりに腰を据えて釜石との時間を得ることができた八幡は、この一週間で自身が釜石のために起こした武勇譚を熱く語っていた。釜石の方にも、それなりの多くのことがあったのであろうのは、彼のどこか疲れた表情と、それでいて何かをやりきったような、さっぱりとした態度からそれとなく感じられた。しかし、彼は黙って微笑むばかりで、自身の方で何が起きたかはあまり語りたくないらしかった。八幡も、せめてあの三井銀行とかいう男と何があったのかだけは心底問い詰めたかったが、流石に再開して数時間でギスギスするような気分は味わいたくない。
それで八幡は、自分の身に起きたことなどを釜石に熱心に話していたのだった。
釜石も、適度に苦笑したり、感心したり、楽しそうに彼の話を聞いているようだ。二瀬は、そんな二人を横目に、穏やかな表情で窓の風景を眺めていた。
「あぁぜひ、貴方にもこの私の胆力を見てほしかった
……
いや、でもそしたら、私が試合に集中できなかったかも
……
」
「おいおい、そこは格好良く決めてくれ!」
すこし恥ずかしげに自身の頬に手を当てる八幡に、釜石は仕方が無さそうに首を振って微笑む。
そして、釜石は身を乗り出すと、その八幡の手に自身の手を重ねた。
「えっ
……
」
八幡は、釜石からの突然のアクションに、思わず目を見開いて固まってしまう。
年季が入った彼の手のひらは、数知れず握ってきた工具や炉のハンドルによって擦り切れて、いつもザラザラだ。八幡はあかぎれの心配をして、いつも彼にハンドクリームを渡しているけれど、彼は手の甲にばかり塗るし、第一すぐに塗るのを忘れる
……
。
でも八幡は、そんなどこかガサツともいえる彼の手の感触が、とても素朴に感じられて、そしてそれが非常に彼らしくて、大好きだった。
「だが
……
お前さんに、大事がなくて良かった。楽しそうで
……
何よりだ」
橙色の空が、優しく温かな釜石の表情を包むように照らしている。白い日光が、釜石の射干玉の上で煌めいた。飾らない彼のまっすぐな笑顔は、彼と出会った頃から変わらない。まさしく、黄昏の太陽を照らし返し、一迅の風に揺らめく稲穂だ。
八幡は、宝玉や螺鈿細工のような、綺羅びやかで辺り一帯に強烈な光を眩かせるものとは違った、山々や満月のように、悠然としてもっと大きな美しさを持つ釜石が、大好きだった。
しかし釜石は、なんとそのまま固まっている八幡の空いている方の頬に、静かにキスを落とした。
いよいよ、八幡の頭は大混乱で全身がこわばる。
釜石の方は自分でキスをしておきながら、恥ずかしさからか、いたずらごころからか、すぐに離れて、耳を赤くし目線を泳がせる。が、すぐに思い切ったように、八幡を優しく抱きしめた。八幡のすぐ横、真剣な声色で、釜石はつぶやく。
「うん
……
ありがとう、八幡
……
ここまで来てくれて」
八幡は返事をしようにも、頭が固まって、口を開けたまま声を出せない。
コンパートメントの中に、しばしの沈黙が流れる。八幡も釜石も、お互いにただ黙って、二人は重なっていた。汽車の揺れる音や木が軋む音も皆消えて、ただ並ぶ相手の息遣いだけが、聞こえてくるような気がした。
しばらくして、釜石の方がゆっくりと身を起こして八幡から離れた。
「ま
……
これが
……
ほら、あの、お前さんがゲームに勝った褒美
……
ってことだ!」
みるみる顔を赤くする彼は、恥ずかしそうに頬を掻いて、八幡から顔を逸らす。一方の八幡は、未だに夢の中にいるような、信じられない面持ちで、黙っていた。
再び沈黙が流れる。八幡は口元を押さえて歓喜に震えたような声を上げた。
「か、釜石
……
あぁッ!」
釜石は、流石に気恥ずかしさでいたたまれなくなって、思わずバッと立ち上がった。
「あああ!すまん!ワシ、御手洗いに行ってくる!」
そう叫んで、八幡が行動を起こす間もなく、彼は逃げるようにコンパートメントから飛び出していった。
「良かったですね」
先程の彼の体温を思い出し、感動に浸っていた八幡へ、二瀬が声をかけた。
振り返ると、彼は八幡の方を見て、静かに微笑んでいる。
「ゲームに勝った甲斐があって
……
私の努力も、無駄ではありませんでした」
彼の声掛けで、八幡ははっとした。
そうだ、ここにいるのは自分と釜石だけでなかった。気の抜けた姿を晒すのは、できるだけ控えるべきだろう。自分は仮にも鉄鋼界のリーダー、甘えた姿を見せて良いのは、師父の釜石の前だけだと決めている。
「そ、そうですね。本当に、貴方には感謝しないといけません」
咳払いをして自分の心を落ち着かせ、八幡は二瀬に向かって座り直した。
「貴方には本当にいろいろ奔走してもらいました、最後まで
……
私は釜石のためだけに動いていたのに、それでも貴方は私のために尽力してくれ──」
離している最中、八幡はなんとなく不思議な気分になった。自分が釜石に尽くしている時、それを周囲の製鉄所達に好意的に見られることは滅多になかった。無論、時に経営者たちが二人のために奔走してくれることはあったが──
「ッ──いや、待って下さい!」
八幡は突如として声を上げると、彼の鋭い視線で二瀬を刺した。まさか二瀬が釜石の救出に積極的だった理由は──自分の恋人の危険と横恋慕と記念日の全てに天才的意識を持つ八幡は、ある可能性に気が付いて、思わず冷や汗を流した。
「まさか──まさか貴方も、釜石を狙ってたんですか!?」
「えぇえッ!?違いますよッ!?」
「違うんですか
……
?」
困惑と訝しみの混ざった表情で、八幡は二瀬の顔を見た。
「いや
……
そもそも、貴方の知る釜石さんのことは今日まで全く知りませんでしたし、この世界の釜石に関してならなお一層、私とは無関係です」
二瀬がそう断言すると、流石の八幡もやや納得したように、んむうと唸って懐疑の目を逸らした。
「それなら、どうして私を助けてくれたんですか?」
すると今度は、不思議そうな顔で二瀬の顔を見つめる。
「自分で言うのはなんですが
……
私の言動は徹頭徹尾自分の欲望に沿ったもので、貴方には何の責務も、利益も無かったでしょう」
「
……
」
彼の言うとおりだ、二瀬は黙って彼の目を見つめた。
眼の前にいる八幡は、自分の知る兄の八幡とは別人だ。それに、二瀬炭坑が八幡製鉄所を支えるのは、合理的な経営を行うためである。今回のように、経営とは無関係な、八幡の極めて個人的願望にまで付き合う義理は無い。それでも──
「言ったでしょう。私は、貴方に同情していると」
二瀬は窓辺へ視線を流して答えた。依然、彼に話した通りの答えだ。
八幡が、それでは満足な答えになっていないというように、眉間を寄せる。窓に反射した彼の顔を見て、二瀬は言葉を続けた。
「貴方が本当に"八幡製鉄所"なら
……
私は貴方の身に起こった、多くの出来事を、ずっと隣で見てきたから」
淡々とつぶやく彼の瞳は、遠くの空を眺めていた。
夕日と反対側の稜線には、青い夜の星々が浮かんで、静かに瞬きはじめている。
「貴方が多くの苦難を越えてきたことも、そしてそれでもなお、貴方の人生に多くの不自由があることを、私は知っています」
大勢の鳥たちの黒い影が、田畑から飛び立つ。黒いもやのように大空でうねると、山々のねぐらを目指して旋回した。
「だから
……
たまには、貴方のわがままを叶えて差し上げたかった。それだけです」
自分の知る八幡はいつも、物腰穏やかで仕事熱心で、滅多に自分の気持ちを顕わにしない、絵に描かれた如く"立派な"社会人だ。周りの人々を気遣うのが優先で、自分の都合は後回し、彼は本当に聞き分けの良い子どもで、そしてそのまま"良い"大人になった。彼は本当に、社会から望まれる姿の優等生だった。
だが二瀬には、兄である八幡のそういう姿に、それは彼が自己を押しこんでしまっている結果のような気がしてならなかったのだ。
彼は幼い頃から今まで、ずっと権力闘争や利権と不可分の位置にいる。その動乱で、彼はその幼少期を共に過ごしてくれた自身の恩人と離れることになって、一時は停止の危機に追いやられた。それに、彼が生まれるにあって与えられた命題である、鉄鋼一貫作業を満足に果たせたのは、十数年の長い年月をたってからのことだ。そういう長い苦労の連続で、彼は、自分の一挙一動に重い責任があるということを、痛いほどよく知るようになったのだろう。
優等生と言えば聞こえはいいが、社会や周囲のために自己の意志を抑圧しているような兄の姿に、二瀬はいつも同情していた。彼は、人々の思惑と、そして未熟なる技術の発展のために、多くの辛酸を舐めた苦労人だが、今もなおその辛酸は続いている
……
。
「自分の意思をはっきりと周りに言えるのは、本当に幸福なことです」
夜空がゆっくりと立ち上ってくる。赤い夕焼けの光が紫色に滲んでゆき、雲は彼らの間で、艶やかな牡丹や藤のような色味に染まる。
「きっと貴方は
……
昔から、そういう意思を受け止めてくれる人がいたんですね。それが貴方の釜石さんなんでしょう」
二瀬は八幡を一瞥した。八幡は意外そうな顔で二瀬を見つめていた。
「私も、私たちの八幡に甘えられるような存在へなれたら良いと、思ってはいますが
……
」
そこで、二瀬は言葉を見失った。
分かっている。兄の八幡から見れば、自分など所詮非力な存在だ。自分は彼の経営の合理化のために生まれた炭坑会社なのに、その石炭は製鉄業に不可欠なコークスには不向きな品質で、期待外れのものだった。そのせいで、わざわざ彼のほうが年月をかけてコークス炉を改良、開発することになって、経営にも負担を与えたのだ。これでは兄も、到底頼りがいが無いだろう。
いつも自分は、彼に気を使わせてばかりなのだ
……
二瀬は、暗く沈んでいく山々の稜線を眺めた。
しかしそこで、黙って聞いていた八幡が、口を開いた。
「ならまずは、貴方が彼に甘えれば良いじゃないですか」
突然の言葉に、窓に持たれていた二瀬は驚いて八幡の方を見た。
「甘えられたいと貴方は言いますが、人を甘やかすって、人に甘えられるって、どういうことか分かっているんですか?」
こちらを問い詰めるような彼の眼差しに、二瀬は返す言葉を思いつけず、黙ってしまった。
八幡はそのまま言葉を続ける。
「貴方はいつも生真面目で隙がないじゃないですか、それでは
……
この世界の八幡も、きっと甘えづらいですよ」
う
……
と二瀬がうめき声をあげた。
正直に言って、二瀬にも若干その自覚はあるのだ。兄に負けず劣らず、彼もまた仕事熱心で、常に万全の状態で仕事をするために、酒や煙草も一切やらない。それに二瀬は、そういう自身の態度を、禁欲すぎて浮いていないかと兄が心配そうに苦笑していたのを、覚えている。
一方の八幡は、畳み掛けるように二瀬へ迫った。
「それと!本気で彼のことを思っているのなら、彼の方から甘えられたいなどと、我が身可愛さで他力本願を抜かすのは辞めなさい!」
「!」
その言葉に、思わず二瀬は胸をつかれる。
「良いですか!? 鈍感な男には自分から行かなくちゃ、永遠にその距離も変わらないままなんです!好きであれば心が通じて、相手の方からよってきてくれるだなんて妄想は!恋心をこじらせるだけ!」
経験者としての苦しみを思い出したのか、八幡は険しい顔で拳を握りしめながら、熱く捲したてるように語る。いや、別に自分の八幡に恋心を抱いているわけではないが──と思った二瀬だったが、彼の必死の剣幕にはもはや言葉を挟めない。
「私だってどれだけ釜石にアタックしてきたか
……
釜石が甘やかしてくれるのも、全てはこの私の熱意あってのものなんですからね!」
「は、はぁ
……
」
激情のあまり二瀬の両肩を掴む八幡の勢いに、圧倒されたような、感嘆のような、彼は絶妙なる相槌の声をあげた。
八幡もそこで気が済んだのか、すぐに彼を解放して、咳払いをした。
「とにかく貴方は、自分の心の中だけで念じて、相手の方から行動してほしいだなんて思う、甘えた考えを捨てろということです。好きなら自分から行動しなさい!自分から
……
」
それで、二瀬は自分の抱えている問題の本質を教えられたような気がした。
「自分から
……
それは
……
難しい話、ですね」
兄の八幡に負けず劣らず、弟の二瀬もまた、自分の意志を表すのは、苦手なのだ。しかし、自分は意思を隠して、相手の方は素直になって欲しいだなんて考え方は、確かに、傲慢で甘えた考えかもしれない。
二瀬は困ったように眉をあげて、考え込んだ。
すると、二瀬の視界に、大きな手が飛び込んできた。
見上げると、八幡が、こちらに右手を差し出している。
「ならば、約束してください」
彼の力強い目線が、二瀬を見ている。
地平線に浮かぶ夕日は、燃える火の如き強烈な赤い光を放射して、八幡の瞳を情熱的に照らしていた。
「私が帰って、元の八幡が貴方の前に戻ってきたら、絶対、彼に甘えてみせると」
「えぇっ
……
」
突然のことに、二瀬は固まってしまう。だが、八幡の眼差しは、ただまっすぐに二瀬を貫いている。
「いいですか!? 私は口だけの者など、好きではありません。行動力の無い、意気地無しも!」
「
……
」
真剣なその表情は、本気で自分を応援してくれているのかもしれない。
八幡の姿に、二瀬はどこか心へ迫るものを見た。
二瀬は目を閉じて、深呼吸をすると──自身の右手で、八幡の右手を力強く握った。
八幡も、フッと満足そうに笑うと、その手を堅く握り返した。
二人はお互いに黙っていたが、それでもこの両手の熱い力を通じて、相手の意思が通じているような気がした。
静かに手を話すと、二瀬は握った手を見て、それから八幡の方へ視線を移した。
「ありがとうございます。これなら
……
ふふ、貴方の破天荒ぶりを思い出して、勇気を貰えそうだ」
その言葉に、八幡は苦笑する。
「破てッ
……
まぁ、良いでしょう、そういうことでも。これが──私なりの、貴方へのお礼ということです!」
胸を張って言う彼の姿には、溌剌な意思が宿っていた。
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