思いがけなく体調を崩してしまったオデットは、女中が用意してくれた客室の一室で軽く休息をとることになった。本人は「大丈夫です」と主張したものの、ベルナールが指摘したように、今の彼女は立っているのもやっとの状態だった。
用意してもらった部屋に抱えるようにして連れていく間、オデットは白くなった顔を少し赤くして、ノエに体を委ねていた。
「兄さん、すみません……」
「気にしなくていいよ。長旅の疲れも出たのだろうから、ゆっくり休むといい」
案内された客間にあった寝台にオデットの体を横たえさせ、ノエは静かに声をかける。
口では平気だと言いながらも、やはり精神的な不調は体の負担を増大させていたのだろう。横になるとすぐに、オデットは瞼を閉じてしまった。
(冒険者として、以前に比べれば随分と成長したように見えてはいたけれど……無理を隠していたのかもしれないな)
柔らかな寝台に潜り込むと、すぐにオデットは静かに寝息をたてて眠り始めた。
彼女の容態がひとまず落ち着いたことを確かめて、ノエはそっと安堵の息を吐く。
とはいえ、話はまだ終わっていない。ベルナールがいる元の部屋に戻らねばと振り返り、ノエは目を丸くした。
そこには、残してきたはずの父が、今まさに部屋に入ってくるところだった。その手には、羊皮紙を丸めたものをいくつか持っている。
「元いた部屋で待っていてくだされば、戻ったのですが」
「お前にとって、オデットさんはとても大切な仲間なのだろう。ならば、彼女を別室に置いて話をするとなっては、お前が落ち着かないだろうと思ったのだ」
父親に自分の考えを見抜かれてしまい、ノエは思わず唇を曲げそうになる。あまりに子供っぽい振る舞いと分かっていたがために、どうにか彼は平静を取り繕えた。
ベルナールに促され、今度もノエは客間にあった来客用のソファに腰を下ろした。ベルナールもそれに倣い、ノエの向かい側に腰を下ろす。
お茶も茶請けもない場となってしまったが、人の出入りでオデットが目覚めてはいけないと気遣ってくれたのか、ベルナールは従者を呼びつけるような真似はしなかった。
代わりに、ベルナールは入室していた時から手に持っていた巻物を机上に広げた。
「生還した三名の件については、先の話でひとまず結論は出せただろう。続けてとなって申し訳ないが、お前が討った竜の遺骸のありかについて、教えてもらえないだろうか」
「分かりました」
「……できるならば、お前の旅路についても教えてもらいたいのだが。各地の要塞の状況について、実際に利用した者の声を聞かせてほしい」
言いつつ、ベルナールが広げたのは、以前にも見せてもらった領地の地図だ。
ノエは身を乗り出して、以前も教えてもらった山を指差してから、そこに至るまでの道筋をぽつぽつと語った。
ベルナールが、ベルナールなりに息子の歩んだ道筋を知りたいと願っていることは、ノエには分かっていた。もし、彼が単なる親心として報告を望んだのならば、ノエは間違いなく断っていた。けれども、領主の立場として請われれば、流石に無視はできない。
(……ずるいやり方だ)
だが、父を非難しようという気持ちは薄かった。ベルナールが、ベルナールなりにノエを不愉快にさせまいと気遣っている。その心遣いまで踏み躙るのは何か違う、と思ったからだ。
ノエの話が被害者が集められた山に差し掛かる頃を見計らい、ベルナールは更に一回り小ぶりの地図を取り出した。それは、あの急峻な山を巡る道のいくつかを描いたものだった。
だが、地図を見てノエは眉を寄せる。ヤルマルが見せてくれたものと、記されていた道が異なっていたからだ。
「……この地図、もしかして少し古いものではありませんか」
「一年ほど前に、この館に保管している地図は全て新しいものに入れ替えているはずだ。お前が見てきた光景と、この地図の内容は異なっているのか」
「はい。僕が見てきた限り、この道はすでに崩落していて使えません。こちらも、落石があって、塞がっています。ただ、ここからこの道に続く傾斜は、道が崩れた結果、逆に通れるようになっています」
「……この山に関しては、もう少し頻繁に地図を書きかえる必要がありそうだな」
ノエの説明を聞き、ベルナールはゆるゆると首を横に振る。ノエは、使えなくなった道をいくつか示してから、本題であるランドンについて話し始めた。
「竜の死骸は、この付近にあるはずです。地脈の影響を受けて、岩石が異様な発達をしています。中には、非常に硬く鋭利に発達したものがありました。その一つに、ランドンが運悪く落下したのです」
ノエが討伐時の状況について説明している間、ベルナールは黙って話を聞いていた。
ノエは、出来る限り事実だけを淡々と説明した。しかし、何が起きたかを説明する以上、自身の負傷を誤魔化すことまではできなかった。
ノエの説明が、ランドンの口に一度飲まれたところに差し掛かった頃には、ベルナールの顔の険しさは一層増していた。それでも、ベルナールは余計な言葉を挟まずに、ノエはの説明を静かに聞いていた。
「……もし、ランドンの落下地点があと少しずれていたなら、竜は少しばかり負傷するだけに留まっていたでしょう。あの場にランドンを誘い出したのは僕ですが、それ以外の部分については全て偶然が重なり合った結果です。……それが、今回の討伐の全容です」
一通り話し終えて、ノエは細く息を吐く。それは、かの竜が今際の際に吐き出した言葉を思い出してしまったからだった。
だが、ベルナールは、命を賭けた戦いを思い出したが故の感慨からと思ったらしい。
「……随分と、危ない橋を渡ったのだな」
「結果的にそうなった、というだけです。それに、死ぬつもりはありませんでした」
ノエはそこで言葉を区切り、いまだ眠り続けているオデットへと視線をやる。
柔らかい布団が心地よいのか、かけ布団に埋もれているオデットは、先ほどに比べればずっと顔色もいい。見られているとも気づかずに、言葉にならない寝言を漏らして寝返りを打つ少女の姿に、ノエの口角がふっと緩む。
「必ず帰る、と約束したんです。その約束のためにも、僕は命を投げ出すような真似はしません」
「……そうか」
ベルナールの返答は、たった一言だった。しかし、彼が伏せた目の向こうで、ノエの無事を祈っているのは明白だ。
それを悟りながらも、息子である青年は沈黙を守った。父親である男も、自らの思いを語ろうとはしなかった。
「ランドンの遺骸を確認する件ですが、彼が絶命した場所は兵を大量に送り込むには不向きです。高所から確認した方が、安全でしょう」
先ほどノエが語った内容には、自分が彷徨い歩くことになった岩石群の様子も含まれていた。方向感覚を失うほどに異常発達した岩石の森は、迂闊に踏み入れば遭難者を増やす結果になりかねない。
「ならば、何名かを偵察に送り出し、高所からの目視確認を優先させるべきだろうな。その点については、砦の管理者とも調整をしておこう」
ベルナールはノエに重ねて礼を述べる。そこで話は終わりかと思いきや、彼は徐に地図とは異なる巻き物を取り出した。
地図に使われている羊皮紙よりもずっと大きい巻き物は、広げると机上をすっかり埋め尽くしてしまった。
「……これは?」
「先日、リンクパールでの通信の際に、お前が質問をしていただろう。ナタロア、という人物を知らないか、と」
「はい。たしか、どこかで聞いたことがあると言っていませんでしたか」
「ああ。お前が探しているナタロアと同一人物かは分からないが、その名前がラペイレットの家名を継ぐ者の中にあったのだ。だから、私は彼の名前を聞いたように感じたのだ」
そう言うと、ベルナールは巻物のある一点を示した。そこには確かに、ナタロアという文字が記されている。インクの劣化具合から、相当前の時代の人物であるのは間違いない。
「この中に記されているのは、この家の血縁者ですか」
「ああ。見ての通り、我が一族の家系図だ。どの家と繋がりを持っていたか、一目で把握するために古くから使われているものでもある」
貴族とは、血筋を重んじるものだ。ラペイレット家もその一員として、家柄を示す記録を何代にも亘って残すために家系図を作成していたようだ。恐らくは、ベルナールの名も残されることになるのだろう。
「それで、ナタロアさんはラペイレット家の関係者だったのですか」
「ああ。かなり前の代の者だな。それに、彼は正確にはラペイレット家と直に血の繋がりがあるわけではない。彼は、領主の夫として、この家に入ったのだ」
「それは、どういう意味でしょうか」
ノエの質問に、ベルナールはナタロアの隣に並ぶ女性の名前を示した。その名前は、家系図の他の線と繋がれている。しかし、ナタロアは女性――妻とは異なり、誰かの子供であると示す線がなかった。
他の世代の嫁入りした領主の妻、あるいは婿入りした夫の名前のそばには、実家の名前が残されているが、ナタロアのそばにはそのような記述もない。少なくとも、ナタロアは名のある家から嫁いだわけではなさそうだ。
「見ての通り、ナタロア氏は、入り婿だったようだ。しかも、恐らくは市井の出であったのだろう」
「市井の……。そのような方が、領主の正式な夫として認められるのですか」
「市井の出であっても、家が認めるのならば……正式な婿として家に迎えることもできた時代だったのかもしれない」
ベルナールの言葉に苦みが走ったのは、彼が自身の愛した女性を妾の座に置くことしかできなかったことを思い出したからだろう。だが、今は過去について指摘するための場ではない。
「ともあれ、入り婿とはいえ、イシュガルドの貴族社会は男性が主体となっている場面が多い。実務においても、彼が采配を振るう場面も多かっただろう」
ノエの母のように隠された関係でなければ、ナタロアは領主の右腕として己の力量を発揮できる立場にいた。竜との戦いにおいて、彼が前線に立って指揮をとる場面もあったのかもしれない。
「ノエ。お前は、ナタロア氏がランドンと何らかの関係があった、と言っていたな」
「はい。どうやら、ランドンはナタロアさんと因縁があったようです。竜が口走る言葉に、その名前が出ていたので……少し気になったんです」
まさか、かつては友人のような関係だったらしい、と説明するわけにもいかず、ノエは言葉を濁す。
もし、かつて領主の右腕であった男が竜と通じていたとなれば、とんでもないスキャンダルになってしまう。たとえ何百年も前の話であっても、ノエは彼らの友情について、簡単に口にするわけにはいかなかった。
「そういうことだったのか。……ならば、ナタロア氏も長年の仇敵が討ち果たされて、安堵していることだろう」
ベルナールは感慨深げに言うが、ノエの顔は暗い。
果たして、ランドンとナタロアの間にどのような関係が築かれていたのか。今を生きるノエに知るすべはない。
だが、もし。ランドンが今際の際に語ったような親愛が、二人の間に芽生えていたのならば。ナタロアは、遠い子孫の成し遂げた結末に、果たして笑ってくれるだろうか。
(……過ぎた話だ)
ノエはゆっくりとかぶりを振り、家系図を見せてくれた礼として、ベルナールへと頭を下げる。
「ナタロア氏だけでなく、古い時代のラペイレットの者は、この屋敷の裏手にある墓地に眠っている。あの墓は、ラペイレットの墓が教会の墓地に移される前に使われていたものだ」
ベルナールが言うには、数代前の領主の方針変更により、領主一族であっても教会の敷地内にある墓地に埋葬されるようになったのだそうだ。民草が領主の墓参りに気軽に参加できるように、という考えに基づくものであると、ベルナールは説明した。
だが、古い時代の遺骨は、それまで使用していた屋敷裏手の墓地に残したままにしてある。故に、ナタロアの墓があるのは領主一族専用の墓地であろう、ということだった。
「時間があるのなら、墓前にお前の戦果を報告するといい。たとえ偶然の勝利であったとしても、ナタロア氏も喜ばれるはずだ」
「分かりました。そこまで長い時間を取るつもりはありませんので、オデットはその間お任せしてもよいでしょうか」
「ああ、問題ない。何かあったときのために、女中を側に控えさせておこう」
「ありがとうございます」
話が一区切りついた頃合いを見計らい、ベルナールは広げていた家系図や地図を片付け始めた。だが、普段は従者にやらせているか、彼の手つきはどこかぎこちない。
案の定、一度丸めておいた家系図が、ベルナールが手を離した隙に広がってしまう。それを見て、ノエは小さな嘆息と共に、
「……手伝いますよ」
再び自由を得た巻物を手に取り、くるくると纏めていった。
思いがけない息子の助力に、ベルナールは呆気に取られたように、ノエを見つめる。
「……いいのか」
「何がですか」
「ああ、いや……。お前は……私を許さないと、言っていただろう。私に、領主として恥ずかしくない振る舞いをせよ、と」
「その気持ちに変化はありません。僕は、あなたが僕やお母様を捨てたことは生涯許すつもりはない。それに、僕やお母様にありもしない罪を被せたのなら、手に入れた領主という立場に相応しい振る舞いをするべきだ、という考えを変えるつもりもない」
机上に置いていた紐を手に取り、ノエは地図を紐で纏めていく。その手つきは、ベルナールと異なり、冒険者として手慣れたものだった。
「ですが、あなたが領主として相応の苦労をしていることも、時に私情を捨てねばならなかっただろうことも……少しは、分かろうとしている……つもりです」
ノエの脳裏には、かつてベルナールの部下であったマルコの言葉が蘇っていた。
ごく普通の、どこにでもいるような青年。親の期待に応え、秀でた兄の存在に引け目を感じながらも、それでも領主の冠を捨てることなく立ち続けた者。
それが、マルコの語ったベルナールという男だ。
(僕は、異端者の耳障りのいい言葉に、この街の人が賛同したと聞いたとき……怒りを感じていた)
自分でも気づきたくはなかった。けれども、思わずにはいられなかった。
あの男が、こんなにも領地のために奮闘しているのに。それでも、不満を口にする者がいるのか、と。
それもまた、一見的な考えであるとわかっている。ベルナールとて、全てにおいて完璧な治世ができていたわけではないだろう。
だとしても、思わずにはいられなかった。
あれほど嫌悪していた父を、結果的に擁護するようなことになってしまうとしても。
「……ですから、民を思うあなたの気持ちや、人々を守りたいと願う姿勢を否定するつもりはありません。領主ベルナール・ド・ラペイレットに向ける僕の気持ちは――これが、全てです」
ノエは散らかっていた地図を全て片付けると、一際太い紐で纏めきり、ベルナールの腕の中へと押し付ける。それらを受け取ったベルナールは、小さな吐息の後に、
「……ノエ」
絞り出すように、息子の名を呼んだ。
十年以上の時を挟んで再会したとき、二人は消えない溝を確かめ合うことになった。
襲撃時の再会では、ノエは領主としての父を認め、それ以外を認めなかった。
救出の件を伝える場では、ノエは徹底的に父を領主として扱った。
そして、今は。
「僕があなたに歩み寄れるのは、ここまでです。……父さん」
再会した直後に、父を呼ぶために選び取った呼称は、どこかぎこちなく、ノエの口に馴染まないものだった。
だが、今は少し違う。
すこし前から、気がつけばその呼び名は、ノエの口に不思議と馴染んでいた。
家族としての愛情が愛着は、そこにはない。けれども、格式ばった凍りついた呼称は、再会した直後に比べれば、ほんの少しだけ舌に馴染んでいた。
その上で、ノエはベルナールをそう呼ぶと決めた。
「……ああ。それで、私には十分すぎるほどだ」
もはや、ノエが愛情を込めて自身を父と呼ぶことはないと、ベルナールも分かっていた。
だからこそ、わずかに氷解しただけの『父さん』という言葉が、どれほど得難いものかが分かる。
領主の地位と己の愛を秤にかけ、地位を選び取った男の手元には、指先ほどの温もりしか残らなかった。けれども、彼にとってはそれで十分だったのだ。
「……では、失礼します。戻り次第、オデットを連れて出発します。お忙しいかと思いますので、見送りは不要です」
「分かった。墓への道が分からなければ、屋敷にいる従者に尋ねれば教えてもらえるだろう」
ノエは一つ首肯を返すと、ひと足さきに席を立つ。
多くの感情を湛えながらも、かろうじて平静を保ち続けている父親に向けて、ノエは一礼だけを残し、その場を去った。
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