Ca(か)
2024-09-12 06:59:22
6076文字
Public haikaveh SS
 

426MHz

多忙により生活リズムが逆転してすれ違うふたりが、短い手紙のやりとりをする話




 俺とカーヴェが最後に言葉を交わしてから今日で三日が経つ。妥当のようで、しかしやっぱり早くも思える時間感覚はカレンダーを眺めてみたところでどうもしゃんとしない。
 一週間後にコンペを控えるカーヴェは準備に忙しく、そういった時期は昼夜逆転の生活になるので家の中であっても顔を合わせるタイミングが極端に少なくなる。以前の彼は寝食を削って仕事に打ち込むことも多かったため体調も崩れやすく、また脳に栄養もいかないので進捗も滞りがちだった。しかしこの頃は自分でも気をつけるようになったようで、簡単な食事を摂って風呂に入り、睡眠もそれなりに取ったうえで最も集中できる夜間に作業をしているらしい。いい傾向だ。とはいえ時折部屋のほうからああぁ、だのうえぇ、だのと懊悩たるうめき声が漏れ聞こえてくることはあるので、芸術家の苦悩というものは生活習慣が多少改善されたところでそうそうなくなるものでもないらしい。以前あんまりにも夜通しうめくので寝るに寝られず、さすがに一言言ってもいいだろうと部屋の扉をノックしたとき「突然ノックなんてするからびっくりしてアイデアが飛んでいったじゃないか」とげっそりやつれた顔で恨みがましげに睨まれたことがあった。しかしノックの前にさらにお伺いを立てるのもおかしな話で、実際そうしたところで今度は「いきなり部屋の外で喋りだすな」と言われるに違いない。つまり家庭内平和のために、この苦悶の声についてはいくらうるさかろうと早々にあきらめてしまうのがいちばんなのだった。
 同居とは双方が折り合いをつけながらちょうどいい落とし所を見つけて生活をしていくものだ。気を使いすぎては疲れ、しかし気を配ることを忘れてしまえば亀裂が生じる。もっとも大切なことは相手を尊重することだ。たとえ借金がまだたんまり残っていたとしても、家賃をツケていたとしても、カーヴェはちゃんと自分でモラを稼いでそれらの返済ができるれっきとした大人なのだ。

 しかしそうなるとこれはどうしようかと手元のフライパンに視線を落とす。
 ふと夕飯にカレーが食べたくなって香辛料を買って帰ったが、保冷庫を覗くとエビもそろそろ食べておかなければならないことがわかり、予定を変更してカレーシュリムプが食卓のメインを張ることになった。カーヴェの作るカレーシュリムプはスープがやや多めで、好みによってチーズをかけたりするが、俺が作るものはスープと言うよりもソースに近くなるように水分を抑えてガラムマサラで味に深みを出す。久々にあのとろみが恋しくなり空腹に任せて作り始めたところ、さすがにちょっと食べ切れない量ができてしまった。少し余るくらいなら明日の昼にピタに挟んで持っていけばいいと思っていたが、いざ完成してみればピタに挟んでもまだ余りある、どうみても二皿ぶんはあるカレーシュリムプがフライパンの中でほかほかと湯気を立てている。意識せずとも手が覚えていたのが二皿ぶんの作り方だったことになんとも言えない感覚を覚えながら、この予定外の一皿ぶんをどうしようかと考えを巡らせた。
 素直に考えれば、余剰分は明日の自分よりも今日のカーヴェに食べさせるほうが望ましいだろう。わざわざ用意してやらなくともあれはあれで好きにこしらえて食べるだろうが、寝食を欠かさないようになったとは言え時間は有限なので、いちいちメニューに悩まなくて済むように簡単なメニューのローテーションを組んでいるに違いない。それなら都合の良いときにこのカレーシュリムプを温めなおして食べてもらうのが最も効率が良い——彼の胃がそこまで荒れておらず、スパイスたっぷりのメニューを受け付けるのであればの話だが。
 おすそ分けのカレーシュリムプを皿によそってラップを掛ける。これだけでは自分のぶんだとわからないだろうと手近なメモ用紙を一枚ちぎり、一言を添えた。 ”作りすぎた。よければ” ……あまりに簡素すぎるかとも思われたが、どうぞと言うのもなんだかおかしい気がする。君がそろそろ食事を抜き始める頃だと思ってわざと多めに作ったわけではないということや、無理をして食べないようにとも言い含めておきたいところだが、子どもでもないのだからと首を振って考えをかき消した。誤解のないようにとあれこれ考えてもかえって誤解を生むことは往々にしてある。最低限必要なことが伝わればいいかと書き直すのはやめにして、自分の食事の用意をするべくテーブルにランチョンマットを敷いた。

 同居においてもっとも大切なことは相手を尊重することだ。俺は当然カーヴェのことを、わざわざ食事を用意してやらなくとも自分の世話は自分でできる人間だと承知している。
 それでも、忙殺される彼になにかしてやりたいと思っていたのか。
 自分では気づかないほどにそう思うことが当たり前になって、だから知らずふたりぶんの料理を作っていたのか。
 それを差し出すことは、気持ちの押し付けにはならないだろうか。
 あの一皿が手を付けられることなく朝まで置かれていても構わない。受け取ることを強要するのは単なる押し売りだ。そう頭ではわかっていつつも、やはり気になってしまうのが人のさがというもので——……

 つくづく文字とは、便利なものだと思う。
 ひとくちでも減っていたらなどと思うくせに、紙の上では「よければ」なんて殊勝な態度を気取れるのだから。

 ◇◇◇

——っは! あ、あれ……今何時だ」

 長いこと続いていた集中力がとうとう切れ、いつの間にか忘れていた呼吸を一気に取り戻して顔を上げると時計の針は午前二時を指していた。危うく食事のタイミングを逃して低血糖になるところだったとひやひやしながらペンを置いた僕は、とりあえず大きく伸びをしてすっかり固まった背中をほぐした。
 普段の仕事は個人依頼が主なためコンペのような場に参加することはないものの、今回はオルモス港の改修の功績を認められ、教令院が主催する指名型のコンペに推薦されて参加することになった。やるからには本気で取り組まなければと繁忙期さながらの籠もりっぷりで、アルハイゼンとももう三日ほど顔を合わせていない。生活リズムが真反対の僕に気を遣ってくれているのだろう、アルハイゼンの立てる足音やドアの開閉音は極めて静かで、おかげで生活リズムが真反対であっても物音で中途覚醒してしまうこともなく快眠できている。気配りには最高のパフォーマンスで応えなければ芸術家の名折れだ。当日にぼろぼろのふらふらで壇上に立つようなことがあれば、たとえ今世紀最高のアイデアを持ち込んだところで実現性に難ありと判断されても仕方ない。僕自身がまず説得力のある状態でなければ理想はいつまでも机上の空論にすぎず、そうさせないために今は睡眠と食事を欠かしてはならないのだ。
 食事を意識した途端、思い出したようにお腹がぐうと鳴った。今回はなにを食べようかと思考を巡らせてはみたものの、集中力がかけらほども残っていない状態では自分が今なにを食べたいのかもわからなかった。手順も洗い物も少なく、パッと食べられてそれなりに腹持ちがし、おいしいもの——なんてよくばりな条件に当てはまるメニューはそう多くなく、自然と数種類の料理をローテーションするようになってはいるが、正直マンネリで飽きもする。テイクアウトもいいけれど外出のための身支度が億劫なので、それなら適当に野菜でも炒めようという方向に舵を切ってやりすごしてきたがさすがにそろそろ限界だった。
 きゅうりとツナのパスタか、トマトとチーズのドリアか——そんなふうに最近食べていないものをいくつか浮かべては、そのどれもに対してなんとなくこれじゃないなという気になってしまう。どうしたものかとうんうん唸りながらキッチンに向かうと、夕方にはなかったはずのラップに包まれた一皿が目に入った。

「ん? なんだろうこれ……カレーシュリムプ?」

 ふんわりとかけられたラップの隙間から食欲をそそるスパイスの香りが漂う。アルハイゼンが保冷庫に入れようとして忘れたのかとも思われたが、皿のそばには二つ折りにされたメモが添えてあり、そこには几帳面な字で ”作りすぎた。よければ” というメッセージが書かれていた。
 この家には僕とアルハイゼンのふたりきり。つまりこの一皿はまぎれもなく、僕あてということだ。

……ふ、っくく……

 メモに書かれた、あまりにそっけない二言がなんだか可笑しくて、僕はこらえきれず吹き出してしまった。なんだ、よければって。そんな殊勝な人間なんかじゃないくせに。ほかの人から見ればこの紙は適当に書いた走り書きに見えるだろうが、僕からすればかわいい手紙だ。修羅場でさんざん胃を荒らす僕を知っていて、そんな男が厚意を無碍にすまいと無理して食べやしないかと気にかけながら、あまり冗長に書くものでもないと言葉をすっかり飲み込んで最低限のことだけを書いて。朝起きて皿が手つかずでも「そんなこともある」なんて懐の深いように振る舞うつもりで、しかしひとたびくるりと踵を返せば呼吸と見紛うくらいに薄く、小さくため息をつくのが目に浮かぶ。
 大丈夫、全部わかってるよ。アルハイゼン。
 ひとしきり笑ったことでにじんだ涙を指で拭い、皿をレンジに入れる。庫内灯があかあかとエビを照らしてソースの縁がぷつぷつと沸き立ち始めるのを見守ってから、いつものようにランチョンマットを敷いてカトラリーを用意する。バゲットも合いそうだと思いついて二枚ほど切り、グラスに水をたっぷり注いだところで皿の温めが終わった。扉を開ければほわあ、と温かないい匂いが真正面から降りかかり、もう限界だとばかりにお腹はきゅるきゅる鳴いた。
 お待ちかねのメインを真ん中に配膳し、席について背筋を伸ばす。思いがけないご馳走に手を合わせてからスプーンでエビとカレーソースをひと匙すくって口に運んだ。

……ん、ふふ」

 笑みがこぼれる。可笑しいからじゃない。おいしいからだ。久々に味わうエビのぷりぷりとした歯ごたえはじんわりと感じ入るほど嬉しくて、辛すぎないのに深みのあるカレーソースは水気も味付けも自分のものとは違うのに、不思議と体に沁み込んでいく。バゲットに乗せて次のひとくち、またひとくちと手は止まらず、気づけばあっという間に完食していた。さっきまではなにを食べたら良いかまったくわからなかったのに、バゲットでソースを拭われてすっかりきれいになった皿を前にした今は「きっとこれだったんだ」とそればかりを思う。ふうと一息ついても物足りなさはやってこない。完膚なきまでに満腹、これ以上ないくらいに満足だった。お腹の底からむくむくと元気が湧いてきて、頭のてっぺんから足の爪先までぐんぐんと血が巡る感覚がある。体がぽかぽかと温まって、なんだかすごいことがやれそうな気がする。
 今にもアイデアが滝のように降ってきそうな予感があって、一刻も早く部屋に戻らなければと思ったが——その前にひとつやらなくてはならないことがある。

「えーと、紙、紙……あった」

 ちょうどいいメモ用紙を引っ張り出し、今度は僕がアルハイゼンに書き置きをする。アルハイゼンへ、と書き出したところで思い直し、その一枚を破って新しく書き始めた。

 "カレーシュリムプ、おいしかった。ありがとう。いってらっしゃい"

 アルハイゼンに負けず劣らず簡素だが、あいつならきっとこれでぜんぶわかるはずだ。
 君がわざと多めに作って寄越したわけではないのをちゃんとわかっていること。完食したのは純粋に美味しかったからで、無理をしたわけではないこと。そして——最近すれ違って直接言えていない「いってらっしゃい」を、たとえ文字の上でも伝えられて嬉しいこと。
 こんなに長い付き合いだから、言わなくてもわかることはたくさんある。しかし年月の長さに甘えて言葉にしないのは不誠実だ。かといってすべてを語りすぎるのも風情がなく——言ったり言わなかったりの絶妙なバランスの上で喧嘩をしつつも、そんなやりとりを心から楽しんでいる。
 どうしたって僕らは話すことが好きなのだ。それが声に出ていても、出ていなかったとしても。
 きっちり端を合わせて折った手紙をアルハイゼンの朝の導線上に置いて僕はキッチンを出た。なんだかロッカーにラブレターを入れる学生みたいだと気づいた瞬間、気恥ずかしさから頬が熱くなる。アルハイゼンに対する気持ちはとうに愛に変わったと思っていたけれど、存外まだ恋の余地があるのかもしれない。瑞々しい愛おしさに引っ張られるようにして歩幅を大きくしながら、深夜の廊下を足早に、しかし静かに戻った。


 翌朝。
 窓から差し込む朝日がゆっくりと伸び始める六時過ぎ。部屋の外でパタン、と小さくドアの閉まる音がした。遠くに聞こえる気だるげな足音がだんだんとリビングに近づき、キッチンスペースに差し掛かる。寝起きのアルハイゼンだ。僕はそのままペンを走らせながら、計算を続ける頭のほんの片隅のリソースを空けて耳をすませてみる。すっかり聞き慣れた朝の生活音は、たとえ目を瞑っていても扉に隔てられていても、アルハイゼンの朝のルーティンをありありと教えてくれた。
 カチャリ、と控えめな音を立ててアルハイゼンはグラススタンドからひとつを手に取り、水を一杯飲もうとして二歩進み——ぴたりと、そこで音が止んだ。つられて僕の手も止まる。手紙に気づいたか、と思わず息もひそめて様子をうかがっていたら、少しして蛇口を捻る音がした。それからあまり間を空けずにコーヒーミルに豆を入れる小気味良い音がして、いつもどおりのあいつの朝が始まったのがわかった。
 先程までの気だるげな擦り足の足音とは打って変わった、なんだかやけに軽やかな足運びで、だ。

……っふ、ふ」

 さっきまで眠たかったんだろうに、今や冴え渡る足取りで一日を始めようとしている。それがなんだか無性に胸のやわいところをくすぐってたまらなくなった。たった一枚の紙切れでこうも変わってしまうかわいいやつが今どんな顔をしているのか、今すぐ部屋を飛び出して見に行ってやりたいのをどうにかしてこらえる。ああ、このコンペが終わったらなにを作ろうか。肉を焼いてポテトサラダをもりもりに作り、久しぶりにミントゼリーも仕込んでみてもいい。趣向を変えてモヒート風もいいかもしれない——忘れないうちに付箋にメモをしてカレンダーにぐっと押し付けた。

 開けようと思えばいつでも開けられるドア一枚を隔てて僕らはまだ交わらない。今顔を合わせてしまえばきっとおはようだけでは到底足りなくなるから、あとのお楽しみにとっておく。
 それでも次に顔を合わせたときにキスくらいはしたくなるだろうなと眉を下げながら、僕は止めていたペンをふたたび走らせた。