すなつき
2024-09-12 00:15:48
26217文字
Public
 

ミリオンディニーラバーズ

闇オクにて不思議な青年アキラにより一億で落札された若きシリオンのオス、ライカンが、1から彼の手によって形作られ成長していく話。

画像投稿分を一本に纏めました。




―――それでは次の商品です! こちら少しばかりパーツは足りませんがなんと、若いオスのオオカミのシリオン、獣型でございます!」

どっ、と沸き立つ薄暗い会場の中心。スポットライトに煌々と照らされたステージの上にそれはいた。
錆びついた狭い檻の中。膝より下のない片目のオオカミのシリオンが頭を擡げて睨みつけていた。簡易の服を纏うその体はやや痩せていて、毛並みはボサボサ。口枷の嵌るその下で鼻に皺を寄せ、歯茎を剥き出しにしながら低い唸り声を上げている。両手にも枷が嵌められてピンと張った太い鎖が動きを封じているようだった。

「こちら少しばかりヤンチャなワンちゃんでございまして、暴れないように弛緩剤を一本か、二本……ああ、いえ三本か四本でしょうか! 打たれておりますので、どうぞご安心を」

マイクを握った司会の男は戯けたピエロの仮面をつけて、慇懃な態度で一礼してみせる。ついでとばかりに檻からはみ出した太い尾を鞭で叩いて、安全性を示してみせた。
シリオンは悲鳴の一つも漏らすまいと歯を食いしばり痛みに耐える。指先には上手く力がはいらず、折れた爪から血を滲ませながら檻に縋り付いている有り様だ。

「それでは、両脚、右目なしのパーツ不足。目の色は赤、毛並みはアッシュのオスのオオカミ。新たなご主人サマをお迎えしたく! 500からスタート」

カン!と木槌が高い音を立てる。会場では怒鳴り声のように数字を叫ぶものと、見窄らしい商品に失笑を漏らすものが多くいた。
550、600、700。
数字は徐々に釣り上がるが、このような場所で奴隷として売買されるシリオンの値段にしては低いものだった。
大抵商品として扱われるシリオンは、子どもが圧倒的に多い。無力な存在を力で抑えつけて、恐怖に寄る擦り込みで飼い慣らす。
彼らにとってみれば人間こそが至高の存在であり、動物の特徴を残すシリオンは高みに至れなかったモノとして人以下の扱いが基本なのだろう。
吐き気を催すような心理を咎めるものはいない。ここはそう言った者たちの集まりだ。

「反吐が出るね」

会場の片隅、白いドミノマスクで顔を隠したまだ若い、青年の域を出ない男がぽつりと零す。この場に似使わないような上等なグレイの三つ揃えスーツ。オレンジ色のハンカチーフが鮮やかに目を引く装いだ。
背後にひっそりと控えるシンプルなメイド服に身を包む少女は先の言葉に同様のマスク越しに頷いた。
会場では二人の参加者が競って値段を上げていた。片方は臓器売買の仲介人。片方は薬物研究のマッドサイエンティストだったか。どちらに買われてもあのオオカミにとっては地獄真っしぐらである。
2000と2500それから、2550。
水掛けのような数字の押収に青年は緩く溜め息を吐き出して、片手を上げた。

「一億」

そうしてマスクの下で形の良い唇に笑みを浮かべた青年の声は、ざわめく会場を一瞬で静かにさせた。
この場でいち早く我に返ったのは司会の男だった。

「い、一億! 一億がでました! 一億、他にはありませんか!」

青年は笑みを浮かべたままゆったりとした仕草で立ち上がると階段状になったホールの座席の間を抜けてステージに向かう。尾を引く、光のような鮮烈さでもって彼は会場の視線を一身に集めた。それほどまでに洗練された立ち姿。ほっそりとした首、抜けるような滑らかな肌。しなやかな四肢を動かして青年はステージへと上がった。
咎めるものはなく、青年は司会の男の前まで真っ直ぐ進み足を止めた。目を猫のように細めながら黒い革のグローブが嵌まった手の指先を、男の木槌を持つ手に添える。つるりとした革の表面がすりすりと甘えるように撫でた。
男の喉が、上下する。マスク越しにぴたりと目が合った青年が整った顔立ちの持ち主であることが分かって、木槌を゙握る手がじんはわりと湿り気を帯びた。

「ほら、はやく木槌ならして。僕に、あのワンちゃんをちょうだい」

ね、と促されて男は言われるがまま木槌を振り下ろし、無意識のうちに落札!と高らかに叫んでいた。
元々競っていた二人が、怒鳴り散らす様を横目に見ながら青年は浮かべた笑みを消すと、男にはもう興味がないとばかりにぱっと体を離した。
そのまま自らが落札したシリオンの檻へ向かう。薬が効きすぎているのか、頭を擡げることさえ困難になっておりぐったりと伏している。静かに肩が上下しているので、眠ってしまっただけだろう。しかし近くで見れば扱い悲惨さがより際立って思わず舌打ちを漏らす。

背後を付いてきた少女が金の詰まったケースを渡すのと同時に青年はスタッフを呼びつけて檻を運ばせた。スタッフも枷の嵌められたシリオンで、悲痛な顔持ちのまま青年に従っている。彼らは逆らえば鞭で打たれるのだろう。毛の薄い手の甲には治りきらない鞭の痕が見て取れた。
売られたシリオンがどうなるのか、パーツが揃っていたことでスタッフとしてこの闇オークションの奴隷となった彼は悲惨な行く末を多く見てきたのかもしれない。縋るような面持ちで、青年を見るも結局何も言わないまま耳と尾を伏せて淡々と命令に従って檻を運んだ。

バックヤードにはまだ多くの商品が残っているようだった。有名な彫刻家の作品。シャットダウンされ吊るされたボンプ。音動機や、旧型の武器まで転がっている。
その中には本日の目玉となる希少な種族のシリオンがいた。ほんの五歳くらいの女の子だ。真っ白なワンピースを着せられて、虚ろな目で床を眺めていた。

「檻を開けてくれるかい?」
「か、かしこまりました」

折れそうな程に体を曲げて頭を下げたスタッフは壁にかけられた沢山の鍵の中からひとつを取り上げる。何度か鍵穴にぶつけたのち南京錠は解錠され、檻はギイギイと軋みながら口を開けた。
スタッフのシリオンは頭を下げたまま後ずさる。その体は小さく震えている。上手く仕事が出来なければ罰を受けるのだろう。解錠に梃子摺ったことは失敗に当たるのかもしれない。
青年は溜め息を堪えきれなかった。スタッフの肩がビクリと大袈裟に跳ねる。

「ありがとう、酷なことをさせてしまってすまない。でもあともう少しの辛抱だ」
……ぇ」
「カリン、申し訳ないけどこの人運べそうかい?」
「はい、カリンにお任せください!」

青年が労るようにスタッフの肩を撫で小声で告げたその言葉に、彼は一向に理解が追いつかなかった。開いた口から漏れた小さな音は青年を引き留めるだけの力はない。
現に青年は肩から手を離すとスタッフへ背を向け、付き従っていた少女へ向かって檻を指さしていた。青年よりも小柄な少女は、容易く檻の中から商品であったオオカミのシリオンを゙担ぎ上げて、ふらつきもせずしっかりと立っている。

「流石だね、カリン。では、急ごうか。巻き込まれてしまう前にここを出ないと」

青年と少女、それからオオカミのシリオンは逃げ出すように足早にバックヤードを出た。搬出用の通路を通って、裏口へ向かう。そこへは横付けされた黒いバンが一台止まっていた。青年の姿が見えるかどうかくらいで後部座席のドアが勢いよく中から開かれる。

「遅い! 早くして、治安局がもう来てる」
「すまない、エレン。助かったよ」

バンに乗り込む青年たちの同行者が一人増えていることに眉をしかめたエレンは、それでも何かを言うことはなくただ、口内の飴玉を転がして自身も車に乗り込んだ。
ドアが閉まり切る前に走り出した車とすれ違うように治安局が流れ込み瞬く間に裏口は包囲された。

シートに深くもたれかかり詰めていた息を吐き出した青年は、己の膝の上に乗せた意識のないオオカミの頭をゆっくりと撫でた。

「うーん、これは怒られちゃうかな?」

青年の呟きに目を見合わせたエレンとカリンは、しばし迷ってからしっかりと頷いた。




どろりとした、気持ちの悪い感触を振り払うようにして目を開く。重だるさが指の先にまで広がっているようで気分が悪い。鳩尾の辺りに不快感を感じるし、喉は引きつってカラカラだった。
ぼやける視界をうろと彷徨わせ、そこが狭く汚い檻の中ではないことを知る。
意識の途切れる寸前、若い男の声を聞いた。その男に落札されて連れて来られたのだろう。商品となったオスのシリオンは大抵バラされるか、奴隷とされるか。両脚と片目を失ったオオカミは労働力にはならない。せいぜい中身が高く売れれば儲けが出る程度のもの。
だというのに、オオカミは何故か上等なシーツのかかったベッドの上に寝かされていた。体は清潔に保たれて、鞭で負わされた傷も丁寧に処置がされていた。

…………は、」

オオカミは笑ったつもりだったが、ひりつく喉では声も酷く掠れて上手く発することができなかった。加えて無理に喉を動かしたので、ゴホ、と大きな咳が出た。
ひゅう、と変な音がなって肺がせり上がるような感覚。息が上手く吸えなくてオオカミはどうにか横臥の姿勢になって背を丸めた。咳は一向に止まなくて血の味が広がる。喉を引っ掻いて、涙を滲ませたオオカミが、はくりと開いた口。

「大丈夫かい!?」

そこに差し込まれたのは喉を潤す水であった。いつの間にか目の前には銀髪の青年が立っており、コップを傾けてオオカミの口に当てていた。流れ込む水を必死に飲み欲して、呼吸を繰り返す。宥めるように背を何度も擦られて、ようようオオカミは落ち着きを取り戻した。

「目を覚ましたみたいだね。良かったよ。みえる範囲の傷は手当をしたけれど、どこか違和感はあるかい?」

溢れた水を柔らかなタオルで拭かれてオオカミは眉を顰めた。覚えがある声だった。最後に聞いた、己を買った男の声だ。
男は眉尻を下げてさも心配ですと言わんばかりの表情でこちらを覗き込んできた。不思議な色合いの深い緑の目が揺れて、ひたりと己の赤を捉える。この時オオカミが感じたのは本能からの警告だった。人間に与えられた屈辱の記憶。カッと頭に血が上ってオオカミは思わず手を振り上げていた。

ゴン、と鈍い音がして下の方からから「ンナ!?」と驚いた声が上がった。
ベッドの上限界までじりじりと後退して、オオカミは男を睨み据えた。どうやら手は男には当たらなかったようで、代わりに握ったままでいたコップを弾き飛ばしたようだ。
それが絨毯の上に落ちて鈍い音を立てたのだろう。
男はきょとりと、瞬いてそれから苦笑いを浮べてしゃがみ込んだ。

「無事かい? イアス」
「ンナナ〜! ンナンナ!」
「ああ、良かったよ。イアス、悪いのだけれど彼が起きたことを伝えてきてくれるかい?」
「ンナッ!」

ベッドの下にいたのはどうやらボンプらしい。良く見ればウサギを模した耳がゆらゆらと揺れていた。その耳は男に頭を撫でられたのだろう、ビビビと揺れるとボンプ特有の鳴き声を発しながら部屋の外に走り去ってしまった。
男はイアスと呼ばれたボンプが走っていく背中が見えなくなるまで視線をやってそれから、落ちたコップを窓際の丸テーブルの上に置いた。絨毯のおかげかコップはどうやら割れてはいないようだ。

「びっくりさせてしまってごめんね。お水、もう少し飲むかい?」

男はちっとも怒ったような素振りはみせず、どこまでも穏やかであった。
テーブルの上に一緒に置かれていたピッチャーから新たなコップに水を注ぐとオオカミに差し出してくる。人間から与えられるものなど、碌なものではないと知っているオオカミは牙を剥き出しにして唸り声を上げた。

「心配しないで、ただの水だよ」
……ニンゲンの言うことなど、信じられるか」
「困ったな。でも喉が渇いているだろう? 」

オオカミが喋ったことに男は目を瞠るとそれから嬉しそうに目を細めた。困った、等と言いながら笑みを浮べている。
変な人間だと思った。敵意は感じられない。脚がなく、体力も万全ではない自分よりも恐らく、弱い生き物だ。そんな人間が、怒りを顕にするシリオンを前にして微塵も恐怖を感じている様子がなかった。

「ああ、じゃあこうしようか」

男は返事のないオオカミをにこにこと見やったまま、手に持ったコップに口をつけて傾けた。ごくん、と喉が上下に動いてコップの中身が半分ほど減る。唇についた水滴を指先で拭って男はこてりと首を傾げた。

「ほらね、何も入ってない。ただの水だよ」

オオカミは差し出されたコップと、男の顔を交互に見た。警戒心の強い野良犬のような動きで、そろと腰を上げる。
これは人間から与えられた施しではない。そう己に言い聞かせてオオカミはコップをふんだくるようにして受け取ると、残り半分の中身をいっきに煽った。
乾いた喉の、ひりつく粘膜が齎す不快感よりもなけなしのプライドを選ぶほど愚かなつもりはない。
大きく喉を動かして水を飲み込んだオオカミは、射抜くような眼差しで空になったコップを突きつける。正確にこちらの意図を察した男はまたひとつ、にこりと笑ってピッチャーから新たに水を注いだ。

「大体ね、あなたに何かするつもりなら意識がないうちにやっちゃうよ。僕は恐怖に惑う反応を楽しみたいとか、絶望に染まった顔が見たいとか、そんな過激な趣味はないんだよ」
……希望を与えてから、取り上げる、とか」
「そんな一瞬の快楽のために一億も払うほど裕福ではないよ」

男は肩を揺らして笑いながらオオカミからコップを受け取った。ピッチャーの中は既に空になっていて、オオカミの渇きもとうに癒えている。ここはひとまず安全な場所だと考えても良いのだろう。知らず詰めていた息を吐き出す。
心に少しばかりの余裕が出てきてオオカミはようやく自分の体を見下ろして現状の確認が出来るようになった。
体のあちこちに包帯が巻かれて、中には先程暴れたからか血が滲んでいるものもあった。折れた爪は短く整えられ、汚れでべたついていた被毛は何故かふわふわのつやつやになっている。

「ごめん、ひとつだけ謝っておくよ。あなたが眠っている間に全身洗わせてもらったよ。心配しないでくれ、お風呂は信頼のおけるイヌのシリオンに手伝ってもらったから」
「は、」
「人間に体を見せるのを嫌うシリオンもいるだろう?あなたは特に人間への嫌悪感が強そうだし」
…………べつに、俺は……
「気にしない? なら良かったよ。今度からは僕が洗わせてもらうね!」

オオカミは眉をしかめて、半開きの口のまま男を見た。
どうにも掴めない人間だ。シリオンを下に見るのはいつも人間の方で、獣型であったオオカミは特に人間に丁寧に扱われたことなどなかった。
檻の中に押し込められ、鞭を打たれ。用量を超えた薬を使用されて、屈辱的なマズルガードを嵌められた。ろくに傷の手当もされず満足に食事も与えられないまま過ごした。
ぐらりと頭を殴られたような衝撃に襲われる。

清潔なシーツの敷かれたベッドを与えられた。傷の手当をされた。汚れた体を洗われて、丁寧にブラシがかけられている。望むままに水を求めても咎められることも鞭を打たれることもなかった。食事は、まだ、だが。
考えた途端、ぐぎゅると腹がなってオオカミは慌てて押さえた。耳が寝そべってしまうのを感じて牙を剥く。

「ふふっ、お腹が減るのは良いことだよ」
「うるさいっ」

オオカミが牙を剥いて唸って、怒鳴ったところで男はちっとも怯まない。子どものように顔を弛ませてゆったりとした足取りで一つしかない部屋の扉へ向かった。鍵はかかっていない。ノブを捻れば容易く開閉する扉だった。
足音は僅かに遠ざかるもまたすぐに戻ってきて、再び扉が開く。片手に持ったトレイの上にはスープボウルが一つ。
甘く食欲をそそるその匂いにオオカミの鼻がひくりと動く。

「しばらくまともな物は食べてなさそうだったから、パン粥にしてもらったんだけど食べられそうかい?」

トレイをピッチャーの隣に置いて狭いテーブルをいっぱいにしながら、男はスープボウルを差し出す。
オオカミは男を見て、白いミルクのなかにとろとろに溶けたパンの欠片を見て、それからもう一度男の顔を見て結局煩い腹の虫に耐え兼ねてボウルを受け取った。

「シルバーは平気かな」
……平気だ」

丁寧にナプキンで包まれた銀のスプーンの持ち手を差し出しかけて男は、あ、と思い出したように声を漏らした。

「毒見は、必要かな?」
「いらん」

オオカミはスプーンをやや乱暴に奪い取ってそれからミルクの海に沈めた。柔らかなパンの身がスプーンのふちにかかって、ちぎれて海に舞い戻る。追いかけるのももどかしくスプーンを口に運ぶ。甘く優しい味が広がってオオカミは無心でボウルと口を往復させた。

「そういえば自己紹介がまだだったね。僕の名前はアキラ。君を一億で買った男だよ」 

男、アキラはベッド脇のイスに腰掛けるとゆったりとした仕草で脚を組む。

「名前を教えてもらえるかな、一億のオオカミさん」

オオカミはちらりとアキラを一瞥したのち、残り僅かになったボウルを傾けて口の中に流し込んだ。
ミルクのついた口の周りを長い舌でべろりと舐めてそれからボウルの中にスプーンを投げ入れて突き返す。

「ライカンだ、ご主人サマ?」
「よろしくね、僕のカワイイワンちゃん」

嫌味のようにぶつけた言葉はバッドでもってそれを上回る言葉で打ち返された。
ライカンはグ、と鼻に皺を寄せて唸り声を上げた。




アキラと言う男は変な人間だというのが、ここ最近のライカンの言である。

「お前もそう思うだろ」
「ナンッ!」
「ナン、じゃねぇよ」

はぁあ、と特大な溜め息を吐き出してライカンはベッドに仰向けに寝転がった。ベッド脇のイスの上にはイアスと呼ばれたボンプが、今日もンナンナと鳴きながら何かを言っている。
見張りか、と問えばアキラは首を捻って何かを考えながら「いや、気休めだよ」とイアスの頭を撫でた。一人でいるよりはよっぽど良い。人間とは違うから気を使う必要もない。なんと言ってもイアスはカワイイ!
アキラの力説を聞きながらライカンはおざなりな返事を返してガリガリと頭を掻いたのは目覚めてから二日目の朝だったかもしれない。

日に日に絆されている。気のせいだと誤魔化しもできないくらいに自分が実感しているのだ。
此処に来た初日、薬が抜けきるまで三日ほど眠りっぱなしだったようなので、正確には四日目のことだ。喉と腹を癒したライカンにアキラは包帯の交換を申し出た。
血が滲んでいるものもあり、シーツが汚れても大変だ。手早く包帯を解かれ、ガーゼを剥がされる。予想はしていたが鞭で打たれた所はミミズ腫れのように盛上がった比較的軽症の箇所と、裂けて肉が覗いている箇所があった。周辺の毛は綺麗に刈られテープの粘着に巻き込まれないようにされていたのが、あまりにも見窄らしくてライカンはここ最近で一番泣きたくなってしまった。

アキラは悲痛な面持ちで傷跡を確認して、小さな薬箱の中から軟膏を取り出す。

「これは化膿止めだよ。傷口に触れて少し痛いかもしれないけど、我慢してね」
「待て」
「どうかしたかい? 滲みはしないよ」
「そんな得体のしれない薬は塗れねぇ」

空腹に耐え兼ねて食事は取ったが基本的にライカンの人間に対する信頼は地を這う程に低い。傷などそのうち治るのだから適当に布地でも巻いておけば良いのだ。
アキラは、まあそうだよねぇ、と顎に指を当てて何やら思案しながら薬箱の中からハサミを取り出した。そうして何を思ったのか刃先を開いて、片刃を掌に押し当てた。何をしようとしているのか察したライカンが制止の声をかけるよりも早く、アキラは何の躊躇いもなく押し当てた刃をスライドさせた。
皮を裂いて、肉に到達したハサミが齎した傷はぱっくりと白い真皮の断面とピンクの肉を一瞬晒したかと思えば、どっと玉のように膨らんだ血で覆い隠された。

「なに、やって!」

アキラは無言のまま手近なタオルで傷口を乱雑に拭うと、片手で器用に軟膏のチューブを開けて自らの傷口に塗布した。しっかりと塗り込んだ掌をアキラはライカンの目前に晒す。

「ほらね、平気でしょ。でもちょっと深く切りすぎちゃったな」
「貸せ、この馬鹿!」

ライカンの中に言いしれぬ物が浮かび上がる。眼前でひらひらと振られる手首を捕まえて個別包装にされている滅菌ガーゼを取り出しアキラの傷口に強めに押し当てる。いたい、と抗議の声が上がったが知ったことではない。
ライカンのためにと用意されていたのだろう新品の包帯をひとつ取り出して、アキラの手にきつめに巻きつけてやった。

「大袈裟だなぁ」
「頭沸いてんのかテメェは」
「まさか。でもこれが一番信用に値すると思わないかい?」

じろりと見上げたアキラの目には冗談の類を思わせる色は乗っていなかった。先程からこの男はそうだ。信頼を得るために自らを呈して証明をする。

「不本意だが、お前のことは信じる。仮にもご主人サマだ。俺に対してこんな真似は今後一切、不要だ」
「うん、ありがとう」

綺麗に包帯が巻かれた手をライカンからそっと取り返したアキラは、まるで宝物に触れるかのように胸に抱え込んだ。
ムズムズする。ライカンは鼻をひくりひくりと動かしてアキラから目を反らした。

「薬、塗っても大丈夫かい?」
……ああ」

ライカンは細く長く息を吐き出しながら片手を差し出した。アキラの手が下から掬い上げるようにして掌に触れた。傷口に優しく軟膏を塗り込まれてガーゼで蓋をされる。その上から殊更丁寧に包帯を巻く作業を繰り返す。
ライカンはもう一度長く息を吐き出した。心のうちに湧いた訳の分からない感情を吐き出してしまいたくて。


アキラはそれからほぼ毎日、時間を見つけてはライカンの元を訪ねるようになった。ここが何処かは分からないが、アキラが所有する家の一つだと言われればそれで納得した。
当のアキラはここが本宅ではないのだろう。半日いないこともあれば、二、三日不在にすることもあった。その時は決まってイアスも連れて行かれるのでライカンは静かな部屋でひとりぼうと過ごすこともあった。
食事は彼が雇ったのだろう、人の良さそうなシリオンが配膳を任されていたので食いっぱぐれることはなかった。その他にも時折白いオマネキボンプがやってきて頭を撫でろと催促されたり、何処からか忍び込んだのか真っ黒なネコの相手をすることもあった。
一日中退屈という訳ではなかったが、アキラの顔を見ない日は時間が止まっているのではないかと思うほどに遅く感じられた。

ああ、絆されている。

ライカンはひしひしと実感した。
安全な環境、充分な食事と睡眠。それだけでは飽き足らずアキラはライカンに心の安寧まで齎そうとしている。
はぁあ、溜め息を吐き出す。数えることすら馬鹿らしいほどに吐き出したそれ。以前までは幸せなど、とうに空っぽだから気にもしなかったが最近は、それが少し勿体なく思えた。両手で掬えてまだ余裕があるほどの欠片の幸福。アキラが与えたそれが、幸せの類いだと気がついてしまった。

「だめだな、らしくねぇ」

命を救われた。無下に扱われなかった。ライカンの尊厳を守ってくれる。それだけで充分すぎるほどだと、気がついたのだ。
ライカンはベッドの下で船を漕いでいるイアスを持ち上げて揃えた腿の上に乗せた。
眠りを邪魔されたイアスがンナ!?と驚いたように声を上げたが相手がライカンだと分かると、耳をへにょりとさせて、ンナナ〜!と笑みの形をつくる。

ベッドの上から動けないライカンは最近、運動不足を解消するために簡単な筋トレばかりを行っていた。
ボンプは可愛らしい見た目に反して凡そ30キロ近い重さがあるため、腹筋時の負荷にと脚の上に乗せられているのだ。
ライカンが一度起き上がる度に、ンナ、ンナナ、と恐らく回数を数えているのかなんなのか知らないが反応があるので退屈しのぎにも良いだろうと考えてのことだった。
そうして日課の腹筋がちょうど百を数えた時、開きっぱなしの扉がノックされた。

「なんだか楽しそうだね、イアス」
「ンナナ〜!ンナンナ!」

イアスが嬉しそうに短い手を振る相手、当然ながらそこに立っていたのはアキラだった。
一人分の足音は捉えていたが、それはアキラのものではない。彼は何故かシリオンにすら悟らせないほど気配と足音を消すのが上手いのだ。眉を顰めていると足音の主がアキラの後ろから顔を覗かせた。
サングラスをかけてヒゲを生やした帽子の男だ。片手は機械の義手で、怪しい風貌にライカンは鼻に皺を寄せた。

「こちらエンゾウおじさん。取引先の一人だよ」

アキラに紹介されたエンゾウは、よぉ、と気さくな態度で片手をあげた。何の用だと、何時もなら噛みついているところだがアキラの知り合いとなれば別だ。少なからず恩義を感じている相手の取引先などに食ってかかる訳にはいかない。

「まあこれで試してみてくれ。最低限の機能は確保してある。本命はまだかなり時間がかかるからな」
「楽しみに待つことにするよ」
「おう。あー、それでこいつは、なんだ。お前がつけてやったほうが良さそうだな」
「そうみたいだね。わざわざありがとうエンゾウおじさん。また頼むよ」
「おう、不具合があれば連絡くれ」

今にも牙を剥き出してガルガル威嚇を始めそうなライカンのことなど、エンゾウはまったく無視してベッドサイドに持ち手の付いた大きな箱を置くとそのまま片手を降って部屋を出ていってしまった。
何だったのかと、顔を顰めるライカンを見てニッコリと笑ったアキラはベッドの端を叩く。

「こちらに来て座ってくれるかい?」
……それ、なんだ」

しばし迷ってそれから大人しく従ったライカンはベッドの端に座る。ハーフパンツの裾から覗く脚には膝から下がない。子どものように揺らすのも憚られて大人しくぶら下げたままライカンは箱を覗き込んで、息を詰めた。

「君へのプレゼントだよ、ライカン」
「こ、これ……

箱に収められていたのは一対の義足であった。シンプルな構造ゆえ、デザインはスマートだが上等なブーツのような素晴らしいものであった。加えて各所に施された金のラインの装飾が美しい黒い義足だ。

「まだ試作の段階だから、強い衝撃には耐えられないだろうけど、通常生活で使うには充分な強度があるよ」
…………
「できれば、着けてみてもらいたいんだけど……僕が着けてあげようか?」

ライカンは何かを言おうとしてはくりと、口を開いてそれから我慢できないと言わんばかりにぎゅうと歯を噛みしめる。
返事の代わりに片脚を持ち上げれば膝をついたアキラが柔らかな笑みを浮かべる。
丁寧な手つきで片足ずつ装着された義足は驚くほどにライカンにぴったりであった。重さはあれど、苦になるほどではない。

先に立ち上がったアキラが両手を差し出す。義足の足裏をそっと床の上に下ろしたライカンは、眩しいものでも見るかのようにアキラを見上げて目を細めた。
そうして、そっと両手を重ねる。最近ようやく包帯のとれた傷跡の残る手だ。頼りのなさそうに見えた薄い手は、意外としっかりしていて立ち上がったライカンを難なく支えた。

「おや、抜かされてしまったな」
「俺は、オオカミのシリオンの中でも、大柄だったんだ」
「なるほど、どうりでご飯をいっぱい食べるわけだね」

頭一つ分小さくなったアキラが肩を揺らして笑った。
見上げる緑の目があまりに眩しくて、ライカンは目を細めた。

ツン、と鼻の奥に走った小さな痛み。ライカンは顔をくしゃりと歪めて笑い返した。
握った手はしばらく離せなかった。離したくない、と思ってしまった。

絆されたのだ。
ならばもう、受け入れるしかない。

ゆらりと、僅かに揺れた尾に気がついたのはイアスだけだった。




「よぉ、パエトーン。ワンちゃんの躾は順調か?」

六分街、ビデオ屋、Random Play店内奥、工房にて。
スーツを纏いハットを被った細身の男と対峙する、ディスプレイの青い光に照らされた端正な顔が、お手本のような笑顔を浮べている。

「ワンちゃん、て呼んで良いのは僕だけだよ」
「そりゃ失敬。じゃあ番犬だな」

目の奥に灯るうっすらとした怒りの色に、男は戯けたように両手を肩の位置まで上げた。

……番犬にするのはやめようかと思ってる」
「はっは、どうした、絆されたのか」
「ああ……そうかも。絆されたのかも」

まじかよ、と男は目を瞠った。
アキラは何も善意でライカンを救った訳ではない。彼にとっても一億ディニーは大金だ。それをぽんと支払えるほど裕福などではない。
加えてよく食べるライカンと身の回りの世話にと雇ったシリオンへの給与の支払い、エレンとカリンへの報酬などでカツカツである。本業で駆けずり回りどうにか資金は得ているが、このままでは赤字も覚悟しなければならない。
アキラは椅子の背もたれに寄りかかって細く長い息を吐き出す。

「ほんとはさぁ、僕に依存させちゃえば良いんじゃないかなって……思ってたんだ。イヌ科のシリオンってさ、まあ言っちゃえば扱いやすい、でしょ」

宥めるためにご飯を与えて、安全な場所に住まわせて、それから信頼を勝ち取る。クマやネコのシリオンより、よっぽど素直で従順で。そう、扱いやすい。
ぐ、と眉間に皺を寄せたアキラを男は呆れたように見た。

「それがさ、あー……こんなつもりじゃなかったんだ……捨て犬みたいに警戒心が強くて……それなのに僕に対する警戒はあっという間に解いちゃって……思っちゃった、カワイイ、って」
「カワイイ、ねぇ」

いざという時、きっと道具として見捨てることができない。
大事な物と天秤にかけられた時に迷いが生じるものは、足枷になりかねない。既に大きな枷をひとつ嵌めているアキラにそれ以上の重りは苦になってしまう。

「ま、俺は良いと思うけどな」
…………
「パエトーンに人間らしさが生まれるのはな」
「僕は元から人間だよ」

男は噴き出すように笑って、ついでとばかりにアキラの頭をかき混ぜた。すぐに手を振り払われてしまったが、パエトーンの頭を撫でたなど各所に自慢できる案件だ。

「それで、そろそろ本題を頼むよ羊飼いさん」
「任せろ。とびきりのやつをやるぜ、相棒」

男、羊飼いはニヒルに口を歪めて見せた。



ライカンの最近の日課は、アキラに貰った義足を履いて歩き回ることだった。
慣れるためにと初日はアキラに見守られながら部屋の中を歩き回った。翌日は部屋を出て家の中を。思ったよりも小さな家はあっという間に探索が終わってしまった。

そうして更に翌日。渋るアキラを説き伏せて外へ出る許可を貰った。家に反して広い庭は、周囲をぐるりと塀で囲まれている。
門扉だけが格子状になっており、時折メイド服を来たツインテールの少女が大きな荷物を抱えてやってくることもあった。

塀の上からは巨大なホロウの一端が見えた。その中に飲み込まれているビルから、ここがバレエツインズの近くであることを知る。ライカンはホロウ内でヘマをして足を砕かれ、動けなくなったところで奴らに捕まった。
ホロウの内外問わず人やボンプを捕まえて販売を行う質の悪いグループで、根城が掴めず治安局も掃討に乗り出せないでいるのだ。
狭い檻に入れられ口輪を嵌められるという屈辱の記憶がふつと蘇って喉の奥で低い唸り声があがる。幸いなことに周囲に人はいないので、ライカンがどんな顔をしていようが問題はない。

「やあ、散歩かい?」
「ッ!?」

と、思っていたのに。ライカンは背後からぽん、と肩を叩かれてそれはもう文字通りに飛び上がった。
項の毛が逆立って瞳孔がきゅっと締まる。朝ブラシをかけたばかりの尻尾はぼわりと膨らんで酷い有様だった。
素早く体を回して声の主と対面する。大きく跳ねる心臓を押さえて、ライカンは眉間に皺を刻みながら深いため息を吐き出した。

「驚かせちゃったかな? 」
「おまえ……気配を消すな……
「ふふっ、ごめんごめん。でもシリオンのライカンに気づかれないって僕すごいと思わないかい?」

声の主アキラはくすくすと肩を揺らして笑っている。謝ってはいるがちっとも悪いと思っていない顔だ。
はぁ、とため息を吐き出し膨らんだ尻尾を落ち着けるように何度か撫でるために視線を落とした瞬間、頭上に影がかかってライカンは咄嗟にばちんと何かを振り払っていた。
は、と我に返って弾いた方に視線をやればアキラの手が彷徨っていた。しまった、と眉をしかめて彼の顔を見る。きょとりと、目を瞠っている様に冷や汗が流れるようだった。

「さ、さわるときは、事前に言って、くれ」

まず謝罪を述べるべきだと気がついたのはそんな言い訳染みた言葉がぽろりと溢れてしまった後だった。
アキラは何度か瞬いて、彷徨っていた手を引き寄せて、そのまま顎に指を添える。こてりと首が傾いで、つり目がちな目がきゅうと細まった。

「そうだよね、すまない。シリオンにとっては耳も尻尾も気安く他人に触れさせる場所ではなかったね」

気分を、害したかもしれない。ライカンはごくん、と喉を鳴らして視線を逸らした。たかが、一介の奴隷の存在で主人に逆らうべきではない。そんなことは分かっているが、頭上に振り上げられた手が危害を加えるものだと身を持って知っている以上、それは反射のようなもので。
アキラが己に痛みを与える存在ではないことを知っている。声を荒げることも、鞭を打たれることも、居ないものとして扱われることもなかった。それなのに。
ライカンはぐ、と拳を握りしめた。伸びてきた爪が掌に食い込むその痛みが自分への罰に思えて一層力を込める。

「ライカン」
「ッ……
「触れても良いかい?」

降ってくる声はどこまでも柔らかくて、やんわりとライカンの中に染み込むようだった。逸らしていた視線を彼に戻し、伺うように顔を覗く。声音のとおり優しい笑みを浮かべたまま、期待に目を輝かせているようだった。
ライカンははくりと、口を開いて結局何も言わずにこくりとひとつ頷いた。

「ふふっ、ありがとう」

嬉しそうに弾んだアキラの声。伸ばした手は予想に反してライカンの握られた拳に向かった。
固く締められたそれを解いて、痕のついた掌を柔らかく揉まれた。肉球だ!と喜んでふにふにと押す子猫のような仕草にライカンはどうして良いのか分からず眉尻を下げた。

「頭は、触っても平気かい?」
……もの好きだな」
「もふもふはね、人の心を癒すんだよ」

ライカンはまたひとつため息を吐き出して、仕方ないなと言わんばかりに膝を曲げて頭を差し出した。
下から包み込むようにアキラの両手が頬を挟む。密度の多い顔の横の毛をむにむに揉まれている。むず痒いような心地の良いような変な感覚だと、ライカンは鼻を鳴らした。
アキラは何が面白いのかくふくふ笑ったまま、髪を梳いてわしゃわしゃと撫で回しながら、とうとう耳へと到達した。ぴこぴこと動くそれを捕まえて思ったより肉厚な耳の縁を優しく擦られる。

「ゥ、ル……
「カワイイねえ、ライカン」

付け根のあたりをコリコリ揉まれてライカンの目はとろりと溶けたようになって、瞼を下ろした。
アキラの手から伝わる熱が心地よくて無意識に喉がなる。ばさばさと揺れているのは間違いなく自分の尻尾だ。
ああ、くそ恥ずかしい。
心地よさにクフン、と鼻が鳴ってもっと、と強請るように頭を擦りつけてしまう。薄目を開けて見た彼の顔がそれはそれは幸せそうにとろけていたから、まあ、いいかと思ってしまったのだ。

まさかそれから十分間も撫で回されるとは思わなかったが。




「それで、何かやりたいことはできたかい?」

すっかりぼさぼさになってしまった毛をなんとか手櫛で落ち着けようと奮闘するライカンに、アキラは満足気な顔で問いかけた。  

「やりたいこと?」
「そう。随分と義足にも慣れたようだし、暇な時間も多いんじゃないかなって」

残念ながら外に出してあげることはできないんだけどね、と眉尻を下げたアキラに、ライカンはゆるりと首を横に振った。

「主人はお前だろう。俺に何をさせたい」
「僕はペットの自主性を重んじるからね。でも一緒にボール遊びがしたいってなら、それはもちろん喜んで応じるよ」

む、とライカンは眉を顰めた。ボール遊びをするのは子どもだけだ。ライカンはもう随分と大きく成長しているので、転がったボールを追いかけてキャンキャン鳴いたりしないのである。
何もないと言えば本当にボール遊びを始めてしまいそうなアキラにライカンは必死に考えて、そうしてはたと思いつく。

「じゃあ……料理だ。料理がしてみてぇ。それから、あー……本だな。本を読みたいんだが」
「分かった。本と料理だね。キッチンは好きに使うといいよ。給仕のシリオンの子には伝えておくから」

アキラはにこにこしながらも、ボール遊びはなしかと、残念そうに肩を竦めた。そんなにボール遊びがしたいのならば、ボンプとすれば良いのにと思ったがライカンは口には出さなかった。

「それから本だけど、書斎に本が山のようにあったろう?あれは自由に読んでも大丈夫だ。でも中には貴重な物があるかもしれないから、取り扱いは慎重にね」

この家はホロウ災害で持ち主を失った家らしい。男性がひとりで住んでいて、家族や親戚は居なかったが、ゆくゆくは一緒になりたい人がいたのだとか。
書斎の中に写真立てに入れられた二人ならんだ写真を見つけたときは複雑な気持ちになって、見えないようにそっとふせておいた。
アキラから許可を得て日中の大半を書斎にこもり、見つけたレシピ集で気ままに料理こなすライカンはここ最近で一番生き生きしているようだった。
給仕で雇われていたイヌのシリオンの男は夜の料理だけを担当することになり、その他に関してはライカンの自由が許された。

と言っても特別、料理が得意という訳ではない。最後の記憶だって目玉焼きを作った、その程度のものだ。
ただ美味しい料理が作れれば、喜んで貰えるのではないかと、そんな子どものような思いつきで始めただけのこと。ソレが存外自分の性に合っていたようでレシピ集を見つけてからはその腕がメキメキと上達していた。
かつての、やさぐれて暴れていた頃のインスタントが主食であった自分に教えてやりたい。今のライカンは好きな男に手料理を振るまいたい健気な男だと。

「す、き……っ!?」

ぐわ、と熱が上がったような気がした。好き?好きな男って今思ったのか?アキラの顔を思い浮かべて?
尻尾が膨らんで、フライパンの取っ手を握る手に力がこもる。

「あ、ありえないだろ、俺……!!」
「ンナッ!?」

家の中には誰もいないのでどんなに大きな声を出そうと問題ない。いや、違う今日はイアスがいたのだ。アキラがちょっと出てくると言って置いていったイアスが、ライカンの足元で突然の大声にびっくりして飛び上がった。

「悪い、イアス」
「ンナナッ」

汗を拭うような仕草をするイアスの耳の間をぽんと叩いてから視線をフライパンに戻す。熱せられた鉄板の上、こんがりきつね色になった生地がきちんと分厚く膨らんでいる。
ふう、と自分を落ち着かせるように息を吐き出して、焼き上がったスフレパンケーキを皿に乗せた。二段積みのパンケーキが二皿並んだその片方へのトッピングは粉砂糖、それからバターに大量のメープルシロップ。サービスで皿の端にたっぷりと生クリームも用意してやる。
もう一皿はバターとシロップだけのシンプルなもので、それぞれにフォークとナイフを並べて、ライカンは満足そうに頷いた。
好きだなんだの、話は一旦頭の隅に追いやっておく。
きっちり時間を計って淹れた紅茶も用意した。万端だ。

紅茶の練習をしていることを告げた時に、ならこれをと貰った金色の懐中時計を丁寧にポケットにしまったライカンの背後で、玄関の扉が開く。今日はちゃんと足音がしたので驚くことはない。

「あれ? いい匂いがするな。 ただいま、ライカン、イアス」
「ンナンナ! ンナナ〜!」
「おかえり。ほら、さっさと手洗ってこい」

挨拶よりも先に漂う甘ったるい香りを嗅ぎつけたアキラがばたばたとダイニングに飛び込んでくる。テーブルの上に並ぶパンケーキを見て目を輝かせて、子どものように元気な返事をして洗面台へ向かった。

「食べてもいいかい?」
……どうぞ」

しっかりと手を洗って戻ってきたアキラは当然のようにトッピングが豪華な方のパンケーキを引き寄せて座った。生クリームをたっぷり掬って、とろとろと溶けて流れるバターとシロップを切り崩したパンケーキに染み込ませてぱくりと一口。
ん〜〜!と感極まったような声を漏らして咀嚼を続ける姿を見ながらライカンは思わず口端を緩めた。
仕草がいちいち可愛い男だと、そう思ってから我に返る。可愛い、だなんて。
大きめに切り崩したパンケーキを口に押し込んでライカンはむぐぐと唸った。煽るように紅茶を飲んでどうにか先程の感情を消し去ろうとする。

「ま、まって、ライカン、ふっ、くくっ、どうしてそんなところに、ケーキをつけれるんだい」

頬が膨らむほどに頬張ったライカンにアキラは笑い声をあげながら手を伸ばす。あ、触るね、とついでのように付け足された言葉と同時にマズルについたケーキの切れ端だか食べかすだかをひょいとつまみあげる。なんの躊躇いもなく拾ったケーキの欠片を自分の口に放り込む、そんな姿にライカンは思わずフォークを取り落とした。
ああ、だめだ。どうしようもなく、好きになってしまった。

「ライカン? あれっ? 大丈夫?」

わななく口を隠すこともできず、ただ己がシリオン故、顔色が変わらないことに酷く感謝した。
ンナンンナ。ぽんと労るようにイアスに義足を叩かれてもライカンは暫くはそのまま動くことができなかった。



「そ、それじゃあ、今日の夕飯が最後に、なります」
……ああ、助かったよ」

ライカンの料理はもはやプロにも並びそうな程であった。その他の生活においてもライカンが掃除の腕も極め始めた頃、誰かの手を借りる必要がなくなったと判断したアキラは給仕を解雇することに決めたようだった。

雇われていたイヌのシリオン、ジュダのどこかおどおどした態度はついぞ改善されなかった。ライカンのオオカミとしての血がそうさせるのかは定かではないが、彼は殊更ライカンに怯えている節があった。それも鑑みての解雇なのだろう。

最後の仕事だから、と夕飯は奮発したようで分厚いステーキがプレートの上に鎮座している。ハーブの香りと、濃厚なソースがかけられた肉の塊は湯気を立てながらナイフが突き立てられるのを待っている。その隣には透き通ったコンソメスープ。四角に切られた野菜が底に沈んでいた。パンこそ焼き立てではなかったが、オーブンで焼き目を付けられた表面が香しい匂いを放っていた。

できるなら、アキラと共に食べたかったが、仕事ならば仕方がない。そっと距離を取り、離れた所で待機するジュダの気配を背後に感じながらライカンはステーキへとナイフを差し込んだ。


おかしい、と思ったのは既に皿の上の料理を全て食べ終えてしまった後だった。
頭の中に重しでも入れられたようにズンと沈み込む感覚。思考が定まらず、瞼が酷く重い。何とか立ち上がってテーブル伝いに何歩か進んだが、到底二階の部屋までは辿り着けそうにない。
クソ、と悪態を吐き出して数歩先のソファへ縋り付くようにして倒れ込んだ。ぼやける視界の中、ジュダは怯えたように耳を伏せてライカンの様子を伺っている。

「ァ、キ…………

名前を呼んだ。 

ライカンの唯一のよりどころの、名前を。


意識が、重く深い闇の中に沈んでいく。底なしの沼のような泥の中へ。




ガシャン!と何かが割れるような音に急速に意識が浮上した。息を飲み、辺りの状況を探るべく両手に力を込め起き上がろうとしたが、うまく行かずベシャリとソファの座面に顔がぶつかる。

「ゥ、グ……!」

部屋の中の電気は落とされていたが、窓から差し込む月明かりが薄っすらと辺りを照らしている。でなくとも、オオカミのシリオンであるライカンにとって暗闇は敵ではない。
しかし抗い難い程の睡魔がライカンを苛んでいる。舌に犬歯を突き立てて痛みで僅かな覚醒を得るも根本の解決には至らなかった。
おそらく、夕飯の料理の中に薬でも仕込まれていたのだろう。濃厚なソースに掻き消された臭いに気がつけなかったことに思わず唸り声が上がった。怒りの矛先はジュダにも、間抜けであった己にも向かっている。アキラが雇ったという事と、殆ど関わりはなかったが、共に暮らしていた事で随分と油断していたらしい。
同族からも、裏切られるなど。ハッ、と嘲りのような息を吐き出してライカンは目を眇めた。

「この、クソ犬めッ!!」

刹那、重い足音と空気の動きを感じてライカンは視線を巡らせる。目の血走った男が、何かを振りかぶってこちらへと飛びかかろうとしていた。とっさに腕を交差させ男の手を止めるが、万全の力を発揮できないライカンにとって酷く分が悪いものだった。
そのまま体勢を崩してもつれ合うようにしながらソファから転げ落ち、打ち付けた背中の痛みに喘ぐ。
これによって多少なりとも意識が明瞭になった。ゆえにこの時になってようやく、己の義足が外されていることにも気がついた。ジュダめ、と悪態を吐き出すがとうに逃げ出したのか近くに気配は感じられない。
不利な体勢を強いられるライカンはブルブルと腕が震え、歯を食いしばって唸り声を上げる。目前に突きつけられたのは注射器だった。斜めにカットされた針の口が顔のすぐそこにまで迫っている。力を込めた指が思わずプランジャーを押したのだろう、得体の知れない液体がぼたたっと流れ落ちた。

「俺の物だッ!! 俺のモノだったんだ!! それを、あの、あのガキ、ガキがッ!! 邪魔ァ!! 邪魔しやがってェエ!!」

唾を飛ばして怒鳴り散らす男に見覚えはないものの、その声は記憶の何処かに引っかかる。
アキラがいれば、その男がオークションの会場にてもう一人のイカれた男と競い合って値段を釣り上げていた、薬物に傾倒する有名なマッドサイエンティストだと気がついたことだろう。

「オオカミのシリオンなど、そうそう手に入らないサンプルだ! 安心しろ、直ぐに苦しみも恐怖も痛みも消える……人類の糧と成り得るのだ、光栄にッ、」

ライカンの紅玉がきゅうと引き絞られた。
人間より鋭い聴覚が聞き慣れた音を捉えた。直後それは、「ン"ナ!!」と全く可愛らしくない声を上げて男の顔目掛けて鋭い頭突きを食らわせた。
グア、とアヒルのような鳴き声を上げて男の体が仰け反る。ライカンの腹の上に凡そ30キロ近い物体が落ちてきて、急なことで腹筋に力を入れることもできずこちらも、う"!?と息を詰まらせた。
腹の上で、ンナナと頭を押さえたのは見慣れたボンプのイアスであった。ここにイアスがいるならば、もしかして。

刹那、ライカンの上をびゅん、と風を切って何かが通った。それは今だライカンに跨ったまま頭を押さえて悶絶する男の鼻目掛けて振り切られたアキラの足、であった。
激しい音を立てて背後にひっくり返った男はぼたぼたと鼻血を垂らしながらも立ち上がる。その目は憎悪に満ちた醜悪そのものだ。
蹴り飛ばされて手から離れた注射器を追うこともせず、男はどこからか折りたたみ式のナイフを取り出して、アキラへと突きつけた。

「このガキが、ぁあ!!」
「ア、キラ!」

両手でナイフの柄を握り、男はダンと勢いよく一歩踏み出した。喚く男の声と、ライカンの声が重なる。
ナイフを向けられていたとしても、アキラは努めて冷静であった。ふっと前傾の姿勢を取ったかと思えば、真っ直ぐに伸ばされた右足が前方に弧を描き、爪先が正確にナイフを握る男の手を捉えた。衝撃に手が開きナイフが弾き飛ばされる。
爪先は止まることなく蹴り抜きぴたりと真上で止まる。そのまま高々と振り上げられた足は、軸足を起点に体を回転させる際に巻き付くようにして折りたたまれる。流れるように右の爪先が床を滑り、突き刺すような勢いで後方へ押しだされ、肩越しに狙いをつけた男の鳩尾へと踵がめり込んだ。

くの字に体を曲げて、一拍後、えずきながらもすぐ側に落ちたナイフを掴もうとした男の手は、アキラの靴裏によって地面に踏みつけられた。痛みに藻掻く男を見下ろすアキラの目は氷を孕んだように冷たい。テーブルの上から落ちて割れた皿やグラスの中からフォークを拾い上げ、掬い上げるように下から男を蹴り飛ばすと、仰向けになったその体の上に跨ってゆっくりとしゃがみ込む。
膝で肩を押さえつけ、人間の皮膚など容易く突き破るであろうフォークの先端をひたりと首筋に添える。

「誰のものに、手ェ、出したのか、分かっているかい?」

目を細め口端を歪めて猫のように笑うアキラに、男の背筋を冷たいものが伝った。なんの変哲もない人間なのに、底しれぬ恐怖を感じさせる。ガチと歯がなる。今すぐ頭を床に擦りつけて詫びを請わねばならないような、そんな衝動に駆られるも、喉元に突きつけられたフォークのせいで動くことがままならない。

「二度だ。二度もお前は過ちを犯した……僕は自分のものに手を出されるのが一番嫌いなんだ。分かるかい? ちゃんと聴こえているだろう? ああ、そんなに怯える必要はないよ。その、足りない頭で、よぉく、考えてくれたら……ね?」

獲物に牙を突き立てる肉食獣のように、フォークが皮膚の上を滑って、ゆっくりと離れていく。
ひ、ひ、と、引き連れる呼吸音を漏らす男の上からアキラが立ち上がる瞬間、ゴッ!と凄まじい勢いで振り下ろされた巨大なハサミが顔のすぐ横に突き刺さった。

「おまたせ、プロキシ」
「やあ、わざわざ悪いねエレン」
「ん、あんたの頼みならべつにいーよ」

棒付きのキャンディを口の中で転がすメイド服を纏ったサメのシリオンの少女は、足元で白目を向いて泡を吹く男の事など一切気に掛けることなく、口端を釣り上げて笑ってみせた。



後はこちらにおまかせくださいまし、と丁寧な礼をして去っていった髪の長いメイドの背中をぼんやりと見やる。ライカンは床に座り込んだままのようやく薬の抜けてきた体をソファのフレームへと持たれかけた。

……怪我はないかい?」

ふう、と詰めていた息を吐き出してアキラがソファへと腰を下ろした。僅かに揺れた座面から、ライカンはのろのろとソファに座る彼を見上げて頭を揺らした。
見かねたアキラに引き寄せられて膝の上に誘導される。柔らかくも、硬くもない。思ったよりも細くて頼りないとさえ感じたが、すがるように脹脛に手を回し、腿の上に顎を乗せた。鼻腔を満たす、安心する香りに包まれて、静かに呼吸を繰り返す。
アキラの手が優しく頭を撫でている。もっと、と子どものように強請って、離れて行かないように手に力を込める。

……ごめんね、巻き込んでしまって」
……おまえが、ぶじなら、いい……
「君が無事ではなくなるところだった。ああ……本当にごめん、ライカン、僕は……

珍しく言い淀むアキラに、ああこれは聞いてはいけない言葉だとライカンは耳を伏せた。聞いてはいけない、いやだ、聞きたくない。聞いてしまえばこの関係が終わってしまうような気がした。手放したくなかった。いや、手放されたくなかった。永遠に、この命尽きるまで彼の所有物でありたい。
ライカンはアキラのものだ。この身はアキラに買われて、アキラにこの家に連れてこられた。アキラによってライカンは再度形を成して、アキラによって心は成長した。ライカンの中身は今や全て、アキラによって満たされている。

「君を、きみをね、僕の目的のために、そのためだけに、囮にしたんだよ。だから、きみに、優しくしてた。最低だろう?」

ああ、とライカンは緩く息を吐き出して目を閉じた。
アキラがジュダを雇ったのも、恐らく裏であの男と繋がりがあったからだ。どんな関係なのかは、別段知りたくもないが。

「目的は果たせたのか」
……ううん、まだ。でも、きみのおかげで、すぐにでも解決しそうだよ」

頭を撫でる手が止まる。うっすらと目を開けて見上げた先のアキラは眉根を寄せて苦しそうな顔をしていた。
道具に情を抱いてしまえば、捨てられなくなる。大事にするフリが、いつの間にかフリではなくなっていた。

「だからね、もう解放してあげる。きみは、これからは、きみが、したいことを、したいようにして、生きていって良いんだよ。僕を恨んでくれていい。それがきみの生きる糧になるならば、いくらでも恨んでくれ」
……すてる、のか」

アキラは何も言わなかった。薄明かりの中、ただただライカンを見つめるだけだった。自分がしたいようにして、生きたいように生きろだなんて。もはやアキラなしでは呼吸も満足にできないようにしておいて、捨てるだなんて。卑怯だろう、そんなの。
カッ、と頭に血が昇る。衝動のままライカンは口を開いた。

「すてる、のか! おれの、なかに、おまえを刻んで、戻れないようにしておいて! 捨てるのかよ!!」

アキラの腕を掴みライカンはその体をソファの下へと引きずり下ろした。ゴツンと頭をぶつけても痛がる様子はなく、ただ静かにライカンを見つめているだけのアキラを目の当たりにして、胸中に虚しさが広がる。
どうして伝わらないのだろうか。せめて、この胸の中に広がる激情の一片でも良いからアキラに突き刺さりはしないだろうか。そこから毒のように身を蝕んでしまえばいいのに。

「もうむりだ、戻れない。ひとりでなんて、生きていけない。おまえが、おまえがいない、世界なんて、」
「ライカン、君は強いシリオンだ。ひとりでも、平気だろう?」
「うるさいッ!! わかるだろ! 俺はオオカミのシリオンだ! オオカミの、シリオンなんだよ、わかるだろ……!」

目頭が熱くなって、ぐっとこみ上げるものがあった。それは瞬く間に溢れてライカンの視界を歪ませた。
ぼたぼたと、あふれて、こぼれたそれがアキラの頬を濡らすものだから、まるで彼も泣いているかのようだった。
オオカミは番を失っては生きていけない。わかるだろう。
ライカンは牙を剥き出しにしてアキラの肩に噛みついた。衣服越しに犬歯が肉へ突き刺さり、アキラは小さく息を詰めた。

……お前にも、同じように、俺と言う存在を刻めば……もう、捨てるなんて言わないだろう……?」

アキラの指が、ライカンの頬を拭う。柔らかな毛を濡らす涙の束を掬い取って、両手で顔を包まれる。柔く引き寄せられて、鼻先に子猫のように歯を立てられて、ライカンは目を瞠った。

「刻んでみるかい?」

歯型でも、爪痕でも……もしくは君の愛とやらでも。
この体に好きに刻んでみるといい。アキラはそう言って微笑んだ。

――初めての行為は最悪なものだった。堅い床の上、ろくな準備もできずに事に及んだ。互いの体液だけでどうにか繋がって、引きつれるような痛みに呻いて、それでも深く、ふかく、アキラの中にライカンという存在を刻んだ。
執着という鎖を丁寧に四肢へ巻きつけて、己の存在で首輪を嵌めて、注ぐ愛で呼吸を奪う。上手なやり方なんて分からない。ただ泣きながら、迷子の子どものように、アキラの名前を繰り返し呼んだ。




――差し込む光が瞼を貫いて、あまりの眩しさに目を開けた。
体のあちこちがギシギシ軋むように痛い。目にかかる前髪をかきあげて何度か瞬かせてこびりつくような眠気を追い払う。ゆるりと首を巡らせてそこが一階の床ではなく、過ごし慣れた二階のベッドの上だと言うことを思い出す。
昨夜ソファの影に転がっていた義足は荒い扱われ方でもしたのだろうか、一部が破損してしまっていた。芯は残っていたため、かろうじて歩くことはできたが気を失ってしまったアキラを抱えて、この部屋に戻る途中でビキッと歪な音を立てていた。

何とかベッドまでたどり着き、小さな子どもがぬいぐるみをそうするように、アキラを抱えたまま眠りについたはずだった。しかし寝室には腕の中が空になったライカン一人しか残されていなかった。側にはぬくもりの残らない冷たいシーツが横たわっている。

「アキラ……?」

はくり、と息を飲む。酷く焦燥にかられベッド脇に綺麗に立てかけられていた義足を嵌め、ライカンは部屋を飛び出した。

書斎も、キッチンも、トイレもバスルームも、小さいながらにちゃんとしたゲストルームも全て見回って、そこにアキラの姿がないことに驚愕した。耳をそばだてても己以外の息遣いが聴こえない家にはライカンのもの以外何も残されてはいなかった。アキラの存在が綺麗に消えている。
まるで長い夢を見ていたようだった。であれば、なんと幸せでなんと残酷な夢だったのだろうか。それでも、微かな、残り香のような、シリオンだからこそ感じ取れる僅かなアキラの匂いと、ライカンの脚に嵌まる壊れかけの義足だけが彼がここにいた証として確かに残っている。あの日々は夢などではないのだ。

よろめきながらライカンは玄関の扉を開けた。家に似合わぬ、広い庭。ぐるりと囲まれた白い塀、そして、開け放たれた門扉。
まるで、あなたは自由ですよ、と言わんばかりに開かれたそれに、しかしライカンは動くことが出来なかった。
崩折れるように座り込んで、握った拳で地面を叩く。柔らかな草がクッションとなって望むような痛みは得られなかった。
背を丸め、爪を立て、喉から発せられたのはまるで野生の獣のような慟哭。

置いていかれたのだ。捨てられてしまった。彼に自分の愛は届かなかった。
心にぽっかりと穴が空いてしまったようだった。今更、ひとりで生きるなど、できるわけがない。自由になんてなりたくない。ただ、アキラのそばで彼の力になれずとも、一緒に生きて行きたかった。それほどまでに酷く絆されて、彼への愛を自覚してしまったから。

……置いていかれた、と嘆くばかりでよろしいのですか?」

ふと、柔らかな声がライカンの頭上から降り注いだ。視界の端に靴を履いた小さな足が写って、ライカンはのろのろと頭を上げた。

「それで諦めることのできる相手だったと。その程度の気持ちであった、と。つまりはそういうことでございましょうか?」

髪の長い女性だった。あの夜、ナイフを持って暴れた男を連れて行ったメイド長を名乗る女性だ。
彼女はライカンと同じ紅玉の目を優しく細めて笑みを浮かべた。それは不出来な弟を見守る姉のような暖かさの籠もるものだ。

「そんな、わけ、ない……
「ならば、追いかけて行けば良いのですわ。アキラ様はあなたのやりたいように、生きたいようになさればよいと申し上げておりませんでしたか?」
………
「追いかけてくるな、とも言われておりません。でしょう?」

彼女は首を傾げて、指を一本立てながら、ね?とお茶目にウィンクしてみせた。
体が軽くなったような気がしてライカンは乱暴に目尻を拭った。ペットの自主性に重んじる。アキラが言ったのだ。自由に生きてよいと。やりたいようにやってもよいと。
捨てるなんて結局一言も言わなかったではないか。

はは、と小さく声を上げて笑う。つくづく滑稽なことだと。

「とても、良い顔をなさっておりますね」
「ああ、吹っ切れた。オオカミは狙った獲物は逃さないんだ。執念深く追い続けてやるさ」
「ふふっ、ならば、こちらを。走り続けるには強い脚が、ご入用なのでは?」

カリン、と名前を呼ばれた少女が門扉の外から大きな箱を抱えてライカンの前にそっと下ろす。
黒くシンプルな箱は以前どこかで見たものに良く似ているがそれよりも一回りほど大きくなっていた。ああ、と心のざわめきに思わず声が漏れる。
たおやかなメイド長の指が焦らすようにゆっくりと箱を開けて、さぁ、と中身を促す。

「こちらが本命、と仰られていましたわ。熱烈ですわね〜」

ほう、とメイド長は頬に手を当て感嘆の息を漏らした。
素晴らしい。その一言に尽きる一品であった。
今のものよりも一回りか二回りは太くて、外装の頑丈さが増しているから、きっとかなり重い。しかし美しい黒の光沢は変わらず。脛に走る二本の金色はより洗練された美しいラインを描いている。
ライカンは爪で傷つけてしまわぬようにその表面を撫でて、ゆるりと口を緩ませた。確かに、強い"脚"だ。

……ですが、今のあなたさまは、あの方をお任せするにはあまりに、弱い。それはお分かりになりますね。お傍にいたいのならば、強くなりませんと。もしお望みとあらば私共が力に……あら、もしかしてもう御心はお決まりになられていらっしゃいますか?」
「ああ、とっくに決めてる」
「では自己紹介を。私の名前はアレクサンドリナ・セバスチャン。ヴィクトリア家政のメイド長をしております。どうぞ、よしなに」

差し出されたリナの手をしっかりと見据えて、ライカンは力強く握り返した。己には新たな脚がある。地面を踏みしめる強い脚だ。ライカンは、大人しくて従順で、ボール遊びで満足して尻尾を振る可愛いワンちゃんではない。彼により一億の値をつけられた、オオカミのシリオンである。


ライカンがあの小さな家を出て、ヴィクトリア家政に身を寄せることになったその翌週。
件の誘拐グループが治安局により呆気ないほど簡単に壊滅したとのニュースをライカンが知ったのは、ティーミルクを片手に本日発売の新エリー速報を購入した朝のことだった。
まことしやかに囁かれる噂の中に、あの伝説のプロキシが治安局に協力した、などと言われているが真相は定かではない。
何よりライカンはアキラの本業すら知らないのだ。それでも、このニュースは彼の本来の目的ではなく、そのついでのような気がして、ライカンはふっ、と口端を緩めた。



三年の月日はあっという間である。惜しむように一日を過ごし、身を鍛え、知識を養った。それでも不足はまだまだ溢れてくる。しかしようよう及第点を貰えたのだ。
金色の懐中時計の蓋をパチンと閉め、胸ポケットに丁寧にしまった大柄なオオカミ執事はゆるりと尻尾を振りながらとある店舗を見上げた。
Random play、六分街にてふたりの兄妹が経営するビデオ屋だ。親切な店長が個人のニーズに合ったビデオをオススメしてくれるともっぱらの噂である。
執事は今一度、身なりを整え、勝手に揺れてしまう尻尾をしっかりと押さえて店舗のドアを潜った。

「いらっしゃいませー!」

元気な少女の声に続いて、かつて見たイアスと同型の改造を施されたボンプが続いて「ンッナー!」と手を上げた。
来客に気がついて店の奥の棚で陳列の作業をしていた青年が振り返る。

ーーああ、ちっとも変わっていない。

執事はゴツ、ゴツ、とフルメタルの義足をゆっくりと鳴らして青年との距離を詰めた。瞠られた目が、真っ直ぐに執事を射抜いている。
オオカミは小さく笑みを浮かべ、そうして優雅に片膝をついた。

「このフォン・ライカン、再びご主人様に相見えましたこと、幸甚の至りでございます」

胸に手を当て、低い位置から彼を覗き込む。くしゃりと歪んだ顔。開いた口は言葉を発することなく閉じられて、また開く。
いつぞやの自分と似たような顔をしている。ライカンはくくっ、と口を歪め、目をすがめて笑った。

「それで……お前の中に刻んだ俺は、まだ生きているか?」

アキラの左手を掬い、口を寄せる。背後で、きゃあ、と可愛らしい悲鳴があがった。
僅かなリップ音を残して見上げた先、彼の浮かべた表情をこの先、ライカンは決して忘れることはないだろう。


(おかえり、で合ってるかな…… 僕のカワイイ、一億ディニーのワンちゃん)