su7ga0
2024-09-11 23:55:38
2317文字
Public 孫さに
 

西瓜のにおい

孫/さ/に
鮎になったんだよな俺は

 生まれ故郷の水を知らぬ。
 ふるさとの水の香りも、せせらぎの音も分からぬ。
 それでも、氷魚 ひおの頃から、「帰らねばならない」と強く思っていた。
 だが、帰らねばならない場所がどこにあるのか分からなかった。分かっていたのは、必ず帰らねばならないという強い思い。
 物心ついた時には、辛い潮に揉まれていた。
 胸の内に強い思いを秘め、潮に揉まれて小さな生き物などを食って過ごしていた。そうして、いくらか潮が ぬるんできたある日、「時は来たれり」と、天啓が走った。
 湧き上がる衝動に突き動かされるまま、どことも分からない場所を目指して懸命に はしった。
 どこへ行かねばならないのかは分からないままだったが、疾るうちに、本能が道を示しはじめた。
 清い水。外界へ初めて飛び出した時に、この身を包んでくれた真水の流れ。
 そうして疾って巡り合った清流を、ただひたすらに登ってきた。
 故郷のことは何も覚えていない。だから、たまたま巡り合ったこの清流が、故郷であるかどうかは分からない。
 だが、行かねばならなかったのだ。
 帰らねばならない、帰らねばならない。
 水の中で煌めく針を周到に避け、苔を食い、まわりのものよりも大きく身を太らせてきた。
 しかし、ある時、棲家の近くに垂らされた釣り針を見て、あれを食って飲み、針に掛からねばならない、と強く思った。
 帰らねばならない、帰らねばならない。
 どこへ。
 白い金気に包まれたふるさとへ。
 誰の元へ。
 ただ一人の大切な人のところへ。
 ——と、思ったところで、一度記憶は途切れている。次に明瞭に意識が浮上したのは、人間が多く集う場所だった。川べり近くらしく、水の匂いがする。
 甘い水の香りに混じり、香ばしい匂いも漂ってきた。この体の焼ける匂い。脂がのり、ふっくらとした身。塩を振られてパリッと焼かれた皮。
 どうやら、自分も含めた同胞たちを焼いて出す場所らしかった。そうか、俺はついに食われてしまったか、と思うまもなく、白く強い光を見た。
 驚いて光の方を見てみれば、そこには人間の女がいた。引き寄せられるようにふわふわと空中を泳ぐ。塩焼きになって身を捨てると、空気の中を泳げるものらしい。
 よく見れば、女は光ってなどいなかったが、その女の顔を見て、俺は今まで抱いていた強い思いの意味を知った。
 ——主人。
 帰りたい、帰りたい。
 どこに。
 主人の元に。
 ただ一人、愛した人の元へ。
 魚の身になろうと、語る声を失おうと、触れ合うことが叶わずとも、またこうして目見 まみえることができて本当に良かった。
 しかも、主人が目の前にしているのは俺がのった皿だ。愛した人の身体を作り、血潮を駆け巡ることができる。こんな幸せなどそうそうない。
 主人は嬉しそうに俺へ箸を付けた。尾鰭や背鰭を外し、塩焼きの体全体を箸で丁寧に押す。そうして、頭の後ろあたりの皮を、背骨を折らないよう慎重に切っていった。
 俺は、固唾を飲んで主人の箸捌きを見守る。そうだ。ここで背骨を折ったら台無しなのだ。
 下準備を終えた主人は、少し緊張した顔をしながら、箸で俺の身を押さえて静かに頭を引き抜いた。気持ちよく、するりと骨が抜け、身だけが残る。主人は嬉しそうに笑った。
 俺が骨の抜き方を教えてやった時から、上手になったもんだ。
 ——これこそ、『主人に骨抜き』ってね。
 ……我ながら上手いことを言ったと思う。俺に手があれば、指を鳴らしていただろう。しかし、今の俺は、空中をふよふよと漂う鮎の魂でしか無い。悔しいなあ。でも、主人に食ってもらえるのなら良いか。そう思うしかない。
 俺は何気なく主人の向かい側を見た。
 主人の向かいには、男が座っていた。
「上手くなったな。俺が教えてやった時から上達したもんだ」
「あはは、はじめはボロボロにしちゃって、悔しくてさ。でも、やっと上手にできるようになってきたかも」
「いやいや見事なもんだ。ついでに俺のもやってくれよ」
「えー、自分でできるでしょ?」
「俺はお前が骨を抜いたやつを食いたいんだよ」
 主人の向かいにいたのは俺だった。
 いや、向かいにいるのは、俺であって俺ではない男だ。
 俺ではない孫六兼元よ、主人へ骨抜きを教えてやったのは俺だ。小さな手を取って、箸の力の入れ方を教え、骨抜きに失敗するたび鮎を食ってやったのは俺だ。
 主人よ、その男はだれだ。よその俺に鞍替えしたのか。
 それとも、よその俺に騙されているのか。ああ、きっとそうだろう。俺がこんな身体であったばかりに……
 俺は失意のあまりに気を失った。
 
 ***
 
「ねえ、起きて。 のりちゃんからもらったすいか、切ったよ。起きてってば」
 妻の声がする。俺は、エアコンの効いたリビングの、ソファーの上で目を覚ました。恐ろしい夢を見た。生まれ故郷の川に棲む鮎となり、妻に食われる夢だった。いや、妻に食われること自体は恐ろしくなく、むしろ嬉しかったのだが、あろう事か、妻は、姿形 すがたかたちが俺と全く同じ男と一緒に鮎を食いに来ていたのだ。——いや、夢の中の俺は鮎だったのだから、妻の隣にいたのは俺で合っているのだけれど……まだ悪夢の余韻が残っていて混乱している。
「すいか、あとで食べる?」
「あ、いや。今食べる」
「じゃあ持ってくるね」
 腐れ縁の友人がくれた西瓜のことをようやく思い出す。それにしても、夢の中で、俺は妻のことを何と呼んでいたか。思い出せない。
 台所へ去っていった妻が残した西瓜の香りに、故郷の香魚の香が思い起こされた。