井見
2024-09-11 20:43:50
6828文字
Public ライドウ二次
 

紫煙

疲れ切っている十四代目のリクエストをいただいた時のやつ
縦書きリーダ用

 鳴海はカップに口をつける。その動きの隙に、ちらりとライドウの様子を窺う。
 今日のライドウは学校に行くらしい。大人しく食パンを齧りながら、ぼんやりと皿の模様でも見つめている。いつも通り、と言いたいところだったが、探偵社に流れる空気はいつにも増して重かった。
 ライドウの口数が少ないことは、今に始まったことではない。だが最近のライドウは、朝に「おはようございます」と言ったきり、ひたすらに無言だ。「今日から安売り始まるらしいぜ」なんて言ったところで、「そうですか」で終わる。
 思い出すのは初めてライドウがやってきた時のことだった。きちんと疑問文で話しかけなければ会話は続かない。ちょっとした世間話、雑談、そんなものはライドウの人生には無かったのかもしれない。だがそれも、あくまで知らなかった、慣れていなかったゆえの無口さだ。
 今目の前に座っているライドウは、適当な雑談にも応じられる程度には、世俗に染まってきているはずだった。
 しかし会話は続かない。例えば開いた新聞を肴にもう一度話しかけてみても、
「おっ、ライドウ聞けよ、いい知らせだ。
 なんとあそこのパーラーに新作が出るんだと」
「いいですね」
 終わりである。そこはこう、どんなのが出るんですか、とかあるだろ。そんな会話は既に何度もしたことがあるし、最近はその甲斐あってライドウも対応できるようになっているはずだ。
 だのにライドウは興味なさげだ。せっかくの甘いものの情報でもあるのに。
 これはどう見ても、会話をしたくない、できるならさっさと終わらせたい、という意志表示だろう。
 鳴海はカップを置く。
 理由は何だろう。知らない内に自分が何かをしていて、ライドウを怒らせている、ということが一番思い当たる。だがそれならライドウはきっぱり物を言うはずだ。「鳴海さん、またツケの件で自分が怒られたのですが」などとまで丁寧に報告してくるほどの奴が、こんな回りくどい主張はしない。
 少しの助けを求めて、鳴海はちらりと背後振り返る。窓辺に丸まるゴウトは、鳴海の視線を受けて「にゃあ」と鳴く。だが鳴海にはゴウトの言葉はわからない。
 しかしゴウトはそのまま鳴海からライドウへ視線を動かして、また新しく「みゃおん」と鳴いた。
「そうだな……
 ライドウは呟く。いやゴウトに返事をする。
 そのまま少し慌てた様子で皿とカップを下げに行った。なるほど時計を見てみれば、いつもよりも少し遅い時間か。さしずめ「遅刻するぞ」とでも言ったのだろう、と鳴海はゴウトを再び振り返る。
「なあゴウトちゃん、」
 会話にならないと知りながら話しかけようとして、
 がしゃん、と破砕音が響いた。
 皿でも割ったか。そんな音だ。台所まで様子を見に行くと、やはり足元に散乱する欠片たち。
 ライドウはいつもの通り表情を変えずに、しかし破片の上に呆然と立ち尽くしている。どうしよう、という感じだ。
「大丈夫か、ライドウ?」
 二重の意味だった。
 破片に手を切った様子はない。普段土足なのも幸いしている。
 だがライドウが手を滑らせるなんて聞いたことも見たこともない。これはやはり、どこか調子が悪いのか。人と話したくなくなる時は、得てして人と話している場合じゃない、自分のことで手一杯な時だ。
「すみません、直ぐに片付けます」
「いやいいよ、てきとうにやっとくから。
 それより遅刻しそうなんじゃないの? 行ってこいよ」
「いえ、自分が落としたので」
「はい、行ってらっしゃい。上司命令ね、上司命令」
 そう言ってしまえば、ライドウも反駁できない。鳴海は便利な言葉をここぞとばかりに振り回す。
 登校もよした方がいいのでは、と言いたくなるが、このライドウが大人しく寝室に戻るとは思えなかった。とりあえず〝普通〟の一日を送らせて、少し様子を見ようと鳴海は算段づけた。
 
 そして問題は體育の授業前に起きた。
 更衣室で着替えを行っていると、
「お、おい葛葉!」
 と誰かが叫んだのである。
 菊池だったか近藤だったか、その叫んだ級友にライドウはどうした、と首を傾げた。
「襯衣《シャツ》がその、染み……
 余程慌てているらしく、上手く言葉になっていない。ライドウは腰を捻って、言葉の代わりに指差された位置、右手側の背中を確認した。
 やってしまった。
 シャツには薄い褐色の染みが背中にじわりと広がっていた。しかも急拵えで縫い足した穴もまた剥き出しだ。どう見ても、何かがあったとしか思えない様相を成している。
 もちろん何かがあったのだ。悪魔との激しい戦闘。襲いかかる熱波は、服の素材のおかげで発火こそしないものの、内部の皮膚を強かに焼いた。
 焼け爛れた皮膚がシャツに張り付いてしまって、なんとか洗い落としても染みだけは取れない。酷すぎるところは切り落として、仮の布を当ててはいるが、それ以上修理する気にもなれずに放置している。着られればよいだろうと線を引くようになったのはつい最近のことだった。
 普段であれば問題ない。上着を脱がなければ明らかにならないからだ。しかし今日は着替えがあった。それを失念したままこのシャツを着てきてしまった。いつも時間割を念頭に入れているはずなのに、今日は駄目だった。全てが駄目だ。
 ライドウはさっさとそのシャツを脱いでしまった。隠すように素早く畳む。
「珈琲を倒してしまってな。
 中々に熱かった」
 真っ赤な嘘だが、まさか真実も言えまい。
 シャツがどれだけぼろきれのようでも、中の肉体に傷は残っていないのだから、この菊池君だかの悍ましい想像の続きはない。
「見られてしまっては恥ずかしい。
 どうか吹聴しないでくれ」
「あ、ああ……葛葉もそういうことがあるんだな。
 僕も昨日零してしまって、ノートが茶色になってしまった」
 ふふ、とライドウは微笑んだ。
 会話は終わりにしたかった。あまり続けてはぼろが出るかもしれない。
 ちょうど授業の時間も迫っている。急いでいる素振りを見せて、その場をいなした。 
 
  *
 
 悪魔の使える魔法で最も便利なものは、治癒の魔法だ。ライドウはそう断言する。
 炎も氷もいつか技術が再現しようが、治癒だけはこうはならない。悪魔が一度魔法を唱えれば、血を流しても肉が削げても、次の瞬間には全てが無かったことになる。
 だからライドウの体にも、傷はあまり残っていない。いま僅かに残っている傷跡は、どれも仲魔を使うまでもない小さな外傷や、あるいは呪いを帯びるなど特別な傷。それくらいであれば、少し派手に転んだ、などと言い訳できる。肉体だけ見ればふつうの人間と言い切ってもよい。
 しかし体が忘れてしまっても、脳は覚えている。
 刃こぼれだらけの刀が無理やり肉を裂き、肋骨に触れる感触を。
 氷の息吹が爛れさせ、炎の柱が焼く皮膚の温度を。
 これで刀も銃も持てまいと、まるで菓子のように骨の折られる音を。
 ‪──痛い。全身が。
 思わずライドウは目を開いた。暗い天井。探偵社に誂えられた自室。全身に汗が滲んでいる。
 いま傷を与えられた訳ではないのに、思い出したように体が痛みを訴えている。
 治癒の魔法も、痛みだけは拭えない。治るのは傷があったという事実だけで、発せられた刺激は消えない。 
 戦っている最中はすっかり忘れていられた。何気ない会話を交わす間も、無視していられた。思考の隙間さえ無くしてしまえば、痛みがつけ入る余地はない。
 逆に言えば、思考が解けていくこの瞬間、眠りにつこうとする夜が最も厄介だった。
 運が良ければ何事もなく眠れる。気絶するくらい疲れ果てていてもいい。しかし駄目な時は駄目だった。一つ始まると連鎖だ。そういえばここも痛いのだった、とでも言うように、すでにすっかり治った肉体がまるで瀕死の叫びを漏らす。溜まった負債を徴収するがごとく、痛みを思い出させてくる。痛いだけで、何かできることもない。まるで意味が無い。
 耐え忍ぶしかない。それには慣れている。慣れている、が、今まで無視した全ての痛みが順繰りに襲いかかってくるのは、流石に困りものだ。
 は、と短い息が漏れた。
 眠れない。
 ここ数日を痛みに費やしていた。
 原因はおそらく、あの大事件が一息ついたのだと思ってしまったことだろう。大事件に区切りがついても、この生活に収束はない、はずなのに、痛覚は追いかけてくる。
 ライドウは身を起こした。寝よう寝ようとすればするほど、意識を落とそうとすればするほど、痛みが鮮やかになっていく。これならば起きて夜明けを待つ方が少しはましだと思った。
 
 ライドウは寝巻きのまま部屋の外に出た。学生服を着ないまま探偵社をうろつく経験は少ない。スリッパが木製の廊下に触れる。革靴と違って足音はしないが、体重をかけると軋んで音を鳴らす。注意をしていても、僅かにみし、と言った。仕方がなかった。
 台所で水を一杯飲んで、汗の滲んだ顔も洗った。
 自室に帰ってもすることがない。そう思って、いつもの応接間へ向かった。
 普段は柵を背にして立っているが、来客があるはずもないので、長椅子に腰掛けた。背もたれに体を預けて、電飾を眺めた。埃は掃いているが、そろそろ外して本格的な掃除をしないといけない。煙草の煙がすぐに汚してしまう。そんなどうでもいいことを考えている方が、気が紛れた。
 電気をつけないままの部屋は暗いが、所長席の背にある大窓から外の灯りが漏れてくる。今日は満月に近く、闇ながらも明るい夜だった。
 ライドウは窓を少し開けた。開けるのにはコツが必要だったが、すぐに覚えた。涼しい夜風が額を冷やして、気持ちがいい。
 普段この窓はあまり開けない。所長席だと風が直に当たるから寒いらしいのと、一度請求書が風にばら撒かれて困った。日が照っている暑い日は開けることもあるが、それももう少し前のことだった。
 誰も座っていない所長席を、ライドウは眺める。
 そしてそこから眺める応接間の景色も、確かめた。こうして見えているのだな、と思った。
 
 みし、と床の軋む音がした。噂をすれば影が指すとは言うが、とライドウは少し驚く。
 扉が開くのを待つ時間はなかった。
「夜更かしさんだねえ、ライドウ」
 ふわ、と漏れる欠伸と共に現れるのは鳴海だ。
「ゴウトちゃんが、思いっきり俺の顔踏んづけてってさあ。俺の部屋に来るなんて珍しい……しかも起きたら逃げられてるし。こっちにゴウトちゃん来てる?」
「いえ……
「どこ行ったのかねえ。ま、いいけどね……
 鳴海は自室に戻る様子はなく、むしろぺたぺたとスリッパを擦りながら所長席の方へ寄ってくる。ライドウは逆に長椅子の方へ後退した。自分の部屋に戻ろうかと思ったが、戻ったところで、である。
 鳴海はいつもの通り所長席にかけ、悠然と肘をついた。
 ライドウは普段の柵の前でなく、長椅子にかける。わざわざ椅子から柵のところまで移動するのは不自然だったし、立っているのも億劫だった。
 しかしなんとなくこの構図は、依頼人の気分になって、ライドウはごくりと唾を鳴らした。
 鳴海はライドウを凝と見ていた。見透かされていた。
……ライドウ、ここのところ夜更かしだろ?」
 ライドウは身動ぎをした。
「そりゃあ健全な青少年なら、眠れぬ夜の一つや二つあるだろうけど……お前は具合が違うな」
 気づかれていた。今日の失態を思えば驚きはなかったが、不調を指摘されるのに不甲斐なさを感じた。
 鳴海はことりと首を傾げる。眠たげな眼差しに隠すように、ライドウの内を探っていた。
「眠るって不思議だよな、本当に疲れてるって感じてても、無理な時はとんと無理だ」
……鳴海さんは、そういう時、どうしますか」
「時間があれば原因を探って対処すべきだろうな。時間も余裕も無ければ、酒か薬で無理やり眠る……当然良くないぜ、お前はやっちゃいけないな」
 きい、と椅子が回る。鳴海が足を組み替えていた。
 どうする、と聞かれているのだとライドウはわかった。眠れない理由を話せとは言わないが、話したいなら話せばいい。話せないような理由なら、あるいは話したくないのなら、おやすみなさいとこの場を去ればいい。その選択が与えられていた。
 ライドウは小さく口を開いた。
「体が……痛むのです。それで、眠れない」
 その言葉を皮切りに、ライドウはぽつぽつと現状を説明した。傷は一つも残らず治っているのに、眠ろうとする間際に限って思い出したように無いはずの傷が痛む。
 口に出してしまえば、何と滑稽で惰弱な弱音だろうと思った。
 鳴海は笑わなかった。
「何かあるわけじゃないんだな? 痛いっていうだけで、本当は骨が折れてる、とか」
「ありません。感覚だけが、残っていて」
「そりゃよかった……いやよくないが。それで眠れないんじゃ、世話がない。
 今も辛いか?」
「いえ……
……じゃあ、眠ることが問題な訳か」
 ふむ、と考え込むように鳴海は口元を覆う。ライドウから外れた視線は、自分自身に向けられていた。
「傷がたちどころに治っても、痛くないわけじゃないんだろ?
 眠る前、落ち着いた時、ようやくあれは痛かったなって思い出せる……。ライドウとは比べものにならないだろうが、俺にもそういうことはあるさ。
 要らないことだと思うだろうが、そうやって偶には整理しないと、いつか何もかもわからなくなる」
 ライドウは口を引き結んだ。
「でもそれでお前が辛いんじゃ元も子もない。眠れないなんて度が過ぎる。
 なんでだろうなあ。休んじゃいけない、とか思っちゃっているのかね」
「休んじゃいけない……
 思わず復唱するが、ぴんとこない。
「でも、休みたいです」
 休めるのなら休みたいと思っているし、既に日常に支障が生じかけている。実際自分が何を考えているのか、ライドウ自身わからなかった。
「そうだなぁ。休んでいいんだ、って思うことか……
 ライドウの落ち着くことは? 何かあるか」
「落ち着くこと……ですか」
 落ち着く。思わずほっと息を吐く瞬間。
 長い一日をライドウは思い返した。目覚めてから、この部屋に来る時。学校や依頼のために探偵社を出て、そして帰ってくる時。
「煙草の匂い……が、すると、帰ってきたなと……思います」
 鳴海は、そう、と相槌をうつと、机に放られたままの煙草を一本咥えて、火をつけた。
 暗闇に慣れたライドウの目には、マッチ棒の燃える灯りは眩しかったが、不快ではなかった。直ぐに消されてしまう火は、小さな花火のようでもあった。
 鳴海はタバコをゆったりと吸い込んで、紫煙を勿体ぶるように放した。
 部屋に煙草の匂いが広がる。ライドウはその匂いを確かめた。かつてはどうしてこんなものを吸うのだろうと思っていたが、ライドウにとってもう既にあって当たり前の香りになっていた。
 鳴海はそのまま立ち上がって、ライドウへ距離を詰めた。ライドウの座る隣に、鷹揚に腰掛けた。
 指に煙草を挟みつつ、鳴海は子供っぽく笑う。
「講義中って、寝ちゃいけないって思ってても寧ろ眠くなるだろ。それをやろうぜ」
 ライドウは首を傾げた。
「眠くはなりませんが……
「なるんだよ。お前もなる。いや……まあ、適当だけどさ。
 くだらない話、してやるよ。とても起きて聞いてちゃいられないくらいの」
 ……これは昨日タヱちゃんに聞いた話だけど……
 否も応もなく、鳴海は話し始める。その間も、紫煙が部屋を舞った。
 ライドウは再び深く息を吸った。知っている、同じ匂いだった。
 鳴海は長椅子の背もたれに腕を伸ばしながら、反対の手で煙草を支えて、つらつらと話を続ける。新聞の一記事にもならないような、本当にどうでもいいことばかりだ。あの通りの野良猫が子を産んだのは知らなかった。
 どこからこんなに言葉が出てくるのだろう、とライドウは不思議に思った。そしてどこからが作り話なのか、もしかしたら全部が本当なのか。ライドウには判別もつけられない。判別する必要もない。
 全ては自分のために紡がれている言葉だった。
 無理に眠ることを考えるよりも、ずっと良かった。このまま夜を明かしてしまってもいい。
 ……だが、そうはならなかった。そんなに時間もかからなかった。
 ゆっくりと鳴海の声のトーンが落ちていく。鳴海が口を閉じてしまえば、もうこの部屋の音は一つだけになる。
 規則的なゆったりとした呼吸音。
 力なく傾いたライドウの身体は重かった。
 鳴海は煙草を咥え直して、深く吸い込んだ。
 穏やかに吐かれた煙は、静かに天井へ上っていった。



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