銀座の暗がりに佇むミルクホール「新世界」。そこは帝都の召喚師が集まる隠れた憩いの場であり、悪魔や召喚に関する情報が飛び交う場所でもある。
栄えある名を戴いていても、召喚師としても人間としてもまだまだ若輩であるライドウにとって、「新世界」は先達から様々な情報を吸収できる貴重な店だった。そのため銀座まで所用があると、帰り際に情報収集を兼ねて「新世界」の扉を開く。それがライドウの決まった道順になっていた。
「あら、ライドウくん。このお店によく来るわね。鳴海さんのお使い?」
カウンターに座る可憐な女性が、店内に入ったばかりのライドウに向き直る。桃色をした今時の西洋着に、くるりと巻かれた短い黒髪。手帳に何かを書き込んでいたのか、右手でペンをふるふると弄っていた。
「こんにちは、葵鳥さん」
朝倉タヱ──筆名は葵鳥。彼女は後者の名前で呼ばれることを望んでいるので、ライドウはそちらで呼んでいた。呼べば決まって彼女はその通り、と満足気に笑みを浮かべる。
「あーあ、あたしにもライドウくんみたいな助手がいれば、少しは記事のネタ探しも楽になるのかしら……」
あ、そうそう、記事と言えばね……とタヱは話をみるみる広げていく。それではさようならと言うわけにもいかず、ライドウは彼女の隣の椅子に座った。ゴウトは呆れがちにぺたぺたと店内を彷徨き旧交を温めに行った。サマナーの多いここでは、ゴウトの声はほとんどの者に届く。
もちろんタヱはデビルサマナーなどではなく、当然ミルクホールの立ち位置も知らない。未だにただの雰囲気の良い店としか思っていないようだ。店主に目配せをすると、思わし気なウインクが一つ。やはりまだ気づいていないらしい。
「って、あたしばかり話してごめんなさい。せっかくだし何か飲む?
もちろんお酒はだめよ、未成年なんだから……鳴海さんとか、飲ませていたりしない? 大丈夫なのかしら」
「僕に飲ませる分があれば、鳴海さんは自分で飲むと思います」
「……っふふ、言う通りね。この上なく安心だわ」
タヱは上機嫌に、何か選びなさいな、と手元のメニューをライドウに手渡した。このような場面での上手い断り方をライドウは知らなかった。寧ろ折角の誘いには応じてやるのも相手を喜ばせるコツだ、などと適当な調子で鳴海に言い含められたこともある。
ここはタヱの厚意に甘えようと、ライドウは素直にメニューを読んだ。
問題は、今まで一度もミルクホールで飲み物を頼んだ経験がないということである。飲めば心身が増強されるかもしれないという話も聞いてはいるが、自ら頼る気にはなれなかったのだ。そのためメニューに記された小綺麗な字が、一体どんな品を指すのか全くわからなかった。何がマジカルで何がミラクルなのか。ただわかるのは、おそらくソーダ水である、ということだけだった。
「ライドウくん、もしかしてソーダ水は苦手?」
僅かに眉を顰めたライドウを、タヱは覗き込んだ。基本的に表情の乏しいライドウだが、付き合いが長ければそれなりに何を考えているか察することができる。ましてやタヱは記者である身、些細な感情の機微にも敏感であると自負していた。
「いえ……飲んだことがないので、わかりません」
「そうだったの。ライドウくんってやっぱり、箱入り……というのとも違うけれど……色々教えがいあるわよね!
サッパリして美味しいのよ、ソーダ水。シュワシュワって泡が口の中で弾けて……飲み込む時のゴクって音が、すごく刺激的よ。
お酒でもあるわよね、ほら、シードルとか……シャンパンとか。鳴海さんも飲むんじゃなくて?」
「そうですね。ちょうどこの前、大家さんから頂いて。美味しそうに飲んでいました」
「やっぱり。ライドウくんも、大人になったらきっと飲まされるわよ。今のうちから練習しておかなくっちゃ」
タヱはライドウの持つメニューの中から、一つ指差した。
「これとか、あたしのおすすめよ。果物の甘さが強いから、ライドウくんも気に入るんじゃないかしら」
「では、それをお願いします」
ライドウがそう答えると、タヱの弾む声が店主に届いた。ほどなくして、ライドウの前に一杯の飲み物が届く。
氷の入った桃色の液体、底はソースだろうか、ベリーを思わせる紅だまりができている。液体をじっと見やれば、たしかにぽつぽつと、炭酸の泡が生じている。グラスの縁に飾られた檸檬が洗練された雰囲気を作っており、小洒落た酒にも見えた。
興味深く液体を見つめるライドウを、タヱはにこにこと促した。
いただきます、とライドウは初めてのソーダ水を口に含んだ。
唇から驚いた。細かな何かが唇を跳ねまわるようだった。そのまま口内に侵入した液体はなお一層跳ね、文字通り舌を翻した。ライドウにとってこんな些細な刺激は痛みにすら勘定されないが、この下手したら痛みを訴えようものが人々の嗜好品であるということに驚愕の一言であった。
しかし泡と共に弾む木苺を思わせる甘味は、ライドウの知る甘味とは一味違い、なるほど刺激的である。口内でとろけるチョコレートや、蜜をたっぷりと吸って重たげな大学芋とは異なる、爽やかかつ軽やかな甘さは、確かに弾ける炭酸のあぶくによって与えられていた。
そのままライドウはごくりと液体を飲み下した。ソーダ水は、ただの水よりも炭酸という存在感を放ちながら喉を通過する。その飲みごたえまでがソーダ水の特質だった。
「お味はどう、ライドウくん」
タヱは答えを確信していたが、あえてライドウに尋ねた。
「美味しい、と思います」
ライドウの返答は、やはりタヱの予想していた言葉の通りだった。ライドウの視線はソーダ水に注がれて、もう一度唾を飲み込みながら、初めての感覚を反芻していた。タヱは微笑んだ。
タヱも自分のグラスを飲んだ。ライドウに勧めたものと同じものだが、彼が来る前からあけているから、少し炭酸が抜けてきているかもしれない。だが相変わらず涼やかなこの味わいはタヱのお気に入りだった。同じ刺激をライドウも味わっているのかと思うと、余計に美味しく感じられた。
タヱは思わず口にした。
「ライドウくんが大人になったら、みんなでシャンパンとか飲みましょうね。あたしあれが大好きなの」手にしたグラスをもう一口含んだ。「……もちろん、鳴海さんの奢りでね」
おずおずと飲み進めていたライドウの手が止まった。〝大人〟の自分という姿は、全く予想もつかなかった。いつか自分は成年になるとしても、数年は長すぎた。将来の場所に、自分がいるか、わからなかった。
グラスをゆっくりと下ろして、ライドウは肯いた。
「楽しみです」
周りの大人たちは、こうして将来の約束をたくさんライドウに告げていた。増える約束はもう持ち切れないほどだったが、あたたかな重さだった。
「鳴海さんがここにもツケをためないように、頑張ります」
「……そうだ、あたしの取材代もまだ払ってもらってないわ」
「……言っておきますね」
二人は目を合わせると、どちらからともなく笑った。
ライドウのグラスには、まだソーダ水が残っている。氷がからりと音を立てながら底へ落ちていく。綺麗な見た目も、刺激的な味わいも、楽しむためだけに作られている。その余裕がライドウには眩しい。
先程までは躊躇しながら飲んでいたが、思い切り飲んでみようと思った。グラスに口付けて、頬に触れるほど口に含む。口の中いっぱいに炭酸の弾みが広がる。
「美味しいですね。
ありがとうございます。葵鳥さん」
心からの感想と感謝を。それがライドウから返せる精一杯の返礼だったが、タヱには充分だった。
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