にゃーん、と東の足元に擦り寄ってきたのは、以前八神に紹介されたことがある猫だった。白い毛に覆われ、背中に二つ黒丸模様があるその猫を八神は「しらたまさん」と呼んでいた。黒玉じゃないのか、と東は思ったが口にはしなかった。
そのしらたまさんが、べったりと赤い血で汚れていた。
シャルルに向かう途中だった東は驚いて、そっとしらたまさんを撫でながら様子を伺うが怪我は見当たらない。しらたまさんの血じゃないらしい。
ならば他の猫か、カラスか、まさか人間か。考えを巡らせながらも、とりあえず洗ってやるべきかと抱き上げようとしたが、するりと腕を抜け出したしらたまさんは今来た道を戻っていく。少し離れてから東の方を振り返り、にゃーんと鳴いてまた歩き出す。
ついてこいと言ってるのか、なんてファンタジーなことを考えるタイプではないが、なんだか嫌な予感がした東はしらたまさんの後を追うことにした。
連れていかれたのは、しらたまさんに初めて会った路地裏だった。その時に八神は、たまに様子を見にここにきていると言っていた。
そこには十人ほどのチンピラが倒れていた。バットやらナイフやらも落ちていて、喧嘩していたのだろうとすぐに察する。こいつらをのしたやつはもうこの場を去ったのだろうかと見回すと、しらたまさんが一人の人物に真っ直ぐ向かっていく。壁に寄りかかって地べたに座っているその男は、八神だった。
チンピラどもを跨いで近付けば、口の端から血が流れた跡がある。頬は痣になっているし、右の手のひらはざっくりナイフで切られたらしい傷があった。
すぐ側に跪き、気を失っている八神の痣になっていない方の頬を叩いて「おい、八神!」と声をかける。ゆるゆると瞼が開き、しばらくぼんやりしていた目が東を捉える。
「ひがし……?」
「大丈夫か」
「ちょっと……ふらつく……」
「頭殴られたか?」
ゆっくり目を閉じた八神は重たく息を吐き、東にもたれかかってから口を開く。
「昨日海藤さんに付き合わされて、しこたま飲まされたんだ」
「二日酔いかよ」
呆れた東はもう置いて帰ろうかと思ったが、甘えるように頭を胸にぐりぐり擦り寄せてくる八神に毒気が抜かれる。猫みたいだ。
頭を撫でてやれば「んふふ」とご機嫌な笑い声が漏れ聞こえる。まだ酔ってるのか、夢うつつなのか。
「で、こいつらはなんなんだよ」
「知らない。しらたまさんのこと蹴ろうとしたからやめさせただけ」
「しらたまさんが俺をここに連れてきたんだ」
「マジで? しらたまさん賢いね」
褒められたのがわかったのか、撫でろと要求するようにしらたまさんが八神の腕の中に滑り込む。
「うわ、血がついてる。これ俺のだよな、ごめんねしらたまさん」
「どういう喧嘩したらそんなとこ切られるんだ?」
「しらたまさんを庇いながらだったからさぁ」
「二日酔いだしな」
無事な手で猫を撫でる八神の目は慈愛に満ちていて、可愛いなぁと思ってしまった自分にため息を吐いた東は立ち上がる。
「病院行くか?」
「いや、大丈夫でしょ。シャワー浴びて寝たい」
「そうか、しらたまさんも洗ってやれよ」
「東」
存外平気そうなのでお役御免と立ち去ろうとすると八神に呼び止められる。じっと見つめられるとなんだか居心地が悪くなる。
なんだよ俺はシャルルに向かう途中なんだよ、と切り捨てればいいのに、東にはそれができない。
「家、行っていい?」
「……」
「俺の手こんなんだしさぁ、シャワーもままならないと思わない? しらたまさんも上手く洗ってあげられないし」
「……」
「今日仕事入ってないんだよね。海藤さんも休みなんだ。な? いいだろ?」
東は八神に逆らえない。惚れているので。
差し出された手に掴まり八神は立ち上がる。そういう優しいとこ好きだよ、と笑えば東は不満そうに「言ってろ」と吐き捨ててしらたまさんを抱き上げる。
お家デートだ〜なんてふざけて言う八神と歩き出しながら、東は出勤できなくなったことを伝えるメッセージを店員に送った。
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