溶けかけ。
2024-09-10 20:07:03
2181文字
Public ほぼ日刊
 

盲愛

ストーカーに誘拐されるフリーナの話

 フリーナは溜息を吐いた。憂いを帯びた顔をした彼女の前にはフォンテーヌでも五指に入ると言われている有名パティシエの作ったチョコレート、美しい便箋に入れられた手紙、そしてラッピングされた薔薇の花がある。
 また、フリーナが溜息を吐いた。チョコレートも手紙も薔薇の花も嬉しくないわけではない。それが、狂った執着によるものではなく、純粋な好意によるものであったら――の話だが。一枚の紙を取り出す。科学院に提出していたプレゼントの解析結果である。
 結果は黒――性的興奮を齎す作用のある物質が混入している、と大きく書かれていた。その下には具体的な何がどれくらい含まれているのかを数値化したもの。
 フリーナが机の上に突っ伏した。ぞわぞわと肌が粟立ち、身震いをした――怖い、怖くて堪らない。声にも表情にも出さずに、代わりに彼女は再び溜息を吐いた。

 事の起こりは数週間前。
 フリーナはいつものように監督として舞台に立っていた。舞台そのものはスタンディングオベーションに終わり、余韻に浸っていた彼女に熱心なファンが花束を手渡し、握手を求めた――始めはただ、それだけだった。舞台の感想は好意的でフリーナとしても褒められたら素直に嬉しい。鼻高々にフリーナは今回の舞台について熱く語り、ファンはそれを崇拝するかの視線で聞いていた――ここまでは、本当にファンとの交流そのものだったのだ。

 様子が変わりだしたのが数日前。フリーナの行く所、行く所にそのファンが居るのだ。始めのうちはただの偶然だと思っていた。フォンテーヌ廷内はさほど広くない。故に、カフェやレストランで会うことがあっても、「偶然」の範囲で片付けていた。

「それ、おかしくないですか?」

 とある日の休憩時間、指導をしていた劇団の劇団員の一人がフリーナの話を聞いてそう言った。首を傾げるフリーナに他の団員たちも口々にそうだ、そうだと頷く。
 その後、フリーナの家に押しかけた団員たちが贈り物であるぬいぐるみから盗聴用のマシナリーを見つけたことにより、熱心なファンは悪意を持ったストーカーであることが判明したのだった。



「フリーナさん!」

 ストーカーからのプレゼントを捨てる場所を考えながら歩いていたフリーナの腕を誰かが掴む。聞き慣れた声は冷静さを欠いていて、珍しいこともあるものだな、とフリーナは自身のアパートメントの大家をぼんやりと見つめた。

「あなたの家に泥棒が入ったのよ!」

 腕を引かれて、走り出す。まだ事態を飲み込めてないフリーナは目を白黒させながら、後に続いた。



 言葉を失う、とはこのことかとフリーナは理解した。覚束ない足取りで荒れ果てた部屋へと入る。貴金属類の置かれた引き出しやドレッサーは無事だ。寧ろ――下着や服の入ったクローゼットが空っぽになっているのが見て取れた。フリーナの華奢な体ががたがたと震えだす。寒くないのに、鳥肌が立ち、歯がかちかちと鳴って、目の前が暗くなっていく。

「君は少し休んでいたまえ」

 聞き馴染んだ声が頭上から聞こえ、倒れそうになった体を細身だがガッシリとした腕が受け止めた。

「ヌヴィレット……

 その腕に縋るようにしてフリーナが顔を上げる――そこには複雑そうに眉を寄せたフォンテーヌの最高審判官、ヌヴィレットが立っていた。



「さて、事情を説明してもらおうか」

 いつもより高圧的にヌヴィレットが切り出す。薄紫色の瞳がフリーナを睨めつけた。

「別に……大したことじゃ……

 それきり、フリーナは黙り込む。顔は青褪め、唇まで青い。マグカップを持つ手が小刻みに震えているのをヌヴィレットは見逃さなかった。

……フリーナ殿」

 ヌヴィレットが息を吐き出し、彼女の名を口にすれば、細い肩が大袈裟なほどに大きく跳ねた。

「君は迷惑をかけたくないと思っているのかもしれないが、君の命が脅かされることを私たちは良しとしない――それは理解しているかね?」

 泣きたくなるほど優しい声音にフリーナが頷く。
 俯いたままソファに座るフリーナの前にヌヴィレットが回り込んで視線を合わせれば、不安げに揺れる海色と目が合った。



「結局、ヌヴィレットの世話になってしまっているね……

 のんびりラッコのぬいぐるみを抱きしめる。あの後、僕と彼は話し合い――というには激しい言い合いをし、仕事の送り迎えには護衛を付け、家の周囲の見回りが増えた。
 一人で生きていく、と決めたことに後悔はない――だが、有事の際はこうして守られていることが情けない。
 じわり、と滲む視界を袖で拭う――コンコン、というノックの音が聞こえた。

「どなた……?」

「フリーナ殿、私だ。夜分遅くにすまない」

「ヌヴィレット……?」

 起き上がり、外へと続く扉へと近づく。
 このとき、もっと警戒していれば気づけたかもしれない。
 例えば、彼にしては低い位置から聞こえたノックだとか――
僅かにノイズの混じる声だとか――そんな、一つ一つの違和感に。

「こんばんは、フリーナ様」

 見知らぬ男が微笑んだ。警鐘すら鳴る間もなく、フリーナの意識は闇へと落ちる。
 高嶺の花を手に入れた男は夜闇に紛れて消えていった。