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fuchswaldcrow
2024-09-09 22:05:23
24215文字
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【東巻】共に走るため生まれてきたの
・全員大学生 巻島さんが東堂さんに忘年会の最中にプロポーズする話(※別に酔ってないし付き合ってもいない)
・スペアバイクの展開(から捏造した話)がめちゃめちゃに出てくる
・主に東堂さんと巻島さんと真波くんと坂道くん(後輩達の方に特にCPの意図はないです)
巻き込まれた人々:1年目IHメンバーと黒田さん葦木場さんと手嶋さん青八木さん
・元は公開するつもりもなく書いた話なので、たぶんあんまり読みやすくはないです(人に読ませるつもりで書いたら3個くらいに分けてたなと思う内容を1つの話に全部詰めたので)
・わたしは巻島さんのことを世界一格好良い男だと思ってるのでこれはたぶん東巻(個人的趣味嗜好の話として『かわいい男』って言葉が似合う方が攻だと思っている)
※万一検索か何かで辿り着いてしまった方へ:本編を途中までしか読んでいない状態で書いた為、この場に居て然るべきなのに出てこない人が居たり、先の展開との齟齬も恐らく多分に含まれるのですが、読む気がない訳ではなくむしろ物凄く楽しみに読み進めてる最中なので、何か見つけてもどうか暫くそっとしておいて頂けると嬉しいです。
書いた時点までで読んでる(見た)もの:本編1~35巻(+山神パーティー)・スペアバイク1~130話・二人の約束・劇場版のアニメ(※熊本のやつ)
こうなった原因は、ここに居る全員が愛すべき自転車バカであったからの一言に尽きた。
年末。クリスマスを過ぎ大学も休みに入り、新年の足音が間近に迫る頃。
方や神奈川の実家に帰省した荒北の連絡で集まった福富、新開、東堂。
方やクリスマス休暇で日本に戻った巻島の実家を訪ねた金城と田所。
忘年会の名を冠した集いは、最初の年にはそのように、かつてのチームメイト同士である四人と三人が別々の場所で旧交を温めるささやかなものだった。
様相が変化したのは翌年からだ。
あの夏を競った荒北と金城、東堂と田所がそれぞれチームメイトとなって二年。
進学を果たした後輩達もそれぞれの大学で自転車競技部の門を叩き、高校時代の垣根を越えて交友関係が広く構築されるに至った結果、最初に言い出したのは荒北だった。
『色々めんどくせーからァ、今年はそっちもこっちも纏めて集めようぜ』
そうだな。荒北の提案に応えたのは金城だ。
東堂や葦木場を筆頭に諸手を挙げて喜ぶ者は居れど反対する者はなく、かくして福富金城の世代とその下の世代の箱根学園と総北高校、かつての両校自転車競技部レギュラーメンバーは、年末の居酒屋で一堂に会する事となった。
字面は仰々しいが、それぞれの高校時代のOB会、大学の部活内での集まりなどは別口で存在している為、実態はただの内輪の飲み会だ。
ちなみにこの時の荒北の提案には『ウチのメンツだけ集めると今年もいつの間にか幹事やる事になる予感がするからそっちに投げてェ』という思惑が多分に含まれていたのだが、結局真波や小野田達の世代が進学してきた今年もなお、彼はこの集まりの幹事のひとりとして調整役を担っている。荒北靖友は高校時代から変わることなく、大概面倒見のいい男なのだった。
今年で二回目となる荒北曰くの『纏めて集めた』忘年会は、大学生の飲み会という字面から世間が想像するそれよりも、ずっと行儀の良い集まりだった。
なにせまだ酒の飲めない年齢の者も多い上に、そうでなくともスプリンター達などは欲求が食い気の方に傾いている。
空いた皿やグラスは次々と入り口付近に寄せられて、載せられている料理の量が些か過剰に見える他には整然としたテーブルを囲み、自然と寄り集まった者達で、高校時代の思い出や今年一年で走ったレースの話を交わす。
共通言語は自転車と、高校時代に吸い込んだ身を焦がすような真夏の空気の記憶くらいで、けれどもここに集う者は皆、それが全てで十分だと思っていた。
*
最初はなんとなく出身高校ごとに集まっていた各自の席が、乾杯から一時間も過ぎる頃にはあちらへこちらへと移動する者が現れて境界を失うのは、去年も今年も変わらない。
「東堂」
そろそろ自分も動こうか。そんな事を考えていた折、不意に頭上から降ってきた自身を呼ぶ声に、空き皿を纏めて後輩に手渡していた東堂が振り返る。
「巻ちゃん!!」
顔を上げた先に予想通りの男の姿をみとめて、東堂は笑みを浮かべた。
巻島裕介。東堂の無二のライバル。丁度彼の隣に移動しようと考えていた東堂は、普段は素っ気ない態度で自身をあしらう事の多い巻島が、自分から傍に来てくれたことが嬉しくて仕方ない。
ぽんぽんと少し前に空席となった座布団を叩けば、モヒートの入ったグラスを片手に斜めに傾いだ姿で歩いてきた男は、素直に東堂の隣へ腰をおろした。
ふらふらと歩く仕草は一見酔っているように見えるが、これが巻島の平常運転である事を知る東堂は、特に気にする事もなく座卓へと向きなおる。
「巻ちゃん、だし巻き食べるか? 梅ささみもあるぞ。そうだ巻ちゃん、今日全然野菜を食べていないだろう。今からでも遅くないから帳尻を合わせろ」
だし巻き、串から外した梅ささみ、茄子の揚げびたしに冷やしトマト。
新しい取り皿に勝手にぽんぽんと盛り付けて隣に差し出すと、巻島は常に下がり気味の眉をより一層歪めて、実に嫌そうな顔をした。
「なんでオレが何食べてたか知ってるんショ
……
」
見ていたからに決まっている。
今日の巻島は、乾杯の酒にワインを選び、それと一緒にチョコレートサンデーを頼んでいた。実に自由だった。
東堂はこんなに自由な人間を巻島以外に知らないので、どうしたって気になってしまうのは諦めて欲しいと思っている。
別に悪いことだと思っている訳ではないのだ。食生活の部分はさて置いて。
今日だって最初はお茶でと示し合わせようとしていたらしい後輩達が、巻島の注文を聞いてそれぞれ好きな飲み物を頼み始めたのを、東堂は大いに歓迎すべき事だと思っている。別に巻島が後輩の事を考えて自由に振舞っている訳ではないにせよ。
皿に続いて新しい割り箸も差し出してやると、顔を顰めたままそれを受け取った巻島が、盛られた食事をもそもそと食べ始めた。
だし巻きに箸をつけた巻島が、これうめぇなと眉間の皺を緩めるのを見て、東堂は残っていただし巻きを全て巻島の取り皿に移動させた。
空になった皿を手近な後輩に手渡せば、リレー方式で個室の入り口の方へ運ばれていく。
「東堂ォ」
梅ささみをモヒートで流し込んだ巻島が、振り向いた東堂とまっすぐに視線を合わせた。
人付き合いを不得手とする巻島が、自転車の上以外で自ら視線を合わせてくることは珍しい。
「どうした巻ちゃん? もしかして何か話があるのか?」
水を向けられた巻島が、あぁと頷き、ポケットから取り出した小さな箱を東堂の前に置いた。
ポテトサラダの山を背景にして自身の前に鎮座する紺色のリングケース。
意図が掴めず、東堂は首を傾げる。
「巻ちゃん、なにこれ?」
「婚約指輪」
返ってきた答えは明瞭で、だからこそ理解が追い付かない。
「
…………
誰のだ?」
「オレが買ったに決まってるショ」
他に誰が居るんだと笑う巻島の言葉はもっともで、他人の指輪を持ち歩いている方がおかしいのはその通りなのだ。
それでも普段は察しの良い東堂が些か間の抜けた質問をするに至ったのは、巻島と婚約指輪と居酒屋のテーブルの取り合わせが、頭の中で何ひとつ上手く結びつかない所為だった。
リングケースと巻島の顔を交互に見つめ、たまにポテトサラダに視線を遣って、流石にこれは関係ないなと巻島へ視線を戻す。
そんな事を繰り返しているうちに、取り皿の上の茄子とトマトを綺麗に片付けた巻島が、なんてことのない顔で言った。
「プロポーズしようと思ってよ。おまえに」
二人の間に沈黙が落ちる。
見事な処理落ちを起こした東堂を放置したまま、巻島が飲み物の追加オーダーを募る田所に向かって手を振る。
田所っち、オレ、モスコミュール飲むショ。あとこいつに八海山。
固まり続ける男の分まで注文を済ませて、東堂のグラスの底に残っていた日本酒を勝手に飲み干し、空になったそれを空き皿リレーの流れに乗せる。
巻島がささみとモヒートあんま合わねぇなと思いながら梅ささみを完食した頃、先程まで置物のようになっていた男の口から音量調整を間違えたような声が飛び出した。
「
……
巻ちゃんオレと結婚してぇの!?!!?!」
突然の大声に驚いた周囲の視線が、一斉に東堂へと向けられた。
世迷言のような台詞を口にした男が驚愕に見開かれた目で巻島を見ていた為、皆の視線はそのまま隣にスライドする。
集まる視線に居心地が悪そうな顔をしている巻島。
見るからに困惑した様子の東堂。
二人の間には紺色のベルベット張りのリングケース。
それらすべてに順番に視線を遣って、はっとした表情を浮かべたのは葦木場だった。
「えっ、すごい、プロポーズだ! オレはじめて見
……
」
ぱしん。声を上げた葦木場の口を、両隣から黒田と手嶋が同時に塞ぐ。
頼むから! 黙ってくれ!! いやなんでオレ達が気を遣わなきゃいけないのかわかんねーけども!!
だらだらと冷や汗をかく二人の顔が、この上なく雄弁にそう語っている。
幸いにして渦中の二人はといえば、巻島の方は一瞬ちらりとこちらを見た後すぐに東堂へと向き直り、未だ混乱の只中に居る東堂はそれどころではない様子で巻島だけを見ていた。
思いがけない共同作業をしてしまった黒田と手嶋は、互いに顔を見合わせる。
巻島は葦木場の言葉を否定しなかった。
つまり今自分達の前で、巻島裕介が東堂尽八にプロポーズを行ったというのは純然たる事実であるらしい。何がどうしてそうなった。
「
……
今のオレがそうしてぇかと言われると微妙な気もするんだけどよ」
静まり返った部屋に、低い声がぽつんと落ちる。
巻島の言葉は、どうやら先程の大音量の問い掛けへの答えであるらしかった。
東堂が訳が分からないというような顔をするのを見て、困ったように頬を掻きながら巻島は続ける。
「あー
……
たぶんこっから何年経っても結論は変わんねェし、どうせ最終的にそうなるんなら、最短ルートを行くべきショ」
下手に回り道すると他の奴に迷惑掛ける可能性もあるし。特におまえ。
最後に一言ぽつりとそう付け加えて、巻島は口を閉じた。
「
……
それは、この先どういう道に進んでも最終的には巻ちゃんとオレはくっつくことになるから、今のうちにプロポーズしとこうと思った
……
ってことで合ってるか?」
「ショ」
それはどういう意味の返答なんだ。この場に居る者の半数以上は内心でそう思ったが、幸いにして当然のように、東堂は巻島のその言葉がYESの意である事を聞き分けられる側の人間だった。
聞き分ける事ができたとて、意味が理解できるかと言えばまた別の話ではあるのだが。
「
……
あのな巻ちゃん、流石に説明が足りんぞ。結論だけじゃなくて過程を話してくれ」
眉を寄せた東堂の言葉に、巻島が素直に頷く。
「おう。
……
あのな東堂、オレはずっとおまえのこと、マメな上に行動力があり余り過ぎてて大変なヤツだと思ってたんだけどよ」
「なんの話だ?」
「おまえが週3ペースで寄越してた電話の話とそれ以上の頻度で寄越してたメールの話と、向こう行ってから送ってくるようになった手紙の話と、ついでにオレが知らねぇうちにおまえの中で増えてく記念日の話ショ」
その言葉に、部屋中の者達が一斉に『あー
……
』というような顔をした。
ある時期から突然携帯電話を頻繁に触るようになり、廊下の窓際や食堂で電話口の向こう側に弾んだ声で巻ちゃん巻ちゃんと呼び掛けていた東堂の姿を見たことのない元箱根学園生は、ここには居ない。
滅多に鳴る事のなかった携帯電話にいつからか頻繁に連絡が入るようになった事を、気怠そうな声で電話を受けながら、時折やわい笑みを浮かべる巻島の姿を知らない総北高校出身者はここには居ない。
あれをマメという言葉で括れるか否かは人によって意見の分かれるところであろうが、巻島が1行動を起こす間に東堂は10行動を終えているといったようなバランスであったので、巻島がそれを行動力があり余り過ぎてて大変と評するのは、実に納得のいく話ではあった。
それで、と巻島は言葉を続ける。
「あのよ、オレ、前にこっち戻ってきてた時に、糸川に会っただろ。あー
……
おまえの幼馴染の」
「む、話が飛んだな。
……
修作が何か言っていたか?」
「いや。聞いたのはオレの方ショ」
「聞いた? 何をだ?」
問われた巻島が、ぎゅう、と眉根を寄せる。
機嫌が悪いのとは違う。怒っているのとも違う。巻島の顔に浮かぶのは、敢えて名前を付けるのであれば困惑に近しいけれども、それよりも酷く複雑な表情だった。
「あのな、分かるか? オレ相手でああなんだから、幼馴染なんてどんだけだと思ってたのに、『尽八、巻島に週3で電話してたのか? なんで?』って不思議そうな顔して言われたオレの気持ちが」
驚いた、と巻島は言った。
この場に居る九割方の者達は、巻島の認識の方にこそ驚いていた。
東堂尽八がマメな男である事も、行動力に溢れている事も、そうすべき相手に対しては面倒見の良い男である事も事実だが、東堂が他者に向ける行動には基本的に良くも悪くも無駄がない。
巻島だけがその枠から外れているというのが、この場に居る殆どの者達にとっての共通認識だった。
「驚き過ぎて思わず荒北にまで確認したショ」
巻島が付け加えるようにぽつりと溢した言葉に、返された反応はふたつ。
「
……
待て、何故そこで荒北の名前が出てくる?」
「あァ
……
!? あの金城経由で掛けてきたトチ狂った電話それかヨ!! こいつがオレに週3で電話掛けてきてる訳ねぇだろ普通に着拒するわバァカ!!
……
つーか今更だけど、なんでこいつと仲いいヤツから話聞こうと思ったのにオレに掛けてきた訳ェ?」
殆ど同時に互いを指差し抗議の声を上げた二人のうちの片方を綺麗に無視して、荒北に視線を向けた巻島は首を傾げた。
「荒北、東堂と仲良いショ?」
「節穴かヨ巻島ァ!? いつ何を見てそう判断したんだよマジでェ!?」
「インハイの一日目。こいつ先に行かせた後に、おまえがオレにめちゃくちゃ絡んできた時」
返された言葉と引き攣り気味の巻島の笑顔に、荒北は露骨に嫌そうな顔をして唇をひん曲げた。
笑う巻島と睨む荒北。出来上がった絵面は中々に凶悪だが、根に持つような性質の男ではないから、数年越しの意趣返しという訳でもなくこれは単に面白がっているだけなのだろう。
そう判断した旧知の金城と田所は、顔を見合わせて苦笑する。
「なんの話だ!? オレは聞いておらんぞその話!?」
「
……
ッセ!!」
指摘すると面倒な事になると誰もが知っているので口にする者は居ないが、互いに遠慮のない言葉を投げ合う荒北と東堂は実際傍目に見ても仲が良い。
ウッセェ、煩いとは何だと子供のような言い合いをする二人に向かって、巻島がのんびりと声を掛ける。
「続けていいかァ?」
耳に届いた言葉にぴたりと口を噤んだ荒北は、東堂の両肩を掴んで巻島の方へ向きなおらせると新開の隣に戻って行った。
巻島へ邪魔して悪かったなと告げた後、なんでオレ謝ってんだと首を傾げる荒北を見て、靖友っていい奴だよなと新開が笑う。
「あとな」
「すまんね。
……
続くのか?」
「続くんだよ。あのな、オレがこっちに短期留学で戻ってきてた時の話だけどヨ」
巻島のその言葉にぱっと笑顔を浮かべたのは東堂で、思わず無言で顔を顰めたのは席に戻ったばかりの荒北だった。
巻島は同輩達が大学一年生になった年の秋に、突然ふらりと日本に帰国した。
四週間だけの短期留学。留学先は東堂と田所、東堂の幼馴染である糸川の居る筑士波大学で、その一か月にも満たない期間中、彼は当然の成り行きで東堂が立ち上げた自転車競技部の練習に参加し、赤いジャージ姿で大会に現れた。
山のステージに、見るからに絶好調という顔をした東堂。その隣には緑の頭と真っ赤なジャージの取り合わせがこの上もなく人目を引く巻島。
最初から最後まで登りが続くようなコースではなかったが、二人の隣には当然田所が居る。
思わずマジかヨという顔をしたあの日の自分を責められる者は居ないだろうと荒北は思う。
実際二人の高校時代を知るクライマーが幾人か状況に気付いて会場は少しざわついていたし、あの金城すら隣で一瞬だけ苦笑いを浮かべたのを、荒北は見逃さなかった。当然互いに微妙な顔はすぐに引っ込めて、勝つつもりで全力で走りはしたのだが。
過去を思い返して思わず眉を寄せた荒北の様子には全く気付いた素振りもなく、笑みを浮かべた東堂が口を開く。
「楽しかったな! 毎日巻ちゃんと登れるなんて、あの日々は本当に夢のようだったよ。巻ちゃんがオレの部屋に居て食事をしていたり、夜中に起きた時に隣に巻ちゃんの寝顔があるのもなかなか新鮮だった」
待て、何の話だそれは。
一瞬にして周囲がざわめき、視線が一箇所に集中する。
突然無言の注目を浴びる事になった田所は、オレが知るかよという顔でぶんぶんと首を横に振った。
何も知らねえぞ。巻島、寮の留学生用の部屋に住んでるって言ってたのになんで東堂の部屋で寝てんだよ。ここまで全て無言の訴えである。
当の巻島は周囲に微妙な空気が漂うのに気付いた様子もなく、掌で東堂の言葉を遮ると再び口を開いた。
「それだ」
「それ?」
「ああ。おまえが毎日オレに部屋でメシ食ってけだの泊ってけだの言って引き留めてきたの、最初は一人が寂しいんだろうと思ってたんだけどよ。よく考えたらおめー、全然そういうタイプじゃねぇんだよなァ。だから
……
あー
……
なんつーか、分かっちまった。多分、オレだけショ。おまえがああいう事すんの
……
オレだけだったんだな」
東堂が首を傾げたのは、言葉を紡ぐ巻島がどこか気まずい顔をしている所為だった。
巻島が何故そんな顔をするのかが分からないまま、東堂は問われたことにただ頷いた。
「そうだな
……
? 巻ちゃんだけだ。おまえは特別だからな!」
だって傍に居て欲しかったのだ、巻島に。
部活の時間だけでは足りなくて、休日に遊びや登りに誘うだけでは足りなくて、そもそもが四週間などという期限が短すぎた。
だから東堂はあの秋、そうしたいと思うままに巻島を自室に引き留めた。
もしも寮の規約がそれを許していれば、きっとルームシェアをしようと誘っただろう。
巻島が風呂だ着替えだ明日の準備だと、度々自身の部屋に戻ってしまうことすら惜しいと思っていたのだから。
骨張った指が背に掛かる長い緑色をかき回す。
もどかしげに頭を掻いた巻島が、ぐしゃぐしゃになった髪も気に留めぬまま東堂に問う。
「なァ、尽八。
……
なんでおまえはオレだけにそうする? おまえの言う特別ってなんだ」
「なんでって
……
」
「親友の特別は違うだろ。おまえは福富達にも、糸川にだってオレにするみたいな構い方はしねェ。女にも
……
多分そうだろ。おまえとそういう話したことねェからそもそも相手が居たかどうかも知らねェけどヨ、高校ん時もこっち戻ってきてた時も、オレと居る時におまえが携帯気にしてた記憶が無ェし
……
」
そこで一度言葉を途切れさせた巻島は、ふと何かに思い至った様子で顔を曇らせた。
「いや、つーか冷静に考えて居たんだったらヤベェな、オレどう考えても彼女より頻繁に休日に東堂と顔合わせてた事になるショ」
妙な顔になった巻島が過去の大会や個人練習の記憶を指折り辿り始めたのを見て、東堂は首を横に振った。
そんな事実があると思われるのは心外だった。恋愛事と勝負は横に並べるようなものではないが、自身の中での優先順位があまりにも明確で、蔑ろにする事が分かり切っているのに他人と深い関係を築くのは、流石に些か不誠実であろうと東堂は思う。
「居らんよ。練習もおまえとの勝負も、削れる時間など何一つなかったからな。そういった話は断っていた」
どこかホッとした様子で、だよなァとひとつ頷いて、巻島の目が再び東堂を見た。
三白眼の小さな瞳が不思議な光を湛えて、東堂をまっすぐに見据える。
「多分おまえは、オレがライバルだからって思ってるんだろうけどよ。
……
それだけならなんで、オレ自身をそんなに気に掛ける? 体調の話は分かる。調子崩してたんじゃ勝負にならねェ。オレがあっちでどんな練習してるかとか、大会の戦績が気になるのも勿論分かるショ。
……
けどよ、それだけじゃねェだろ。自転車以外の話でも、おまえはオレの向こうでの生活の話をなんでも聞きたがった。一緒にメシ食うだけならともかく、部屋に戻ろうとするオレを毎日引き留めたがった。
……
なんでお前は、オレにだけそうする?」
何故ってそれは。
咄嗟に何かを返そうとして、東堂は言葉に詰まった。
だってそれはおまえが巻島裕介だからで。おまえにだけしたいと思う事がある理由なんて、そんなものは。
「
……
考えた事がなかった。オレにとって、巻ちゃんが特別なのは当然の事だから」
「おーおーそりゃどうもな。じゃあ今考えろ。尽八。
――――
オレ以上の特別が作れるか? 朝も晩も本気でペダル回しながら、週に二回も三回も電話して毎日のようにメール送って、オレが向こうに行ったら手紙まで沢山寄越して
……
おまえ、この先オレ以外のヤツに同じことを、それ以上をする自分が想像できるか?」
「そんなの
………
」
東堂は、自身が決して誰にでも優しい人間ではない事を知っている。
昔、歯に衣着せる事をしない親友から『けっこう冷たい感じ』と評された時にも、否定する気にもならなかった。事実だなと思ったからだ。
好意を向けてくれる女子達のことはもちろん嫌いではないし、声援には応えたいとも思うが、実のところ彼女達の個々のパーソナリティーにはあまり関心がない。
基本的に他人に対する興味が薄い性質なので、そうする必要がないと思った相手の名前や顔などは覚える気にもなれず、以前それが原因で怒り出した相手に何故か巻島が代わりに謝罪していた事があった。それを見ていた東堂はといえば、そんなどうでもいいやつが怒ろうが落ち込もうが、オレや巻ちゃんが気に掛ける必要など無いではないかと思っていたのだから、冷たいという評価もさもありなんといったところだ。
勿論東堂にだって、幼馴染の糸川や共に三年間を過ごした福富達のように特別大切に思っている友人は居る。
ただその特別は先程本人に指摘された通り、巻島に向けるものとは形が違う。
元気でいて欲しいとは思うが、離れていてもどう過ごしているか毎日のように気に掛かったりはしない。
困っていたら手を貸してやりたいとは思うが、目の前で臥せっているというのでもない限り、食事を作って食べさせたり、世話を焼きたくなる事は別にない。
週に何度も連絡をしてまで自身の近況を事細かに聞いて欲しいと思う事だって、当然ない。
騒がしくされないのであれば親しい者を部屋に上げる事に抵抗はないが、帰れる距離に家があるなら夜には普通に帰す。合宿などのやむを得ない状況でもない限り、眠る時には一人がいい。
巻島相手だと、それが全部ひっくり返ってしまう。
巻島だけだ。
少なくとも今までの人生において、そんな風に思える相手は巻島ただ一人しかいなかった。
結局それ以上の言葉を返す事もできず口を噤んだ東堂を、巻島はどこか恨めしげに見つめた。
長い指でグラスを引き寄せて、すっかり氷が溶けて薄まった液体を一息に煽り、血を吐くように低い声で言葉を吐き出す。
「
…………
オレは無理だと思った」
ごとん。言葉と共に、巻島は突然額を打ち付けるような勢いで座卓に頭を突っ伏した。
俯いた巻島の頭から続く緑色が、飴色の木目の上に乱雑に広がる。
「巻ちゃん
……
!?」
「
……
短期留学でこっち戻ってた間、毎日のようにおまえと山で競って
……
同じ寮の中に部屋あるって言ってんのにヨォ、おまえ毎回部屋の前でオレを引き留めて、晩飯食っていけだの、行ったら行ったでこのまま泊まっていけだの朝飯も一緒に食おうだの
……
あの四週間、結局殆どおまえの部屋で暮らしてたようなもんだったショ。
……
無理だ。家族でもねェのに、他のヤツとだったら、あんなのは無理だ。ましてやあの生活がバカみたいに楽しかったなんて、ずっと続けば良いと思っちまったのなんて、そんなんはもう、相手がおまえだったから以外の理由なんて無ェショ」
伏せていた顔をことんと横に傾けて、巻島は東堂を見た。
玉虫色と称されたみどりとあかの隙間から、巻島の左目だけが東堂をじっと見上げている。
「だから気付いちまった。勝負してる時だけじゃねぇ。自転車乗ってる時だけじゃなかった。オレの隣は、おまえ以外ない。オレの人生にはきっと、おまえ以上は居ない。多分もう、一生かけて探したって他は無ェ。
――
おまえはどうだ、尽八」
しんと辺りに静寂が落ちた。
誰かが息を飲む音。それに続いてほろりとこぼれた声がひとつ。
「愛の告白だ
……
」
そう呟く葦木場を、両隣に座る二人はもう止めなかった。それどころではなかった。
手嶋は葦木場の口を塞ぐ代わりに、反対隣に座る青八木と赤くなった顔を見合わせた。
口の端がむずむずする。どんな顔をすれば良いのか分からない。気まずいような、笑い出したいような、このまま二人揃って机に突っ伏してしまいたいような。
葦木場の言う通り、これは誰がどう聞いたって愛の告白だ。
自分達は今、尊敬する先輩の一人が物凄い愛の言葉を紡ぐ現場に居合わせている。
居合わせた者達の視線は、自然と東堂へと向けられた。
皆が固唾を飲んで見守る中、東堂は俯いて自身の顔を両の掌で覆った。
それは一見何かに絶望を覚えているかのような姿で、けれども決してそうではない事は誰の目にもすぐに知れた。
だって指の隙間から覗く頬が、艶のある髪の幾筋かが落ちかかる耳が、あんなにも赤い。
勝手に熱を持つ顔を隠したまま、東堂は考えた。
巻島にそうしろと言われた通りに考えていた。
巻島裕介は東堂にとって唯一無二のライバルで、特別な存在である。
紛れもない事実だ。
唯一であるのだから他との比較などしようもなく、だから東堂は自身が巻島に対してだけ起こす行動は全て、彼がライバルだからそうしたくなるのだと、そう思っていた。
だが、どうなのだろう。
東堂が寮の自室に客用布団を導入する事を決めたのは、短期留学制度を使って日本に戻った巻島が自転車競技部の扉を叩いたその日の事だった。
巻島は当然のように帰国前に連絡を寄越すなどという事はしなかったし、東堂は東堂でいつか自分が留学制度を利用して巻島を驚かせるつもりで進学先を伏せていた為、あの日の邂逅は、日本の姉妹校の自転車競技部はどんなものかと軽い気持ちで部を訪ねた巻島と、ノックの音にこちらも軽い気持ちで応えた東堂と田所に等しく衝撃を与えた。
驚きすぎて、東堂は普通に泣いた。
ほろほろと涙を溢しながら、巻島から筑士波大学に四週間通うという話を聞き出した直後に通販サイトで布団と食器を買った。
元々東堂が巻島と同じ大学に通いたいと思っていたのは、彼とチームメイトとして走りたかったからだ。同じ大学の部に所属すれば毎日のように勝負ができると思ったからだ。
つまりは一緒に走る事さえできれば十分であった筈なのに、あの日実際に巻島が目の前に現れた時に東堂が考えたのは、彼とできる限りの時間を共に過ごしたいという事だった。
変化の直接のきっかけは、おそらく巻島が自身の渡英を伝えに来たあの夏の日だ。
留学。海の向こうに住む兄の存在。あの夜不慣れな様子で告げられたのは初めて耳にする話ばかりで、東堂は自身が巻島という人間について知っている事が、彼の一部分でしかなかったことに気付いてしまった。
自転車を通じて何もかもを知った気になっていたのに。
知りたいと思った。巻島裕介という男のことを全部。
競い合って走り続けた二年にも満たない時間の中で得た繋がりが、何より強く特別なものである事を疑う余地はないけれど、それ以外のものだって全部欲しいと、そう思ってしまった。
その想いは巻島が海の向こうへ渡り、滅多に会う事がかなわなくなってからも東堂の中で燻り続け、そうしてあの日、居なくなった時と同様の唐突さで巻島は東堂の前に戻ってきた。
たった四週間の期限付きではあったけれども。
巻島の言う通り、留学生用の部屋は東堂が暮らす部屋の上階にあった。
だから東堂は注文した布団と食器が自室に届いたその日から、部活を終えて一緒に寮に戻った後、タイムを担いで階段を上ろうとする巻島を毎日のように引き留めた。
巻ちゃん、夕飯食べて行けよ。もうこのまま泊って行ったらどうだ、布団はあるし。朝食はちゃんと食べた方がいいぞ。オレが作ってやろうではないか。
巻島が自分の作った料理を美味しいと言って食べるのが嬉しかった。いつもメールや電話で殆ど一方的に話していたような他愛のない日常の話を、慣れぬ相槌を打って聞いてくれるのが嬉しかった。
自転車の上に居ない時の巻島を、少しずつ知るのが楽しかった。話の苦手な男が時折言葉少なに語る、自分の知らない異国の日常の話が好きだった。
夜中にふと目を覚ました時、なんだかむずかしそうな顔で寝息を立てている巻島の姿が目に入って、頬が緩んだ。
ある朝起きると、やられっぱなしは性に合わねェという些か剣呑な台詞と共に絵に描いたようなイングリッシュブレックファストを提供されたのには、何故だか心臓がぎゅうと握られるような心地がした。
東堂はその時、巻島がまともに料理のできる人間であることを初めて知った。
巻島の言う通り、あれはバカみたいに楽しい四週間だった。
巻島がイギリスに戻って行った後の自室が、酷く色あせて見える程に。
巻島裕介は特別だ。
この男とならばどこまでも走っていけると思った。
東堂の心は高校二年生のあの頃からずっと、揺れる玉虫色にとらわれている。
巻島に対してしたいと思っている事を、他の人間に対してする自分を想像してみる。
巻島に向ける特別に近い感情を、他の人間に向ける自分を想像してみる。
ああ、無理だな。
すとんと思った。
男であれ女であれ何であれ、自分の隣に巻島裕介以外の人間が居るところが想像できない。
巻島に対してそうするように、週に何度も電話を掛けてメールを送って手紙を書いて、そこまでの熱意で他人を気に掛けている自分が想像できない。
相手の何もかもを知りたいと渇望する自分が想像できない。
今日は何を食べさせてやろうかと、毎日思いを巡らせる自分が想像できない。
眠る時に隣に他人の気配がある事に、安心する自分が想像できない。
あの日買った食器と布団は、結局巻島以外の者に使われる事はなく、東堂の部屋の片隅にしまわれたままになっている。
ライバルとしてという枠組みの中の話ではなく、東堂尽八にとって巻島裕介だけが特別であるというのならば、それは。
この感情は。
「オレ、巻ちゃんのこと好きだったのか
……
?」
俯いたまま、迷子のような声で東堂は言った。
実際彼は迷子だった。今まで当たり前に歩いてきた見慣れた道の風景が、瞬きをした瞬間に全く知らない景色にすり替わってしまったようなものだった。
「
……
好きじゃねえの?」
のそりと身を起こした巻島が首を傾げる。
「好きだけど! そうではなくてだな!? だってプロポーズってその
……
つまりはそういうことだろ? オレ、巻ちゃんのことそういう目で見ようと思ったことは流石にないぞ
……
」
赤い顔を覆ったままの指の隙間から、東堂の目が恐々と巻島を見た。
シンプルとは真逆を行くデザインの服の袖から覗く骨の浮いた手首を、スパイダークライムを可能にする異様に長い腕を、ジーンズとカットソーの裾の合間から見える真白い腹と臍を、目線でひとつひとつ辿ってゆく。
奇抜な柄の布地の下にあるものをこの目で直接見た事は幾度かあって、けれども巻ちゃん着替えトロいな、などと思っていたあの頃とは違い、東堂の前には今、つい先程まで存在する事そのものを認識していなかった選択肢が提示されている。
気付けば頬の赤みは引いて、両手は顔から離れていた。
真顔になった東堂の視線が巻島の首筋を、浮いた喉仏を、ゆっくりと這い上がる。
奇妙な生々しさを伴うその視線が口元のほくろに辿り着いた次の瞬間、突然べちんと大きな音が響いた。
「痛ぇ!! 何すんだよ巻ちゃん!?」
わめく東堂の顔が、叩き付けられた巻島の広い掌に覆われている。
「視線がウルセェ!! この場で検討すんな、ここをどこだと思ってんショ!? どうせこの後ウチ来んだから、そういうのは帰ってから考えろよおめえはよォ
……
」
僅かに顔を赤くした巻島は、そのままアイアンクローよろしく東堂の頭を掴んでぎしぎしと力を込めた。直後に東堂自身の手であっさり引き剥がされている辺り、巻島の喧嘩慣れしていなさが見て取れる。
飲み会の席でプロポーズを始めた自身の事を完全に棚に上げた台詞である事を、指摘する者は居なかった。居た堪れなかったからだ。止めてくれてよかった。
東堂に懐いていた黒田などは見るからに気まずい顔をしていて、泉田が気遣うように背中を叩いている。
場に出来上がりかけた微妙な空気を割ったのは、笑いを含んだ関西弁だった。
「早速お持ち帰り宣言ですかー? 巻島さん!!」
囃し立てる鳴子は、これで意外に気の回る男なのだった。
からからと笑う後輩に嫌そうな顔を向けて、巻島は東堂を指さす。
「こいつオレが持ち帰らねぇと終電21時になるショ」
「早っ!?」
「あはは、湯本の方はここからだと遠い上に、元々結構終電早いもんな」
ぎょっとした鳴子を見て笑うのは、東堂の実家の場所や箱根の交通事情を知る新開だ。
「ガハハ、今から実家帰るより、寮に戻る方が余裕あるくらいだな」
同じ大学の寮で暮らす田所の言葉に、少し赤くなった額をさすりながら東堂が頷く。
「ああ。一応筑波の方なら帰ろうと思えば23時台まで電車はあるからな。ただ今日寮に帰っても、結局明日実家に戻る事を考えるとな
……
」
「そりゃ巻島んちからの方がまだ楽だろうな」
「こいつ昔からなんかオレの親に妙に気に入られててよ。去年も泊まりに来た所為か、今日家出る時に、今年も東堂くん連れて来るんでしょって言われたショ」
「尽八は昔から年上受けいいからなぁ。既に裕介くんのご両親の好感度もばっちりなんて、やるな尽八」
和やかな雑談の方向に脱線しかけていた話が、新開のその一言に引き戻される。
そうだった、というような顔をした巻島が東堂に向き直るのを見て、荒北は無言で新開の頭を軽く叩いた。
直前の状況が状況なだけに、できればこのまま脱線し続けて欲しかったのだ。永久に。
「なんの話してたんだったァ
……
? あー、思い出した。
……
まぁ、さっき言った通り、そういうのは帰ってから検討しろ。オレもおまえのことそういう目で見られるかちゃんと考えたことはまだ無ェ」
さらりと告げられた言葉に、東堂がぎょっと目を見開く。
「嘘だろ巻ちゃん!? その状態でプロポーズは見切り発車過ぎないか!?」
「オレの方は
……
まぁ多分どうとでもなるッショ。オレは東堂となら一生一緒に居られると思ったし、それだけ分かってりゃ後は何とでもなると思った。だからまァ、どうするかっつーか
……
どうしたいかはおまえに任せる。好きにしろ」
「す
……
好きにしろって
……
凄いこと言うな巻ちゃん
……
」
「そうかァ? おまえに丸投げするって言ってるだけショ?」
「あのな、ならんよ巻ちゃん。もっと自分を大事にしろ。おまえは昔から時々本当に思い切りが良すぎて、色々と心配になるぞ」
大事にしろっつってもなァ、と巻島は頬を掻く。
「オレ自身がどうであれ、おまえはオレを大事にするだろ」
「
……
それはそうだが」
「じゃあ、別に心配いらねぇショ」
軽い調子で寄越された一片の曇りもない信頼に、東堂の顔がみるみるうちに赤くなる。
赤くなった東堂と平然としたままの巻島が向かい合う様子に、荒北が感心したように呟いた。
「おォ
……
すげーな巻島。意外に男前じゃナァイ」
「あいつは昔から男前なんだ」
荒北の言葉にそう返して、金城が嬉しそうに笑った。
「で、どうする?」
言うべき事は全て言い切ったという顔をして、巻島は居住まいを正した。
東堂もそれに合わせるように姿勢を正し、二人は事の始まりと同様に互いに顔を見合わせる。
向かい合う東堂と巻島の間には、まだ開かれていないリングケースがひとつ。
「なぁ、オレひとつだけ聞きたいんだけど」
「ん」
短く応じた巻島に、東堂は正座を崩さぬままにじり寄った。
拳ひとつ分の距離から顔を覗き込み、大きな瞳で巻島をまっすぐに見つめる。
「巻ちゃん、オレのこと好き?」
ぱちり。巻島の下がった眉の下にある目が瞬いて、色素の薄い肌がじわじわと赤く染まる。
自身を見つめる澄んだ色の瞳から逃れるように、巻島は顔を伏せた。
俯いた上に更に顔を斜めに逸らすものだから、最早緑の毛玉の妖怪のような姿になっている。
「
…………
おめえがオレのこと好きなのと同じくらいには」
やがてたっぷりの沈黙の末、絞り出すような小さな声でぼそぼそと紡がれた言葉に、東堂は目を丸くした。
なめらかな頬が淡く色づいて、真昼の空に似た瞳がきらきらと輝く。
わははっ。
まるで無邪気な子供のように笑い声を上げて、東堂は破顔した。
「それは熱烈だな!!」
ただそれだけで。
その言葉ひとつで迷いの一切を捨てた顔をして、東堂は笑みを浮かべたままリングケースを開いた。
ぱかっと音を立てて開いた箱の中には、シンプルな銀色の輪とチェーンが一本納められている。
頻繁に指から外す事を想定されているのがいかにも自転車乗りらしい。
飾り気のない真っ直ぐな銀色の側面と裏面には、空色と緑色の小さな石がひとつずつ。
取り出したそれを東堂は当たり前の顔で巻島の掌に乗せて、巻島もごく当然のような顔をして東堂の左手を取り、薬指に銀色を通した。
巻島裕介が選んだにしては異様な程に飾り気のない銀の輪は、東堂尽八の指には驚く程によく似合っていた。
始まりは、誰のものともつかない拍手の音がひとつ。
それを皮切りにして、二人に向かって部屋の方々から一斉に拍手と祝福の言葉が投げられた。
色々と面食らいはしたものの、きっとこれで良いのだろうという気がしたのだ。
プロポーズといったところで、この瞬間から目に見えて何かが変わる訳ではない。
この先に何の困難も無いなんて事が、ある筈もない。
だがそれは、東堂と巻島が共に走って行く中で、二人で考え、二人でぶつかり、二人で乗り越えてゆくべき事柄でしかないのだ。
二人が並ぶ姿を。贈られたばかりの指輪をまるでこの世でいっとう眩いものを見る顔で眺める東堂を見れば、自分達はただそうしたいと思った通りに祝福をすれば良いのだと、そう思えた。
だって、目の前で交わされたのが互いが互いを一番にし続けるという約束であるのならば。
この二人はもうきっと、ずっと昔からそうだった。
「あっ! なぁ、巻ちゃん、オレも今度指輪贈っていい?」
思いついたように声を上げた東堂は、両脇を荒北と新開に固められ、ひとかたまりの団子のようになっている。東堂は、荒北も隼人もいい加減離れんかなどと言いながら暴れているが、二対一ではどうにも分が悪そうだ。
浮かべる笑みや東堂を小突く仕草はからかい混じりだが、おめでとう、よかったネェという言葉には本心からの祝福と親しみが溢れていて、やっぱりこいつら仲良いよなと巻島は思う。
少し後ろで、止めるべきか自身も混ざるべきかと悩む顔をしている福富も含めて。
「良いけど、おめえがちゃんと稼げるようになったらな。それ兄貴のとこの手伝い半年分ショ」
「半年!? 巻ちゃんオレが断ったらどうする気だったんだよ!?」
マジか。嘘だろ。すげぇな。
横に三つ並んだ顔がそんな表情を浮かべて、東堂の左の薬指を揃ってしげしげと眺めるのが愉快だった。なんて顔の似ていないケルベロス。
「断らねェと思った」
ことんと首を傾げて。
巻島は、事も無げにそう言った。
にんまりと唇の端を吊り上げ、唖然とする東堂の鼻先を骨張った長い指でつついた巻島は、勝ち誇ったように笑う。
「断らなかっただろ?」
一拍置いて、ぼんと音を立てるような勢いで東堂の頬が赤く染まる。
東堂とひとかたまりになっていた所為で正面から流れ弾を浴びた荒北は絶句して、新開はゆっくりと目を瞬かせ、『ヒュウ』と呟いた。
「
…………
くっそ!! なんか悔しい!! 覚えてろよ巻ちゃん!! オレが指輪渡す時にはぜってーおまえをメロメロにしてやる!!」
びしりと指を突き付けて、いつものポーズを決める東堂の顔はまだ赤い。
メロメロっておまえ、と笑い崩れる巻島につられるようにして、居酒屋の個室にどっと笑い声が響いた。
*
「あの、巻島さん!」
一頻りの笑い声が引いた頃、ここまでの流れを赤くなったりおろおろしながら見守っていた小野田が、突然意を決したように手を挙げた。
もう大学生になった筈なのだが、緊張の面持ちで挙手をする姿には授業中の小学生の趣がある。
「何ショ?」
巻島は特にノリの良い先輩ではなかったので、はいじゃあそこの小野田くん、などと言う事もなく、普通に首を傾げて応じた。
巻島に視線を向けられた途端、小野田の頬がぱっと上気する。
少し離れた席から巻島を見上げる小野田の目には何年経っても変わらない溢れんばかりの憧憬が滲んでいて、何年経っても好意を上手く受け取ることのできない巻島は、僅かに顔を赤くして視線を泳がせた。
「あの、その、東堂さんと、ごっ、ご結婚、されるという事は、えっと
……
巻島さんは、卒業したら日本に戻って来られるんでしょうか
……
!!」
誰の目にも分かる、期待の籠った眼差しと声。
自身を見つめる小野田のきらきらと光るまあるい目を、巻島はまっすぐに見返した。
期待を裏切る申し訳の無さと、その奥に滲む誇らしさ。
複雑な感情を綯い交ぜにした顔をして、けれども巻島はきっぱりと首を横に振る。
「
……
実は、向こうのチームに声掛けられてよ。来年の8月から、そこで走る」
一瞬の静寂。
「
……
プロに行くのか?」
目を見開いて問うたのは、同世代の中では一番そういった選択肢を身近なものとして認識している福富だった。
8月からという日付を聞けば、自然と連想されるものがある。
問い掛けた福富に視線を向けて、巻島は小さく頷いた。
「プロコンの研修生だ。まずは一歩ってとこショ。結果出さねェと当然すぐに振り落とされる。
……
でもまぁ、もう決めた。オレはそっちに進む事に決めた。決めたからにはやる」
アンバランスな程に長い腕が、その先に続く人差し指が、居酒屋の天井に向けられた。
その向こう側に続く高い空を、骨張った指が伸びやかに指し示す。
「
――
向こうでテッペン目指すッショ!!」
珍しい程に晴れやかな声でそう言って、巻島は笑った。
「巻島ァ!!」
名を呼ぶ声と共に、巻島に向かって二人分の手が伸ばされた。
続けざまにハイタッチの音が二つ。
声を張り上げ腕を伸ばす田所の目には涙の膜が張っていて、それはもう一本の腕の持ち主である金城も同じだった。
鳴子が、今泉が、手嶋が、青八木が。彼の後輩達が次々に立ち上がって駆け寄る中、巻島との直接の関わりが薄い者達も、殆ど同じ熱量で歓声を上げていた。
ここに居る者は、高校の三年間、或いはそれより以前からの長い年月を自転車に捧げ、それでもまだ足りないとばかりに今もなおペダルを回し続けている愛すべき自転車バカ達だ。
皆、心から自転車を愛しているからこそ知っている。
今はまだ同じ道の上に居る自分達が、それぞれの四年間を終えた後に選択を迫られる事を知っている。
ペダルを回して、回し続けて、それで食って行ける人間というのは本当に一握りだ。
この中の幾人かは一線で走り続ける事を選び、それを成し遂げるかもしれない。卒業後は趣味として自転車と付き合っていく事に決める者も居るだろう。そして四年間の終わりを区切りとして、そこで降りる事を決める者も、きっと居る。
そんな中、一足先に分岐点の前に立った男は、この道の続く先に行くのだと言う。そうすることを、決めたのだと言う。細く険しくなる道を、それでも登り続けて頂点を目指すのだと。
嬉しくない筈がなかった。
喜ばしくない、訳がなかった。
暫くの間されるがままにもみくちゃになっていた巻島は、田所の腕を持ち上げたり鳴子を引き剥がしたりしながら、もそもそと輪の中心から抜け出した。
慣れぬ状況に居た所為か心なしふらふらとした足取りで、先程から奇妙な程に大人しくしている男の隣に再び腰を下ろす。
気配に気付いて顔を上げた東堂の目が、巻島を見た。
「
……
来んだろ? 尽八」
問い掛けなどではない。それは単なる確認の響きを帯びた言葉だった。
次の瞬間、東堂の蒼天の瞳がまっすぐに巻島を射抜いた。
吊り上がる唇。開いた瞳孔。大きな瞳に爛々と燃えるぎらついた光。
見た者を思わず身震いさせるような、目の前の相手を喰らい尽くさんばかりの獰猛な笑顔は、けれども巻島にとっては何より見慣れた、いっとう愛おしい顔だった。
死力を尽くして山頂を争う時の表情そのままに、東堂は言葉を返す。
「無論だ! 待っていろ巻ちゃん。
……
いや、違うな。おまえは好きに進め。すぐに追い付く。そして必ずオレはおまえを追い越す!!」
「クハッ、上等だ」
笑う巻島の目にも、同じ焔が燃えている。
高校時代の延長のように、世界に名だたる山々の頂を競って自転車で駆け上がるライバルふたり。
その光景に繋がるのが生半可な道ではない事を、この場に居る誰もが知っている。
夢は単なる夢のままで終わるかもしれない。
けれどももしかしたら。この二人ならばと。
あの箱根の夏を共に走った、或いは沿道から声援を送った者達は、祈りにも似た期待を抱かずにはいられなかった。
*
ぎらぎらとした目で見つめ合う二人を少し離れた席から眺めていた真波は、視線を自身の隣へ向けた。
真波の隣には、小野田が居る。
巻島に飛び付く総北の面々に混ざることをしなかった小野田は、東堂と巻島を眩しいものを見るような、遠い世界を眺めるような顔で見つめながら、空になったグラスを両手で握っていた。
「坂道くん。なんでそんなに寂しそうな顔してるの?」
問いかける言葉に、小野田は我に返ったような顔をして真波を見た。
「えっと
……
それはその
……
ボク、もし巻島さんがこっちに戻ってくるなら、また一緒に走って貰える機会もあるかなって思っちゃって
……
あっ、もちろんプロなんて凄い事だし! こんなに嬉しいことも他にないんだけどね!?」
わたわたと両手と一緒に首を横に振る小野田の笑顔には、それでもなお拭いきれない寂しさが滲んでいる。
テーブルに頬杖をついた真波は、早口になる小野田から視線を外さぬままもう一度小首を傾げた。
「うん、坂道くんはまた巻島さんと走りたいんだよね? じゃあやっぱりそんな顔するのは変じゃない?」
「え?」
きょとんと目を丸くする小野田を見つめ、にこにこと真波が笑う。
距離を詰め、身を寄せて、まるで内緒話でもするような声で真波は言った。
「だって巻島さん、これからも走るって言ってるんだよ。坂道くんが大学卒業しても、その先だって、まだまだ走り続けるって言ってるんだよ。
――
それって、追い掛けられるって事でしょ? キミが追い掛けて、追い付いたら、何度だって一緒に走れるんじゃない?」
「
――――
ぁ、」
小さく息を呑んで、小野田は弾かれたように巻島を見た。
「巻島さん!!」
がたん。
膝立ちになった瞬間に座卓が大きな音を立てた事に気付く様子もなく、小野田は狭い通路を不器用に伝って、這うようにして巻島の前まで歩いた。
揺れる瞳で自身を見上げる小野田と視線を合わせ、巻島がやわらかく目を細める。
「どうしたァ? 坂道」
肉刺のできた小さな手が胸の前で不安そうにぎゅうと握られるのを、小さな唇がはくりと震えるのを、巻島は黙って見ていた。
ぎゅっと瞼が閉じられて、再び開かれた時、その奥にある小野田の目には決意が宿っていた。
「あのっ
……
あの!! ボクも
……
!! ボクも、巻島さんを
……
あなたを追い掛けてもいいですか!!」
小野田の言葉に、鳴子と今泉が顔を見合わせる。
小野田坂道と自転車を引き合わせた、高校時代の三年間誰よりも彼の近くに居た二人は、どちらからともなく頷き合って、向かい合う巻島と小野田へ視線を移した。
縋るような必死な声に目を瞬かせ、それから巻島は小さく笑った。
クハッ。空気に溶けるような笑い声がひとつ。
巻島の腕がすっと伸ばされ、小さく丸い小野田の頭を不器用に撫でた。
「
……
言ったショ坂道。自転車は自由だ。だから、おまえは好きにしていい。ついてきたくなったんなら、ついてこい。まぁ、オレを抜けとはもう言ってやれねぇけどな。同じ道に来るんなら、オレもおまえに負けられねぇっショ」
「
…………
っ、はいっ!!」
巻島を見上げる丸い瞳に、焔が灯った。
小野田の瞳に宿った光は、この場に居る誰にとっても見覚えのあるものだ。
特にかつてのチームメイトであった総北高校の面々の目には、何より頼もしく映った灯火。
海外に行く。プロを目指す。
それは普段の小野田坂道の中からは、簡単には出てこないであろう選択だ。
誰かに勧められたとて、そんな、ボクなんかがと遠い世界の夢物語を聞く顔で首を横に振っただろう。
だが、小野田は今、それを選ぶのだとはっきり言った。
決めた事は必ずやり遂げる男が、何か大きなことを為す時のあの顔で、あの目で、巻島を追い掛けると言ったのだ。
巻島を見上げる小野田の小さな背中に、左右から力強く腕が回される。
振り向いた小野田は、視線の先にある友人たちの顔を見て笑った。
できるかな。我に返った顔でそう言う小野田の肩をぐっと掴んで、やるんだろ、と今泉が笑った。
鳴子がまっすぐに手を伸ばし、拳を作った。同じかたちをぐっと打ちつけて、根性注入だね、と嬉しそうに小野田が言った。
小野田が殆ど衝動のように口にした決断を笑う者は、ここには居なかった。止める者も、居なかった。
幾人かは積極的にその小さな背中を押す事を選んだし、幾人かは眩しいものを見る顔でそれを見つめていた。
照り付ける日差し。灼けたアスファルトのにおい。車輪の音。歓声。草いきれ。
吹き出る汗。俯き流した涙。誰よりも早く駆け抜けた先で見上げた青空。
ここに集った者達は皆、それぞれの夏の続きにいる。
それぞれの夏からまっすぐに続く、同じ道を走っている。
あの夏のつづきの先へと走り出した小さなクライマーの背中は、まるであの日仰ぎ見た太陽のように、ただ眩かった。
*
「自分で焚き付けておいて、そんなに不満そうな顔をするな」
不意にすぐ側から響いた声に、真波の肩がひくんと跳ねた。
声の方へと視線を移せば、知らぬ間に隣に移動してきていたらしい東堂が、苦笑しながら真波を見ていた。相変わらず口を動かしていない時は本当に静かな男だ。
オレ、そんなにつまらなそうな顔してるように見えたかな。
見えただろうな。真波は思う。
小野田坂道はこの先も走り続ける事を決めた。文句なしに嬉しいと思う。けれども。だけど。
「
……
だって」
「だって?」
真波を見る東堂の表情はやわらかい。
慣れ親しんだ凛とした声音に促されるようにして、真波の唇からぽろりと言葉が溢れた。
「悔しいなって。坂道くんがずっとあの人の背中を追ってたのは知ってますし、オレは坂道くんに大学卒業してもずっと走ってて欲しくて、だからこうなれば良いなーと思って言ったけど。でもやっぱり、ちょっと悔しいなって。
……
だって、オレじゃないんだもん」
広い掌が、俯く真波の背に添えられた。
撫でる訳でも抱き締める訳でもない。添えられた掌からは、ただほのかな熱だけが伝わってくる。
「
……
そう何度も見る機会があった訳ではないが、おまえと走るメガネくんは楽しそうに見えた。勿論メガネくんと走るおまえもな。良きライバルと出会ったのだなと思ったよ」
「坂道くんがオレのこと大好きなのなんて知ってます。オレと走りたいって思ってくれてるのだって」
だって初心者だった小野田坂道は、真波山岳と交わした約束の為にインターハイの舞台にまで上がったのだ。
彼の手を引いた事を後悔した時期もあったけれど、真波の選択を間違いではないと肯定したのは他ならぬ目の前のこの人で、その言葉が正しかった事を今の真波はもう知っている。
勝負をしよう。一緒に走ろう。彼と毎年交わした約束は、かたちはそれぞれでありながらも最後には必ず叶えられた。小野田は真波を独りにはしなかった。
三度の夏を走り抜いた先の今も真波は小野田と共に走っていて、そして勝負を繰り返す度に思うのだ。あと四年なんて、そんなの全然足りない。
だって小野田坂道と真波山岳は、きっと出会うべくして出会ったのだ。
共に走り競い合う運命だったのだと、そう思っている。
だからこそ悔しかった。自分が何かを言うよりも、このタイミングで背中を押した方が上手くいくかも。あの時咄嗟にそう思ってしまった事が、どうしたって悔しいのだ。
「
……
東堂さんは、オレが普通に誘っても、坂道くんは同じ選択をしてくれたと思う?」
「メガネくんの事ならば、オレよりもおまえの方がよほど詳しいだろう」
「だってオレわかんないんだよ、東堂さん。
……
わかんないかもなって、思っちゃったのが嫌だ」
拗ねた子供のような物言いに、東堂が僅かに笑うのが分かった。
くつくつと噛み殺した笑い声が響く度に、背中に添えられたままの掌が微かに揺れる。
俯いたまま前髪の隙間からじっと睨むと、わざとらしい咳払いがひとつ聞こえた。
ぽん、と軽い感触をひとつ残して、背に触れていた熱が離れていく。
「
……
メガネくんが既に選択を終えている以上、その疑問に対する答えは永久に出ないだろうな。つまり後はもう、おまえの心の中の問題だ。おまえがそういった考えが浮かんでしまう現状を不満に思うのなら、彼と走り続けていく中で、それを覆せる材料を拾い上げていくしかないだろう。
……
まぁ、言った通りおまえの場合、結局はおまえ自身の納得の問題だからな。ひょっとするとオレの場合より、長期戦になるかもしれんが」
「東堂さんの場合?」
「ああ」
聞け、真波。
そう言った東堂は、僅かに声を潜めて言葉を続けた。
「初めて会った時、巻島裕介はオレを見なかった」
「え?」
初めて聞く話だ。
思わず顔を上げた真波の視線の先で、東堂は懐かしむような顔をして遠くを見ていた。
「同年代の誰にも負けた事がなかったオレを初めて打ち負かしたあいつは、山頂だけを見ていた。オレの事など文字通り眼中にない様子で、あの独特のフォームで山を登り、オレを抜き去って行った」
苦さと甘さを綯い交ぜにした笑顔を浮かべて、東堂は続ける。
「悔しかったし、腹も立ったな。だから必死になった。必死に走って勝って負けてを繰り返して、オレがあいつを見ているように、あいつの目にもオレが映った。オレはずっとあいつと走り続けるのだと、そう思っていたよ。
……
それなのに、あの男は突然海の向こうへ行ってしまった」
冬の気配が忍び寄るあの日の箱根で、自分と小野田が羨ましいのだと言った東堂の顔を、真波はまだ覚えている。
いつだって自信に満ちた顔をしている男が覗かせた、あの寂しげな表情は、衝撃と共に真波の記憶に残り続けている。
「
……
あの男の人生は、あの男自身のものだ。オレにできるのはただ、オレがここに居ることを、走り続けているということを、示し続ける事だけだった。またおまえと走ることのできる日を待っていると、伝え続ける事だけだった」
真波は先程の巻島の言葉を思い返す。
電話にメール、それから手紙。
マメで几帳面なこの人は、きっと沢山送ったのだろうなと思う。そして巻島は、恐らくあまりそれに返事を寄越す事はなかったのだろうなとも。真波自身もそういうところのある人間なので、なんとなくそれが分かってしまう。
「色々と考えたよ。お兄さんの仕事の手伝いをすると聞いたからな。そちらの道に進むつもりなのだろうかだとか、それでオレの知らないところで自転車との向き合い方を変えてしまいはしないだろうかとか、色々な。
……
正直なところ、不安に思ったことがないと言ったら嘘になる」
東堂はそこでふつりと言葉を切ると、瞼を伏せて俯いた。
さらさらとした黒髪が頬にかかって、整った横顔を覆い隠す。
まるで泣いているみたいだ。そう思った次の瞬間、東堂は勢い良く顔を上げて真波を見た。
大きな蒼天の瞳の中に、きらきらと光が瞬いている。
東堂は笑っていた。
まるで世界の全てを手中に収めたかのような、自信に満ちた顔で笑っていた。
一つの憂いもないというように晴れやかな笑みを浮かべた男が、両手を広げて高らかに声を上げる。
「それがどうだ! 今でも巻ちゃんはオレと自転車と山に夢中だ!!」
うっとりと目を細めて、東堂は自身の薬指に嵌る真新しい指輪に口付けた。
呆れる程に気障な仕草が妙に板についている。
変わらないなぁこのひと。
思わず苦笑させられてしまうのがなんだか悔しくて、真波は拗ねた顔で呟いた。
「
……
オレ、別に坂道くんにプロポーズして欲しい訳じゃないですよー」
「形は人それぞれだ。オレと巻島の間にあるものと、おまえとメガネくんの間にあるものが同じ形である必要もないだろう。ただ、おまえが今の形に不満があると言うのなら、望んだものを手に入れる為の努力をしろという話だ」
「東堂さんみたいに?」
「ああ」
「苦難や挫折、努力に積み重ねなんてエピソードは微塵もないとか言ってた癖に」
高校時代に聞いた思い出話の前置きの言葉をなぞってそう言えば、東堂は懐かしいなと呟いて目を細めた。
「巻島の事だけは昔からずっと例外だ。
――――
真波、おまえだから打ち明けてやったんだ」
似つかわしくない程にひそめられた囁き声。
この上のない分かりやすさで寄越された特別扱いに、真波の体温がぶわりと上がる。
甘やかされている。
甘やかされて、慰められて、それからたぶん、発破をかけられている。
小野田坂道を走り出させたのだ。当然おまえも来るのだろう。俯く暇があるのなら追ってこい、欲しいものを欲しいかたちで手に入れる為に走り出せと、そう言われている。
ああ、オレ本当にこの人には、たぶん一生かなぁないや。
眩しいものを見つめる心地で、真波は目を細めた。
このひとが幸せそうで良かったな。
この瞬間、不意に真波は心からそう思った。
小野田にとっての巻島とはまた違うのだろうけれど。真波にとっての東堂も、特別な先輩だ。
一生をかけても追いつけない気のする背中に、必要な時に必要な分だけ投げて寄越される言葉に、きっと幾度も導かれた。
この人が不安を抱えて過ごす事は、きっともう無いのだろう。
あの時のような寂しげな顔をする事は無いのだろう。
何より欲しい唯一が、その手の中にあるのだから。
このひとが、幸せになって良かったな。
心に浮かんだ短い言葉にありったけの気持ちをのせて、真波は言った。
「東堂さん。ご結婚、おめでとうございます」
可愛い後輩の心からの祝辞に、東堂尽八は晴れやかに笑った。
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