人間が好奇心をうしなったらどうなるのだろうと考えたことはあった。答えはでなかったが。けれどおそらく、ゆっくりと滅亡に向かって行くのだろうとは思う。
ああ、そうか。今の私のように。こうして、知らず知らずのうちに蜜を吸われる花のように、いずれ朽ち、花弁ごと落ちていく。
赤茶色のさらさらとした髪の毛が波のように揺らぐたびに藤の匂いが濃くなった。
青嵐には単語のとおりの「くちづけ」を今までしたことはないし、必要以上に自分の皮膚に触れたものもいない。この年齢になって所謂童貞なのはどうなのかと思うが、興味がなかったので仕方がない。積極的に触れようとすることもなかった。触れてどうなるというのか。ただそう考えるも、考えたことすら忘れる始末なので、自分にとってどうということもなかったのだろう。
だが、目の前のこの刀神に関してはどうだろう。この紫垂月頼宗という名の神は〝たのしいこと〟をするのが好きなようだ。その楽しいことの意味を、青嵐は少なくとも知っている。暴き暴かれて、はたしてただの人間である自分は正気でいられるのか。興味がある。
おそろしく整った顔が近づき、くちびるを食むようにやわらかく口づけられた。自分のものではない、体温。それが直接触れている。あるいは触れられている。
ほおを確かめるように撫でるその手。青嵐を害すならばとっくにしているであろうこの神は、それどころかこちらの身を――あるいは、中身を探っているように感じた。
これが世間一般でいうくちづけなのだろうかとかすみはじめた頭で考えていると、くちびるがわずかにゆがんだ。
歯にやわらかいなにかがあたる。彼の舌だろうか。
さすがに咥内を暴かれるのはいささか緊張した。喉に無駄な力が入り、首筋にじわりと熱が籠もる。そういえばつい先ほど、触れられた。こうして咥内をなぞるように、手のひらで。
背筋がざわついて、からだが強張る。
――そのときだった。
すっ、と脳が感じたことのない感覚を拾ったのは。生気を持って行かれたのだと気付いたときには遅かった。
見ないふり、感じないふりができない感覚だった。
どっと汗が滲む。刀神である紫垂月頼宗はくちづけながら青嵐の生気を持って行ったのだという事実が、脳に直接炭酸水をかけられたような、鋭い快楽というものを生んだ。
手をどうしたらいいか分からず、思い切り自分の手のひらに埋め込んだ。だが汗で滑り、ちいさく呻く。
それでも頭は従順に、どうすればいいのかを理解していた。
唾液が顎をつたい、ぬめった音が静かな部屋に響く。〝このカミは性に慣れている〟という錯覚は、真実になった。
絡め取られ、暴かれ吸われ、そうしてこの身はなにかが残るのだろうか。
細い、けれどもれっきとした男の手がからだをゆっくりと這う。日に日に伸びていく蔦のように。
これがなんなのか、青嵐には分からない。
ふいに藤の匂いが遠ざかる。
赤い舌が自身のくちびるを舐め、笑う。
「君はおいしいね。いいつくりをしている……」
神に興味本位で近づいて、手痛いしっぺ返しがこないだけよかった。ただ、紫垂月頼宗は楽しんでいたのだと思う。楽しめていたのだろうかと問おうと思い、くちびるを開きかけるが、やめた。
その問いはきっと、もう一度近づいたからだが答えになったのだと思う。
「君、好きになった人はいないの」
耳もとで囁く声自体に匂いがついているようだった。深く呼吸をし、紫垂月頼宗を見上げる。つまらない答えになりますよ、と前置きをして答えた。
「いません。恋した人も愛した人も。私には見える景色だけが全てでした」
彼は「すべて」と反芻し、首を傾ける。さらさらした髪が流れる。沖縄で見た、くっきりとした輪郭の花のように見えた。
「人間の中身を知ろうとしなかったということです」
誰にでも見えないものは必ずあるというのに。
「暴かない、暴こうとしないことが私にできることでした、が」
彼のすこしだけ薄い手に、指で触れる。熱い、と感じるのは何故だろうか。自分の熱なのか、それとも。
「あなたは私を暴こうとしましたね」
「嫌だった?」
「嫌ではありません。ただ、」
熱がからだに籠もっている。未だ。
指と指の間を撫でるように触れる。クスリ、と顔の上のほうから笑声が聞こえた。
「あなたにとってのたのしいことは、これで終わりですか?」
紫垂月頼宗のうつくしい目がゆっくりと細められる。
「知りたいの?」
彼はおそらく、答えを知っていて聞くのだ。
華やかな藤の匂いが充満している。もしかすると今自分は酩酊しているのかもしれない。けれども脳の中心ははっきりとしている。
この名をどう呼ぶのか、青嵐は知らない。
だから、知りたい。
ふ、と男は笑った。
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