【カブミス】市場をゆく

休みの日に一緒に市場にいって情報を仕入れたり、囁きあったりするカブルーとミスルンの話。

 休日の朝早く、寝床で朝食をとっていると、水を持って来たカブルーが「市場に行きませんか?」と言った。私はそれに驚かなかったけれど、なぜ市場なのかは理解出来なかった。買い物は使用人に任せていたし、ここに足りないものは何もなかったから。
 それからカブルーは私の髪をとき、顔を洗わせ、服を着せて、靴まで履かせてくれた。彼の方はというともう準備万端だったので、私は単純に市場が好きなんだろうか、と思った。そうじゃないことは、これから先知ることになるのだけれども。
 
 
 異人種が交差する朝市は、さすが交易の中心の黄金郷だけあって賑わっていた。トールマン、ハーフフッド、ドワーフ、エルフ、ノームにコボルト。彼らはめいめいに交易品を持ち寄り、市場を立てていた。そこには珍しいものもあったし(例えば、ドワーフが作った音を閉じ込めるオルゴールだとか)、普段口にする野菜を売る者もいた。
 でも、そんなことよりも私を驚かせたのは、カブルーの顔の広さだった。彼はトールマンだけでなく、ハーフフッド、ドワーフ、エルフ、ノームにコボルト……の主に女性たちから挨拶を受け、相談を受け、お礼に野菜や肉、そして花束を受け取っていたから。
「カブルー、先週は助かったわ。あの人ったらなかなか働いてくれなかったけど、一喝されて目が覚めたみたいなの」
「カブルーさま、本当に助かりました。迷惑な客を追っ払ってくれて。これで私も姉も安心して働けます」
「カブルー、ありがとう! ママを助けてくれて!」
 これがお礼です、と食材や花を受け取って、時には頬にキスを受けて、カブルーは人の多い市場を歩いた。私はただそれを見ていただけだったが、時折胸がちくりとして、その原因が分からず、ただ暇だな、と思った。
 カブルーが手入れしてくれた髪、カブルーが泡立ててくれた石鹸で洗った顔、カブルーが着せてくれた服、履かせてくれた靴。そんなものに私は守られているのに、どうしてこんなに胸がちくちくするのだろう。
「カブルー、今日はどうして市場に?」
 私はカブルーが持参した袋に食材を入れるのを眺めながら、そんなふうに尋ねた。するとカブルーは笑って、こう私の耳にささやいた。
「恩を売って情報を得ているだけですよ。あなたが心配することは何もありません」
 青い瞳が細められる。癖っ毛の黒い髪は、空から落ちる光で輪郭が光っている。たくましい首筋をかくカブルーは、どこか私の知らない顔をしていた。
「私が心配することってなんだ」
 私は花束の匂いを嗅ぎ、その花びらの中からカードを取り出して読み込むカブルーを眺め尋ねる。そこには彼が言った通り情報が書きつけられていたのか、カブルーは一瞬神妙な顔をした後、私に笑いかけた。
「だからそういうのはありませんって。信用してくださいよ」
「私は心配していない」
 でも、胸はちりちりする。彼が最後に娘に頬に口付けられた時なんて、特に心臓が痛かった。
 ということは、カブルーはそれを言っているのだろうか? あのキスで、私が痛みを感じる必要なんてないって? じゃあこれは失われたはずの欲望なのか? 私が失った欲望がもたらす感情を、彼は言っているのだろうか?
「そんな難しい顔をして……。ほら、花束です。きっと、俺よりもあなたに似合いますよ。ハーブが入っていてすごくいい匂いだ」
 自分が受け取ったものを誰かに下げ渡す行為に、私は少しだけ嫉妬した。そう、嫉妬したのだった。それは密かにやり取りするためとはいえ、あの娘がお前のために選んだ花だ。それを私に渡していいのか。そして私はお下がりを喜んでいいのか。ちょっとむかむかする。
 それでも、黄色いイル・ティーモの爽やかな香りが漂い、私は隠密行動に使われたそれを恋人に渡す彼の感覚を疑いながらも、いい匂いじゃないか、と思った。
「やっぱり、あなたにはその花が似合うな。銀髪に、白い肌に、淡い唇に」
 カブルーが目を細める。彼は少しだけ腰をかがめて私を眺め、満足げに笑った。そう、自分の見立てが正しいと言わんばかりに。私はそれに胸の痛みが和らいだ気になって、なんて簡単な男なのだろうと自分を評した。
 
 
「カブルー! 隣の綺麗な彼女も一緒に寄っていってくれよ!」
「カブルー! あんたも隅に置けないね!」
 私たちは太陽がてっぺんにめぐる頃まで市場を歩き、一部の聞き捨てならない言葉を聞き流しつつ、中央でギターや見知らぬ楽器をかき鳴らす、歌手や踊り子の見せ物に集まった家族づれや子どもたちをかき分けて、青空の下に広げられたテーブルの脇の、小さな椅子に座った。そこで軽食売りから冷やしたハーブティーを買い求め、異国情緒あふれる歌に耳をすました。
「呼ばれているが、行かなくていいのか?」
 私は花束を簡易テーブルの上に置いて、恋人に尋ねた。するとカブルーは笑って、「あれは俺をからかっているだけですから」と言った。「でも、いい気分でもありますけどね」とも。
「いい気分?」
 私はまた尋ねる。私は彼に聞いてばかりだ。ここに来てからずっと。イル・ティーモの爽やかな香りに、ハーブティーの柔らかな味。私はそれを指で遊びながら、カブルーを見つめる。
「あなたを見せびらかしているってことですよ」
「見せびらかす? どうして?」
 私がそう言うと、カブルーはちょっと困った顔をした。少し恥ずかしそうな、窮屈そうなそんな顔だ。私の質問が悪かったのだろうか? 
 私は欲望を食われた時に、言葉のあやというものをなくしてしまった。質問はいつだって直接的だし、暗喩もなかなか理解しない。でも、カブルーが顔を赤く染めてゆくうちに、あぁ、もしかして、と私は思った。もしかして、私を見せびらかして、いい気分になりたかった? でもどういう気分なんだろう、それはまだ分からないけれど。
「俺にこんな綺麗な恋人がいるってみんなに見せびらかして、えぇとお宝を見せびらかすのは分かりますよね? そんな気分なんです。ようやく手に入れたんだぞって、あなたを、俺のものにしたんだぞって」
 カブルーが言いづらそうに私をちらちらと眺める。異国情緒あふれる歌が、私たちの中を駆け抜けてゆく。
 カブルーはそう言ったけれど、救われたのは私の方だった。彼に自分を話して、彼にすべてを許された気になって、また生きようと思った。迷宮を、悪魔を滅ぼすだけじゃなく、新しい生き方を考えてみようと思うようになった。彼は知らないかもしれないが、本当はそうなのだ。
 私は彼を愛している。昨日身体も、心も使って伝えたけれど、まだ足りないのだろうか? だったら、今日は何もないことだし、もっと伝えたっていいだろうか? 淡い花の香り、ハーブの匂い、カブルーのかすかな甘く香ばしい体臭。
「なぁ、カブルー。今日はここで宿を取ろうか?」
 私がそう言うと、カブルーは口に含んでいたハーブティーに咽せ、ごほごほと咳をした。
 私はそれを笑って、ポケットから彼が持たせてくれたハンカチを出し、口元を拭ってやる。私にとって、彼はまだ幼い存在だ。でもそんな存在に私は救われた。私よりもずっと苦しんできた彼に、私は救われたのだ。
「ねぇ、ミスルンさん、あなたその意味分かってるんですか?」
「もちろん。お前こそ、自慢の観察眼で全部見抜いてしまえばいいのに」
 私の思いも、全部見抜いてしまえばいいのに。この市場で感じた、胸の痛みも、お前なら全部理由が分かっているんだろう?
 そう言うと、カブルーはさらに顔を赤くして、ハーブティーを全部飲みほし、私の腕をとった。
 宿屋の群れは、あと少し行ったところにある。昼間からなだれ込むなんて少し馬鹿らしい気もしたが、彼に思いを伝えるのには、それだけしかない気がした。私は言葉をうまく使えないから、彼に思いを伝えるのには、それだけしかない気がした。
 空には太陽がある。地には交易にやってきた人々の生活がある。トールマン、ハーフフッド、ドワーフ、エルフ、ノームにコボルト。ギターや見知らぬ楽器をかき鳴らす、歌手や踊り子の見せ物。都を守る魔物が時折咆哮し、子どもたちはきゃあきゃあとそれにはしゃぐ。
 私たちは手を繋いで、人であふれる市場を歩く。昼間から想いを伝えようとして、甘ったるい愛情を伝えようと歩いて、市場をゆく。