少年は床の冷たさを味わいながら、ふと飽きた。何故自分はこんなところにいるのか。何故自分はこんな奴に、数え切れぬほど挑んでいるのか。そして何故自分は、勝てないのか。最後の理由だけははっきりしていたが、たくさんの疑問は少年から立ち上がる気力を奪うには十分だった。
少年は床に転がったまま、目の前でじっとこちらを見つめるモノを見上げた。
小さい悪魔だ。自分よりも小柄な、そこらへんの人間と変わらないくらいの見た目の男だ。そんな奴に少年は、幾度となく敗れた。技を見直し、仲魔を見直し、作戦を見直した。毎回違う戦い方をした。だがその度、軽くいなされるだけだった。
しかし今回ばかりは違った。手応えがあった。相手のペースを崩すことができた。少しずつ、少しずつ。今度は初めて相手の姿勢を崩すことができた。このまま押し切れれば、と少年は甘い誤解をした。
少年が腕を振り払おうとすると、きらきらと輝きが起こった。知っている魔法の色だ、こちらが何度も唱える色、嫌でも上手くなってしまう緑のきらめき。それを呼び起こしているのは、目の前の悪魔だった。
全ては元通りになった。もちろん相手だけ。
今度は少年が膝をつく番だった。
飽きたことに気づいてしまうと、途端に全てが色褪せる。
何度挑んでも手遊びのようにあしらわれ、せめて粘ろうにも無慈悲に吹き飛ばされ、ならばと一矢報いようとも、全力の技はせいぜい向こうの擦り傷にしかならない。彼らは立ちはだかることすらなく、ただそこにあるだけだった。悪魔よりも意志の冷たい、原始的な力の塊が目の前にあった。どうしても根本が違った。くぐった死線の数が違った。屠った悪魔の数が違った。
だがこちらも何も学ばないわけではない。数回挑んで、相手の体に傷をつけられるようになった。さらに数回挑んで、どうにか仲魔を削ぐことができるようになった。もう数回挑んで、相手の行動を計画的に崩せるようになってきた。
そしてようやく勝利に指先が届いたかと思えば、それは単なる慈悲に過ぎなかったのだと思い知る。確かにこちらは対策を必死で練るのに、向こうは特に何もしていないではないか。本気はまだまだ先にあるのだと思うと、遊ばれている深い虚しさに、手を抜かれている腹立たしさが混ざり込む。
だがそれも、全ては自分が無力が故。もう一度立ち上がって、また挑戦、とするところだが、少年はもう全てに飽きていた。何より常に目に入る、この空間に飽きていた。魔界の何処ともわからない闇の中の、辺鄙な神殿のような場所。どれだけの時間が経っても埃一つ舞うことのない、時からも捨てられた空間。
「ずっとこんなところにいて、飽きないか?」
少年は床に寝そべったまま、悪魔に尋ねた。悪魔は口を噤んだままだが、代わりに隣の妖精がきらきらと舞った。
「もう飽き飽き! だってなんにもないんだもの。
あなたが満足してくれたら、さっさとさよならしてもいいのにね」
妖精は宙で頬杖をつく。あどけない姿をしているのに、その羽根のさざめきだけで大抵の悪魔は屠れる。下手に怒らせるわけにもいかないから、少年は素直に答えた。
「ここにいなきゃいけないわけじゃないのか。
なら、外に行こう」
新月よりも陰気な空気を、これ以上吸いたくなかった。何も変わらない空間に閉じ込められていても、良い手を思いつく気がしない。
「外! 外ってアレでしょう。〝ダアト〟でしょう」
ふわふわと舞うピクシーが、相対する悪魔の肩に手を添えた。「どうする?」と耳元で囁いているのが聞こえた。悪魔は小さく頷くと、黙って歩き始めた。
「外に行ったら、もっと強くなっちゃうかもよ?」
きゃはは、と無邪気に笑う声は、冗談とも思えなかった。まあ今もてんで勝てないのだから、もっと勝てなくなっても大して変わらない。妖精はくるりと回転すると、悪魔の後を追った。
悪魔は途方もなく続く階段を一段一段、律儀に上っていた。ずいぶん非効率な手段だ。悪魔の先を越すのは簡単なことだったが、少年は悪魔の背を見上げた。遠のいていく悪魔の背は、小さく見えた。悪魔に倣って、少年も一段ずつ段を踏みしめた。
*
外だった。最後に使った龍穴に出た。久しぶりのダアトの空気だ。少年は大きく息を吸った。砂埃が舞っていて、身体がすぐにざらざらしてくる。とても快適とはいえない環境だが、あの閉ざされた空間よりは幾分ましだった。空を見上げると、月とも太陽ともつかない天体のような何かが浮かんでいて、真夏の昼間のような強い光をばら撒いている。いわゆる満月だ。あそこへ下りたときはまだ新月だったような気がするが、これが一体何回目の満月なのかはわからなかった。
妖精は全身で伸びの姿勢を取ると、気持ちよさそうに羽根を震わせた。悪魔の周りを忙しなく旋回し、悪魔の頭のてっぺんを突いた。
悪魔は妖精に答えるように頷くと、おもむろに歩き始めた。自分ですら久しぶりなのだから、悪魔にとってはいつ以来なのだろう。少年はそう思いながら、悪魔たちを眺めた。
悪魔に不似合いの運動靴が、割れかけた道路を踏みしめている。不思議な格好だと改めて思った。自分のように全身が造り替えられるのではなく、一部を忘れたような姿が歪だった。悪魔が悪魔でなかった頃の最後の姿が、そのまま残されていた。
ダアトも同じだった。かつて東京だったらしい場所の悉くが壊されているのに、ただの更地にはなってくれない。道路に描かれた横断歩道は擦れて割れて、車は砂に半分埋まり、備え付けられた信号機は壊れている。かつてはそこにあったのだとわかる。歪な悪魔がその場所に立つと、なおさら置き去りにされた時間がわかる。いつかきちんと整備されたコンクリートの道路で、信号が青色になるのを待っているような、運動靴を履いた男が重なる。
そんなことを思いながらじっと見ていると、悪魔はめずらしく口を開いて、どこを見るでもなくぼんやりと、
「ずいぶん変わってる」
と呟いた。こんな声だったんだ、と少年は思った。思ったよりも高い声だと思った。恐るべき悪魔には釣り合わない声だった。少年と呼ばれる自分と同じ年頃の、学校の中で聞けるような声だった。
悪魔はそのまま少年の視線に応えるように振り返った。悪魔の金の瞳は、あの暗闇の神殿の中では妖しく輝いていたが、この煌天の下では淡く落ち着いている。刺青に沿って流れる魔力の輝きもさほど目立たない。明るい空の下で、悪魔は当然のように魔界に馴染んでいた。悪魔はその瞳で少年を見つめた。少年は身動ぎもできず、悪魔の次の行動を待つしかなかった。
悪魔は二つほど瞬きをすると、再びふと口を開いた。
「メノラーを集めて、どうしたい」
悪魔は少年を見ていた。
悪魔に問われているのだと気づくまでに、少年はしばしの時間を要した。思いもよらぬ言葉だったからだ。
「どうもこうもない」
少年は真摯に答えた。全てを集めたところで何も関係がない。この状況が一変するわけでもない。そんなことは知っていた。
悪魔は続けた。じゃあ、と聞こえた気がした。
「僕に勝ったら、どうしたい」
少年は息を呑んだ。戦えと言われたからそうしてきて、その先にあるものなんて知らなかった。この悪魔に勝ったところで、せいぜい達成感しか得られないだろう。
「さっさとやめろって言いたいのか?」
あえて曲解をして、悪魔に食ってかかった。悪魔は相変わらず何を考えているのか曖昧な表情で、「どうしたいんだろうって思った」と答えた。それだけらしかった。少年は脱力して息を吐いた。
「いじわる言っちゃいけないわ」
悪魔の傍を飛ぶ妖精が、悪魔の肩に乗る。
「思い出したから」
そう悪魔は言い訳をする。
その言葉で、そういえばこいつは知っているのか、と少年は改めて気づいた。悪魔は知っている。飲み込まれる前の東京の姿を。飲み込まれたばかりの東京の姿を。
十八年もの間、この東京は野晒しで、僕の東京は偽物だった。自分が生まれる前からそうだった。目の前の悪魔が、自分と変わらない年齢の見た目をしているのも、その時間が封じ込められているからなのだとわかった。目の前の悪魔が運動靴を履くようなただの少年だった頃、自分と同じように、ある日突然に、全ては起こった。
「こうなったのは、きみのせいじゃない」
悪魔は少年を見ながら言う。
「じゃああなたのせい?」
妖精は悪魔を見ながら言う。
「僕のせいでもない」
少年は舌打ちをした。わかっていた。
「そういうもの、なんだろ」
悪魔は少年の言葉に小さく頷き、
「だからどうなったって、きみのせいじゃない」
と言うのだった。
少年は思わず目を見張ってから、笑い、そして右手からするりと青い光を伸ばした。水の姿を模した刃だった。
「……慰めのつもりか?
下手くそだな」
右手を振り抜いた。青い光が追いかけた。
好きにしたらいい、とか言われているのだろう。そんな風に解釈した自分に、少年は苛立った。欲しい言葉を待っているみたいだった。
「あーあ、怒らせちゃった?」
妖精はくすくす笑って、宙で頬杖をつく。悪魔はその隣で、両腕を交差させ、大きく息を吸って吐く。戦いの合図だった。
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