君、と声をかけられる。振り返ってみると、同じ制服を着た男がいる。少し背が高く、どこか焦ったような表情でぼくを見下ろしている。誰だろうか……違う学級の者か? しかし職員室にも廊下にも、学生はぼくの外に誰もいなかったと思うのだが……いつの間にと思いつつ、ぼくは「何か御用ですか」と答えてみる。
目の前の男は、ぼくを見つめたまま、続けてぼくの苗字を呼んだ。名を知っているようだが、どうも知っている声ではない。同じ制服を着ているということは、どこかですれ違ったことでもあるのかもしれないが、さっぱり見覚えがなかった。いつか名乗ったことでもあったのだろうか、いや、男の見目は一度見れば生涯忘れないだろう。銀幕からそのままぬるりと現実に形を得たような、恐らく生来の白肌に、赤い絵具を筆で引いたような唇。目深な学生帽に隠されながら、ぱちぱちと豊かな睫が瞬いている。
「はじめまして……でいいのだろうか?」
ぼくは尋ねずにはいられなかった。いくら男の相貌が忘れ難いとしても、何かの不慮ですっかり忘れてしまったのかもしれない。ぼくなら有り得ることである。
男ははっと我に返って、帽子をさらに深く被った。
「すまない。不躾だった。
僕は葛葉。はじめまして……だ」
差し伸べられた手に応じながら、ぼくも軽く名乗る。だが葛葉か。自分の記憶を辿る。葛葉。どこかで聞いたことがある。
「ああ、きみがあの有名な葛葉君か!」
ふらりと学校に現れては、また風のように去っていく謎めいた学生がいる……単なる不良者ではなく、家業が忙しいとかなんとか。又聞きの更に又聞きであるから真偽は知れない。
「会えるとその日よいことがあるのだとか……友人が言っていた」
「……妖怪じみているな……」
「会えて嬉しいよ。きっとそれがよいことなのだろう」
「……光栄だ」
葛葉君はぼくを見つめたまま、また口を噤んでしまった。人と会話するとき、これほど相手の目を確りと見ることがあっただろうか? 目を逸らしたら失礼だと言わんばかりに、葛葉君はぼくを凝と見つめたまま、しかしぼくの次の言葉を待っているようだった。なるほど、無口な人なのだろう。
「それで……何かぼくに御用が?」
そうまんじりと見られることには慣れていないので、ぼくはつい頬を掻いていた。葛葉君はまたはっとした表情で、再び帽子に触れた。
「ああ、いや……なにも。
友人に似ていたから……驚いてしまった。
それで……つい」
「そうだったのか」
それで思わず声をかけたということらしい。よかった、ぼくの失礼ではなかった。
「では先の名前は、その友人とやらの苗字だったのかい」
「……ああ」
「奇遇だね。似ている上に、同じ苗字とは。
てっきりきみがぼくを知っているのかと思った」
ぼくに呼びかけた苗字がたまたま本当に一致するとは、なんたる偶然だろうか。
「そうか。失礼だが、君のことは知らなかった」
「ならば今日から知ってくれ」
「そうさせてもらう」
葛葉君はそう言うと、僕からようやく視線を外して、「それは何だ」と尋ねた。
「教室の電球を替えようかと。切れてしまったんだ」
そういえばぼくは、新しい電球を握りしめたままだった。体温で少し温かくなっている。思わぬ来訪に目的を忘れかけていた。
「係か何かなのか」
「いや、そういう取決めがあるわけではない。
教室に残っていたら、ちょうど電球が切れたのを目撃したから、ついでに替えて帰るつもりだ」
「手伝おう」
「いや、きみの手を煩わせることでもない。ちょっと捻って終わりなのだし」
「ならば見守ろう。万が一ということもある」
彼は随分真面目に言ってのける。端正な面立ちも相まって、なんとも迫真を帯びている。たかが電球を替えるだけに何を、とは言い難かった。
「万が一は怖しいからな。では頼もうか」
連れ立って歩こうとすると、握っていた電球をするりと引き抜かれた。初めて電球を見るこどものように、まじまじと覗き込むが、ぼくの視線に気づくと何事もなかったかのように電球を後手に隠してしまった。
*
葛葉君はどうも浮世離れしているというか、何とも不思議な雰囲気の御仁だ。ぼくが口を開かなけれ彼もだんまりで、付人のようにぼくの半歩後ろを追いかけてくる。それは流石に気まずいので、手頃な先生の噂話でも振ってみるが、葛葉君にとっては知らない人扱いである。そして葛葉君は知らないかもしれないが、英語はもう二人も教師が交代しているのだ……と驚愕の事実を教えてみても、そうだったのか、と心ここにあらずである。
ともかく職員室から教室はそう離れていないから助かった。ぼくは扉を引いて、件の電球の元へ近づく。近くの机を引きずって台替りにし、靴を脱いで机上に上がる。行儀は悪いが、これが一番手っ取り早い。
「葛葉君、電球をくれるか」
振り返ると、彼はじっと電球の中を覗いている。中のタングステンを睨みつけて、挙句ぼそぼそと何事か語りかけている。少しこわいぞ、これは。寿命の長いのを祈ってくれているのか。
「少し待ってくれ」
それだけ言って彼は教室の外へ出てしまった。もちろん電球と一緒に。ぼくは止める間もなく、ぽつんと誰もいない教室に、机に座ったまま取り残される。仕方がないので、待つしかない。
時計の針がこつりと音を立てたあたりに、葛葉君は何食わぬ顔で戻ってきた。先程持っていってしまった電球をぼくに差し出す。人肌に生温かいので、取り替えたわけでもないらしい。
「なにか不具合があったのかい?」
「いや、もう無い」
つまり、あったのか。と思いつつ、心なしか胸を張る彼、安心したまえとでも言わんばかりの太鼓判であれば、彼を信ずる外ないだろう。
少し不思議な彼に見守られながら、支障なく電球を取り付ける。「スイッチを押してくれ」と頼めば、ぱちりと明かりが灯される。
「これで完了だ」
机から降りて靴を履いた。切れた電球は明日掃除のときに処分すればいいだろう。自分の席へとしまっておいて、ぼくは両手をはたく。
「お疲れ様」
「電球を替えただけだがな」
「立派な仕事だ」
彼はぼんやりとぼくを見つめて、何故か二度ほど頷いた。不思議と満足気なところが面白い。葛葉君の中で、何かが納得されたのだろうと思った。
「仕事も終えたし、ぼくはもうこれで帰るつもりだが、きみはどうするんだい?」
「僕も用が無いから帰ろう」
「なら一緒に行こうか。きみの鞄はどこに?」
「鞄は……ない。そのまま来たから」
なるほど。日中は見かけなかったと思うし、用があって立ち寄ったのだろうか。
「では帰ろうか」
鞄を背負って身支度をする。切れた電球は明日捨てよう。いや、折角だし捨てなくともいいか。今日という日の縁の証拠に。
建て付けの悪い扉を引き、二人連れ立って教室を出る。日は既に深く暮れていて、赤い夕日が廊下に落ちている。眩しさに目を細めながら葛葉君を振り返ると、彼もまた眩しそうに顔をしかめていた。活動写真さながらの異様に整った鉄仮面も、よくよく覗いてみれば温もりのある同輩である。
一方で葛葉君と話していると、余計なことも思い出される。確かこの前の学年大会の優勝者を、ふらりと現れた学生が剣道の授業中でいとも簡単にいなしてしまっただとか、ろくに授業にも出ていないのに一度も落第者として掲示されたことがないのだとか、そんな話を忌々し気に話す同級生もいた。試験の日だって姿を現さないことがあるのに、如何して特別扱いをだなんて卑小な嫌味を言う奴も見たことがあるが、それも全部、葛葉君一人を指す噂だろう。ぼくもその噂だけを真に受けていたら、なんとも気に喰わない奴もいた者だと思うだけで、こんな本人の姿を知ることなく学生を終えていただろう。
だからぼくは多分、かなりの幸運者だと思った。
もし今日彼が話しかけてきてくれなかったら、きっとぼくは彼を随分誤解したままだったろう。たまたま教室の電球が切れ、たまたま職員室の前を通り、たまたま彼がいたと言う巡り合わせ。その彼が、ぼくのものではないぼくの名をたまたま知っていたという僥倖……。それにしても、ぼくと同じ苗字でぼくと似ているという葛葉君の友人とやらの存在が、一番の不思議だろうか。是非ともいつかお目にかかってみたいものだ。
「どうした?」
少しばかり首を傾げる葛葉君に、ぼくは笑顔で答える。
「きみの友人とぼくは、どれくらい似ているだろうと思ってね」
葛葉君は、顎を手に当て考える素振りを見せてから、似ているよ、と微笑んだ。
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