少年はダアトを走った。宝石を貢いだ。悪魔を殺した。偶には殺さなかった。頼まれる荒事を見つけては片付けた。自分たちが体のいい暴力として利用されていることは分かっていたが、困っている素振りをされると、無視するのは寝覚めが悪かった。だから貴方のおかげだと言われるのはむず痒かった。少年はただ、嫌なことをさっさと視界から消したかっただけだった。それに、力を求められるのは悪い気がしなかった。自分にはそれができる。お前にはそれができない。試験結果に印字された合格の二文字を横目に、不合格に悲しむ生徒を眺めている時のような、浅ましい優越感が一時だけは少年を満たした。
脇道に逸れて、頼まれたという言い訳をしながら没頭する。ダアトを巡り、自分たちへの呼び声を一つ一つ潰していく。鈍い麻酔のような恍惚感の代償に、何のためにここにいるのか忘れかけた頃、振り返ると、少年のすべきことはもう一つしかなかった。少年は途方に暮れた。これだけ現実を、非現実を巡っても、創るべき世界の形を思い描けてはいなかった。
崩れかかったビルから破壊された本来の東京を見下ろしながら、右のこめかみに指先を当てる。この話し方は自分の顔が見られないところがよかった。
アオガミ、と名前を呼ぶ。「どうした、少年」と彼は直ぐに答える。
もしかしたら話さずとも意志は通じているのかもしれないが、自分たちはいつも話した。というより、アオガミは少年に何度も尋ねた。いま何を感じているのか。何を考えているのか。
だから少年は、アオガミに改めて白状することにした。まだ何も考えられてないと。答えが見つからないのだと。
かつてアオガミは自分にできることは何でもすると言っていたので、一体何をしてくれるのだろうと少年は期待していた。少し試しているのだ。良くないことだとわかっているのに、少年はそうした。別にいいじゃないか、と自分に言い訳をした。アオガミはアオガミなりの考えを持っている、それなのに、創世の形はこちらに任せきりではないか。そう思うと、なんだか狡い気がしていた。
……ナホビノの形も、創世の在り方も、アオガミは全て少年を優先しているのだとも、少年自身わかっていた。ナホビノを目指す悪魔の悉くは、人間を──知恵を使って神へと戻らんとしているだけだ。けれどもアオガミは違った。創世の形を押し付けることはしなかった。どうしたいのか尋ねるだけだった。アオガミのつくる言葉は、少年のための言葉だ。少年はそれを望んでいた。少年は確かに甘えていた。
「そうか」
アオガミは少年の告白に驚きもせず、律儀に相槌を打った。アオガミと同じ青い髪が、視界の端で揺れた。
少しの沈黙があってから、アオガミは、一度〝東京〟へ戻ることを提案した。
確かに至高天を目指すカギはもう揃っていたし、おそらく創世を望んでいるだろう奴らはこちらに挑んでくる気配もなく、ダアトで機を待っているだけだ。一日くらい無駄にしてもいい。少年は言われたとおりに〝東京〟へ戻った。
*
戻るとちょうど夕暮れどきだったので、眠るのには早いと思い、少年は寮の屋上に上がった。アオガミが隣にいるのもめずらしくなくなった。
屋上からは、遠くのビルが消えかけているのが見えた。この前見たときよりも視界が開けているような気がした。だが、あれから何のビルが消えてしまったのか、見てもわからなかった。見晴らしがいいせいで、ふ頭が近づいているみたいにも見えた。いずれ消滅は広がって、この寮すらも消えてしまうのだろう。東京が消滅した後は、関東の地図は真ん中が変にえぐれた形になるのだろうか。
少年は改めて困った。やっぱり東京に消えてほしいとは思わなかったし、そもそもこの世界のシステムが限界なのではという話も一理くらいはあるかもしれないと思えた。だからといって全く新しい世界を創りたいわけでもなかった。王になりたいわけでもなかった。そんな話をされても、困るのだ。進路だって内部の大学にそのまま行ければいいかくらいにしか考えたことがなかったのに、どうして世界について真剣に考えられるだろう。少年の最近の考え事は、新刊が買えるか否かだった。
少年はただ単純に、来月出版される本を楽しみに生きてきていた。放課後に急いで本屋へ行けば、限定冊数のサイン本を買えるだろうかと思っていた。予約はできないから現地に行くしかなかった。お気に入りの作家は、言っては悪いがそこまで世間で人気というわけでもなかったし、争奪戦にはならないだろう……いやむしろ、サイン本の数が少なくて、近くの隠れたファンがこぞって集うかもしれない……これが目下最大の悩みだった。そのはずだった。
少年は、元に戻りたいと思った。先週あたりに。再三提出を迫られている英語の課題はまだやっていなかったが、今ならやってやってもいいと思った。それかあの日に戻れればよかった。トンネルに入らず、何も知らぬまま登校し、学校への立ち入りを禁止されたら、ぼんやりとオンライン授業を受けて、最近は物騒で怖いなあと寮の自室で震えていればよかった。そこまで考えて、無根拠に生きている自信は何処から出てくるんだ、と自嘲した。
研究所から寮へ帰る途中に寄った学校には、相変わらず黄色い封鎖テープが貼られていた。ドラマの撮影みたいだった。ものの数日で何かが変わるわけでもなかった。警官があたりを見回っていて、少し離れたところには違う制服の人がいる。ベストには自衛隊と書いてあった。悪魔関連で出動しているからか、少年の隣に立っているアオガミにも気づいていた。
ナホビノであることは知られているから、校内に何か用があるのかと聞かれた。必要なら入れてくれるらしかったが、少年は辞退した。そこでやるべきことはなかった。あったとしても、気が乗らないだろう。校門の側に引かれた白線を見てしまっただけで充分だった。そこには赤い血溜まりがべっとりと残っていたはずだが、今は乾いて黒ずんでいた。
時間が戻り、もしあのトンネルに行かなかったとしても、せいぜいあの染みが自分になるだけの話だ。
冷たい風が通り抜けた。右側に垂らした少年の黒い一束が揺れる。風に合わせて遠くのビルが瞬いた気がするが、もはや間違い探しでしかない。
「少年。一度室内へ戻り、防寒着を用意することを推奨する」
隣で少年を見つめていたアオガミが、ようやく口を出した。
「気温が下がってきたから?」
「そうだ。このままでは少年の体調に影響するだろう」
夕日がビルに隠れるまで、少年は黙って立ち続けていた。
少年は屋上の柵に手を乗せた。少し剥げた塗装がざらざらとしていたが、冷え切った感触は気持ちがよかった。冬の鉄棒の触り心地に似ていた。
少年はビルからアオガミへ目をやった。
「アオガミは寒い?」
「私には寒暖に対する快・不快はない。だが先程から気温が二℃下降しているのは知覚している」
少年はアオガミの銀色の腕に触れた。表面はつるつるとすべやかで、ナホビノになったときの自分の腕と同じ触り心地だった。しかしナホビノのときは人間と同じように温かいのに、アオガミは鉄棒と同じように冷たかった。少年の冷たい指先から、僅かな熱がアオガミへ移動した。
「やはり冷え切っている。室内へ戻るべきだ」
アオガミは自身の腕に触れる少年の手を見つめた。サーモグラフィーの機能は有していなかったが、少年の身体が一層冷たく見えた。
「アオガミの方が冷えている」
「私の肉体は便宜的に物質的形状を保っているに過ぎない。温度は外気と同程度になるよう設定されている」
「……よくわからない」
「人間は寒いところにいると、風邪を引くというだろう。私にその心配はないが、少年にはあるということだ」
「ならナホビノに戻れば、風邪は引かない」
「……ここで安易にナホビノの姿になれば、不必要な目撃が増えるだろう。悪魔による被害の多い今の東京では、悪魔を知覚できる人間が増えてしまっているはずだ。無闇に混乱を招く行為は推奨しない」
少年はため息をした。アオガミは譲りそうもない。彼の言うことは正しいし、反対してまでここにいる意味もない。風邪を引いたので創世の話には参加しないという間抜けな結末は、流石に自分としてもあり得ない。
「じゃあ中に戻ろう」
アオガミを連れ屋上の扉へと向かう途中に、少年は振り返って歪むビル街を再び目に留めた。ちりちりと瞬きゆらめいていて、記憶からも淡くなっていた。
*
アオガミは寮の自室まで少年を送ると、少年の部屋の中には入ろうとせず、かといって研究所に戻るでもなく、扉の側で護衛のように仁王立ちしようとする。昨日も一昨日──日付としてはだが──も、アオガミはそうしていた。そうしたいならまあ、そうすればいいんじゃないかと少年は思っていたが、今日ばかりはアオガミを部屋の中に引きずりこんだ。
一人で部屋の中にいると、異様に静かに感じられた。何の音もしなかった。近くの部屋で蛇口が捻られれば壁からぽこぽこと水の流れる音がするはずだ。じっと耳をすませば廊下から足音だって聞こえるはずだ。だが今日はとうとう全ての音が止まった。聞こえるのは、自分の衣擦れの音だけだった。
一日ごとに寮からは人がみるみる減っていた。授業はオンラインになったから、実家に帰れる者は軒並み帰っていったし、不安を感じて妖精の里に残っている者も多かった。数少ない、寮に残っている人たちも、外出は控えて部屋で大人しくしているだろう。東京は危険だという事実が、SNS上に誇張気味に出回っていた。
左隣の部屋の男も、昨日知らぬ間に実家へ帰っていったらしい。上の階の男は、ふだんは夜頃になるとどたばたと煩かったが、今日はぱたりと止んでいた。
ここを去ったのではなくて、単に死んだのかもしれないな、と少年は酷い想像をした。ダアトに連れ去られたきり行方不明になった学生も少なくはないし、そもそも行方不明なのか消滅したのかすらわからない学生だっている。妖精の里で保護されたという学生のいくらかも、妖精を恐れて里の端に逃げ、そして悪魔に屠られたとか。そんな噂を聞いた。
──少年はトイレに駆け込んだ。
今更ぶりに吐いた。少年は校内に落ちていた血のついた物体を思い出した。教室の中の血溜まりの場所を思い出した。自分の席から斜め右前の席に座っていた奴の名前を思い出した。何も食べていないので、胃液しか出ないのが幸いだった。
全ては静かだった。
静かな部屋は居心地がいいはずだった。放課後の学校よりも静かだ。己の動く音だけが聞こえる。最後に一度咳き込んでから、トイレの水を流した。洗面所で口を濯いでから、ベッドに仰向けに倒れ込んだ。静けさに、また吐き気がした。
だから少年は廊下にいるアオガミを引き込んだ。アオガミは部屋の外で電池切れのロボットのように停止していたが、少年が扉を開くとすぐさま生気を取り戻す。「何かあったか」と心配するような声に少年は答えず、屋上のときから冷え切ったままのアオガミの腕を引いた。
彼は部屋に入ったすぐの場所でまた仁王立ちをする。一脚しかない椅子にどうにか座らせて、少年はベッドに座り込んだ。
アオガミの、機械じみた光沢のある銀の身体を、光の血潮が巡り続ける。彼は膝の上で手を組む。微かな身動ぎの気配が、少年を落ち着かせた。
魔界にいる間は不思議と腹が減らないが、先程のことを思うと何か食べた方がいいかもしれない。そう思い、少年は買い置きの栄養ゼリーを飲むことにした。あまり美味しくはないが、今は何であってもそう感じるだろう。
アオガミは椅子に腰掛けながら、何も言わずに少年を見ていた。見るなよと言いたいところだが、自分で部屋に入れたのだしと思うと、何も言うことができない。自分を見つめるアオガミを、少年はじっと見返す。
「……何か食べる?」
「私は食事を必要としない。全て少年が食べるべきだ」
「……そう答えると思った」
言いながら、少年はゼリーの飲み口を噛んだ。
ほんの数日前に出会ったばかりの、正体不明の魔人。どこで誰がいつ生み出したのかもろくに知らないのに、何故だかもうずっと前から共にいるように思えるのは、互いが互いの半身だからなのだろうか。
飲み終わったパックのゴミを屑籠に放り投げ、少年は寝支度をした。
部屋の電気を落とした。リモコンはしょっちゅう紛失するので、諦めて壁に設置してある。だから寝るときは先に壁際のスイッチを押してから、暗闇を歩いてベッドの中に潜り込むのが習慣だ。その間もアオガミは少年から目を離さない。金色の瞳が重たげに瞬く。
「アオガミは……」
「大丈夫だ。私はこのまま少年を見守ろう」
少年はため息で答えた。寝なくてもいいということだろう。言葉にする前に会話が終わっている。
カーテンも締め切った虚ろな部屋は、いつもならば真っ暗だ。だが今は、アオガミの全身を繋ぐ燃え上がるような輝きが照らしている。暗いからこそ余計に眩しい。アオガミ自身は眩しくないのだろうか、と少年は心配したが、自分自身の場合は案外気にならないのかもしれない、と思い直した。ナホビノの身体のときも水のような光が自身を這っているが、眩しいと感じたことはなかったように思う。
だが、今は別なのだ。互いに異なる存在だ。だから、アオガミは……眩しい。それ消せないのかとは聞けないので──消せないことを知っている──少年は諦めながらベッドに入って背を向けた。
目を閉じて少ししてから、ちらりと背後を振り返った。アオガミは少年を見てはいなかった。真っ暗な部屋の中でぼんやりと浮かぶ光を身につけながら、黙りこくっている。視線の先には壁しかない。首から胸にかけての明かりが彼の顔を変に照らして、いつにも増して深刻そうな表情にも見えた。
少年は身体を起こして、アオガミに視線を送る。すぐさま彼は「何かあったか」と少年に気を配るので、少年はベッドの端に避けていた毛布を手繰り寄せて、アオガミに向けて放った。
「少年、物を投げてはいけない」
「……眩しいから、それでも身体に巻いて」
「そうだったか。すまない、そうしよう」
「……」
素直に受け取るアオガミを見やりながら、少年は文句の一つくらい言えばいいのに、と自分を棚上げする。
アオガミは毛布をマントのようにして身体を包んだが、やはり所々光が漏れている。足の甲にまで光の流れは続いているから、どうしようもない。だがそれでも構わなかった。十分だった。屋上で触れたときよりは、きっと温かいだろうと思った。
少年は再びベッドに寝転んだ。視界の端にろうそくのような光の揺らめきを捉えてから、目を閉じた。
そういえば、明日までの課題はあったっけ、と少年は思った。眠るときの習慣だ。
大事な一つが残っていた。
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