삐약さん翻訳
2024-09-06 16:00:00
6626文字
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小片 5





21.



 猫が飼いたい!



 ローラが突然、その場から立ち上がって声を上げた。ああ、猫。



「前に君が窓ガラスに描いてた猫のことかい? あの……三毛猫」

「違うよ、私が描いたのは毛が二色だって」

「私にその区別がつくと思うかい?」



 まだ生乾きの洗濯物。ふたたび物干し台に掛けなおしてソファーに座り、横でぴょんぴょん飛び跳ねるローラの頭に響く声を聞く。メアリーと結婚したとき、小さな犬を飼いたいと思ったこともあったけれど。なんと言えばいいだろう。最近は、余裕がまったくなかったから。



「私はね、うーん、茶色の猫がいい」

「茶色の猫なんてそういないだろう」

「なんでもいいから猫が欲しいの。色はどうでもいいから。何か飼いたいんだって」

「理由は?」



 ローラは少し考え込んだ。少しではなく、しばらくの間。まあ、そうだろう。子どもたちがよく言うわがままの類だ。ジェイムスは顎に手を突き、ふむ、と声を漏らした。しかも言葉の通じない生き物を世話するのは大変なだけでなく気を遣うことも多い。そう、正直に言おう。ジェイムスは疲れていた。ローラを迎えたことだけでも気力を使い果たし、職場でコーヒーを足に落としてしまうほど。ぬるいコーヒーで幸いだったが、おそらく靴から匂いが抜けるには長くかかる。9歳児の頭で何を深刻に悩んでいるのか、眉間に皺が二筋も刻まれていた。だんだん退屈してきたジェイムスはテレビに映る安っぽい番組を見ながら口を開いた。しかし、ローラの凛とした声が言葉を遮る。



「メアリーって名前を付けてその子と一緒に住んだら、メアリーと暮らしてるみたいだろうなって」

……

「だから言ったの。ダメ?」

「はは。……そうだな」



 ジェイムスは力なく笑って、項垂れたまま顔を上げなかった。肌が乾燥している気がして顔をひと撫でする。猫、飼おうか。ローラがひまわりのような笑顔を咲かせながら、大喜びで家の中を走り回った。











22.



 屋上から飛び降り。ああ、高い場所は駄目だ。首吊り。窒息はおそろしく苦しいと聞く。……銃でこめかみを撃つ。それでもし死ねなかったら?



 自分は死ぬことさえ満足にできない。小さな手帳を折り畳む。そもそもここに銃があるわけがない。色々と死ぬ方法を書きつけた紙を破ってくしゃくしゃに潰す。丸められた紙は芝生に放られ、奇妙な模様を残しはじめた。死を許さない場所だなんて。ただサイレントヒルから移ってきただけじゃないか。しかも自分は、車で湖に突っ込んだはずなのに。おそらくそれがこの狂った場所で驚くほど速い適応能力を発揮させてくれたのだろう。毅然としたジェイムスの態度に誰もが尋ねる。どうしてそんなに冷静なのかと。ジェイムスは黙って微笑み、そのたびに話題を変えてやり過ごした。いずれにせよいい経験ではあるまい。

 つまりジェイムスは、そういう人間だった。感情を表現するのが苦手で、みんな彼の意見を曖昧に理解しては先に進んでしまう。内側に呑みこむこと数百回、ジェイムスは自身の感情を捨てることにした。自分は長く生きる人間でもなかった。結果的には、それが正しくて。

 いつだったかヘザーが、いや、シェリルが自分に尋ねた。あなたはどんな未来を想像していたのかと。私の未来は常に一つだった。愛する妻とともに数あれど同じように平和な日々を送り、青い空の下で息をすること。特別難しいことでもなかった。だが、簡単には叶えられなかった。世の中には多くの苦難と逆境とが待ち受けると言うけれど。ああ、神よ。なぜ私たちだったのですか? 彼女が、苦しまなければならなかったのですか。

 メアリーが死んだ日、ジェイムスは自殺を決意した。手帳に書き連ねた方法を脇目もふらず試していった。しかしながら、どれもこれも失敗だった。銃器商は自分の顔に死神が見えると言って販売を拒否し、丈夫な縄は行くたびに売り切れ、高い場所では突然ぶわっと涙が溢れてきて断念した。死が恐ろしかったのもあるが、メアリーは毎日毎日こんな気分だったのだろうと思うと。いつも持ち歩いていた彼女の遺書を見て今度こそ心を決めた。彼女が望んだ未来には私がいて、私の幸せを望んでいたから。だからこそ自分は彼女の願いを叶えようと決めたのだ。



「もう願いすらろくに叶えてやれない」



 行き場のないこだまが草むらにさざめき、雨が止むように静かになる。彼はしばらく息を止めた。吐き出せる空気が足りなかったからだ。

 うるさいほど静まり返っている。彼はもともと、一人でいるのが苦手だった。小さいころの彼は運動が好きで、勉強を好まない典型的なやんちゃ者だった。だがもう彼の隣には誰も来ることはない。そうでなければならないからだ。銃器商の言うとおり、彼の顔には死神が息づいている。彼は皆を殺してしまうだろう。なぜなら、彼はそういうふうになってしまったのだから。



*『あなたの望んだ彼女が私じゃない。どうして私じゃダメなの?』*



 なぜなら彼は、すべてを諦めたのだから。

 ジェイムスは黒々とした空を見上げた。鋭い刃のような塵が空を流れて消えていく。は、実に人為的な光景だ。彼は乾いた笑いを漏らして目を瞑り、自身の存在感を消した。











23.



 お前がここにいるということは、お前の存在自体が私の過ちなのだろう。



 ジェイムスは驚いたことに、その存在を憐れんだ。可哀想な奴。なぜこうも苦痛のうちに生まれて手を血に染め、処刑を行うのか? もう一つ驚くべきことには、それは大人しく撫でられるがままになっていた。ああ、そうだ。あたかも神の手にあずかるように、敬虔かつ神聖な姿勢で。

 この首を落とせばお前は死ぬだろうか。きっと死なないのだろう。ジェイムスが死ぬことがないかぎり。彼が真実に気付かないかぎり。奴はずっと生き続けるはずだ。しかし、そうなるとこれには矛盾が生じる。彼はすでに真実を知った。気付きたくなかった真実に気付いてしまった。したがってこれの存在は理屈に合わない。ならばお前は何のために存在している? ひとえに処刑のため? もはや真実のための処刑ではなく、単純無識な処刑人として。



「それでも私に従う理由は何だ? お前の主人は……、聞いたところでは、アレッサじゃなかったのか。そうでなければお前の神は、ああ。こんなYes/Noクイズは必要ないな、お前には。だろう?」



 実際、お前は気まぐれな奴だから、私にちょっと興味が湧いただけなんだろう。

 それは何の言葉も発せず、ただジェイムスの手つきを享受しているようだった。なぜ私がこうも可哀想に思うかわかるか? ジェイムスの言葉にそれが首を傾げる。きいいぃ、と耳障りな金属音がおぞましく響いて鳥肌を誘った。



「神の代理人と呼ばれる存在が、たかが私なんかに従属するというのが」

……

「あまりに滑稽で、悲惨だ」

……

「いま私がしている行為は神の冒瀆か? お前は、」



 お前は私をどう思っている?

 ジェイムスは特にやめ時も見つからず、あちこち錆びついた鉄製の頭を撫でてやった。飛び出た鉄に引っかかれて手に傷ができる。ちくり。破傷風になるかもしれない。ジェイムスはふふ、と低く笑った。奴はただ静かに撫でられていた。ジェイムスはうっすらと悟りはじめた。奴も同じく私を哀れに思っているのだな、と。











24.



「夢の中に、あなたが出てきたんです」



 彼の落ち着いた話し声が、ぱちっ、ぱち、と弾ける火の粉の音を遠ざける。うん、そうか。ジェイムスもまた落ち着いて答える。明るく返事をするのは本人の能力が遠く及ばなかったからだ。薄い枝を手に持ち、燃え広がっていく様を見守る。赤に混じる明るい黄色。小さな枝ながら迫力があった。彼は続けて低く呟いた。先ほどの夢の話は単なる会話の糸口ではなかったらしい。



「あなたはそう小さいほうではないのに、夢で見るあなたはとても小さかった。あるいは俺が大きかったのかもしれません」

「そうか」

「なぜか、いい気分ではありませんでした。うんざりしていると言うんでしょうか。いったい何に? 何に、ともし訊かれたら。失礼かもしれませんが」

「うん」

「あなたに、うんざりしていたようで」

……興味深いね」



 レオンは相変わらず絶望に沈んだ人間のように頭を垂れていた。夢はただの夢だよ。ジェイムスがねぎらって言い聞かせたものの、そんな夢を見たということ自体に負い目を感じているらしい。純真な人だ。嘘なんてものを一つもつけない、典型的な人。話さなければ誰にも知られることはないのに、己の気が咎めて結局白状してしまう。羨ましい、その純粋さが。ジェイムスは焚き火をぼんやり眺めながら自嘲気味に笑った。



「夢と現実が入り混じるような、妙な気分なんです、いま。俺の隣にいるあなたは本当に存在しているのか。それとも俺が狂いはじめているのか。俺は、疲れてるんですか? 目の前が霞んで、何も見えない」



 ジェイムスは彼を見つめた。見つめることしかできなかった。理由はわからないが彼に触れてはいけない気がして。濃く立ちこめた霧の帳。悪夢と恐怖、それは単なる闇に過ぎない。目を薄く開き、しばし思い悩む。無理に引き寄せては危険だ。しかし、この人なら大丈夫では? いや、大丈夫なわけが。手のひらで顔をぬぐう。いつしかレオンはジェイムスのほうをまっすぐに見据えていた。奇妙なことに、人間の瞳はああも色を放つことが可能だったか、と思うほど真っ青な目だった。



「自殺を選んだんですね」

……

「深い水底で、ゆっくりと……。残酷な現実から抜け出すために……

「黙ってもらえないか」

「ふと目を開いて映った日の光に、生きたかったと」

「口を、閉じていてもらえないか」



 喰われていたのは自分だったのか? 彼が近付いてくるが足が言うことを聞かない。それなのに口はまだ動き続けている。ちょうど、止まっている絵の中で口だけが動いているように。少しずつ鎖に締め上げられていく。この赤銅色が混じる血の色は、確かに奴に見たものと同じだ。



「君は誰だ?」

*「なぜ私を殺したの、ジェイムス?」*



 そして彼は気を失った。なぜいまになってサイレントヒルを思い出したのかわからなかった。







*「──何よ、人のこと心配させといて」*



 じいん、携帯電話の振動よろしく響く頭に、小さく呻きながら上体を起こす。シェリルが自分を見つめていた。よほど心配をかけたのか、目元が前よりずいぶん赤い。隣に何かの気配がある。狭い寝床の上、レオンがまるで死んでいるように静かに目を瞑っていた。いったいどれほど怪我をしたのか、全身が包帯で覆われていた。



「話したい気分でもないでしょうから、横になって休むなりしてて」

「何も思い出せない」

「当たり前よ。キャンプ地があんなふうに崩れたんだから」

「何が崩れたって?」

「なんていうか……急に空が少しずつ割れだしたのよ。わかる? 窓ガラスが割れるときみたいに。そうしてヒビが入りはじめたと思ったら、だんだん崩れ落ちてきて黒い霧が大量に噴き出してきて。それがあまりに毒々しいから息もできずに気絶して、私もさっき起きたところ」

「なら、ここはどこなんだろう」

「たぶん復旧したんでしょう、世界を。……ああ、わからない。頭が痛い」



 なぜか手に熱いものを感じると思ったら、彼が手を握ったまま気を失っているのだった。鬱陶しいのに放すことができない。放したら、彼が死んでしまう気がして。レオンも必死で手を掴んでいるようだった。シェリルはちらっと目をやると、相変わらず倒れている人々を見て憂鬱そうにした。シェリルと自分だけが起きていた。静かだ。ジェイムスは口を開いた。あれ? ところで、この状況、どこか。



「夢を見たんだ……



 似たような感じが……











25.



 雨がじめじめと降っている。家の中もまた湿気に満ちて息苦しい。湿っぽい息を吐きながらタオルで頭を乱暴にぬぐう。水の中でひとしきり泳いだせいだ。あの車はもう引き揚げられないだろう。そしておそらく、あの町は閉鎖される。カルト宗教に蝕まれた町か。いまさら珍しくもなくて笑いしか出ない。町の閉鎖は遠からず為されるだろうが、あの場所での捜査は続くだろう。そういえば、最近よく出回っているもので、これに似た町の話が出てくる小説を読んだことがある。可能であればその小説家を訪ねるのも一つの方法かもしれない。



……濡れっぱなしでいるご趣味でも?」

「そんなものは、……いや、そんなことは」

「ならタオルで水気を拭いてください。そのために渡したんです。それから玄関に突っ立っている必要もありません。入ってください」



 おずおずといった様子で彼がようやく家に足を踏み入れる。暖められた床に一瞬びくっと驚いた表情を浮かべたものの、すぐ温かさが心地よいというように緩んでいく。わかりやすい人でありながら、理解に苦しむ人だった。こんなに気弱なくせに何だってあんな、あんな残酷なことをしでかしたんだ?

 頭が痛い。考え事は後回しにしよう。彼についての、……処分も一緒に。レオンは冷え切った体を温めようとインスタントのコーヒーを淹れた。少ししか残っていなかったが、一人分くらいにはなるだろう。彼にちらっと視線を投げたレオンはまたも溜め息をついた。自分の家ではないからとここまで窮屈そうに振る舞うとは。だから素直に家を教えておけば楽だったのに。



「座ってください」

「──その、ずぶ濡れだけど」

「二度は言いません」

……

「座ってください」



 そこでようやく大人しく言葉に従いはじめる。ジェイムスは緑色の瞳をあちこちに彷徨わせながら体を縮めていた。彼の前にコーヒーを置く。一つ一つ許可を得るかのごとく、彼が目を丸く見開いて自分を見つめる。飲めと目顔で促して初めて、手を伸ばしカップを握って一口飲んだ。その一口がすべてだったのか、カップを下ろして掠れ声を出す。しばらく水に潜っていたせいだろう。おそらく彼の車はもう見つからない。ジェイムスがあの場所から持ち帰ってこれたものと言えば、傷以外に残るもののない自分自身だった。彼が犯したすべての真実。*まったく、探しに行っておいて失くしたもののほうが多いとはどういうことだ。*レオンは内心で彼を嘲笑った。あのとき彼を助けるべきではなかったと言う人もいるだろう。束の間、自分もそう考えた。本当に刹那の考えだったが、この人の死に知らないふりをしたかった。



「どうして助けたんですか」

……俺もわかりません。どうして、でしょうね」

「私に言ったでしょう。がっかりしたと。顔を見るのも嫌だと言って。だからシートベルトもきつく締めて、車と一緒に飛び込んだんだ……、助けられないように」



 己の爪を眺めてみる。シートベルトを外すのにどれだけ努力を費やしたことか。ナイフでも簡単に切ることができず、わずかに切れたベルトをかえって手で切ろうなどと冷静でないことをした。おかげで爪が散々だ。そうですね、いっそナイフで切り続けるべきだったものを。軽い冗談にもそれが面白く響かなかったのか、ジェイムスの肩がいっそう垂れ下がる。



「俺はそんな返事が聞きたかったんじゃありません」



 レオンの言葉に彼が反応した。唇がかすかに動く。まだ水気が完全に抜けきっておらず、髪から小さな水滴が落ちる。水の筋がタイミングよく目を伝って顔を流れていく。涙のように見えるのは、あるいは彼の心境かもしれなかった。彼が全力を振り絞って言葉を口にする。こういった一連の状況に慣れないのか、口元が小さく震えているのが見えた。



「ありがとう、助けてくれて」

「ええ。──よくできました」